17歳のスノードーム


 僕が死の淵を覗き込んだのは、それから一時間ほどあとのことだった。

 馴染みの格闘技ジムに行き、スパーリング用のグローブをはめ、拳を突き合わせて開始。いつものことだ。
 だが、全てが違った。

 耽二郎先生のMMAが暴力なら、ギンスケくんのMMAは殺人術。
 僕は彼の打撃を受けるたびに肉を削がれ、四肢を極められるたびに骨を砕かれた。無論、比喩であるが、実際に僕のカラダはボロボロだ。
 そうして、もう一歩も動けなくなったところで、スパーリングという名の処刑は終わりを告げた。

「……三途の川、見えた?」

 仰向けに倒れ、虚無の表情のまま生を噛み締める僕に、ギンスケくんは申し訳なさそうに目を伏せて言った。

「見えた。花魁みたいな格好したアイトが……おいでおいで、してた……」
「わりぃ。行かせてやりゃよかったな」

 ギンスケくんは向かいへ座り、グローブを外した。拳の下から現れた手には、いくつもの古い傷があった。

「どう、少しは気分は落ち着いた?」
「ああ。ありがとな、有賀」
「なら、相談料をもらっていいかな」

 養魚場でナズナに向けていた、追い詰められたような表情がいまは緩んでいた。その顔を見届けてから、僕は尋ねた。

「さっき言ってた約束って、なんなの?」

 ギンスケくんの笑みが消えた。

「俺とナズの問題だ」
「それはそうだけど。僕はその問題に巻き込まれて、いま全身打撲なんだよ」
「まあ、それは……すまん」
「明日はもっとひどいかも。身体の痛みは、遅れてやってくるから」

 ギンスケくんは外したグローブを膝の上へ置き、長い沈黙のあとで口を開いた。

「その時が来たら、逃げないって約束した」
「その時?」
「俺もナズも、ちゃんと向き合う。ふたりで話して、ふたりで答えを出すって。ただ……悪い。これ以上は話せない。ナズのことでもあるから」

 自分から逃げられ、あれほど腹を立てているのに、ギンスケくんは彼女の秘密を勝手に話そうとはしなかった。
 その当たり前の線引きが、僕の胸を刺した。

「もう、“その時”は来てるの?」
「わからねえ。俺は来たと思ってる。ナズは、まだだって言うかもしれないけど」
「だから逃げてる?」
「……たぶんな」

 ギンスケくんは俯いたまま、自分の指へテーピングを巻き始めた。強く締めすぎているのか、指先から血の気が失われていく。

「別に、俺が欲しい答えを言えって迫ってるわけじゃねえんだ。どういう答えでも、受け止めるって約束した。なのに、あいつは俺と目ぇ合わせようともしない」
「怖いんじゃないかな」
「俺が?」
「答えを出すことが」

 口にしてから、それがナズナだけに向けた言葉ではないと気づいた。
 アイトは、無人駅で僕へ問いかけた。
 ────なんで俺だったんだ。
 僕があの時、言葉にすべきだった答えは、もう胸の中にあった。それでも僕は答えを出すことが怖くて、彼の唇から逃げた。

「逃げたって、なくなるわけじゃねえだろ」

 ギンスケが言った。

「言わなきゃ消えるわけでも、見なきゃ起きなかったことになるわけでもねえ。わかってるはずなんだけどな、あいつも」

 知った上で、人は逃げるのだ。ナズナも、僕も。

「ギンスケくんのインクリボンには、何が書かれていたの?」

 僕が尋ねると、彼はテーピングを巻く手を止めた。

「大したことは書いてねえよ。身体能力がどうとか、闘争への適性がどうとか。格闘技に進む可能性が高いって、そんなのだ」
「すごいな、当たってるね」
「ああ。気味悪いくらいにな」

 ギンスケが自分の拳を見つめる。

「格闘技、嫌いなの?」
「好きだよ」

 迷いのない返事だった。

「好きだから、余計わかんねえんだ。俺が自分で選んだのか、先に書かれてた道を歩かされてるだけなのか」

 彼は拳を握り、また開いた。

「予報に逆らおうと思って違う道を選んでも、その道まで予報の中なのかもしれない。逃げたと思った先が、最初から書かれてた場所かもしれねえ。そう考え始めたら、何を選んでも自分の意思だって思えなくなる」
「それでも、リングに上がるんだ?」
「上がる。殴り合ってる時だけは、なんつーか。生きてるって感じがするから」

