古墳を出ると、雪が降っていた。
和田さんが車で送ると言ってくれたが、アイトは「歩く」と断った。僕も一緒に車へ乗る気にはなれず、その後をついていく。
湖畔の道は、昨夜と同じ道だった。
壊れた常夜灯の下を通り過ぎる。あの時は、アイトが歩くたびに雪を踏む音がしていた。今夜は細雪が路面を覆い、僕らの足跡すら曖昧にしてゆく。
僕はおもむろにポケットに手を突っ込んだ。柔らかな感触を覚える。ハンカチ、返し忘れてしまったな。
「……痛むか?」
前を向いたまま、アイトが言った。
「平気だよ。これくらい慣れっこだから」
「……ごめん」
アイトは振り返らなかった。でも、その背中を見れば、彼がどんな顔をしているのか痛いほどにわかる。
いつだって、そうだった。
アイトは僕が傷ついた時、いつだって僕以上に自分が傷を負ったように振る舞ってくれた。
それがわかっているのなら、いま僕がすべきなのは、始まってしまったアルカ社との戦いに臨む彼に寄り添うことではないのか。
なのに、僕の頭の中では別の言葉が、さっきから場所を譲らない。
────元カレ。
夏の終わりに、ふたりは会っていた。
恋人だったことは事実なのだ。さらに、あのひと言だ。
────これが理由だよ。
まだ、あの人はアイトを愛している……ということなのだろう。
────キミだってそうだろ?
ッ!?
違う……僕は……。
「何も聞かねえのかよ」
アイトが足を止めた。
僕も二歩ほど遅れて立ち止まる。
振り向いたアイトの前髪には、溶けかけの雪がついていた。
「いいんだぞ。言いたいこと、ぜんぶ言って」
循環する風に乗り、雪がまた、空へと舞い上がってゆく。
ふわりと浮いたアイトの髪。前髪を抑えながらも、彼は僕をじっと見据えていた────アイトは僕が何を聞きたいのか知っているのだろう。
カシマさんとは、いつから付き合っていたのか。
なぜ僕には話さなかったのか。
ほかにも、聞いたら最後、いままでと同じ顔でアイトを見られなくなりそうなことが、いくつもある。
「……十色、どうするの」
僕が選んだのは、その中のどれでもなかった。
アイトの口元が、少しだけ曲がる。
「……そっちかよ」
「大事なことでしょ。一色でも欠けたら負けなんだよ」
「ヨカタじゃねーんだ。わかってるよ」
「僕ははじめて聞いたから。守矢十色のこと」
工房で過ごしてきた時間を、頭の中で数える。
鉱物を砕いた日も、膠を煮た日も、蚕の世話をした日も。どこを探してみても、守矢十色という名前は見つからない。
「僕も手伝えるかな?」
「ふたりでやるって、言ったろ?」
「うん……そうだけど」
「設計図ならある。そいつを耽二郎に見せれば、どんなレシピかわかるはずだ。あとは俺らで顔料をつくる。いつもやってることだ。こんなことになったけど、それが当初の予定だったから」
「設計図……?設計図があるの?」
アイトは答えず、代わりに僕の手を取った。
指先が冷えている。たぶん、僕の手も同じくらい冷たい────久しぶりだ、随分と。アイトと手を繋いだのは。
「アイト、どこいくの?」
「俺の宿」
湖畔の道を、アイトが先に歩き出す。
昨夜、この先で僕は自分の宿へ帰るよう言われた。今夜はその分かれ道を越え、アイトの方へついていく。
カシマさんのことは、やはり聞けないままだった。
*
アイトが寝泊まりしていたのは、湖の近くにある小さな旅館だった。
保護者同伴でない未成年者は、自宅等ではなく旅館などの宿泊施設を利用することになっている。当初は僕と同じビジネスホテルに滞在する予定だったのだが「カビくさい」とアイトが文句を言ったため、いまの旅館へと移ったのだ(僕もそこに変更したかったが、空きが無かった)。
