17歳のスノードーム


「なぁ、タツキ。ちゃんと女に見えてるか?」
「いやもう……美少女が過ぎる……」
 
 開明社高校は、守矢湖を見下ろす小高い丘の上にある。
 雪化粧を施された赤煉瓦の校舎。尖塔を備えた礼拝堂。黒い鉄柵の向こうには、よく手入れされた針葉樹が立ち並んでいる。
 湖畔から見上げれば、さぞ絵本の挿絵めいた光景だろう。

 伝統ある私立女子校。
 そして、久世さんが通う高校でもある────にも関わらず、僕はいま、女装したアイトを伴って潜入を試みようとしている。

「……そんなに見るなよ」

 校門から少し離れた並木道で、アイトが紺色のジャンパースカートの裾を引っ張った。

 白いブラウスに、紺色のジャンパースカート。胸元には開明社高校の校章をかたどった銀色のブローチ。黒いタイツに、焦茶色のローファー。
 ロングウルフの髪は低い位置でひとつに束ね、黒いリボンで結んである。

 どこからどう見ても、開明社高校の女子生徒(しかも美少女)だった。

「似合いすぎてて……怖いよ?」
「そりゃどーも」

 褒めたのに、アイトはちっとも嬉しくなさそうだ。
 アイトは両手でスカートの前を押さえ、じろりと校門を睨んだ。

 今回探すのは、泣蛍(なきほたる)の原料となる苔だ。
 モナリザ観音に描かれた不完全な印相と、その周囲に散る光点。ナズナが読み解いた図像を、僕は自分が解読したものとしてアイトに伝えた。

 図像が示していたのは、開明社高校の旧校舎。
 その北壁を這う古い銅製の雨樋だった。
 雨樋から染み出す緑青を含んだ水。それを何十年と吸い続けた煉瓦の隙間に、泣蛍の材料となる苔が生えているらしい。

 女子高に忍び込まねば素材が手に入らない。という記述を発見したのはアイトだった。僕がナズナの作成したノートを雑にメモって放置していたのがアダとなったのだ。
「俺がやるしかねーだろ」と、存外やる気だったので任せたが……このタイミングでナズナたちに協力を白状しても良かっただろうに、僕はまたしてもアイトに真実を話せずにいた。

「お前にばっか働かせてたしな。俺もカッコいいとこ見せるわ」
「あ……えと。可愛いよ、アイト」
「おう、行ってくるぜ」

 僕は並木の陰から、固唾を呑んで見守った。
 アイトは守衛に会釈して、そのまま鉄柵の向こうへ進み、煉瓦造りの校舎へと近づいていく。
 紺色の後ろ姿が角を曲がり、見えなくなるまで、僕はその後ろ姿に誰かの影を浮かべていた。

 *

 久世さんと初めて会ったのは、父さんに呼び出されたホテルの喫茶室だった。

「久世ツムギさんだ。開明社高校に通っている。おまえと同い年だ」

 父さん────御厨礼二は、取引先の人間でも紹介するみたいに彼女の名を告げた。
 久世さんは立ち上がり、僕に向かって丁寧に頭を下げた。

「久世ツムギです。はじめまして」

 紺色のジャンパースカート。
 短く整えられた黒髪。
 背筋を伸ばして立つ姿は、開明社高校の案内冊子から抜け出してきたように清潔な女の子だった。

「有賀タツキです。こちらこそ……はじめまして」

 父さんが、わずかに眉を動かした。
 御厨ではなく、有賀と名乗ったことが気に入らなかったのだろう。

「それじゃあ、あとは若い二人で話すといい」

 言うだけ言って、父さんは席を立った。
 僕と久世さんは、向かい合ったまま取り残され、テーブルの上には手をつけられていない紅茶が二つ。
 銀色のポットから立ち上る湯気だけが、僕らの間で所在なく揺れていた。

「こういうのが……健全なんだって」

 先に口を開いたのは、久世さんだった。

「え?」
「十七歳の男女をホテルに呼びつけて、あとは二人で、なんて。大人の考えることだなって」

 思わず、彼女の顔を見た。
 久世さんは口元を押さえ、いたずらを打ち明けた子どものように笑っていた。

「ごめん。御厨さんのこと、悪く言っちゃった」
「いいよ。僕もわりと嫌いだから」

 彼女はカップを持ち上げ、ひと口だけ紅茶を飲んだ。

「正直に言うね。私、この紹介、嫌だったんだ。断る練習もしてきた」
「練習……」
「うん。三通り考えてきた」
「用意がいいね」
「でも、ちょっと困ってる」
「え、どうして?」
「うーん……嫌じゃない……から?」