 さきほどの三分間を思い返す。
 ギンスケくんの拳は、予報に命じられて動いているようには見えなかった。僕を殴った一発一発に彼自身の感情があり、最後の蹴りを止めたのも、紙に書かれた適性ではなく彼の意思だったはずだ。

 けれど、それを僕が証明することはできない。
 本人にも、できないのだろう。
 生まれた時から未来を言い当てられてしまえば、自分の選択はすべて予報の後追いになる。

 そして一度、その紙を他人に読まれたなら。
 その人はもう、目の前にいる本人ではなく、紙に書かれた“デザイン”として見られるようになる。

 僕は、それを知っていた。誰よりも近くで、見ていた。

 いや……そうさせたのは、僕だった。

 *

 十二歳の夏だった。
 その頃には、母親は随分と大人しくなり、時折見せる真っ黒な瞳を僕に投げかけることも少なくなっていた。
 おせっかいな近所のおばさんが僕に言ったところだと、若い男性としょっちゅう出かけているらしい。だからなんだというのか、僕には正直どうでもよかった。

「なぁ、タツキ。インクリボンって知ってるか?」

 アイトは工房のロフトで、僕に銀色の封筒を見せた。
 祖父の目を盗んで持ち出してきたのだろう。封筒の表面にはアルカ社の社章があり、開封口の封緘シールは、一度剥がされたあと丁寧に貼り直されていた。

「インクリボンって。あのインクリボン?」
「うん。俺の」

 アイトはそれだけ言うと、蛇腹に折り畳まれた乳白色の紙を広げた。
 開け放した窓から夏の風が入り、細長い原本の端を揺らしている。頭上では蚕たちが桑の葉を食み、さわさわと遠い雨のような音を立てていた。

「じいちゃんには、まだ見るなって言われてたんだけどさ」
「見ちゃったの?」
「だって、俺のことだぞ。俺が見ちゃいけないって、おかしいだろ」

 そう言いながらも、アイトの指は紙の端を何度も撫でていた。
 見てしまったことを後悔しているのか、それとも、そこに書かれたものを僕へ見せることが怖いのか。当時の僕には、その違いさえわからなかった。

「ここ」

 ────将来、恋愛感情および性的欲求は、同性に対してのみ生じる

 難しい言葉だったけれど、意味はわかった。

「男の人しか、好きにならないってこと?」
「……たぶん」

 アイトは僕の顔を見なかった。
 膝を抱え、その上へ顎を乗せたまま、インクリボンの文字を睨んでいる。

「気持ち悪い?」
「え?」
「俺が、男のこと好きになるの」

 僕はもう一度、原本に書かれた一文を読んだ。
 怖いことも、悪いことも書かれているようには見えなかった。ただ、アイトが将来好きになる相手は男の人だと、少し堅苦しい言葉で記されているだけだ。

「全然。ぜんぜん気持ち悪くないよ」
「ほんとか?」
「うん。だって、アイトはアイトだろ」

 それを聞いて、彼はようやく顔を上げた。
 安堵したように見えた。けれど、その表情をすぐに隠すように、アイトはいつものぶっきらぼうな顔へ戻る。

「でも、ここ。難しい漢字でわかんないや……えっと」
「ん。そんな読みたいのか?」
「うん。だってアイトのことだから。もっとちゃんと知りたいな」

 アイトはぽっと赤くなり、原本を僕の方へ押し出した。

「じゃあ、貸してやるよ。明日には返せよ」
「いいの?」
「ん。タツキにだけだからな」

 *

 その翌日のこと。クラスのみんながアイトの話題で盛り上がっていた。
 きっかけは、彼が体育の着替えに遅れてきたことだったと思う。誰かがアイトの外見を女みたいだとからかい、別の誰かが、だったら女子更衣室に閉じ込めてみよう。などと不穏な内容だった。

 冗談のつもりだったのだろう。
 だが、僕にはそうは聞こえなくて。話の内容がやがて“どっちが好きなのか“に飛び火したとき、僕はもう彼らの前に立っていた。

「僕、知ってるよ」

 黙らせるつもりだった。こいつらの噂話なんて、真実を見ればそれで終わるだろうと。
 だから……僕は見せてしまったのだ。

「アイトのインクリボン」

 迂闊だった。なんて、そんな言葉で済むはずがない。
 あの父と母の子であるくせに、僕はあまりにも性善説を信じすぎていたのだろうか。

「わかったろ? アイトは全然、気持ち悪くなんてない。だから悪く言うな」
 
 僕はスマホなんて持っていなかったから”そういう文化“があることも知らなくて────気づかなかった。
 写真を撮られていたということに。

 僕がことの次第を知ったのは、一週間ほど後のことだった。
 グループチャットで拡散されていたインクリボンの写真が保護者の知るところとなり、学校側が介入する事態となったのである。
 だが、それでアイトへの視線がおさまるわけではない。

