[完結]ハッピーエンドはお呼びでない

 水族館の約束を明日に控えた放課後、日向は補習の課題を早めに切り上げて八尋を学校まで迎えに行った。八尋と出かけるのなんて毎週のことなのに、なんだかはじめてのデートみたいで浮足立っていた。
 校門のところで八尋を待ちながら、日向はスマートフォンを眺めていた。明日の予定をおさらいしていたところで、突然名前を呼ばれて顔を上げる。立っていたのは八尋と一緒にいたあの子だった。

「柚木 日向さん?」
「そう、ですけど。えっと……?」
「ぼくは市ケ谷(いちがや) みひろ。ねぇ、どういうつもりで八尋にまとわりついているの?」
「え?」

 どういうつもりって? 言われている言葉の意味がわからなくて、まじまじとその顔を見返してしまう。ちょっと不愉快そうな表情を浮かべている顔は、ちょっときつそうに見えるが、目鼻立ちがくっきりとしていて男にしてはかわいいと言われるほうだろう。背丈は日向と同じくらい。たしかに八尋はこの子のことを〝普通に友達〟と言っていた。
 八尋の言葉を信じれば、の話だが。
 紛れもない敵意にチクチクと肌を刺されているような心地になってくる。やっぱり、この子は八尋のことがすきなのだ。
ぞわりと心臓が粟立つような、嫌な予感を覚えた。明日は八尋とデートだと浮足立っていた気持ちが萎んでいく。
 早く逢いたいからといって、迎えになんて来なければよかった。驚く顔が見たくて連絡を入れなかったのが悔やまれる。

「明日、水族館行くんでしょう? それ、ぼくに譲ってくれない?」
「……どうして?」
「だって八尋と付き合っているのはぼくだもの。恋人を差し置いて、ただの幼馴染が一緒に行くのはおかしいでしょ?」

 〝ただの〟というところを随分と強調した言い方に、すぐさま嘘だと思った。思いたかった、というほうが正しいかもしれない。
それに本当に恋人同士なら、八尋が日向に隠しておくはずがない。けれどそうだろうか? 八尋は日向の気持ちを慮って、友達の話さえしないような男だ。日向が不機嫌になるとわかっていて、隠してくれていた可能性は?
 返す言葉に詰まる日向に、みひろが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。ああ、いけ好かないなと思いながらも、だんだんと妬ましさが心のうちに滲んでくる。
 腹の底が気持ち悪かった。地の底に突き落とされたような絶望と、八尋の隣に恋人として並べる羨ましさに心が押し潰されそうになっていた。それでもどうにか平然を装えたのは、遠くからこちらへ歩いてくる八尋の姿が見えたからだ。
 八尋の反応を見れば、この男の言うことが正しいかどうかわかる。みひろがどういうつもりで嘘を吐いているのかわからなかったが、差し詰め八尋に相手にされない当てつけだろう。
 いままでだって、何度かそういう目には遭ってきた。相手は女の子だったから、もっと辛辣なことを言われたことだってある。それでも日向は、いまほど焦りはしなかった。八尋のいちばんは自分だという自負があったからだ。
 けれど、八尋との距離が近づくにつれ心がざわめき出した。みひろの言い分は嘘だと思っているのに、真実を知りたくない気持ちが勝っていく。もし本当にふたりが付き合っていたら? 八尋に日向以上のだれかができてしまう。いつか訪れる当たり前のことが、目の前に迫ってくるのが怖い。
 日向に気づいた八尋がちょっと驚いたような顔をして、柔らかな笑みと共に軽く手を振ってくれた。それに手を挙げて応えようとした日向を遮るように、みひろが彼の名を呼んで駆け寄っていってしまう。
 いま、八尋はたしかに日向に手を振ってくれたはずだ。けれど本当にそうだっただろうか? 腕にしがみつくみひろをすこし鬱陶しそうにあしらっている八尋の様子が、他愛なくじゃれているように見えてきた。この前と比べて、随分と距離が縮まっている気がする。それはもう、付き合っていると言われたら納得しそうな距離ではないか?

「おい、日向の前ではやめろって」
「別にいいじゃん」
「よくない!」

 そんなことを言い合いながらこちらへ来るふたりの姿に、日向は明らかな焦燥を覚えていた。八尋はみひろに対して、日向にはけして見せない一面を見せていた。日向はいままで、八尋に適当にあしらわれたことなど一度もないし、日向の前では友達に対してもそういう素振りを見せたこともない。そういう扱いをされないほうがいいに決まっている。けれど日向の知らない顔をみひろが知っているのは気に喰わなかった。
 それくらい、八尋は気安くみひろと付き合えているということだからだ。

「……付き合ってるって、本当だったんだ」
「え?」

 日向の言葉に八尋が戸惑いを見せた。みひろが勝ち誇ったような笑みを向けてくるのに、日向の心は醜い嫉妬心で膿んでいく。鼓動が軋んで、胸の奥が締めつけられた。いま、八尋になにを言われても受け入れてやることはできそうにない。
 ましてやそれが、恋人ができたんだという報告なら、猶のこと。

「ひなちゃん、なに言って……?」
「そうなら、ちゃんと教えてくれたらいいのに。うっかりふたりの時間を邪魔するところだっただろー?」

 思っていたよりもすんなりと、しっかりとした声音が出た。心にない言葉がすらすらと口を出ていくのに、違うんだよと心の中で否定する。――違うんだよ、八尋。こんなことを言いたいわけじゃない。
 けれどそんなことは口にはできなかった。八尋ならわかってくれると、思ってしまってはいけないのだ。震える心を叱咤して、こっそりと深く息を吸った。大丈夫、大丈夫、と心の中で繰り返した。
 ここで八尋を困らせるわけにはいかない。

