「アイト。いるんだろ?」
工房の扉には鍵がかかっていて、いくらノックしても返事はなかった。
しばらく待っていると、扉の向こうから、ひどく掠れた声が返ってくる。これも、もう何度目かだ。
「……体調悪い。帰れよ」
「また具合悪くなったの? 病院に行った方が────」
「寝てりゃ治るから。帰れ」
何日経っただろう。
あの夜から、アイトが僕に顔を見せなくなって。
「アイト。ここに食べる物、置いておくから。あと、いつもの」
アイトに会えない間も、僕はナズナから渡された図像の解読結果をもとに、素材の候補地を回り続けた。採取したものは工房の前へ置き、翌日に回収された袋を見て、アイトが受け取ったことだけを確かめる。
僕らは顔を合わせることも、言葉を交わすこともなくなったのに、色だけは少しずつ完成へ近づいていた。
そんな奇妙な共同作業が、いつまで続くのか。
わからないまま、今日も僕は素材を探しに出かけた。
*
「あれ、ひとりなのか」
待ち合わせ場所にいたのは、ナズナだけだった。
守矢湖の北岸にある、廃止された養魚場。雪に埋もれた生け簀が段々畑のように連なり、凍りきらなかった水路から白い湯気が細く立ち昇っている。
「うん。ジローちゃんは忙しいみたいでさー」
「先生なら、今日は古墳じゃないかな。午後から僕も修復の手伝いに行くことになってるし」
「えー、あたしも行ってみたい。今度ジローちゃんに頼んでみよ〜」
管理小屋の前にも、凍った水路の向こうにも、もうひとりの姿はない。
「いや、ギンスケくんは?」
僕が尋ねると、鞄を肩紐へかけていたナズナの指が止まった。
「ギンちゃんは……まあ、いいじゃんべつに!」
「よくないだろ。いつも一緒なのに」
「たまには兄妹水入らずってのもいいじゃんね。ほら、さっさと行くよ。日が暮れちゃう」
振り返るよりも先に歩き出したナズナを追い、僕も養魚場の奥へ入った。
今日探すのは、雁文の材料候補だった。
守矢の地はかつて武田信玄の侵攻に遭い、あちこちに古戦場がある。中でも、守矢のお姫様が軍勢を率いて武田軍を大いに苦しめた際の陣形である雁行陣。これにナズナは目をつけた。モナリザ観音の背景と、古戦場の地図、そして姫の戦歴を紐解いてこの場所にたどり着いたわけだ。
水路沿いの細い道を、ナズナは先へ先へと進んでいく。足元には薄く雪が積もり、その下で凍った砂利が鳴っていた。
「ねぇ、お兄ちゃん。ツムギちゃんに手紙、送ったの?」
まるで、ギンスケのことをこれ以上尋ねさせないために、話題を投げつけてきたようだった。
「送ったよ」
「ふぅん。なんて書いたの?」
「それは……まあ、いろいろ」
「恋人への手紙を妹に言えないとはねぇ」
「普通言わないだろ」
「でも話してくれたじゃん。初エッチの時、彼女以外の────」
「あー、もうやめれ! それやめれ!」
また受付終了ぎりぎりだったけど、僕は有線ドローン郵便で返事を出した。
遅くなったことを詫び、スノードームでの生活や娯楽について、そしてナズナが一緒にいてくれることを書いた。最後には、久世さんに会いたい、スノードームが消えたら映画にも水族館にも一緒に行こうと約束した。
嘘を書いた……つもりはない。
いまも、久世さんに会いたい気持ちはある。彼女を嫌いになったわけではないし、待たせていることを申し訳なく思ってもいる。
ただ、無人駅でアイトを抱いていた僕は、久世さんの手紙に返事を書いた時よりも、すこしだけ自分の気持ちを知ってしまった。
アイトを欲していた。それなのに、拒んだ。
僕は久世さんへ、何も変わっていないと思わせる手紙を送りながら、アイトには何も答えられなかった。どちらも傷つけたくないという顔をして、ふたりが僕を待ってくれる場所だけは失わないようにしている。
「ま、いいけどね」
