17歳のスノードーム


 病室の扉の前で、僕は鞄を持ち直した────中には、顔料が二つ入っている。
 一つは耽二郎先生から預かった《骸梅》。先生が教えてくれたレシピで仕上げたものだ。もう一つは、ナズナがアイトの刺青を読み解き、僕が材料を集めて作ったもの。名前はまだわからない。

 どちらも、アイトに確かめてもらうまでは、守矢十色とは呼べなかった。

「アイト。入るよ」

 アイトは窓際に腰掛けていた。病院の白い寝間着は、工房のシャツよりも彼を小さく見せる。顔色は少し戻っていたけれど、僕が鞄を覗くと、すぐに身を乗り出した。

「何持ってきた? おやつ?」
「挨拶くらいさせてよ」
「もうしただろ。入るよって」

 僕は椅子を引き寄せ、最初の包みを取り出した。

「耽二郎先生から」
「……あいつが?」

 先生の名を聞いた途端、アイトの声が硬くなる。僕は包みをほどき、白磁の器をベッド脇の台に置いた。
 赤い顔料が、器の底にある。

「骸梅のレシピを教えてくれたんだ。これ、答え合わせしよう」

 アイトは僕を見た。

「アイトの背中には、本物の守矢十色が入ってる。目で見られなくても、カラダなら覚えてるんだろ」
「……覚えてるっていうか、判別できる。カラダの感覚で」

 アイトは器を引き寄せた。ひと息つき、右手の薬指で顔料を掬った。
 そして左手首へ、指で細い線を引く。その手を口元へ運ぶのを見て、僕は思わず身構えた。

「また具合が悪くなったら……」
「すぐやめるよ」

 アイトの唇が、顔料へほんの一瞬触れた。

 目を閉じる。
 僕はその横顔を見つめた。アイトが何を確かめているのか、僕にはわからない。ただ、指先が動かないことだけがわかる。

 やがてアイトは手を下ろした。

「これ……正解だ」
「ほんとに?」
「ああ。十色のひとつだ。間違いなくこれで合ってる」

 骸梅、と僕は心の中で呼んだ。先生のレシピで作った赤を、アイトの唇も正しいと認めた。
 アイトはもう一度器を見た。

「他には? 他には耽二郎から預かってないのか?」
「先生からは、これだけ」
「……そっか」

 アイトの肩が落ちた。
 一色でも見つかったのだから喜んでいいはずなのに、残りの数を思い出してしまったのだろう。器を置く手が、さっきよりも遅い。

「実はもう一つあるんだ」

 僕は鞄から、二つ目の包みを出した。

「耽二郎のじゃねえの?」
「そうなんだ。こっちはね……」

 ナズナが見つけた。先生が教えてくれた骸梅のレシピを手がかりにして。
 僕はそこまで言えたはずだった。
 アイトは、僕の手元を見ている。まだ器の中身も知らないのに、目が輝き始めていた。それを見ていたら、僕の中でよからぬ感情が湧き起こり────

「僕が、刺青を解読したんだ」

 声は思ったよりも滑らかに出た。嘘だ。それは他人の功績だ。

「図柄を調べて、材料を集めた。まだ合ってるかわからないけど」

 アイトが息を呑む。

「おまえが?」
「……うん」

 僕が材料を集めたのは本当だ。何度も失敗して、やっと形にしたのも。
 けれど、図柄の読み方を見つけたのは、僕ではない。
 アイトは二つ目の器を受け取り、さっきのように顔料を手首に引いた。止める間もなく唇で触れる。

 だが────すぐに眉が寄った。

「違う……」
「ダメ。か」
「待て。でも近い。すごく近い!」

 アイトは唇を指の背で軽く押さえ、何かを思い出すように宙を見た。

「あれだ、緑のやつあるか。そう……ロクショウだ。ロクショウを少し足したい」
「緑青?」
「俺の鞄。小瓶が入ってる」

 病室の隅に置かれたアイトの鞄を開けると、衣類の下に小さな瓶があった。蓋に紙は貼られていないが、僕が見ればどれがご希望の色かわかる。

「入院先まで持ってきてたの?」
「いいから、よこせよ」

 アイトは瓶を受け取った。僕も身を寄せ、言われたとおりに少しだけ顔料へ加える。練り直すと、器の中の色がわずかに変わった。

 アイトはまた手首へ線を引いた。

「もう一度、やるの?」
「これで決めるさ」

 唇が触れる。
 僕は息を止めた。アイトが倒れたときのことが頭をよぎる。確かめてほしくて持ってきたのは僕なのに、手を伸ばしてやめさせたくなった。

 永遠のような一瞬のような時が終わり。アイトはゆっくりと手首から顔を離した。

「正解だ……」

 小さな声だった。言い終えると同時、彼は顔を上げた。

「すげえ。すげえよタツキ! 他のもできそうか?」
「え、ああ……うん」
「よっしゃ。こうしちゃいられねえ。退院すっぞ退院!」
「ダメだよ、アイト。お医者さんの許可がないと」
「んじゃあ、ヨカタじゃねーんだって、医者に言っとけよ!」

 アイトは本当にベッドから降りようとした。僕が肩を押して座らせると、文句を言いながらも、器から手を離さない。

 嬉しそうだった。僕がアイトの背中を読み解いたのだと、疑わずに。
 ナズナのことを話すなら、いまだ。先生と一緒に写真を見たことも、約束どおり僕の口から伝えられる。
 そう思いながら……僕は鞄の口を閉じた。きつく、きつく。

「タツキ」
「なに?」
「次も、頼むな」

 アイトが僕を見て笑った────僕は頷くしかなかった。

 滑り出してしまった。「嘘」という荷を乗せたソリが。
 止める機会は、いま僕の手の中にあったのに。もはや、この手を離れて見えなくなるほどに遠くにいってしまった……そんな気がした。