「……閉まってるな」
「閉まってるね」
「……明かりもついてねーな」
「ついてないね」
「おまえ、さっきから俺の言葉繰り返してるだけじゃねーか!」
「だって、アイトがここに来たいってさぁ」
湖畔の道から一本入った路地裏で、僕らは肩を並べて古びた銭湯を見上げていた。
が、────閉まっていた。
建物の前まで来た時には、もしやと思ったのだ。煙突から煙は上がっていないし、格子戸の奥にも明かりが見えない。雪をかぶった軒下には《スノードーム発生期間中は休業します》と書かれた札がぶら下がり、風に吹かれるたび、僕らを嘲るようにからからと鳴っていた。
「……帰ろうか」
「しゃーねーか」
せっかくここまで来たのに、と悪態のひとつくらいつくものと思っていたから、拍子抜けしたほどだ。それどころか彼はどこか機嫌よさそうに、僕の半歩先を歩いている。銭湯へ入れなかったことなど、最初から大した問題ではなかったみたいに。
来た道を引き返し、雪の積もった坂を下って駅へ戻る。
湖沿いに建つその駅は、駅舎と呼ぶのもためらわれるほど小さかった。木造の待合室と、一本きりのホーム。窓口にはとうの昔に板が打ちつけられ、改札らしきものもなく、時刻表だけが雪明かりの中にぽつんと立っている。
「え……終わってる?」
僕はその時刻表を見上げたまま、しばらく現実を受け入れられなかった。
「何が?」
「汽車。もう終電、行っちゃってる」
最終便の時刻は、三十分も前だった。
次の汽車が来るのは、翌朝の六時過ぎ。歩いて戻れない距離ではないが、雪は先ほどよりも強くなっている。湖畔の道には壊れた常夜灯も多く、夜中に歩けば凍結した路面で足を滑らせるかもしれない。
「どうしよう……」
僕は鞄を探り、底に入れておいた赤い筒を取り出した。
残留者へ配られた、救助要請用の照明弾。これを撃ち上げれば、市役所か消防の巡回車が気づいてくれるはずだ。
「これを使えば────」
「待てよ」
アイトの手が、僕の手首を掴んだ。
強く引かれたわけでもないのに、指先は照明弾から離れた。アイトは赤い筒を見つめ、それから雪の向こうへ目をやる。駅前には民家も店もなく、僕らのほかに人の気配はなかった。
「今夜は……ここでいいよ」
横顔を隠すように俯いて、アイトが言った。
「お前とふたりきりになりたかったし」
それだけ告げると、彼は僕の返事も待たずに駅舎へ入っていった。
僕は照明弾を手にしたまま、その背中を追うことができなかった。
────ふたりきりになりたかった
その言葉が、胸の中へ落ちたあとも沈まず、いつまでも凍った水面の上で滑り続けていた。
*
無人駅の待合室には、遭難者や汽車の運休時に備えた救護パックが置かれていた。
ベンチの下に収められた赤い箱を開けると、水のペットボトルと乾パン、使い捨てカイロ。それから銀色のアルミ毛布が出てきた。
「毛布、一枚だけだね」
「非常時にこんな辺鄙な駅でふたりも遭難するヨカタがいるとは、市も想定してなかったんだろ」
「遭難したの、半分くらいアイトのせいだからね」
「は? 遠い銭湯まで行くって決めたの、お前だろ」
「……え? そう……だっけ? あれ?」
アイトは僕からアルミ毛布を奪うと、乱暴に広げた。
ぱりぱりと乾いた音が、静まり返った駅舎に響く。その大きさは、ひとりで使うには余裕があったけれど、ふたり分の身体を包むには心許ない。それでも肩を寄せればどうにか収まりそうだったので、僕らは木のベンチへ並んで座り、一枚の銀色へ身を押し込めた。
肩と肩が触れ、太腿の外が重なる。
アルミ毛布は体温を逃がさない代わりに、どちらの熱なのかを曖昧にした。僕が少し身じろぎをすればアイトの衣服が擦れ、そのたび耳元で銀紙のような音が鳴る。顔を向けなくても、彼がすぐ隣にいることだけはこのぬくもりが教えてくれた。