ナズナが、前を向いたまま言った。
「ちゃんと送ったなら。きっと喜ぶよ」
その声音には、ほんの少しだけ棘があった。
僕がギンスケくんのことへ触れたように、ナズナもまた、僕が隠しているものを薄々察しているのかもしれない。
けれど、彼女はそれ以上尋ねなかったので、僕もギンスケくんのことを聞き返さなかった。
*
水路が二手に分かれる場所で、僕らも別行動を取ることにした。
ナズナは管理棟の裏手へ。僕は、山側の生け簀へ向かう。目当ての鉱泥が見つかれば、大声で相手を呼ぶ約束だった。
ところが、探し始めて一時間もしないうちに、僕はそれらしいものを見つけた。
石組みの隙間を流れる水の縁に、鳥の羽根を重ねたような灰白色の膜が浮いていたのである。凍った水面へ指を差し入れると、膜は簡単に崩れず、薄い皮のように持ち上がった。光へ透かせば白銀にも見え、折り重なった部分だけがわずかに青みを帯びている。
「これ……だな。うん」
僕は採取した素材を入れた試料瓶を鞄へ入れ、ナズナを呼びに行った。
だが────
「ナズ、なんで逃げんだよ。約束しただろ!」
なにやら揉めているようだ。それに、この声には聞き覚えがある。
「そんなの……逃げてないよ。あたしは……!」
雪を蹴って角を曲がると、管理棟の裏で向かい合っているふたりが見えた。
ナズナと……ギンスケくんだ。
彼は手を上げていたわけでも、腕を掴んでいたわけでもない。ただ、ナズナが逃げようとする方向へ回り込み、必死に話を聞かせようとしていた。
「じゃあ、なんで俺を避けるんだよ。宿にもいねえ、待ち合わせにも来ないだろ。いまこうして顔を合わせても」
「そんなの……わかんないよ」
「だったら話せよ」
「話したって、どうにもならないじゃん!」
ナズナが叫んだ。
その声に、ギンスケくんが息を呑む。自分でも何を口にしたのかわからないというように、ナズナは唇へ手を当てた。
「どうにもならないって……ナズ、おまえもうわかってんだろ」
「それは……」
「ナズ」
「……ごめん」
ナズナが一歩下がった。
その踵が雪に埋もれ、身体がわずかに傾く。ギンスケくんが反射的に手を伸ばしたけれど、ナズナはその手から逃れるように身を引いた。
「ちょっと……ちょっとふたりとも!」
僕はふたりの間へ駆け込んだ。
ギンスケくんの胸へ手を当て、ナズナから距離を取らせる。押したところで動くような身体ではなかったが、彼は僕の顔を見ると、それ以上前へ出ようとはしなかった。
「ギンスケくん、落ち着いて。何があったのか知らないけど、こんなところで怒鳴ったって────」
振り返った時には、ナズナはもう走り出していた。
「ナズ!」
ギンスケくんが僕の肩越しに手を伸ばす。
けれどナズナは一度も振り返らず、雪の積もった水路沿いを駆けていく。やがて管理小屋の向こうへ姿を消し、足音だけがしばらく残った。
追いかけるべきなのか迷い、僕はギンスケくんから手を離した。
「……行かなくていいの?」
ギンスケくんは答えなかった。
ナズナが消えた方角を見つめたまま、何度も大きく息を吐く。その拳はまだ握られており、爪が食い込んだ皮膚だけが白くなっている。
「ギンスケくん。さっきの約束って────」
「有賀」
僕の言葉を遮り、彼がこちらを向いた……怒っている。
けれど、その怒りがナズナへ向けられたものではないことくらい、僕にもわかった。行き場をなくし、自分の中で暴れ回る何かを、彼はどうにか押さえ込もうとしている。
短く刈った髪には雪が積もり、額には寒さとは無関係な汗が浮いていた。
「スパー、いいか?」
「……今から?」
「ああ」
ギンスケは握っていた拳を開き、自分の掌をしばらく見つめた。
「悪いけど、手加減できねえかも」
その言葉を断れるほど。僕は、人の痛みに聡くはないと、今日知った。



