17歳のスノードーム


 ────アイトと風呂に入る。

 大事件だよ。
 でも大袈裟に受け止めすぎだろうか。風呂だぞ。銭湯だ。修学旅行でも、合宿でも、男同士で入る機会なんていくらでもある。なのにタオルを二枚用意するだけで一枚落とし、拾おうとしてもう一枚落とした。

「ひとりで何やってんだよ」
「準備……です」

 アイトはもう、いつもの服へ着替えていた。
 紺色のジャンパースカートは椅子の背に掛けられ、誰も入っていない制服に戻っている。

「女装のがよかったか?」
「……何も言ってないだろ」
「顔は正直だぞ」

 僕はタオルを鞄へ押し込み、先に工房の扉を開けた。

 *

 工房から歩いて十分ほどのところに、その銭湯はあった。

 軒先の裸電球に照らされた、藍色の暖簾。脇の細い路地から見上げると、煙突の先が雪の中へ消えていた。
 ガラス戸を開けるなり、石鹸の匂いと、湿った暖かさが顔へまとわりついてきた。

「へえ。中、こんななんだな」
「来たことないの?」
「宿で入れるからな。わざわざ金払って来ねえよ」

 じゃあ、今日はどうして。
 聞こうとして、やめた。
 僕から誘ったわけではない。その事実だけで、いまは十分だった。
 
「まだ入れないのな」
 
 靴を脱ぎかけたところで、アイトが入口の貼り紙を指した。
 《刺青のある方のご利用は、午後六時より》
 その下には、同伴者も同じ時間帯に利用するよう、小さく書き添えてあった。
 壁の時計は、五時四十分を少し過ぎたところだった。

「待つ?」
「ここまで来て帰るやついるか?」

 受付で声をかけると、時間まで休憩所で待っていていいという。
 古びた長椅子に、ふたりで並んで腰を下ろす。
 脱衣所の向こうから、桶の触れ合う音がした。誰かの笑い声が高い天井に反響し、少し遅れて戻ってくる。

 アイトはセーターの袖から指を出し、僕の鞄をつついた。

「俺きょう湯シャンでいいや」
「美少年でも、頭は等しくニオイがアレになるよ。ちゃんと洗おうね」
「は? あとで嗅がせてやるから確かめろや」
「……任せて」

 いつもながらのやり取りをしていると、急に冷気が僕らを撫でていった。入口のガラス戸が開いたのだ。そこには────

「おや」

 声を聞いただけで、誰かわかった。あいつだ……。

「カシマさん」

 長いコートの肩から雪を払いながら、カシマさんがこちらへ歩いてくる。片手には、小さな洗面道具の袋を提げていた。

「こんなところで会うとはね」
「仕事、もう終わりですか?」
「ああ。今日は早めに切り上げたんだ。キミは、もう出歩いて大丈夫なのかい?」
「平気っす。別に、ずっと寝てろって言われたわけじゃねーし」

 ふたりの会話……僕が一日かけて聞いてきたアイトの声と、どこか違う。
 少しだけ行儀がよくて。僕にはみせない声色で。

「キミたちも時間待ち?」
「ええ、まあ」
「ということは、君たちも刺青が入っているのかい?」

 僕は顔を上げた。
 ────も?

「俺だけです。タツキには入ってない」
「そうだったんだ。知らなかったな」

 カシマさんがアイトを見る。
 知らなかった。その言葉を、僕は頭の中でもう一度聞いた。

「……知らなかったんですか?」

 口に出してから、自分の声が思った以上に大きかったことに気づいた。
 カシマさんが僕へ視線を移す。

「アイトの、刺青のこと」
「ああ。今、初めて聞いたよ」
「でも……」

 ────元カレ、なんでしょう。
 言いかけた言葉を、どうにか飲み込む。けれど、飲み込めたのは音だけだったらしい。
 カシマさんは一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。

「ああ。そういうことか」

 カシマさんは僕らを見比べ、静かに言った。

「キミが考えているような関係には、なっていないよ」

 隣で、アイトが小さく舌打ちした。

「余計なこと言わなくていいです」
「そうかな? 誤解されているようだったから」

 僕は、自分の膝を見下ろした。

 そうなんだ────そうだったんだ!

 ほっとしている。胸の奥で、何かがほどけた。あまりにも露骨に、あまりにも簡単に。
 自分でも呆れるくらい……ほっとしていた!

