────はじめてだ。僕のために泣いてくれた人を見たのは。
朽ちた神社の石段が消え、僕はジムの天井を見ていた。
首の後ろが痛い。息を吸うと、マットの匂いがした。どうやら、まだ生きているらしい。
「ふぅえええん……えーん、えんえん。ぜんぜん……知らなぐでえ……!」
公園のデブ猫が泣いている。どうしたというのだろう。
「よしよし。お兄ちゃんの昔話が可哀想で泣いちゃったんだ? ジローちゃんは優しいね」
「ぐすんっ」
「ティッシュあるよ。鼻かむ?」
「きゃむっ」
え……ナズナ?
少し離れたところで、どういうわけかナズナが見た目美少女な耽二郎先生を抱きしめて慰めている。
というかなぜ、ナズナがここに?
「目ぇ覚めたか」
今度はすぐそばから声がして、顔を向けた。
見知らぬ少年が、僕の頭の下から畳んだタオルをそっと引き抜いた。短く刈った黒髪に、片耳だけのピアス。太い眉の下には、まっすぐな目がある。
……誰だろう?
「急に起きないほうがいい。まだふらつくだろ」
「あ……ありがとう。キミは?」
「与座ギンスケ。ナズの彼氏」
あぁ、ギンちゃん。
ナズナが長野まで連れてきたという、あの彼氏か。彼は僕が体を起こすまで背中に手を添え、座れたのを見てから離した。
「タップ、しなかったんだな」
「……したら負けるから」
「落ちたら、もっと負けになるぞ」
正論だった。今の僕には返す言葉もない。
ギンスケくん、か。
見た目は着崩した上着のせいで少しヤンキーじみて見えるのに、その辺で人を威嚇しているチンピラとはまったく違う人種だ。
たしか格闘技をやってるとナズナが言ってたけど……強い。間違いなく。僕なんかよりずっと。いや、遥かに。
「お兄ちゃん!」
ナズナが僕に気づいた。耽二郎先生抱きしめたまま引きずってこっちに来た。
「大丈夫? 記憶飛んでない?」
「うん。ギンスケくんが見ててくれたから」
ナズナはギンスケくんが練習できるジムを探してきたのだという。
そしたら、なぜか僕が先生に絞め落とされていて、しかも気絶した僕の隣で“美少女”が添い寝していたものだから、状況を理解にするのに理三の問題を解くよりも時間が掛かったという。
「でもまあ、お兄ちゃんがこんな特殊性癖の持ち主だったとはねぇ……」
「は、特殊……性癖?」
「ほら、これ」
ひゅっと、変な音が肺から飛び出した。
ナズナが僕に見せたのは、僕のスマホで。さらにそこに映し出されていたのは────アイトの背中。刺青の写真だったからだ。
「な、なんで……ナズナ……勝手に見るなよ!」
奪い返したいが、カラダがまだ動かない。
「俺が見てたのさ。いしゃあが気ぃ失ってから、写真の刺青がどうのこうのって意識もないのに口走ってたから……つい」
なにが「つい」だ────!
僕はようやく起動したカラダを叩き起こして、スマホへ向かって突進したが、スマホをパスされた先生はひょいと僕の手をかわした。もう一度掴もうとしても、手首を軽く押さえられ、届かない。
「でも、お兄ちゃん。めちゃくちゃ綺麗な“女子”の背中、撮らせてもらってたんだね」
ナズナがスマホ画面を覗きながらそう言った。
「こいつぁ、女の背中じゃねえぜ。男の背中だ。俺も似たような背中だかんな、こいつは男だ、間違いねぇ」
「おじさんの背中と一緒にしないでください!」
先生がスマホを目の高さに掲げた。
「しかも、こりゃあ……アイ子の背中だろ。いしゃあ、まさかオカズに使ってんのか?」
「だから違うって! 守矢十色……あ、いや、その」
しまった。
僕が口を閉じても遅かった。先生は画面の観音と、僕の顔を見比べる。
「あぁー、なるほどね」
「まだ何も言ってません」
先生はようやくスマホを下ろした。
「色が見えねえアイ子の代わりに、いしゃあがこいつを見るわけか。そうだろ?」
僕は答えなかった。
「ふん……九色、入ってんだな。背中に。ひとつ足りねえが」
先生の目が細くなる。僕はもう隠し通せないと思った。
アイトが僕に刺青を見せたこと。色見本が失われても、背中には九色が残っていること。僕が写真を撮らせてもらい、毎晩見ていたこと。
話しながら、先生とナズナがその写真を見たのは、アイトが望んだことではないと思った。僕が意識を失っている間だったとしても、アイトに伝えるのは僕だ。
「……これ以上、誰にも見せないでください」
もちろん。と、先生は黙って頷いた。
ナズナは返事をしなかった。いつもなら僕の発言を茶化してくるのに、じっと画面を見つめている。
片手を顎に当て、指で観音の衣の皺を辿る。次に、重ねられた両手と、そのそばの小さな持物を見て。まるで古いドラマに出てくる探偵のようなムーヴだ。
「ナズナ?」
僕が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「あたし……これ読めるかも」



