母はいつも泣いていた。
東京を離れた日も、その後も。夜になると母は部屋の隅で膝を抱え、電話を握ったまま泣いていた。
子どもの僕は、母が悲しんでいるなら慰めなければと思った。肩に手を置こうとして、振り払われたこともある。あの人が待っていたのは、僕の手ではなかった。
御厨礼二────僕の父だ。
母は東京にいる父さんから電話が来ると、泣いた顔を洗い、鏡の前に座った。声しか届かないのに、髪を梳かしてから電話に出る。切られたあとには、また泣く。
それは自分を飾るための涙で。
母が考えていたのは、どうすれば父さんを呼び寄せられるか。来たなら、どうすれば少しでも長く引き留められるか。そればかりだった。
「タツキ。こっちへいらっしゃい」
呼ばれて椅子に座ると、母は僕の髪を梳いた。櫛が引っかかるたびに頭が後ろへ引かれる。
「痛い……」
「動かないで。きれいにしてあげてるんだから」
母は僕の髪をひとつにまとめ、きつく結んだ。鏡の中で、僕の目尻がつり上がる。
「あなたは女の子よ」
その言葉は、母の口から何度も聞いた。服を選ぶとき。ランドセルを買ったとき。僕が嫌だと言ったとき。
「父さんは、そんなこと……」
鏡の中の母と目が合った。
「あの人が言ったのよ。インクリボンにもそう書いてあったの。だからあなたは女の子よ。いい? 女の子になれば、お父さんと一緒に暮らせるの。いいわね……タツキ」
こんな夜を繰り返すことを、幸せとは呼ばないだろう。
でも守矢に越してきた僕は、ちいさな幸せを見つけていた。
────アイトだ。
転校初日に隣の席へ座ってから、僕とアイトは友達になった。
さっそくいじめっ子のターゲットになった僕を、彼が救ってくれたのだ。
「おい、こっちだ」
僕を待ち伏せする子どもたちがいた。帰り道の曲がり角に三人。見つかった、と思ったときには、アイトが僕の手を掴んでいた。
アイトは狭い路地へ飛び込んだ。僕は半歩遅れて、転びそうになりながらついてゆく。
木漏れ日の下。古い塀の角を二つ曲がり、誰もいない坂道まで来て、ようやく手が離れた。
「おまえ、あいつらがいたら逃げないとだぞ」
「ん……足遅くてさ」
「しゃーねー、明日から俺が一緒に逃げてやるよ」
アイトだって僕よりずっと小さかったのに、息を切らしながら偉そうに言う。
ヒーローだった。僕のたったひとりの。
「俺もさ、長い髪の毛憧れてたんだ」
最初に会った頃、アイトの髪は短かった。それがいつの間にか彼も伸ばすようになって、僕と同じように後ろでまとめるようになった。
いつしか二人で揃えたものがある。飾りのついていない、細い一本かんざしだ。髪をねじってまとめ、尖った先を通す。アイトは手慣れていたけれど、僕はうまくできず、何度も髪をほどいてやり直した。
「貸せよ」
見かねたアイトが僕の後ろへ回る。指が髪の中を通り、かんざしがすっと挿された。
「ほら、できた」
頭を振っても落ちない。僕らが並んで歩くと、同じ形のかんざしが、同じくらいの高さに揺れた。
髪を伸ばしたいと思ったことはなかった。
それでも、その日は髪があってよかったと思ったのを、いまでもよく覚えている。
────嘘みたいに穏やかな日が、しばらく続いた。
だが。
家に帰ると、母はよく電話のそばにいた。父さんから連絡があった日は、夕食の皿が一枚多かった。来られないとわかれば、その皿を料理ごとゴミ箱に放り込んだ。
僕が話しかけても返事をしない日が増えた。翌日には急に機嫌がよくなり、僕の髪を丁寧に結い直した。結び目が痛いと言うと、その手が止まり、目玉がこぼれ落ちそうなほどに目を見開いて僕を凝視する。
そんな夜が、続いた────満月が見物に来るまで。
「おまえは何をやってるんだ!」
「あなたが言ったんじゃない。タツキが女の子なら一緒に暮らせたのにって!」
