17歳のスノードーム


 工房には踊り子がいる。
 ノっている時のアイトだ。今の彼は文字通り、舞うかのように色を生み出しているのだから。

 白いワイシャツの袖を肘まで捲り、柿渋色のエプロンをきつく結ぶ。長い髪をひとつに束ね、邪魔な横髪を耳へかける。その一連の仕草が、舞台へ上がる踊り手の支度にも見えた。

 観客(蚕)たちのざわめきが一瞬消えた────作業が始まる。

 アイトは棚へ向かい、迷うことなく鉱物の瓶を抜き取った。
 蓋を開ける。中身を量る。乳鉢へ落とす……からん、と。
 硬い粒が磁器の底を打ち、最初の音が鳴った。

 乳棒を握ったアイトの肩が、ゆっくりと回りはじめる。ごり、ごり、と鉱物の砕ける音。そのたびに白い袖の下でしなやかな腕に血が通い、肩から肘へ、肘から手首へと力が流れてゆく。
 初めは大きく。
 粒が小さくなるにつれ、円も小さく。
 時折、乳棒を持ち上げて、底に溜まった粉をへらで返す。二度、三度。再び乳棒を落とす。その合間に空いた左手が別の瓶へ伸び、蓋を緩め、僕の前へ滑らせた。

「オレンジのやつ。小指の先くらい」

 僕が量って差し出すより先に、アイトの右手が待っている。
 掌へ渡す。
 受け取った指はそのまま弧を描き、粉を乳鉢へ注いだ。振り返りもしない。けれど一粒もこぼさない。

 しゃっ、しゃっ、と篩を通る粉。
 ちん、と匙が器を打つ音。
 ことり、と作業台へ戻される瓶。

 音楽だ。音楽を奏でている。
 あるのは、鉱物を砕く音と薪の弾ける音。頭上で蚕たちが繭をつくる、さわさわとした衣擦れだけ。そこにアイトが時折みせる貧乏ゆすりや、首をポキっと鳴らす雑音さえも、今は譜面に記されたように周囲と調和して一つの音楽となっていた。

 一歩、棚へ。
 半歩、炉へ。

 膠を温める鍋の前で身を屈め、温度を確かめる。そのまま爪先を軸にして向きを変え、作業台へ戻る。ロングウルフの髪が背中で遅れて揺れ、結び目からこぼれた一房が少し赤らんだ頬を撫でる。
 アイトはそれを払わない。
 細い顎を軽く振って追いやるだけで、次の器を引き寄せた。

 白磁の器に、砕いた鉱物を移す。
 繭から取り出した薄い繊維を加える。
 温めた膠を一滴、二滴。観音の慈悲のように垂らす。

 透明な雫が粉の上へ落ちるたび、眠っていた材料が目を覚ましてゆくのがわかった。

 アイトは白魚のような指先を器に差し入れ、ゆっくりと混ぜはじめた。
 船を漕ぐように。
 あるいは、眠る愛猫の背中を撫でるように。

 膠と粉を溶かして、溶かして。底から掬い上げ、指の腹ですり潰す。円を描くたびに手首が返り、それにつられて肘が開く。肩がわずかに傾き、香りを振りまくように上体が左右へ揺れた。

 僕には、器の中で色が生まれてゆくのが見える。
 けれどアイトには見えない。
 見えないはずなのに、指は一度も迷わなかった。

 粒の粗さ。
 膠の粘り。
 指へ吸いつく強さ。
 乾きはじめるまでの時間。

 僕が目で追っているものを、アイトは皮膚で聴いている。

「水。おまえの体温と同じやつ」

 短い声に、僕は懐に入れた小瓶を手に取り、小さな匙でひと掬いしたものを一滴。器に注いだ。

「もう一滴」

 二滴目。今度は指が震えた。

「止めろ」

 僕が瓶を引くのと同時に、アイトの指が速くなる。
 器の縁をなぞり、中央へ集め、押し広げ、また集める。とろりとした顔料が指へ絡みつき、白磁の上に螺旋を描いた。
 一歩退いたかと思えば、次の瞬間にはまた踏み込む。
 それはまるで、恋の駆け引きをしているかのようにも見える。

 ひとつひとつは、ひどく地味な動作だ。

 砕く。量る。混ぜる。待つ。

 ただ、それだけ。
 けれどアイトが行えば、作業台は華やかな舞台になった。

 白いシャツが翻る。
 柿渋色のエプロンが腰の動きに合わせて揺れる。
 濡れた指先が、白磁の上を走る。

 瓶と瓶の隙間を渡る手は、鍵盤の上でつま先立ちしてステップを踏んでいるかのようで。乳棒が刻む低い音に、匙と器の高い音が重なって。炉の薪が拍子を取り、蚕たちのさわめきが音楽の下地を担っている。