窓の外では、雪が駅の灯りを浴びながら降り続いていた。
線路もホームも、その先に広がる湖も、少しずつ輪郭を失っていく。
空から落ちてくる白に覆われ、この駅だけが世界から切り離されようとしているみたいだった。
「なんか面白いこと話せよ」
「ん。耽二郎先生は最近、失恋して……」
僕らは開明社高校の守衛が、最後までアイトを女子生徒だと信じていたことや、採取した苔からどんな色ができるのかを話した。いつものように、どうでもいいことで言い争い、どちらからともなく笑う。そうしているうちに、僕らがここへ来た理由も、この一枚の毛布にくるまっている理由も、たまたま終電を逃したからなのだと思えそうになった。
「なんかさ」
やがて、アイトが窓の外を眺めたまま言った。
「おまえと落ち着いて話す機会。全然なかったよな。アルカ社と、こんなことになっちゃったせいで」
「……うん」
本当は僕も、たくさん話すつもりだった。
スノードームは一ヶ月も続くのだから、急ぐ必要などないと思っていた。昔のことも、これからのことも、昨夜の告白のことだって、毎日少しずつ話せばいいのだと。
けれど、色合わせ勝負が始まり、アイトが倒れ、守矢十色を探すうちに、時間は僕らの手からこぼれていった。たくさん話すはずだった僕は、話さなければならないことを隠し、その上にいくつもの嘘を積み重ねている。
僕が黙り込んでいると、アイトは毛布の中で膝を抱えた。
「なぁ、寒いんだけど」
「カイロ、もうひとつ使う?」
「そーじゃなくて」
アイトは不機嫌そうに唇を尖らせている。
その横顔を見て、ようやく言葉の意味を察した僕は、自分の側の毛布を持ち上げた。
「……くる?」
「うん」
アイトが僕の前へ移動し、背中を預けてくる。
僕は彼を後ろから抱く格好になった。
毛布の中で腕を回すと、指先が彼の腹の前で重なる。退院してから日が浅い身体は以前よりも少し薄くなっていて、力を込めたなら折れてしまいそうだった。アイトは僕の胸へ背中をつけ、居心地を確かめるように何度か身じろぎをしたあと、ようやく力を抜いた。
後頭部から漂う髪の匂いと、まだ冷たい耳の輪郭。呼吸をするたび、僕の腕の内側で彼の身体がゆっくりと膨らむ。
それらをひとつひとつ意識していると、胸の鼓動まで伝わってしまいそうで、僕は窓の外を見るふりをした。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
けれど沈黙は、不思議と苦しくなかった。駅舎の屋根を雪が撫でる音と、時折吹き込む風が窓を鳴らす音。その隙間で、アイトの呼吸だけが確かに続いている。
「なぁ、タツキ」
僕の腕の中で、アイトがちいさく身じろぎをした。
「聞いていいか?」
「……なに?」
返事をしてから、腕の内側へ力が入った。
なんとなく、わかっていたのかもしれない。
このまま他愛ない話だけをして、朝を迎えられるはずがないことを。
「おまえ……久世とシてる時……俺のこと想ってたって。そう言ったよな?」
雪の音が、遠のいた。
僕は自分の呼吸すら聞こえなくなった駅舎で、腕の中にいるアイトの体温だけを感じていた。
「……うん」
「冗談で言ったのか?」
アイトの声は責めるようなものではなかった。だからこそ、僕は逃げられなかった。
「俺が男しか好きになれないって、知った上で。それで……ふざけて言ったのか?」
「ちがう」
考えるより先に答えていた。
「違うよ。あれは、冗談なんかじゃない」
「じゃあ……教えてくれよ」
アイトは僕の腕をほどくと、毛布の中でゆっくり身体の向きを変えた。
狭い銀色の内側で、膝と膝が触れる。互いの吐息が混ざるほど近いところに、アイトの顔があった。
「なんで……俺だったんだ?」
答えは、きっと最初からあった。
