[完結]ハッピーエンドはお呼びでない

 そわそわとして落ち着かなかったので、通学鞄からクロッキー帖を取り出した。布団の上に胡坐をかいて、まっさらなページに鉛筆を走らせていく。ぐるぐると頭のなかがうるさいとき、こうして絵を描いていると無心になることができた。くだらない悩みも緊張も鉛筆の先から紙へと染み出して、消えていくような気がするのだ。

「俺の顔?」

 そう声をかけられてはじめて、八尋が戻ってきていたことに気づいた。廊下を歩く音もドアが開く音にも気づかず、随分と集中していたらしい。
 八尋が部屋のドアを閉めてすぐ隣へと腰を下ろした。ほのかな熱が身体から立ち上るように感じるのはきっと風呂上がりだからだろう。
 風呂上がりの八尋など見慣れているはずなのに、どことなく恥ずかしくてそちらのほうを向けない。つい手癖で八尋の顔を描いてしまっていたことが気まずくて、慌ててクロッキー帖を閉じた。その様子に柔らかな笑みを零した八尋が顔を覗き込んでくる。

「見せてよ、ひなちゃん。俺のこと描いてくれてたんでしょ?」

 強請るような甘い声音に胸の奥がじんとした。クロッキー帖を胸に抱き寄せていやだと首を振る。
 これを見せたらバレてしまう。
 日向がいつから八尋のことを、どんなに恋しく想っていたのかということが。

「時間潰してただけだから。素描だから恥ずかしいし」

 鞄を手繰り寄せてクロッキー帖を中へと押し込むと、八尋が残念そうに引き下がってくれた。日向がいやだといえば、八尋は無理強いしない。それに安堵を覚えながらふと思った。

 ――もしかして、拒絶されるのが怖くて手を出してこないのでは?

 またぐるぐると動き出した日向の思考をよそに、八尋がぐっと顔を近づけてきた。その近さにびくりと肩を揺らしてしまうと、その表情がふっと笑みに弛む。

「ひなちゃん、もしかして緊張してる?」

 そう問う、甘い声音。それに思わず胸の奥が甘く疼いてしまった。いつもの威勢が鳴りを潜めてしまって、ちいさく頷くだけで精一杯になる。
 なにも意識していないふりして、距離を詰めてくるところがずるい。そう詰りたいのに、八尋の態度がいつも以上に甘いことがうれしかった。
 うれしくてときめいた鼓動が、口から飛び出しそうになる。

「そりゃあ、だって、付き合ってるんだし、」

 拗ねたような声音に八尋の笑みが深くなった。そうだね、と答えてくれるまでの間は、そう言われたことに驚いているからだとわかる。

「八尋はしてないの? 緊張。おれだけ?」
「……ひなちゃんを怖がらせたくなくて」

 ちょっと情けなさそうに頬を弛ませるのへ、気づいたら抱き着いてしまっていた。八尋が驚いたように身体を硬くして、その腕がぎこちなく日向の身体を包んでくれる。

「怖くないよ、八尋」

 抱き締められてはじめて、自分の身体がすっぽりと彼の腕に収まってしまうことを知った。日向と同じように逸る鼓動に口元がむずむずと弛んで、いとおしさにその肩へと頬を摺り寄せてしまった。
 八尋はただ、日向の気持ちを汲んでその通りに甘やかそうとしてくれているだけかもしれない。でも、それでもいい。その心の中にそうしてやろうと想う、微かな気持ちが含まれてさえいれば、それで。

「おれね、八尋はこういうことしたくないのかと思ってた」
「こういうこと?」
「こうやって抱き合ったりとか、ちゅーしたりとか、」

 慎重に言葉を選ばなければと思っていたのに、自分の鼓動がやけにうるさくてうまく取り繕えなかった。八尋が微かに笑う気配がして、柔い声音が返ってくる。

「もしかして、そのことで悩んでたの?」
「うん。キスもしていないなんて、付き合ってるって言えないって言われたから」
「……だれに言われたの?」
「この前、栖原くんに逢ったとき……」

 八尋の気配が一瞬張り詰めて、すぐにほぐれていくのを感じた。いまは栖原への怒りより、日向と向き合うほうがいいと踏んだのだ。
 すこし身体が離れて、額同士が合わさった。普段は日向よりも背が高い八尋が、器用に上目遣いで見上げてくるのがなんだかかわいい。

「ひなちゃんは俺としたいの? そういうこと」

 そう問われて、なんと答えたらいいかわからなくなった。手を出されないことを悩んでいたのに、いざ八尋からそう問われると上手い言葉が見つからない。八尋を目の前にしてはじめて、日向は気づいてしまった。

 ――おれ、八尋に抱かれたいんだ。

 そう自覚した途端、かっと頬が熱くなった。日向が心のうちに隠している下心を見透かされているようでいたたまれない。
 それでも、否定するのはもったいなかった。せっかくここまで漕ぎ着けたのだ。どうせなら一歩、恋人としての歩みを進めたい。
 そう、心が急いている。