「恋人ができたら、そっちを優先してやらないとな」
「ひなちゃん、さっきからなに言ってるの? 俺はべつにだれとも」
「ひどいなぁ、八尋! この前ぼくが告白したこと忘れちゃったの? 考えるって言ってくれたじゃん」
「ややこしくなるからちょっと黙ってろって。俺はいま日向と、」
「八尋、おれもさっき告白された」
「え?」

 八尋の表情が固まった。とんでもない口からの出まかせが、八尋の心を傷つけていくのを感じる。それでも、一度口をついた嘘は最後までつきとおさなければいけない。

「へぇ~、だれから?」

 みひろが面白がってそう問いかけてきた。八尋が鬱陶しそうにしていても、その腕から離れる気はないらしい。それにいくら腹立たしさを覚えても、この現実を受け入れなければいけない。
 下校中の生徒たちが、ちらちらと三人に視線を寄越しながら通り過ぎていった。なかにはみひろに手を振る生徒もいたから、ふたりの関係はある程度周知のものであるのかもしれない。みひろがこうして八尋と戯れているのは、この学校の生徒からすれば見慣れた光景なのだろう。

「同じ補習を受けてる後輩の女の子。それで付き合おうかなって」
「ひなちゃんかわいい顔してるし、女の子に人気あるんだろうねぇ」
「おい、馴れ馴れしく呼ぶなよ」

 みひろの態度を牽制してくれる八尋に対し、みひろは悪びれもせずにちょっと舌を出しておどけた。それに重苦しい溜息を吐く八尋を見ながら、どんどんと目が曇っていった。
 もうあとには引けなかった。うっかりみひろの策略に乗せられたのだとわかってしまっても。

「柚木くんにも彼女ができたみたいだし、これからはお互い恋人を優先するってことでどう? いいよね?」
「……いいよ」
「日向、あとでちゃんと説明するからっ、」
「さっき市ケ谷さんから聞いた。明日の水族館も、ふたりで行ってきたらいいよ」

 違う、そんなことは思っていない。
そう叫び出したい気分だった。日向はみひろに言わされているとわかっていながら、あとには引けなくなっていた。今更なにを言ったところで、口に出してしまったことへの取り返しはつかない。
 八尋は食い下がってくれようとしていたが、結局この場でなにを言っても無駄だと悟ったのか、悔しそうに口を噤んだ。傷ついていると物語る表情を受け止めながら、傷ついているのはこちらのほうだと言ってやりたくなる。
ここでもし本当の気持ちを曝け出したら、いったいどうなっていたのだろう。本当は八尋のことがすきなのだと、もし打ち明けられていたら。みひろに太刀打ちができただろうか、と考えて、その思考に心の中で首を振る。
 八尋が哀しそうなのは、きっと日向に突き放されたからだ。そうでなかったら困る。まるで日向のことがすきだから、恋人ができて哀しいと言われていると錯覚してしまう。
そんなのはだめだ。

「じゃあ、今日は先に帰るね」

 どうにか笑顔を拵えて、またね~と手を振るみひろに手を振り返した。八尋のなにか言いたげな視線を振り切るのには苦労したけれど、どうにか背を向けて駅の方へと急いだ。
 次第に駆け足になるにつれ、どうしてあんなこと言ってしまったのだろう! という後悔の念に苛まれた。改札を抜けてホームに滑り込んできた電車に乗ると、ようやくふたりから離れていくことに安堵を覚えて、ドアに背を預ける。
 けれどすぐに、傍にいる八尋がいない寂しさが、俄かな恐怖に塗りつぶされていった。みひろの言っていたことが本当でも嘘でも、日向は自分から八尋のことを突き放してしまった。自宅の最寄りに着くまでの間、日向はその事実に打ちのめされ続けた。
 最寄駅を出てとぼとぼと歩く。ついさっきまで八尋とのデートに浮足立っていたというのに、いったいどうしてこうなってしまったのだろう。普段は八尋とおしゃべりしながら歩いている帰路は、ひとりだと随分と長く感じた。
 ふいにポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出すと八尋からで、『あとで説明させてほしい』というメッセージが入っていた。八尋の話を聞かなければいけないとわかっているのに、聞きたくない気持ちがどうしても勝ってしまう。
 みひろの言葉より、八尋の言葉のほうが日向にとっては重要だ。けれどその口からもし、付き合っているという言葉が零れたら? そう考えると憂鬱で、思わず溜息とともに足下の小石を蹴飛ばした。

 ――あれ?

 ふと気づくと、知らない場所に立っていた。ぼんやりと歩いていたから道を間違えたのかもしれない。しかも最寄駅から自宅までは徒歩十分もかからないはずなのに、随分と長く歩いているような気がした。
 それになんだか薄暗いな、と辺りを見回していると、なんの変哲もない住宅街の中にぽつんと鳥居が現れた。浮かび上がった、といったほうが正しいかもしれない。
 ぎょっとしながらも、ついおっかなびっくり近づいてしまう。鳥居の先には小さな祠があって、鳥居と同じく朱色に塗られていた。石の台座の上にだれかが置いた賽銭が乗っている。
 傍から見れば怪しさ満点だった。すぐに逃げたほうがいいと頭ではわかっているのに、気づいたらポケットから財布を取り出して五円玉をだれかの賽銭の上に重ねていた。
 もしかしたら、ここで祠に出逢ったのはなにかの縁かもしれない。

 ――どうか八尋がおれに振り向いてくれますように……!

 気づいたらそう死に物狂いで願っていた。せめてあんな虚勢を張ってしまった自分を取り消したかった。そんなことできるはずもないのに、と自嘲しそうになったとき、日向はみひろの声を聞いた。

「ねぇ、どういうつもりで八尋にまとわりついているの?」