[完結]ハッピーエンドはお呼びでない

「結構混んでるなぁ」

 水族館の最寄りの駅を出て歩いていく道すがら、八尋がそうぼやいた。久々に訪れる水族館はリニューアルオープンして日が浅いということもあって、そちらのほうへと向かって人がどんどん流れていく。
 その人混みの流れに乗りながら、どうにか入り口まで辿り着いた。隣に立つ八尋をちらちらと見上げてしまうのは、いつもとなんら変わりないのに、なんだか格好よく見えてしまうからだ。

「どこから周ろうか。見たいところとかある?」

 入館までを待つ間、八尋が館内地図を広げて見せてくれた。それをなんともなしに眺めながら、あんなに楽しみに予習していたことがまったく思い出せない。
 なにを隠そう、日向は迎えに来てもらって家を出た瞬間からガチガチに緊張していた。八尋と付き合えたことに浮足立っていたせいで、昨日ほとんど眠ることができなかったのだ。

「ひなちゃん、もしかして緊張してる?」

 ついに八尋からそう苦笑われた。ずっと朝から様子がおかしい日向に、遂に痺れを切らしたのだと思う。
なんでもないと笑おうとして、頬がぴくりと引き攣った。八尋はまったくいつも通りなのに、どうしてこんなに自分だけが緊張しているのだろう。

「そういうおまえはどうしていつも通りなんだよ」
「いつも通りって?」
「……だって、昨日から付き合ってるじゃん」

 不満げに唇を尖らせた日向に、八尋が僅かに目を見開いた。それからその事実に思い当たったように、たしかにそうだねと苦笑われる。

「はじめてのデートなのに、おれだけ緊張して馬鹿みたいじゃん」

 日向の明らかな八つ当たりに八尋の苦笑いが深くなった。

「そっか、デートか」
「そうだよ。おれたち付き合ってるんだし」

 飄々としている八尋に、何度も言い聞かせるように繰り返している自分が滑稽だった。周囲に聞かれないよう慎重に声音を落としてまで、なにをやっているのだろうと内心自分に呆れている。
 男ふたりで水族館にいても、一見デートをしているようには見えないだろう。いままで一緒に出かけていたのとなにが違うのか、と問われると、日向も上手く答えることができない。
 それでもデートはデートなのだ。
 すぐ目の前に入館ゲートが迫っていたこともあって、八尋からの答えはしばしお預けになった。チケットを読み込んでもらう間もそわそわとしていた日向は、八尋に行こうと促されて館内へと入る。
 館内に入ってしまえば、ゆったりと見て回ることができそうだった。大まかにイルカやペンギンなどのエリアと、魚のエリアがわかれているので客足が分散されているのだろう。
 八尋が日向の機嫌を取るように、大型の水槽のほうへと連れていってくれた。入ってすぐに広がる巨大水槽はリニューアル前と変わらず、たくさんの魚が悠々と泳いでいる。八尋はここが日向のいちばんのお気に入りであることをわかってくれているのだ。

「ここ、いちばんに見せてあげたかったんだ」

 すきだったでしょう? と笑みを向けられてしまうのへ、拗ねている自分が馬鹿みたいに思えてきた。悠々と広がる海の世界の前では、日向の悩みはちっぽけでくだらない。
 日向は幼いころから水族館がすきだ。だいすきな絵が上手く書けなかったときも、コンテストの入賞を逃したときも、悠々と魚たちが泳ぐ広大な海の世界を見ていると気持ちが和らぐ。幼いころもいまも、隣に八尋がいてくれることが、いちばんではあるのだけれども。

 ――そもそもおれのごり押しだもんな……。

 そうだった。付き合えたことに浮かれていて、それをつい忘れてしまうところだった。

「……ごめん、無理強いして。八尋はべつに、おれと付き合いたいわけじゃなかったのに」

 気づいたらまた、困らせるようなことを口にしてしまっていた。つい顔を俯けてしまうのは、八尋がどんな表情をしているのか、見るのが怖いからだ。

「珍しいね、ひなちゃんがそんなこと言うの」

 その言葉に弾かれように顔をあげていた。水槽を眺めていた八尋が柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
 珍しい? と首を傾げてしまう。