 そして僕も、その曲の中にいた。

 アイトが手を伸ばす。僕が道具を置く。
 アイトが器を押し出す。僕が光へかざす。

 言葉を交わさなくても、次に何を求められているのかわかる。僕が一拍遅れれば、アイトが指先で作業台を叩く。早すぎれば、唇の端だけで笑う。

 僕らの手は何度も交差した。

 触れそうになって。
 触れないまま離れて。
 また、同じ器の上へ戻ってくる。

「できた」
 
 やがてアイトの動きが止まった。
 白磁の器の中央には、生まれたばかりの顔料が艶やかに横たわっている。

 アイトは時を止めるように右薬指の指先で顔料を掬うと、左手首へそれをすっと引いた。
 横一文字に。
 その線へ顔を寄せる。伏せた睫毛の下で、神経のすべてを唇へ集めるように目を閉じた。

 そっと触れる。

 工房に満ちていた音が、一斉に息を潜めた。薪も、蚕も、僕の心臓も。
 ほんの一瞬。
 それは曲の最後に置かれた長い休符のような沈黙だった。

 やがて唇が離れる。
 ────アイトは顔を上げた。
 頬に張りついた髪も、顔料に濡れた指もそのままに。舞台を踊りきった子どものような、無邪気な笑みを浮かべて。

「正解」

 そのひと言で、工房のすべてがふたたび鳴りはじめた。


 *


 ようやっとひと息つく。
 四つの白磁の器を眺めながら、僕らはコーヒーブレイクだ。

 骸梅(むくろうめ)。葬花(とむらいばな)。逆藤(さかふじ)。
 そして、たったいま完成した写船(うつしぶね)。

 守矢十色のうち、これで四つ。
 
 さきほどまで音楽に合わせて踊るように工房を動き回っていたアイトは、いまや糸の切れた人形みたいに椅子へ沈み込んでいる。それでも、コーヒーの香りに鼻をすんすんさせて、僕に笑みを向けた。

「おまえ、コーヒー淹れんのうまいな」
「あはは、自己流だけどね」

 顔色はまだ良くない。マグカップを持つ指先にも、よく見なければ気づかないほどの震えが残っていた。

「四つ、か」

 並べられた器に乗った四つの色を前に、アイトがしみじみとつぶやく。
 
「タツキ。すげえよ、おまえ」
「え?」
「刺青が暗号になってるなんて思いもしなかったのに。どんどん読み解いてくんだもんな」

 マグカップの中で、黒い水面がわずかに揺れる。

「そ、そうかな」
「そうだろ。俺なんか毎日背負ってんのにさ」
「でも、アイトは守矢十色を判別できるじゃんか。その方がずっとすごいよ。超能力みたいだ」
「確かに……自分でも謎の能力だな」

 僕はコーヒーを口へ運んだ。
 ────苦かった。
 砂糖を入れ忘れたのだ。いや、コーヒーの苦味じゃない。そう悟ったぼくは、角砂糖に向けて伸ばした手を引っ込めた。

「あのさ、実は僕だけの力じゃ……」

 喉まで出かかった言葉が、苦味と一緒に引っかかった。

「おまえだけだよ」

 アイトが言った。
 僕はカップを置く。というより、重力に引かれた。

「えっ?」
「俺が頼れんの」

 アイトはコーヒーを一口飲み、視線はマグカップに落としたまま言った。それはいつもの尖った声色ではない。けれど、ひとたび触れたなら火傷しそうな熱を孕んでいた。

「俺さ。ずっと、自分はこの世界にとっての不正解なんだと思ってた」

 パキッ!とストーブに焚べた薪が弾けた。

「母親は俺を産んだことを不正解だとずっと言ってた。俺は男に産まれたことを不正解だと思ってた。自分のインクリボンを見た時に……答え合わせをしてるような気分だったのを覚えてるよ。あぁ、やっぱりなって」
 
 口元に笑みを浮かべながらも、アイトはちょっぴり寂しげに僕を見た。

「おまえもよく……知ってるよな?」

 アイトの白い指先が、僕の心臓に爪を立てている。そんな錯覚に駆られた。いや、錯覚ではないだろう。
 だって、僕がしでかしたことだ────

「だから俺は、証明したいんだと思う。アルカ社との勝負に勝って」

 僕が返事もできずに黙りこくっていると、アイトは燃えたぎる薪の火が移ったような目をして言う。

「片倉家に産まれたことも、この背中に刺青を背負うことになったのも。全部理由があったんだって、不正解の果実なんかじゃないって。そうしたらきっと……」

 アイトはきゅっと唇を結び、僕を見据えた。

「ぜんぶが正解だったって……そう思える気がすんだよ」

 ────だから、おまえが必要なんだ。
 アイトは、力強く言い切った。
 そうだ。アイトは不正解なんかじゃない。証明するんだ、僕だけがその力になれる。

 彼にも────カシマさんにもできやしない。
 僕だけだ!
 
「アイト、わかってるよ。証明しよう、ふたりで」

 ふたりで。
 すでに、僕らだけじゃない。十色にたどり着けたその轍には、吐き捨てた僕の嘘が転がっている。
 でも、だからなんだというのだ。
 アイトは僕だけを見ている。僕だけを頼っている。それでいいじゃないか。
 勝つことさえできれば、それで────!

「おう。頼りにしてるぜ、タツキ」

 アイトが嬉しそうに笑う。
 ちくり、と。棘が刺さる。ただ、もう……慣れてしまったようだ。気にならないくらいには。