 まっすぐに見つめられて、僕は目を逸らした。少し、顔が熱かった。

「御厨さんからは、タツキくんは真面目で、礼儀正しくて、格闘技を習得してて、将来のこともちゃんと考えているって聞いた」
「半分くらい別人だね」
「どこまで本当?」
「真面目ではあると思う。礼儀は……たぶん人並み。格闘技は習ってるけど、得意じゃない。将来は何も決めてない」
「ふふ、もうちょっとカッコつけてもいいのに」

 久世さんは、父さんから聞かされた僕ではなく、僕の答えをひとつずつ受け取ってくれた。

「じゃあ、タツキくんは何が好き?」

 そのあとも、他愛ない会話が続いた。いわゆる恋愛教本に載っているような会話テクニックなんて弄してないし、聞けば誰もがあくびするような内容だ。
 けれど、彼女はよく笑った。つられて僕も。
 
 ────今日はありがとう。次は紹介じゃなくて、私たちの約束ってことでいい?

 その日の夜、久世さんからメッセージが届いた。
 何度も読み返した。
 次に会った時は、駅前の映画館へ行った。
 その次は、学校帰りに喫茶店へ寄った。
 新しいメッセージが届けば嬉しくなり、返事を待つ時間が長く感じられた。

「ねぇ、タツキくん。私たちさ、お互い好きになっから、付き合ってるってことで。いいよね?」
「……もちろん」
 
 嘘はない────僕はたしかに久世ツムギを好きになった────はずだ。

 *

「タツキ」

 呼ばれて、顔を上げた。
 アイトだ。
 頬と鼻先を寒さで赤く染め、紺色のジャンパースカートの裾には雪をつけている。胸元へ大事そうに抱えているのは、蓋の閉じられた硝子瓶だ。

「大丈夫だった? お腹痛くない? 怪我は?」
「あー、もううるさい」

 アイトは呆れた顔をしてから、硝子瓶を僕の目の前へ掲げた。
 濡れた苔が、瓶の底へ張りついている。
 色はくすんだ緑。しかし表面に連なる水滴だけが、夕暮れの光を受けて淡い金色に瞬いていた。

「楽勝だったわ。守衛のねーちゃんなんか、俺の顔見て会釈までしてきたぞ」
「声は?」
「出してねえよ。風邪ひいてる美少女を演じきった」
「自分で美少女って言うんだ」
「つーか、おまえ……」

 アイトは僕の顔を覗き込んだ。

「待ってる間に久世のこと考えてたろ」

 胸の内を見透かされ、息が止まる。

「……なんで?」
「ここ、あいつの学校だから」

 アイトは自分のジャンパースカートを摘まんでみせた。

「同じ制服だしな」
「……久世さんのことは考えてたよ」
「ふうん」
「でも、アイトが戻ってきたら……」

 その先が言葉にならない。
 久世さんを思い出していた。彼女を好きになった時のことも、彼女が僕を選んでくれた喜びも。
 それなのに、アイトを見つけた途端、すべてが────

「ほら、帰るぞ。こいつは乾く前に処理しねえと使いもんにならねえ」
「うん。あ、そうだ。まだ言ってないね」
「あ?」
「おかえり、アイト」

 アイトは少しだけ目を丸くした。

「……ただいま」

 *

 工房へ戻るなり、僕らは作業に取りかかった。
 泣蛍の苔は、水分を失う前に煉瓦の欠片や砂を取り除かなければならない。
 着替えている時間も惜しいと、アイトは開明社高校の制服の上から柿渋色のエプロンを身につけた。

 紺色のジャンパースカート。柿渋色のエプロン。腕まくりをした白いブラウス。
 いつもの工房。いつもの道具。いつものように口の悪いアイト。

 なのに、ひとつ衣服が変わっただけで、何もかも違って見えた。

「タツキ。水」
「えっと、はい」
「冷てえ方な。そっち膠だぞ」
「あれ、ごめん」
「ボーッとすんな。苔が死んじまう」

 僕は慌てて、雪解け水の入った器を差し出した。
 アイトは苔を絹網へ広げ、細い竹製のピンセットで異物を取り除いていく。
 長い髪が頬へ落ちるたび、手首を返して耳へかける。その動きに合わせ、白い袖口が肘のあたりで揺れた。

