彼女を抱いた。男のことを想いながら。
昨夜のことだ。
初体験だ。
最低だ……でも最悪ではないと思う。だって、他ならぬ“あいつ”だから。
いわゆる「経験済み」の高校生は、約10人に1人らしい。つまり、クラスに3人いるかいないかという程度。ならば僕は立派な少数派に位置するわけなのだけれど……みんなはどんな初夜を迎えるのだろう。
それはそれは素敵な思い出として、ゆくゆくは棺桶に添える花としてポケットに忍ばせるのか。それとも生涯色褪せないような、荒んだ夢となるのか。そこまではゆかずとも、おそらくは後者に近いだろう。勝手もわからずあたふたして、互いにちょっぴり気まずくなって気づけば終わっている……そんなとこじゃないかなと思う。
ただ、僕のようなケースは……たぶん珍しい……と思う。
「タツキ。その氷の壁、あんまり触んない方がいいらしいぞ。手が引っ付いちゃうってさ」
男の声が背中から聞こえた。
僕の名を呼ぶ、拗ねた野良猫みたいな揺らぎ。その声の主こそ、僕が件の初夜に思い浮かべた少年だ。
「あ……くっついた……とれない」
「はっ、おまっ!」
「ごめん、嘘。ははっ、びっくりした?」
「……現実にしようぜ」
彼はそう言うと、僕の頬を氷の壁に押し付けた。
「アイト……アイト……! ほっぺ……くっつくからッ!」
────片倉アイト
僕より少し背の低い、白い顔をしてケラケラと笑っている少年の名前だ。
昨夜、彼女を押し退けて僕の脳裏に居座った彼の。
「ほっぺ、ちょっと剥がれたかも」
「男前が上がったんじゃねえの? 知らんけど」
「アイトは、男前上がんないね。歳を取るごとに女性化してない? 知らんけど」
「は……逆のほっぺもよこせ」
目の前に氷の壁が聳えている。見上げれば、天高く伸びていて、この街をすっぽり覆っているのだ。
スノードーム現象。まさにその名の通りだ。
「なぁ、タツキ。雪、強くなってきたな」
「そうだね、アイト。そろそろ帰る?」
「ん。しゃーねー、帰ってやるよ」
ふたりで氷の城壁から離れ、湖畔の道を歩く。
見慣れたはずの街は、輪郭と薄い影だけを残していた。空も、道も、家々の屋根も、まるで水墨画の中を泳いでいるかのようだ。
「スノードームに覆われてる間、一ヶ月間。電波も届かなけりゃ、ネットも使えねーってさ」
「じゃあ、スマホもただの文鎮だね」
「インクリボンの定期受信も途絶えるな。あれ、衛星からのスターリンクらしいけど、どっちみち氷の壁が弾いちゃうし」
「インクリボン……」
そうだ。インクリボン。
人間の行動と選択がもたらす「因果と結果を予報する」というインクリボン。いまや、誰しもが己の「正解」の基準として依存しているシステム。
それを紐解けば、きっと僕の────
「そういえば、タツキ。お前、自分のインクリボン。もう見せてもらったのか?」
アイトがスノードームの天井を見やって言った。
頭に被ったニット帽からのぞく、彼の長い髪が揺れる。
「いや、まだだよ。母さんが見せてくれなくてさ」
「はぁ……もう17歳だってのにな。どうする? あなたはド変態になるでしょう〜。なんて予報されてたら」
「あはは……僕は普通……母さんはそう言ってたから。たぶん、普通の17歳だよ、平々凡々な」
そう。そのはずだ。
インクリボンを見せてほしい。と何度、母に頼んでも、離れて暮らす父親に尋ねても、ふたりの回答はいつも同じ「お前は、普通の子だ。ちゃんと女の子を好きになる、普通の男の子だ。心配しなくていい」と。いつも、それだけだった。
「でも……」
ふいに、言葉が溢れた。それは水瓶から溢れ出た心の声。
「タツキ? どうした?」
急に足を止めた僕に、目を向けるアイト。目が合った。
あの整ったアーモンド型の瞳と結びついては。もう、僕には隠すことができない。
「昨日さ……彼女と……したんだ」
北風小僧が口笛を吹いた。雪をさらって僕らの間を駆け抜けてゆく。
彼女と────なにを?