「ひなちゃんはいつだって、俺に最善の答えをくれるんだ。だから無理強いなんてされてないよ。俺と付き合いたいって言ってくれたの、すごくうれしかった」
「本当?」
「うん。それにさ、俺にとってひなちゃんはずっとかわいくて大切に想ってきた相手だったから、今日の昨日で急に考えが変わったりしないのかもしれない」
「ずっと……?」
「うん、ずっと」

 八尋がそう笑ってくれるのに、胸の奥がきゅっと苦しくなった。八尋は日向に嘘は吐かない。だからきっと、それは彼の本心なのだろう。

 思いの外充分過ぎる答えをもらってしまった。実感が追いついてくると、頬がにやけてしまうのを抑えきれない。

「ふふ、またかわいい顔してる」

 伸びてきた八尋の指に柔く頬を抓まれた。それにじわりと熱が滲んでいくのに、また笑みが零れてしまう。
 ふわふわとした気持ちのまま館内を見て回っているうちに、緊張感はだいぶ薄れてきた。途中小腹が空いて売店に立ち寄ったときには、すっかりいつも通りの日向に戻っていた。

「八尋、クレープ食べたい」
「いいよ。どれがいい?」
 海の生き物を模したアイスクリームが乗っているクレープはどれもかわいらしくて美味しそうだった。そのうちの一つを選ぶと、八尋が自分の分のコーヒーと一緒に注文してくれる。
 八尋に買ってもらったクレープに思わず頬を綻ばせたところを、スマフォを構えた八尋に写真を撮られた。こうして出かけているとき、八尋はいつも日向の写真を撮る。幼馴染のときは出かけた記念だと言い張っていたが、本音のところはどうだったのだろう。

「おいしい?」
「うん!」
「ひなちゃん、食べたいってずっと言ってたもんね」
「だって食べるしかないじゃん、こんなかわいくておいしそうなの」
「じゃあ、ひと口」

 例のごとくそう言う八尋に、つい笑ってしまった。案の定、どうぞ、と差し出したクレープの端を齧ったあとで、甘いねと言って顔をしかめる。
 口の端にクリームがついているのを指で拭ってやりながら、幼馴染のころとは違う心の高鳴りを感じていた。いままでなんとも思っていなかったことに、急に意識が持っていかれていた。
 これは〝間接キス〟というやつでは? 
 そう考える自分の思考回路がだいぶ気持ち悪いことを握り潰すように、日向はクレープにかぶりついた。

「次はどこ見ようか。お昼はちょっとずらしたほうがいいから、」
「あ! 八尋だ~!」

 八尋が館内マップを広げてそう言ってくれるのに、いまいちばん聞きたくない声が被った。心臓がいやな音で跳ね上がる。
 声のほうを見れば、みひろが手を振りながらこちらへと駆けてきていた。その様子に苦々しさが胸へと広がってくる。
 昨日彼の前で八尋に告白した失態が思い返された。きっと彼はふたりを邪魔するためにここへ来たに違いない。
 顔を合わせたくなくて、八尋の陰に移動した。そんな日向の様子を笑うように、みひろがなんでもない風に挨拶をしてくる。

「なんだ、柚木くんもいたんだ。なんで隠れてるの?」
 昨日の態度とは打って変るその様子に、日向は拍子抜けしてしまった。てっきり嫌味のひとつでも言われるものだと身構えていただけに、もやもやとした気持ちだけが胸に残ってしまう。
 あっけらかんと明るいみひろは日向の反応を気にすることもなく、八尋との会話に夢中になっていた。八尋の迷惑そうな反応にもへこたれず、すっかり昨日のことなど忘れたように振舞っているのだから手強い。