 ジャンパースカートの裾が、作業台の下でかすかに動く。

「おい」
「……なに?」
「さっきから、どこ見てんだよ」
「アイトの作業を見てる」
「嘘つけ。三回も膠よこそうとしやがって」
 
 アイトが、じっと僕を見る。

「おまえ、そんなにこの制服が好きなのか?」
「違うよ」
「久世と同じだから?」
「そうじゃない」
「じゃあ、俺が着てんのがいいのか?」

 答えられなかった────アイトの瞳が細くなる。
 その色の見えないその目に、どんな僕が映っているというのか。

「ふーん」

 彼はそれ以上追及せず、口元だけをわずかに緩めた。
 正直、見惚れてしまう。同じ制服でも、久世さんを見ていた時とは違う。
 アイトが可憐な少女に見えるから。それもある……でも。

 制服の下にいるのは、僕の知っているアイトだ。

 怒りっぽくて。口が悪くて。寂しがり屋で。
 僕の名前を呼ぶ時だけ、ほんの少し声が柔らかくなる。

 そんな、いつものアイトから、僕は目を離せずにいた。

「さて、仕上げいくぞ」

 煉瓦の粉を加えると、色の底に淡い赤みが沈んだ。
 アイトは指先で粒子を潰し、その感触を確かめる。

 やがて彼は、左腕の袖を捲った。
 そして左手首へ、出来上がった顔料をすっと横一文字に引く。
 白い皮膚。薄く透ける血管。その上を、淡い緑色の線が走る。
 アイトが手首を持ち上げた。

 伏せられる長いまつ毛。わずかに開く唇。
 顔料の線へ、そっと唇を重ねる。

「今日は、逸らさねえんだな」

 アイトの瞼が持ち上がり、顔料へ唇を触れさせたまま、僕を見てそう言った。
 指で弾かれたグラスのよう。心臓が震えている。

「……見ちゃダメなら」
「いいけど」

 唇が、顔料の線から離れる。
 湿り気を帯びた緑が、彼の下唇へほんの少し移っていた。

「どう?」
「ん……あれが足りない。えっと……緑青だ。ほんのちょっとだけ欲しい」

 アイトの指示に従い、緑青の粉をひとつまみ加える。
 ふたりで顔料を練り直し、もう一度、手首へ線を引く。

 アイトが唇を重ねる。
 今度は、僕を見なかった。

「正解だ」

 その顔に、無邪気な笑みが広がる。

「できた。泣蛍だ」
「……うん。綺麗だよ」

 顔料のことを言ったのか。アイトのことを言ったのか。
 自分でもわからなかった。
 
 彼の下唇には、まだ泣蛍の色が残っている。
 僕は指を伸ばしかけた。

「アイト」
「えっ」

 拭ってやろうと思っただけだ。
 そう言い訳するには、あまりにもゆっくりとした動きだった。
 アイトは逃げなかった。僕の指先を見つめ、それから僕の目を見る。

 あと少し────触れる直前で、僕は手を引いた。

「……顔料、ついてるよ」
「わかってる」

 アイトは自分の親指で唇を拭った。
 その声には、ほんの少しだけ拗ねた響きが混じっていた。

 *

 片づけを終える頃には、時計の針が午後5時を過ぎようとしていた。

 濡れた苔と膠の匂いが、服にも髪にも染みついている。
 いまだ女装のアイトはエプロンを外し、ジャンパースカートの胸元をつまんで匂いを嗅いだ。

「なんか……くさいんだが?」
「苔の匂い? 青くさいアイトかぁ」
「はぁ……おまえはオスくさい」
「アイトだってオスじゃんか。きっとアイトもオスくさいよ」
「は? 嗅いでみろや」

 アイトが一歩近づく。
 制服の胸元……濡れた苔……膠。
 その奥にある、アイト自身の甘酸っぱい匂い……嗅いでみろと言われても、罪深くてどうにも呼吸を止めてしまう。
 
 僕がそうして赤い顔をして震えていると、アイトが急に声のトーンを落としてこう言った。

「なぁ、タツキ。風呂、いっしょに入ろう」