[完結]ハッピーエンドはお呼びでない

「あ、日向くん!」

 スマートフォンに落ちていた視線を上げると、栖原がひらひらと手を振りながらこちらへと向かってきていた。それにまたかと溜息を吐きたくなる気持ちを無理矢理抑え込んで、日向も控えめに手を振り返す。
 水族館で鉢合わせた日から、なぜだか栖原とよく顔を合わせるようになった。しかも見計らったように八尋がいないタイミングで、他愛ない話を二言三言交わしては去っていく。
 いったい彼がなにを考えているのかわからなかった。みひろとは運よく顔を合わさずに済んでいるというのに。

「栖原くんもいま帰り?」
「そう。補習になっちゃってさあ」
「そっか、大変だね」
「杵埼、もう来ると思うよ。さっき図書館から出てくるの見かけたから」
「うん、ありがとう」

 じゃあ、とにこやかに手を挙げて、栖原が改札を抜けていく。その背を見送りながら、つい首を傾げずにはいられない。
 こうして話してみると、初対面の印象とは打って変わって随分と話しやすかった。無理に距離を詰めてくることもない。
 しかしその印象はまた変わることになる。
 その日、日向はいつもより学校を出るのが遅くなった。八尋には内緒にしていたが、土曜日の補習を休みがちになった分の課題提出が遅れていた。今日は八尋に急なバイトが入ったので、暁斗に頼んで遅くまで残らせてもらったのだ。
 遅くまで部活に勤しんでいる運動部員たちに混じって校門出たころには、すでに日が傾きかけていた。学校から駅までは徒歩十分ほどの距離だが、遅くなった分、すこしでも急いで早い電車に乗りたい。
 栖原に呼び止められたのは、走ろうかどうしようか迷っていたときだった。

「日向くん」

 栖原は待ちくたびれたと言いたげに校門に寄りかかっていた。駅で逢うのは偶然でも、待ち伏せされるのは必然だ。
 戸惑いを隠せないままの日向の元へ、栖原が近づいてくる。

「なにしてるの?」
「杵埼が今日はバイトだって言うから、日向くんとお近づきになるチャンスだなと思ってさ」
「それで待ってたの? 学校が終わってからずっと?」

 その問いに栖原は曖昧な笑みを浮かべただけだった。とりあえず帰ろうと促されると、いやだと断る選択肢がなくなってしまう。忘れ物をしたといって逃げたかったが、流石にそれはわざとらしい。
 栖原の他愛ない話に相槌を打ちながら、唐突な居づらさに苛まれた。ある程度会話を交わす仲だとはいっても、こんなに長くふたりきりで話したことなどない。いつも通りを装ってはいても、今日の栖原はどこかとっつきにくかった。
 いったい、栖原はどうして日向にちょっかいをかけてくるのだろう?
 八尋は幼馴染である日向に興味を持っているだけだ、と言っていた。けれどなんとなく違うような気がする。
 けして悪い男ではないのだろうけれど、どうしても八尋の神経を逆なでするためにやっているようにしか思えない。

「栖原くん、おれに興味があるわけじゃないでしょ」

 だから、思い切ってそう聞いてみた。どうせ笑ってはぐらかされるに決まっている。
 そう思っていた日向は、なかなか答えが返ってこないことに焦れる羽目になった。さっきまで饒舌に話していた栖原は一転、肯定するでも否定するわけでもなく、曖昧な笑みを浮かべたまま考えるような間を取っている。
 日向は答えを急かすわけにもいかず、気まずい思いを抱えたまま駅までの道のりを思った。

「ちょっと腹減ったし、寄っていかない?」

 栖原がようやく口を開いたのは、駅前のファミレスの前だった。唐突な誘いに戸惑いながら、ここへ誘導されていたのだと気づく。
 正直早く帰りたかったが、乗りかかった舟だ。それにここで帰ってしまったら、さっきの問いの答えが気になって眠れない気がする。
 夜に近しい時間帯だというのに、ファミレスは部活帰りの学生で賑わっていた。運よく空いていた席に通されると、栖原がさっさとメニューを開いてなにを食べようかなぁと吟味を始める。
 あまりに呑気なその様子に、日向はついてきたことを後悔し始めていた。さっさと話を聞いて帰りたかったのに、彼は本当に腹が減っていたらしい。
 がっつり夕飯を食べる気満々の栖原に対し、日向はドリンクバーを頼むに止めた。夕飯を食べていくと連絡を入れていなかったので、もう母親が準備してくれているだろうと思ったからだ。

「日向くんと一緒にご飯食べたって言ったら、杵埼はどうするかなぁ?」

 料理の半分ほどを平らげたところで、唐突にそう言われた。薄く笑う顔に意地悪な揶揄の色を感じ取って、彼の印象を改める。

「八尋を怒らせるために、おれにちょっかいかけてるわけ?」
「まぁ、正直それもあるかも。杵埼はさ、みひろがはじめてすきになった男なんだよ」

 食べながらあっさりと言われた言葉には、どんな感情がこもっているのか計り知れなかった。ただ事実だけを述べているようにも、それ以上の感情が籠っているようにも思える。

「……市ケ谷くんは男の人がすきってわけじゃないんだ?」

 深入りしてはいけないとわかってはいるのに、気づいたらそう口にしていた。栖原はそうだねぇとぼやいて、またひと口料理を口に運ぶ。

「中学のころは普通に女の子と遊ぶのがすきだったよ。それが急に男がすきだなんて言い出してさ。どんな男なのかと思えば、幼馴染以外に興味はありませんって突っ撥ねるようなやつでさあ」

 ひどいでしょ? と栖原が嘆いた。当事者である日向に向かって、どういうつもりでそう言うのかわからない。
 曖昧な反応しかできない日向を、たいして気にしている風にも見えなかった。そんな栖原をよそに、日向は〝幼馴染以外に興味がない〟という言葉の意味をこっそりと噛み締めてしまう。
 日向はずっと、八尋はだれに対しても人当たりがいいのだと思い込んでいた。優しくて格好いいところがすきなのだと、女の子たちからよく聞かされてきたからだ。
 けれどふたりへの態度を見ていると、そうではなかったのだと気づかされた。八尋のあの柔和さは、心を許した人間の前でだけだ。みひろはともかく栖原への態度が乱雑に見えてしまうのは、八尋がこの男に対して警戒しているからだろう。
 次第にじわじわとした優越感が滲みだしてきた。それににやけそうになるのをどうにか怺えて、素知らぬふりでドリンクのストローを咥える。
 栖原の前で八尋への惚気を醸し出そうものなら、揶揄われるだけでは済まない気がした。
 八尋に不利になることは、この男の前でやってはいけない、と思う。

「それで、おれがどんなやつか気になったってこと?」
「まさか幼馴染が男だとは思わなかったけどね。でも、これでみひろにもチャンスがあるってことだし」
「え?」
「だってそうじゃない? 幼馴染が女の子だったら勝ち目はないけど、日向くんは男の子でしょ? すくなくとも杵埼は同性をすきになる可能性があるってこと」
「……そうだね」

 日向の反応が鈍いことになにかを悟ったのだろう、栖原が口端を笑みに吊り上げた。すこし身を寄せるようにして声を潜めてくれたのは、さすがに大勢がいる場で堂々とできる話ではないと思ったからだろうか。
 賑わうファミレス内は音に溢れていて、だれも彼もが自分たちの話に夢中になっていた。その中でも日向を追い詰める栖原の声は、はっきりと日向の耳まで真っ直ぐに届く。
 そして暗い影を日向の心に落とした。

「日向くん、きみが告白しなければあのふたりは付き合っていたんだよ」