 廊下を歩けば、視線が集まる。

 男子更衣室では、アイトが入ってきた途端に会話が止まった。着替えかけていた男子が胸元を隠し、冗談めかして笑った。
「片倉、あんま見んなよ?」
「俺のこと、そういう目で見てた?」
「誰がタイプなのか言えよ」
 女子たちは、男子ほど露骨には避けなかった。その代わり、誰を好きになるのか、どんな男が好みなのか、僕との関係はどうなのかと、本人の気持ちを珍しい展示物のように覗き込んだ。

 アイトは、知られすぎた少年になった。
 誰も彼の好きな食べ物や、顔料を混ぜている時の癖や、眠くなると右目ばかり擦ることを知らない。
 それでも、彼が将来男を好きになることだけは、みんなが知っていた。

 僕は何度も、みんなへ説明しようとした。
 悪いことではない。避ける必要なんてない。アイトは何も変わっていない。
 言えば言うほど、周囲は僕とアイトを一緒に見るようになった。

「有賀が必死なのってさ。お前もそうだから?」
「もしかして、もう付き合ってんの?」

 笑いながら投げられた言葉に、僕は何も返せなかった。
 違うと言えば、アイトを否定する気がした。違わないと言えば、僕まで同じ目で見られる。
 そのどちらも怖くて、僕は少しずつ彼から離れた。
 休み時間には別の友達と話し、放課後は先に教室を出た。隣を歩いているところを見られないように、登校する時間までずらした。

 僕が晒した秘密によって孤立したアイトを────僕まで、ひとりにした。

 ある日の昼休み。
 廊下の向こうにアイトがいた。
 周囲の生徒は彼を避けながら、それでも聞こえるようにひそひそと言葉を交わしていた。アイトは俯き、両手で鞄の肩紐を握りしめている。
 
 やがて顔を上げた彼と、目が合った。

「タツキ……」

 アイトが僕を呼んだ。
 助けを求めていたのだと思う。
 なぜあんなことをしたのかと、責めたかったのかもしれない。それでも、彼があの場所で名前を呼べる相手は、僕しかいなかった。

 僕は足を止めた。
 周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。
 アイトと親しい僕を、みんなが見ている。その目のひとつひとつから、声にならない問いが聞こえた。

 ────お前もそうなのか。と。

「……ごめん。先生に呼ばれてるから」

 僕は嘘をついた。彼の横を通り過ぎた。
 すれ違う瞬間、アイトの唇が何かを言おうと動いたけれど、声にはならなくて。
 
 振り返ることも、僕はしなかった。

 *

「有賀」

 名前を呼ばれ、僕は顔を上げた。
 目の前にはギンスケくんがいる。いつの間にかテーピングを終え、荷物をまとめていた。

「どうした。気分悪いのか?」
「いや……昔のこと、思い出してた」

 壁に掛けられた時計へ目をやる。
 針は、古墳での集合時刻まで残り十五分を示していた。

「あっ……まずい!」

 勢いよく立ち上がった途端、蹴られた太腿が悲鳴を上げ、僕はまたマットへ膝をついた。

「おいおい、何やってんだ」
「先生の手伝い! 古墳に行かないと!」
「その脚で?」
「この脚にしたの、ギンスケくんなんだけどね」

 痛みを堪えながら立ち上がり、鞄を肩へ掛ける。

 養魚場で採取した試料瓶が、中で小さく鳴った。雁文の材料かもしれない灰白色の膜。その色を確かめるには、アイトへ届けなければならない。

 アイトには、まだ話せていないことがある────
 ナズナたちが手伝っていること。
 背中の写真を、本人の許可なく見せたこと。
 自分だけの功績であるかのように、嘘をついたこと。

「じゃあ、僕は行くから。ナズナのことは────」
「俺が探すよ」

 ギンスケくんは立ち上がると、まだ赤みの残る拳を握った。

「今度は、殴る前に話すから」
「そうして。僕以外にはね」

 ジムを飛び出し、階段を駆け上がる。
 一段ごとに太腿と脇腹が痛んだ。けれど足を止めるわけにはいかなかった。

 アイトが僕を呼んでいたあの日。僕は、彼に背を向けた。
 今度こそ同じ轍は踏まない。

 そう思いながら。
 すでに、何もかもが遅すぎることには気づかずに。