汽車に揺られながら、僕はアイトの裸を眺めていた。
正確には、スマホに残した背中の写真だ。
画面の中でアイトは僕に背を向け、その白い肌いっぱいに“九つの色”を宿した「モナリザ観音」を背負っている。
骸梅。
写船。
葬花。
逆藤。
濡烏。
雁文。
泣蛍。
藍月。
空椿。
そして、紅。
────守矢十色。
アイトのお祖父さんは、60年前に自身が作った守矢十色の色見本を遺していた。
それを、アイトの母親が盗み出そうとした。だからアイトはやむなく、お祖父さんの残した観音の原版を自らのカラダに刺青として刻んだのだ。
とはいえ、刺青を入れた当初の理由は、十色を守るためではない。僕とアイトの秘密だ……だが結果的に、副産物としてこの世に残る最後の色見本となっている。
壁画の中央観音こそ守矢十色のオリジナルだが、そもそもあれは再現不可能だ。今回勝負に使用される“落書き”の左右二尊の観音も、完璧に再現できないがゆえに「永遠の保存」ができず、次のスノードーム発生時には劣化して消えてしまうのだ。
「僕の目が頼り……って言われてもなぁ」
アイトは当初、耽二郎先生に協力を求めるつもりだった。というより、アイトがスノードームに残ったのはそもそも、耽二郎先生から「爺さんの遺した色見本を持ってこい」と頼まれたからに他ならない。
なのに……この現状である。
先生にはそっぽを向かれ、アイトは僕の「目」を頼るしかないという……しんどいな。
アルカ社の挑戦を自信満々で受けたのも、自身の刺青と先生の天稟という両天秤が綺麗にバランスが取れているという、ある種の自惚れによるものだった。無論、アイトを責めることなどできないが。
兎にも角にも、人体実験のような日々を繰り返していては先はない。事実、アイトは倒れてしまったのだから。
「じゃあ、教えてくれよ。どうするのが正解なのか」
ポケットに突っ込んだ手紙。もうクシャクシャになっている。
久世さんに贈るはずだった手紙は出すこともできず。アイトの破れた靴下を替えてやることもできず。
失敗まみれだ。なにをどうやってもうまくいかない。
ほんとうに。
*
アイトが入院してから、僕は工房に寝泊まりしている。
だから僕とアイト、双方の着替えを取りに宿に一旦戻るのだが。そのついでに……なんて考えていたから天も味方しなかったのだろう。
「あの、すみません。これも、これもお願いします!」
無駄な足掻きだった。目の前を赤いミニバンが走り去ってゆく。
僕の手には、久世さんへの手紙が握りしめられていた────ドローン郵便の受付時間を逃したのだ。
また明日、また明日……いつかナズナに言った「明日にでも手紙を出すよ」と言った明日が、いつの間にか一週間になっていた。
その間にも、久世さんからの手紙は届き続けていたというのに。僕は何かと理由をつけて返事を書くことを怠っていた。アイトを手伝わないと、アイトが徹夜するから、アイトが倒れたから……。
あ、そうだ。と思い出し、昨夜書いた手紙を乱暴に広げ、中身に目を通した。
「……こんなの、送れるわけもなかったな」
────アイトのことばかりだった。
彼との日々のことばかり記してある。
こんなこと考えるまでもなく、彼女が読めば不快に思うだろうことくらいわかるだろうに。
「久世さんも……誰かが側にいたり……とか」
僕以外の誰かが。久世さんをちゃんと慈しんでくれる誰かが。
もしそうだとして。僕の知るところとなったなら、僕は嫉妬するだろうか。
あの時みたいに────カシマさんが、アイトの頭を撫でた時みたいに。アイトが、カシマさんの顔を見上げていた。あんな顔で、僕以外の誰かを、アイトが────!