軒下の灯りは薄く、建物の半分は雪に埋もれて見える。玄関を抜けると、アイトは勝手知った様子で廊下を進み、二階のいちばん奥の部屋を開けた。
六畳ほどの和室。
畳まれた布団と、低い机。机には弥生土器みたいな茶碗が置かれ、その隣に工房の帳面が開いている。窓際には、いつも着ているジャージが干されていた。
「耽二郎が帰って来なけりゃ、マンションにいれたんだけど」
「一緒じゃ嫌なの?」
「あいつ、しょっちゅう男連れ込むから」
「あ、あぁ……なるほど」
お祖父さんの死後、アイトは後見人となった先生の所有するマンションに居候している。
工房には、片倉家の家屋が隣接しているが、アイトがそこで寝泊まりしたがらない理由は、僕には十分すぎるほどわかっている。
「それ、まだ血ぃ出てる?」
アイトはコートを脱ぎ、僕の頬を見た。
「もう止まったと思う」
「見せろ」
「大丈夫だよ、アイト」
アイトは手を伸ばしかけて、やめた。
さっき引っ掻いた指を、所在なさそうに握り込む。
「……ごめん。ほんとうにごめん」
二度目の謝罪は、さっきより小さかった。
俯いて、所在なさげに脱いだコートをいじくるアイト。僕はそっと彼の手からコートを取り上げ、ハンガーに吊してやった。僅かに残る雪を払いながら、燻っている温もりを確かめる。
「ところで、設計図って」
「……うん。ちょっと、明かりを暗くしてくれるか?」
アイトに言われ、僕は部屋の明かりを2段階ほど落とした。
「アイト、これくらいで……あっ!」
僕は振り向いてすぐに、さっと体勢を戻した。
────アイトが、服を脱いでいたからだ。
僕が見た時には、彼は背を向けた状態でインナーを背中の半分までたくしあげていた。
ちらり……と。背中に入っている刺青が視界に映った。
「タツキ。こっち向けよ」
僕は答えられなかった。
彼が見せようとしているものが、わかったからだ────刺青だ。
一度だけ、あの刺青を見たことがある。
”あの事件“のあと、しばらくしてから。アイト自身に「見てほしい」と言われた。
彼の絹のような白肌を埋め尽くすように彫られた、背中一面を覆う観音の刺青。
「アイト……大丈夫なの?」
「なにが?」
「……あの時のこと。アイトが思い出して……苦しむんじゃないかって」
僕は卑怯者だ。
アイトじゃない。思い出すのは、いや、思い知るのは僕の方だろう。
彼が色盲になったのも、”威嚇のため”に刺青を入れねばならなくなったのも、なにより、心に深い傷を負ったのも。全部……僕のせいじゃないか。
「タツキ」
しばらく、衣擦れは聞こえなかった。代わりに、髪の毛が肌を滑る音がした。
「大丈夫だよ。もう何年も経ってるんだ」
アイトが言った。赤子をあやすような優しい揺らぎだった。
「お前のことだから、いまも目を瞑ってるんだろ」
「うん」
「じゃあ、そのまま。ゆっくりをこっちをむけ」
目を閉じたまま、僕は頷いた。言われるがまま、カラダを向けた。
「目ぇ開けろよ、タツキ」
観音と、目が合った────なんて、美しいのだろう。
重ねた手。静かな微笑。
変わらずに美しくもどこか恐ろしい。だがなにか……なにかが脳裏で重なる。
これは……モナリザだ。
数年前にはじめて見た時は気づかなかった。あの時は美術の知識は無かったからだろう。アイトのサポートのため、耽二郎先生に弟子入りし、絵に触れるようになったからか。
構図、モチーフ、背景の配置。観音の表情まで。今の僕にはその特徴が手に取るようにわかる。
明らかに、モナリザを意識して描かれたものだ。
「アイト……これ……」
彼は、背を向けたまま言った。
「ここに守矢十色がある」