「……八尋はしたくない? おれと、そういうこと」

 ようやく言葉を絞り出す。心臓が破裂しそうなほどにうるさかった。したくない、と言われたらどうしよう。そう考えると怖くて、八尋の顔を見ることができなかった。ぎゅっと目を瞑って、彼から返ってくる言葉の衝撃に備える。
 すぐに八尋が笑う気配がして、その唇が柔らかに日向の瞼に触れた。驚きに目を丸くすると、八尋がおかしそうな笑みを浮かべている。それで、肩の力が抜けた。気負って悩んでいたのがばかみたいだ。
 はじめてのキスの相手が八尋でうれしい。勇気を出して八尋の唇を啄むと、くすぐったそうに笑った八尋が日向の頬に触れた。頬を撫でられているだけなのに、心までくすぐったい。すこしぎこちなく距離が近づいて、今度はしっかりと唇同士が触れ合った。
 甘やかな気持ちと共に安堵が胸に広がっていった。八尋と同じ気持ちであったという、確信を得た安堵。それから温かな幸福感が胸の内側から指先まで広がって、もっとと強請るように八尋の唇を食む。
 頭の芯が痺れて、ずっと触れ合っていたかった。押し倒してしまいたい衝動と闘っているうちに、八尋から強い力で抱き締められて、そのまま布団へと押し倒されてしまう。
 ついに! と一層胸の鼓動が跳ね上がった日向をよそに、八尋はそのままじっとして動かなかった。彼の鼓動が早鐘のように鳴っているのを感じてはいたから、緊張を落ち着けているのかもしれない。
 しかしそうでないとわかったのは、彼の身体が小さく震えていたからだった。
 
 ――……八尋、震えてる。
 
 幼いころ、八尋は怖がりだった。いじめてくる男の子たちを怖がって、よく泣きながら震えていたことを覚えている。そのときの震えを日向もよく覚えていた。慰めるように抱き締めて、八尋が落ち着くまでじっとしているのが日向の役割だったから。
 
 ――おまえが怖かったんだな。
 
 そう気づいたらもう駄目だった。八尋を苦しめてまで、付き合い続ける意味がわからなくなる。

「八尋、もういいよ。無理させてごめんな」

 ふと、その言葉が口をついていた。
 八尋の腕の力が弛んで、不安げな目に見下ろされる。その瞳からぽたりと涙が頬へと落ちてくるのに胸が痛んで、苦しくてどうしようもなかった。
 その頬へと手を伸ばして、やさしく涙を拭ってやる。拭いきれない雫が顔へと降り注ぐたび、日向の胸も苦しさに喘ぐ。

「泣かないで、八尋」
「ごめん、ひなちゃんのせいじゃない。急に怖くなって」
「うん」
「日向との関係が壊れるのが怖い。すきだと言ってもらえてうれしいのに……っ、」

 八尋からごめんと繰り返されるたび、日向のほうが泣きたくなってきた。さっきまで浮ついていた自分を殴り飛ばしてやりたい。
 日向の気持ちに精一杯応えてくれようとしてくれた八尋がもう無理だと泣いている。それで答えは充分だった。
 日向は八尋の恋人になるべきではなかった。
 八尋にとっては、幼馴染という関係性がいちばんよかったのだ。
 八尋が泣き疲れて眠ってしまったあと、起こさないように部屋を出た。
 真夜中の住宅街をあの鳥居を探して死に物狂いで走り回った。八尋に勢い余って告白したあと、二度と見つけられなかったことが頭の隅を過る。
 もしかしたらあの鳥居は、一度だけしか現れないのかもしれない。それでも心から祈ればもう一度だけ出逢えるような気がしていた。
 八尋のために、もとの時間に戻してほしい。すべてなかったことにして、この苦しみから解放してやりたい。
 そのためなら、日向の恋心などどうだってよかった。ただ八尋がしあわせに笑ってくれさえすれば、泣かないでいてくれさえすればなんだって、

「った……、」

 夢中で走っていたせいか、道路の窪みに気づかなかった。足を取られて無様に転んだことで、なにをやっているのだろうと冷静になってしまう。
 身体中が痛かった。起き上がる気力が潰えてしまう。乾いた笑い声を上げたとき、ふと冷ややかな風が吹いた。
 顔を上げるとあの鳥居が、ぽっかりと口を開けていた。夜だからか、その先にあるはずの祠は見えない。昼間に出逢ったときよりも怪しさが増していた。
 一瞬だけ、八尋と付き合っていたしあわせな時間を手放すことへの後悔が過った。あそこを潜ったら、八尋に抱き締めてもらったことも、くちづけを交わしたことも、すべてなかったことになる。
 それでも日向は身体を起こして一歩そちらのほうへと歩き出す。
 そうして鳥居を潜ったとき、

「ねぇ、どういうつもりで八尋にまとわりついているの?」

 そう言うみひろの声を聞いた。