と、聞くまでもないと思ったのだろう。彼は、僕の言葉に耳を塞ぐようにして顔を背けた。
ついさっきまで、しきりに擦り合わせていた両手も、いまは隠し事をするみたいにロングコートのポケットに突っ込まれている。代わりに尻尾を出したのは湿った白い息と共にこぼれる乾いたひと言、ふた言。
「そっか。おめでとう」
一歩、僕に近づいてから。オトナじゃん。と、続けてアイトは言った。ぎゅっと握った拳を僕の胸に置いて。まるでナイフでも突き立てるかのように。
ふわり、と。甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐる。視線を胸元に落としていた僕が、誘われるままに顔を上げたなら、馨しさの出処はすぐに知れた────彼の横顔だ。
ボンボンのついたニット帽を瞼が隠れるほどに深くかぶっていて、炬燵から這い出るようにして伸びる長いまつ毛が所在なく揺れていた。
ちょこんと上向いたとんがった鼻。いまはほんのり赤く染まり、色素の薄い白肌とあいまって。まるで雪の下に咲いた梅の花みたいだ。
「バカだな、おまえ」
僕の身を押し除けて、彼はぶっきらぼうに言った。そのまま背を向けて歩き出す。細雪の降る中、壊れた常夜灯の下であてもなく。
「せっかくカノジョと結ばれたってのに。わざわざ距離置くようなことしやがって」
僕は追い縋るようにその後をついてゆく。
「距離なんて……別に」
「とうぶん会えないだろうが。ここが何処だと思ってんだよ。スノードームの中だぞ」
「それは……あ、ねぇ、ちょっと待ってよ」
「あーもう、ついてくんなし。おまえの宿は反対だろうが」
向こう行けよ! と、振り向きざまに。僕を跳ね飛ばそうとしたのだろう、彼は両手をぐいっと前に押し出した……が、いかんせん暗がりだ。バランスを崩して、そのまま僕にもたれかかってしまった。
「……バカタレが」
「えっと……僕のせい?」
「ったりめえだろ」
「ごめん。すみません。申し訳ない。どれでも好きなのをどうぞ」
「全部よこせよ」
抱き止めた、なんて大げさだけど。彼の肩に手を置いてみて気づいたことがある。
彼はとてもキレイだ。性の境目がなんとも曖昧で、ほんとうは女の子なんじゃないかと勘繰ってしまうほどには……けれど、やはり違うんだな。あの日、僕の腕の中にあった彼女の、女の子のカラダとは違う……男の子だ、紛れもなく。
それなのに、どうして僕はあの時────
「……てたんだろう」
こんなこと告げていいはずがない。僕は“彼のこと”を理解っているのだから。
いや違う。知った上で、僕は最初からそのつもりで、彼に話題を振ったのではないのか。
「アイト……あのさ」
アイト。彼の名を呼んだ。
あの時も。彼女と寝ていた時も、僕は────
「おまえのこと。思い浮かべてたんだ」
きょとん。それも一瞬のこと。
視線、声色、指先。そこかしこで露わになる僕の意を汲んだのだろう。
「彼女と……シてる……とき?」
彼は瞳を藍色に滲ませたまま、きゅっと唇を結んでちいさく喉を鳴らした。
「俺の、ことを……?」
「……そうだよ、アイト」
そっか。と消えいるほどに小さな声でつぶやくと、彼は肩に落ちた雪を払うようにして僕の手に触れた。
しんしんと降る雪、あっちもこっちも。積もることもなく、溶けることも忘れて空へと帰り、また素知らぬ顔で訪ねてくる。
────スノードームの中に、僕らはいるのだ。
それは、蚕の繭のようで。
羽化を待たずして、僕らはこのまま煮繭えてしまうのではないかと、怖くなる。
でも、それも悪くないかもしれない。大人になんてならずとも。
ずっとこのまま────17歳のままでいられたなら。