「それで、体調の方は?」

 カシマさんが話を戻す。

「さっき、大丈夫って言ったじゃないですか」
「キミの大丈夫は、あまり信用できないからね。いつも僕の前ではそう言って誤魔化したじゃないか」
「んで、そういうこと……」

 アイトはそう言いながら、少し笑った。
 ほどけたはずのものが、また胸の中で絡まる。

 何もなかった。だから、何だというのだろう。
 この人は、僕の知らないアイトを知っている。
 アイトも、この人にしか見せなかった顔を持っている。

 カシマさんが長椅子の端へ腰を下ろす。
 アイトがそちらへ体を向け、小首を傾げて語りかけた。

「海外、どこに行ってたんですか」
「いくつか回ったけど」

 まただ。またこの男は僕の知らない、届かない世界に、アイトを連れ込もうとしている。
 
「アイト。帰ろう」

 ふたりが、同時に僕を見た。

「……は? なに言ってんだよ」
「帰ろうよ」
「もうすぐ時間じゃん」
「でも、ほら。今日は歩いたし、疲れてるだろ」
 
 アイトの目が、僕から離れない。

「僕も疲れたしさ。ね。アイト」
「なら余計に温泉がいいだろ」

 何か言えばいいものを。カシマさんは口を挟まない。その沈黙まで、大人の余裕みたいで腹が立つ。
 ふと、視線を配ると。やっぱりだ。彼はわずかに口角を上げて僕を見ていた。

「はっきり言えよ、タツキ」

 アイトが、膝に置いていたタオルを握る。

「俺に言いたいこと、あんだろ?」

 わかっている顔だった。
 わかった上で、僕に言わせようとしている。

 カシマさんと話さないでほしい。
 そっちを見ないでほしい。
 今日は僕と来たんだから、僕の隣にいてほしい。

 そんなことを、この人の前で言えるはずがないのに。

「いいよ……先、帰るから」

 僕は鞄を掴み、立ち上がった。少し期待はしたけれど、アイトは追ってこなかった。

 *

 ガラス戸を閉めた途端、寒さが頬を叩いた。
 何をしているんだろう。
 アイトと風呂に入る。
 それだけで、あんなに浮かれていたくせに。

「アイト……」

 僕から帰ろうと言って。僕だけ、外にいる。
 軒先の裸電球が、細雪を照らしていた。間抜けな僕はそこを離れられず、鞄の持ち手を握り直した。

「湯シャンとか言ってさ……」

 タオルが二枚、入っている。石鹸も。アイトの分まで、持ってきた。

 いま戻ったら、どんな顔をされるだろう。
 カシマさんに笑われるかもしれない。アイトには、呆れられるかもしれない。それでも────

 思い悩むより先、カラダが動いていたようだ。
 僕は銭湯のの前にいて、他のお客さんを押しのけてガラス戸を開けた。

 アイトもまた、さっきと同じ場所に座ってはいない。それどころか立ち上がり、考え事をするかのようにぐるぐるその場を回っていた。
 
「行こう」

 アイトが目を見開く。
 強く引くつもりはなかった。けれど、彼はすぐにコートを抱え直し、僕についてくる。

 視線は感じた。でもカシマさんの顔は見なかった。

 暖簾を抜け、雪の道へ出る。
 アイトが隣へ追いついてきた。僕らはそのまま、駆け足になった。

「おい。タツキ」
「……なに」
「今度は、言えんだろうな」

 僕は前を向いたまま、言った。

「アイトの背中を、他の人に見られたくない」

 ただ、それだけ。でもそれだけで十分だった。
 アイトの足が少し速くなる。

「他の人って、誰だよ」
「……誰でも」
「ふーん」

 隣を見ると、アイトは笑っていた。
 隠す気なんて少しもない顔で、嬉しそうに。

 角を二つ曲がったところで、僕らはようやく歩き出した。アイトが抱えていたコートへ袖を通すため立ち止まり、僕らは随分と人気のないところに来たと気づく。

「それで、風呂どうすんだよ」

 きょとん。とした僕を見て、アイトは声を上げて笑った。

「おまえ、マジで何も考えてねえのな」
「宿に戻ろうか。お腹も空いたよね?」
「……ちょっと離れたとこに、銭湯あったと思う」
「わざわざ遠くまで行くの?」

 アイトはコートの襟を直しながら、僕を見た。

「温泉。おまえとふたりで入りたいな」

 返事が、出てこなかった。
 アイトはしばらく待ってから、僕の鞄の持ち手へ指を引っかけた。

「嫌なら、宿に帰るけど」
「そんなわけ……ないだろ」

 今度はすぐに答えた。
 彼はうつむき、ちいさく鼻を鳴らす。

「じゃあ、行くぞ」

 鞄を引かれるままに、僕は歩き出した。