気づけば、手紙を握りつぶしていた。
罪悪感に駆られる。僕を苛立たせたのは、久世さんでなくアイトへの”それ“だったからだ。
「最低だ……」
ほんとうに。
泣きっ面に蜂とはよく言ったものだ。といっても、僕に泣く権利など無いだろうけど。
兎にも角にも、僕はこの後も失敗を重ねた。
アイトの着替えを取りに旅館に行く。そして、アイトの部屋で替えの服を見繕い、バッグに詰めていたところ、靴下が全て穴が空いていることに気づいた。
不思議と全て中指の部分で。中指だけ長い足の構造なのか、中指だけ爪を伸ばしているのか不明だが。彼は常日頃、こんなお茶目な足下で生活しているのかと思うと、なんだか愛らしくて小さく笑っていた。
ほんとうに。久しぶりに心が和らいだ気がする。
でもやっぱり可哀想だから、新しい靴下を買っていってあげよう。そう思い立ち、僕は近場の衣料品店で靴下を3足買った。ひとつは可愛い絵柄のついたやつで、アイトが見たら「ヨカタかよ」と怒られそうな気がしたが、むしろそうであってほしいとすら思った。
────ここまではよかった。
結論として、いま僕の手元にはない。駅のホームに、置き忘れてしまったからだ。
さっさとバッグに仕舞えばよかったものの、これを渡したらアイトは喜んでくれるかな。なんてニヤけながらいつまでも靴下をいじっていたのが災いした。
ほんとうに。
何をやっているのか。
手紙を出すことすら、靴下ひとつ届けることすら、そんな幼子でもしくじらないようなことすらできない。
カシマさんと自分を見比べて、大人と子供だ。なんて劣等感を抱いていた自分がバカみたいだ。
ほんとうに。
*
「ほんとうに。笑っちゃうよな」
シワだらけの手紙を、そっと鞄に仕舞った。これも先ほど置き去りにした靴下と同じように、どこかに失くしてしまいそうな気がしたからだ。
ふと、車窓から外を眺める。ちょうど、お尻に光ファイバーケーブルをくっつけた有線ドローン郵便がスノードームの天井に向かってぷよぷよ飛んでいた。そこに小さな穴が空いているらしい。外の世界に出られるらしい。
ダメだ。弱音を吐けばズルズルと引っ張られる。いま動けるのは僕だけなのだから。
「正解を見つけないと。正解を……ん?」
足元に、何か落ちていた。拾い上げると、それは折りたたまれた新聞紙だった。
日付は……スノードーム発生直前だ。
目に飛び込んだ記事の字面を追うと、インクリボンという文字が飛び込んできた。
「アメリカの大学……卒業式のスピーチ……チョコレート箱のようなもの……不正解のない人生……か」
そうだった。相手はインクリボンを掌握する、あのアルカ社だ。
そもそも勝てると思うこと自体が間違っているのだろうか。未だ親が隠し続けている僕のインクリボンを紐解いたなら「この勝負は不正解なので辞退しよう!」とか書かれているのだろうか。
いや……そもそも、なんで父も母も、僕のインクリボンを頑なに見せないのか。
僕の人生に傷を残すような不正解って……なんなんだろう。
彼女との初夜に、あいつを思い浮かべたことは?
あれは……不正解……なのだろうか。だって、そうでもしないと。僕はきっと“最後まで”できなかった────正直に、そう思う。
それならば、僕はあの時、どんなアイトを、思い出していたんだっけ。制服姿のあいつ? いつも同じ私服姿のあいつ? 工房の白いシャツのあいつ? 夏場の暑い日に、ちょっと胸元を開けたあいつ?
違うな……なんだか頭がボーっとする。ここのところ、夜もちゃんと眠れていないからだろうか。瞼が重たい……汽車が線路を叩くリズムが心地よい。このまま寝落ちも悪くない。
握力が弱ったように思考を手放してゆく頭に。ふと、アイトの顔が浮かんでは消えてゆく────それは泡沫の夢のようで。
笑った顔も、怒った顔も、いじけた顔も、ちょっとウザい顔も。浮いては消えてまた浮かび上がってゆく。だが────最後に弾けて「あの日」が浮かんだ。
うずくまるあいつ、畳に染みる血液と、僕の胸に突き立てられた“かんざし”。乱れた着衣のあいつが僕に言った「誰にも言わないで」と。
そうだ。そうだった。
僕があの時思い浮かべていたアイトは────
────汽笛が鳴った。
僕のカラダがビクっと反応する。その時、妙な香りが鼻先をくすぐった。
ふわり、と。
それは、骸を苗床に咲いた梅の花のような。芳しいけれど心根の冷めるような匂いだった。
「いい悪夢見れたかよ?」
うわ……なんか、今度は幻聴が聞こえた。
公園のベンチに君臨する巨大デブ猫みたいな、可愛いんだか可愛くないんだか、よくわからない揺らぎの声だ。
心身ともに、さすがに限界が来たのか?
今日のところは宿に戻って、しっかり寝て────いや?
「あ、この声……って」
合格発表で自分の受験番号でも見つけんとするかの如く、僕は顔を上げた。
感情よりも先に、眼が目一杯見開かれた。
「……でた」
ボックス席の向かい、その人は威風堂々と足を組んで座り、菩薩のような笑みをたたえていた。
金色のおかっぱ頭。
どうみても美少女なお顔に体躯。
長いコートの襟を立て、鉄道に乗って銀河の果てから帰ってきた旅人のような格好をしているのに、耳元だけはパンクなじゃらじゃらピアスまみれ。
「先生ぇ……」
十一代目・美 耽二郎。
アイトにとっては裏切り者。
僕にとっては、地獄に垂れ下がった一本の蜘蛛の糸となる人物である。