「間に受けたのか……いい加減にしろよ。わかるだろ、一緒には暮らせないんだ。その代わり、金は十分に渡してるだろ」
「なによそれ! あの子を産めば一緒にって────」
「私は堕ろせと言ったんだッ────!」
父さんが東京から来た日、びっくりするほど大きな満月が雲に腰掛けてニヤニヤ笑っていた。
二人の声が隣の部屋から聞こえた。はじめは低く、やがて、扉を閉めていても言葉がわかるほど大きくなり、最後には魚のいない水槽の水が震えていた。
「とにかく。あの子のインクリボンには間違い────いいな、私の言った通りにするんだぞ!」
「……わかった。わかったわよ……うぅ……うっ」
僕は廊下に立ったまま、二人が部屋から出てくるのを待った。
やがて父さんだけが出てきて、僕を見た。何か言いかけたけれど、母が後ろにいたせいか、そのまま玄関へ向かった。
戸が閉まると、家の中が静かになった。
母はしばらく動かなかった。僕も動けずにいた。
やがて母は、僕の前にしゃがんだ。泣いていた。僕を見てはいない。きっと、瞳に映る自分を見ていたのだ。
「おまえのせいよ」
母に頭を掴まれた。顔が横を向く。母は立ち上がり、僕を引きずったまま机から鋏を取った。
まさか────と思った時には、耳のそばで鋏が鳴り、髪が肩を滑って床へ落ちた。
「痛っ……おかあさ……」
母は手を緩めなかった。髪を掴んでは引き寄せ、鋏を入れる。長さも、向きも、見ていない。僕はじっとしていた。動けば耳を切られると思った。
こんな夜は繰り返されなかった。
翌朝、母は起きてこないので、僕は切り刻まれた髪と、いくつもの小さなハゲと血豆を頭に作ったまま学校に行った。
教室へ入ると、話し声が止まった。
いつも僕のことを笑う子も、この日は口を開かなかった。目が合うとすぐに逸らす。担任の先生は僕の髪を見て、それから出席簿に視線を落とした。
────アイトだけは違った。
「来い」
手を掴まれる。
「もうすぐ授業だよ」
「いいんだよ、そんなもん」
アイトは僕を連れて教室を出た。廊下の向こうで先生が僕らの名前を呼んだ。アイトは足を止めず、僕も振り返らなかった。
学校の裏から坂を上がったところに、朽ちかけた神社があった。鳥居の色は剥げ、石段の隙間から草が伸びている。
アイトは社の陰に僕を座らせた。
「……誰にやられた?」
「お母さん」
それだけで伝わったのだろう。アイトはしばらく黙っていた。
僕はポケットからかんざしを出し、手のひらに乗せた。アイトはそれを見てから、自分のかんざしを抜いた。ほどけた髪が肩へ落ちる。
「ちょっと待ってろ」
学校へ戻ったアイトは、工作で使う小さな鋏を持ってきた。
「いいか、切るぞ」
「……うん」
アイトは僕の後ろに回り、長く残った髪を指で分けた。鋏が鳴るたび、首筋に短い毛が落ちる。
上手ではなかった。揃えようとして切ったところが、また少し斜めになる。アイトは何度も場所を変えて確かめ、慎重に鋏を動かした。
「今日から僕は男の子だね」
「そーだな。いまイケメンにしてやってるとこだよ」
「アイトは将来……見た目美少女のおじさんになりそうだね」
「はぁぁぁ? なんっだそれ、おまえ」
僕は少し笑った。アイトも釣られて笑う。
でも、後ろで鋏の音がピタリと止まったのだ。
振り向くと、アイトが唇を噛んでいた。目から落ちたものが、僕の肩に触れる。
「……アイト? 泣いて……いるの?」
アイトは袖で目をこすり、また鋏を持った。
「なんで、アイトが泣いてるの?」
アイトはちいさくしゃっくりを繰り返し、ようやっと返事をした。
「おまえの代わりに……泣いてんだよ……バカタレ」
アイトは僕のために泣いていた。
はじめてだ。彼だけだ。僕のために泣いてくれた人は────



