[完結]ハッピーエンドはお呼びでない

「日向くんに逢いたくてきちゃった。べつにいいだろ? まだおまえのもんでもないんだし」

 にやにやと笑った栖原はしかし、八尋の頬の赤みに気づくとさっと笑みを引っ込めた。
 日向も頬の腫れに気づいてぎょっとする。

「みひろにやられたのか?」
「まあな」

 栖原の気の毒そうな視線に、八尋がぶっきらぼうに答えた。そうかと笑われるのへ、八尋の不機嫌が濃くなっていく。

「みひろもこれで気が済んだだろう。俺も気が済んだし帰るよ。じゃあね、日向くん。また」
「え? うん、また……?」

 日向が曖昧な返事を返すのへ、栖原はひらひらと手を振って改札を抜けていった。
 呆気にとられた八尋が、いったいなにをしに来たんだ? とぼやく。

「さあ、おれもよくわからない。でも、ちゃんと断れてよかったかも」
「うん?」
「栖原くんとは付き合えないって、ちゃんと断った。もうちょっかい出されないと思うから」
「……じゃあ、これで俺と付き合えるね?」

 そんなことを言われるとは夢にも思わなくて、返す言葉に詰まった。目線を合わせるようにちょっと屈んだ八尋から向けられる、柔らかな視線に焦れる。

「……付き合うつもりだったの?」

 そう返す自分の声音がふわふわと覚束ない気がして恥ずかしかった。ときめく鼓動が煩くて、赤くなった頬が熱い。
 くすぐったそうに笑う八尋の顔が眩しかった。
 とりあえず帰ろうかと促されて駅を出た。いつもの帰路を並んで辿りながら、そわそわとした気持ちを抑えることができない。
 今日、八尋の家にはだれもいない。『証明する』と言ってくれた言葉の意味を考えると、日向の気持ちに応えようとしてくれているのではないかと、いやでも期待してしまう。
 日向の知る八尋の態度とは明らかに違う。けれどいざそのときになって、無理だと言われたらどうしよう。
 その考えが顔を出すと、どうしても足が重たくなった。半分ほど来たところでついに歩みが止まってしまう。

「ひなちゃん?」
「あのさ、八尋は後悔しない?」
「え?」
「幼馴染のままのほうがよかったって、思ったりしない?」

 緊張で逸る鼓動が煩かった。八尋の顔が見れなくてぎゅっと眼を瞑る。
 八尋が近づいてくる気配がした。日向、と呼ばれて顔を上げると、八尋が柔らかな笑みを浮かべていた。伸びてきた手に手を取られて、安心させるように握られる。
 ひんやりとした手にじんわりとしたぬくもりが生まれた。そのまま歩こうと手を引かれる。

「後悔したりしないよ。もう日向を傷つけたりしない」
「でも、」
「俺、日向にきらわれるのが怖かったんだよ。痛い思いもさせたくなかった。でも、栖原に日向と付き合うって言われたとき、すごくいやだなって思って」
「うん」
「日向が俺以外のだれかに抱かれるかもしれない。そう考えたら、もうだめだった。日向のこと、ちゃんとこういう意味ですきだったんだってようやく気づけたんだ」

 遅くなってごめんね、と八尋が困ったように眉を下げた。それを否定するように首を振りながら、頬を安堵の笑みに弛ませる。

「よかった……また拒絶されたらどうしようって思ってたから」
「もうしないよ。あのときは本当にごめん。日向を傷つけたこと、ずっと後悔してた」

 そっか、と同意しそうになった日向の笑みが強張る。八尋との会話に若干の祖語を感じたためだ。

「ちょっと待って、八尋。あのときって……?」

 せっかく歩み出した足がまた止まる。八尋が訳知り顔でこちらを見てくるのに確信が強まった。
 もしかして、八尋もあの鳥居をくぐったのか?