「はぁ~、まったく勝手に走っていくなよ」

 みひろのうしろから追いついてきた男が呆れたようにそうぼやいて、八尋に手を挙げて挨拶をした。その様子を見るに、どうやら彼も八尋の知り合いであるらしい。
 背が高くてなかなか人好きしそうな顔をしていた。へらりとした笑みは、少々軽薄そうには見えるけれども。

「きみが杵埼の幼馴染くんか。かわいい顔してるね」

 八尋の背に隠れたままのむっとしていた日向に、男がにやりとした目を向ける。突然そんなことを言われて反応に困っていたら、その顔に面白がるような笑みが広がった。
 さすがはみひろの友達、心の距離を無視して土足で踏み込んでくるタイプだ。

「栖原(さいばら)、日向にちょっかいかけるな」

 正直関わり合いになりたくなくて黙っていたら、八尋がみひろとの会話を切り上げて日向を庇ってくれた。不機嫌そうな雰囲気を隠そうともしていないのは、日向にちょっかいをかける栖原が気に入らないからだろうか。それとも、かわいいと言われたことにむっとしてくれている?
 ともあれ、栖原から守ってくれようとする背中は頼もしかった。小さいころ、日向の陰に隠れて震えていた八尋からは想像できない。
 そういうところに、胸が高鳴る。

「はは、怖い怖い。俺にだって日向くんとお近づきになる権利はあるだろ?」
「そんなものはない」

 八尋から即座に断られたというのに、栖原のへらりとした笑みは崩れなかった。
 八尋の肩越しに笑いかけられても、正直お近づきにはなりたくない。その気持ちが勝ってしまって、笑い返すことなどできそうになかった。
 元来日向は友人が多く、だれとでも仲良くなれるほうだと思っていた。けれどそれは無意識に苦手なタイプと関わるのを避けていたからであったらしい。栖原の性急な距離の詰め方に、そう自覚せざるを得なかった。
 逆に八尋は自分から距離を詰めるタイプではないから、みひろも含め、こういう性格の相手の方が友人関係になりやすいのかもしれない。

「まぁまぁ、せっかく逢えたんだし四人で回らない? 柚木くんとも仲良くなりたいし」
「悪いけど、もう帰るところだから。そっちはふたりでどうぞ」
「ええ、そうなの?」

 その申し出を却下した八尋に、みひろが残念そうに嘆いた。どうやら八尋はこのふたりと関わり合いになりたくないと見える。けれどまだ半分ほどしか回っていなかったのもあって、不本意ながら日向もみひろと同じ言葉を心の中で零してしまった。
 それでもまたいつ鉢合わせるかもしれない気まずさに気を取られているほうがしんどい。それにここは八尋の言う通り退散したほうが、折角のデートを邪魔されずに済みそうだ。

「八尋、もう行かないと」

 そう助け舟を出すと、八尋が振り向きざまに柔らかな笑みをくれた。自分たちに対する態度とはまったく異なることに気づいたのだろう、みひろがちょっと羨ましそうにむっとした。
 本来なら、日向の位置にいるのは彼だっただけに、罪悪感が募らないと言えば嘘になる。それでもやはり、日向に対する八尋の態度は日向だけの特別なのだ。

「じゃあ記念に写真だけ撮ろうよ」
「なんの記念なんだよ」
「日向くんとお近づきになれた記念?」

 八尋がいやそうに顔をしかめても、栖原には響いていないようだった。
 結局栖原とみひろに押し切られる形で、大水槽の前で記念写真を撮ることになった。しかもなぜか八尋と並んだ日向を、みひろと栖原が挟むという謎の並びだ。

「じゃあ俺たちは帰るから。日向、行こう」
「日向くん、またねー!」

 栖原が悪びれもせず平然と手を振ってくるのに戸惑っているうちに、八尋にぐいぐいと引っ張っていかれた。掴まれた手を握り返していいものか迷う。
 ちらりと振り向いたみひろは一見にこやかに見送ってくれているように見えたが、その腹の内でどう思っていたのかはわからない。栖原のほうは完全に八尋がいやがるとわかってやっているように思えた。子供のころのいじめっ子のように、そうやってだれかを揶揄って笑うような男なのだろう。