彼女を抱きながら、僕が求めていたもの。
守りたいという気持ちだけではない。罪悪感だけでも、友情だけでもない。アイトが誰かに触れられることを嫌い、僕の知らない表情を誰かへ見せることに腹を立て、彼のいちばん近くにいるのは僕でありたいと願う。
何度傷つけても、そばにいたい。
僕だけを見てほしい。
僕を選んでほしい。
そんな醜くて、身勝手で、けれど手放せない感情を────恋と、呼ぶのだろう。
「タツキ……」
アイトの瞳が、僕を見つめていた。
答えを急かすのではなく、逃げ道を塞ぐのでもなく、ただ僕の口から言葉が生まれるのを待っている。
やがて彼の瞼が、帳を下ろすように閉じられた。
それだけで、僕らの間に残されていたわずかな距離が、急に意味を持った。
アイトの顔が近づいてくる。
僕も逃げなかった。触れたいと思った。触れてほしいとも思った。
骸から咲いた梅の花のような、血の匂いにも似た甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐる。
アイトの伏せられた瞼の下で長いまつ毛が震え、その唇が、いつも顔料の正解を探す時よりもためらいがちに開かれている。
あと、ほんの少し。
その唇に触れれば、僕らの間にあるものへ、きっと名前がつく。
そう思った瞬間だった。
畳に広がる血が見えた。
乱れた着衣。床にうずくまるアイト。僕の胸へ突き立てられた、お揃いのかんざし。
────おまえのせいだ。
あの日の声が蘇り、僕の身体は、心よりも先に動いた。
顔を背けていたのだ。
アイトの唇が、行き場を失う。
触れなかった距離はほんの数センチだったのに、それは僕らが過ごしてきた年月よりも、ずっと遠くあったのだろうか。
「あ……」
違う。
そう言わなければならなかった。
拒んだわけではない。嫌だったわけでもない。怖かったのはアイトではなく、あの日の僕自身なのだと、すぐに伝えなければならなかった。
けれど、振り返った僕は、何ひとつ言えなくなった。
アイトが、あの時と同じ顔をしていたからだ。
彼のインクリボンを僕が晒し、教室中から孤立させたあの日。
────タツキ。
そう呼んで助けを求めたアイトから、僕は目を逸らした。
僕はまた、同じことをしたのだ。
アイトに期待させた。
ふたりきりになりたいという言葉を受け入れ、抱き寄せ、逃げずに見つめ返しておきながら。彼がいちばん無防備に差し出したものを、触れる直前で拒んだ。
「違う、アイト。僕は……」
「よくわかったよ」
胸を押され、僕の身体がベンチの端へ傾いた。
アルミ毛布が肩から滑り落ちる。アイトはその中から抜け出すと、ベンチに置いてあった照明弾を掴み、駅舎の外へ飛び出した。
「アイト!」
追いかけた僕の目の前で、彼は保護蓋を外した。
止める暇もなかった。
底のリングが引かれ、赤い筒の内部で何かが噛み合う。次の瞬間、乾いた破裂音とともに光が夜空へ駆け上がった。
細雪を引き裂き、赤い光がスノードームの天蓋へ昇っていく。
暗い湖も、白く埋もれた線路も、古びた無人駅も。世界のすべてが、ほんのひと時だけ血の色に染められた。
アイトは照明弾を雪の上へ落とすと、その場にうずくまった。
赤い光を浴びた背中は小さく、両腕で自分の身体を抱きしめている。その姿を見ていると、僕がさっきまで与えていたはずの温もりを、必死に守ろうとしているかのようだ。
助けを呼ぶための光が、夜空で燃えている。
やがて誰かが僕らを見つけるだろう。
迎えが来て、この無人駅から連れ出してくれるだろう。
けれど、その赤い光の下で雪に身をさらすアイトと、駅舎の入口から動けずにいる僕との間に生まれた距離だけは、もう誰にも埋められないような気がした。
僕はまた、彼へ手を伸ばすべき時に────ただひとり、立ち尽くしていた。