「八尋、全部知ってて……?」
「黙っててごめん。あの夜、日向のあとをつけたんだ。そしたら突然現れた鳥居に入っていっただろ? 慌ててあとを追いかけた。日向のところに行かせてくださいって。そしたら、日向から告白された日に戻ってた」
「じゃあ、おれの気持ち最初から知ってて……」
「最初は半信半疑だった。日向からは告白されないし、市ケ谷と俺をくっつけようとしてくるし。でも途中で気づいたんだ。日向は俺と〝幼馴染〟でいようと努力してくれてるんだって」

 心のわだかまりを吐き出せて清々したように、八尋が安堵の息を吐く。八尋はすっきりしても、日向はじわじわとした羞恥に苛まれ始めていた。自分のことがすきなくせに他人とくっつけようと奮闘する日向の行動は、八尋には随分と滑稽に映ったことだろう。

「だからずっと不機嫌そうな顔してたの?」
「そりゃあ、すきな子がべつの男と仲良くしてたらね」
「そ、そっか」
「だから安心して。俺はちゃんと日向のことがすきだよ。ずっと、だいすきだった」

 ずっと欲しかった言葉が、じんわりと心へ染み込んできた。思わず泣きそうになってしまうのへ、八尋が泣かないでよと笑う。

「早く帰ろう。ここじゃキスもできない」

 そうお道化る八尋に涙も引っ込んでしまった。差し出された手を取ると、八尋に手を引かれるままに走り出す。
 閑静な住宅街を走り抜けながら、歓喜に叫び出したい気分だった。それでも笑い合うことに止めて、あっという間に八尋の家の前へ辿りつく。

「あら、走ってきたの?」

 逸る気持ちを抑えて関に入ると、八尋母が驚いた風にふたりを見た。肩で息をする二人に呆れが混じった笑みを浮かべている。

「出かけるんじゃなかったの?」

 八尋がそうむっとするのへ、いま出かけるところだとうしろの荷物を示した。八尋父はすでに車で待っているのだという。

「ひなちゃん、ゆっくりして行ってね。ご飯冷蔵庫にいっぱい作ってあるから」

 にこやかにそう言われて、ぎこちない笑みを返した。早く八尋といちゃつきたくて走ってきた事実がうしろめたい。

「はい、ありがとうございます。お邪魔します」
「ゆっくりお話しできなくて残念だわ。また遊びにきてね!」
「早く行けよ。父さん待たせてるんだろ」
「なによ、早くひなちゃんとふたりきりになりたいからって、あんたはいつもそうよねえ」

 はあと溜息を吐いた八尋母が、いってきますと玄関を出ていった。ばたんと閉まるドアの音で、拍子抜けした緊張がまた迫り上がってくる気がする。

「お、おばさん元気そうでよかった」
「このまえ、挨拶できなくて残念がってたもんね」

 八尋も我に返ったのか、少々気まずそうにそう笑ってくれた。どうぞ、と促されて、勝手知ったる八尋の家へとお邪魔する。
 八尋に手を引かれて二階にある彼の部屋へと上がった。緊張する鼓動が掌から伝わってしまいそうで、密かに伝わるなと願う。
 八尋の部屋には日向のぶんの布団が畳まれたまま準備されていた。一度目の回帰のとき、日向はこの布団の上で緊張しながら八尋が来るのを待っていたのだと懐かしく思う。

「なんか、緊張するね」

 気を紛らわせるようにどうにかそう笑った。鞄を下ろして制服のジャケットを脱いだ刹那、八尋にうしろから抱き寄せられてびくりと肩が跳ねる。
 跳ね上がった鼓動が苦しかった。背中から伝わる彼の心臓も、同じように高鳴っていることがわかる。
 それが、たまらなくうれしい。

「八尋、まだ昼間だよ?」
「うん」
「……本当におれとしたいと思ってる?」
「日向はしたくない? おれとこういうこと」

 耳元で甘い声音を囁かれて、つい身をすくませてしまった。その唇に耳朶を食まれて、首筋を食まれるのがくすぐったい。
 八尋の手がワイシャツをズボンから引き抜いて、その下へと忍んできた。薄い腹を指で撫でられるのへ身を捩ると、向かい合わせにさせられてそっと唇を食まれる。
 柔らかに唇を食まれるたび、幸福に胸が熟んで、もっと深いところまで触れてほしくてたまらなくなった。八尋にすべてを明け渡して、身体の奥まで触れてほしい。
 そう願っているのが日向だけではないことがたまらなくうれしい。
 八尋に身体を持ち上げられてベッドへともつれこんだ。くすぐりあうように唇を啄み合いながら、お互いの服を脱がせる。
 八尋の慈しむような甘い視線が肌に落ちるたび、ちりりと焦げるような心地がする。
 日向は触れられるいとおしさに身体を捩って、笑い出しそうな幸福に酔いしれた。