恋の解法 〜友達以上にはならないと契約した親友(学園王子)にキスされたんだけど約束が違うな?〜

 教訓。
 ドゥラえもんを軽んじることなかれ。

「じゃ、ジャイアント、いい奴だなお前は……!」

 詠嘆したのはこれで五回目ぐらいだ。テレビアニメの方では大抵、小憎たらしい悪役に扮しているジャイアントは、映画だと何故だか決まっていい奴になる。
 のぶ太が亡き祖父を回想する映画も号泣したが、今日の天空の冒険譚も傑作であった。命を賭してのぶ太とスメ夫を守るため、敵の前に立ちはだかるその勇敢な姿に、涙腺の沸騰が止まらない。映画の中ののぶ太とスメ夫とともに、「ジャイアントー!」と腹から叫んだ。

『おめえらが生きててくれたら、オレはそれだけでいいんだぜ』

 ジャイアントが大きな背中で凛と言い放つ。熱い涙がまた一筋頬を伝う。
 オレはあのふとっちょガキ大将に骨抜きだ。もう一生ついていく。ジャイアントと結婚する。
 隣の亜希はスタッフロールも見届けぬうちに、またも夢の中へ旅立っていた。夏休みの間は、何故だかこんなふうに映画の途中で寝入ってしまうという調子続きである。長期休暇によって生活リズムが狂ったせいなのか。映画の感想を語り合いたいオレとしてはやや面白くない。

「おーい、亜希」

 微動だにしないその寝顔を一度視界に収めると、いつもしばらく目を離せなくなる。寝顔はともかく、亜希の顔自体は毎日見ているというのにだ。
 芸術や建築の世界でも使われるという「美の黄金比」を完璧に再現している。いやむしろ、この亜希の顔面を研究すれば、その黄金比を超える、新たな美しさの基準すら開発できそうだ。生まれながらにしてこのようなアドバンテージを持った神峰亜希に、福沢諭吉がもし一度でも会うことができていたら、「天は人の上に人を造らず」とは書き残さなかっただろう。
 ここで断っておきたいのだが、オレは決して、亜希に見惚れているのではない。芸術作品を鑑賞する感覚で視線をそこに留めているだけだ。

「あ、睫毛」

 右の頬骨のあたりに睫毛が一本抜け落ちていたので、取ってやろうと手を伸ばした。

「お邪魔しま──失礼しました! お取り込み中のところ!」

 二回のノックと同時に一瞬だけ玄関のドアが開き、即座に閉まった。視界の隅に映り込んだ闖入者は小木津だ。突然の出来事と物音に、オレの心臓は掛け値なしに数拍休んだ。
 ずんずんと玄関へ歩み寄り、阿吽像のごとく怒りに満ちた顔でドアを引き開ける。

「ノックと同時にドアを開けるな。ノックがなんの意味もなしていないだろうが」

 小木津は目を皿のようにして、「ごめん、お取り込み中のところ」と繰り返した。

「何も取り込んでない」オレは眉間の皺を深める。
「今、亜希にチューしようとしてたじゃん」
「してるか!」

 絶叫ともいえる声を夜の闇に迸らせた。

「へえ」無感動に相槌を打つ声が背後からした。亜希が目を覚ましたようだ。「聖那がそんなに欲求不満だったとは」
「オレなら喜んでチューしてあげるけど?」

 小木津が軽口を叩く。

「睫、毛、を、取、ろ、う、と、し、て、た、ん、だ、よ」

 ゆっくりと、一字ずつ強調した。この二人の愚者どもにも理解できるように。

「大体、小木津、お前はゲイなのか」

 オレはかねてからの疑問をぶつける。いいや、と小木津は淡然と首を振った。

「ふつうに女の子が好き」
「だったらなんなんだよ」
「聖那ちゃんは特別。ふわふわの子猫を抱きながら、いちいち股間を確認して『これはメスだから可愛いな』とか『これはオスだから駄目だな』とか考える? そういう領域なわけ。メスとかオスとか関係ない、まさに『可愛いの権化』。可愛いのアイコン。わかる?」

 わからん、とオレは顔を引き攣らせ、

「わからんが、お前とは十全な意思疎通が不可能であることはわかった」

 オレと小木津のやりとりを傍観していた亜希が、無責任にけらけらと笑っている。

「ていうか、そんなことよりさ」

 小木津が急に真面目な顔になった。

「君たち、本当に同棲してたんだ」
「違う。同棲じゃない」相手が言い終わるのを待たずに否定した。「単なる、連続のお泊まり会だ」
「あ、そう。非常に納得しました」

 一ミリも納得していない声で白々しく頷いている。


 小木津は両手に大量の花火を持参していた。夏休みの思い出にと、サプライズで花火とともに亜希の家へ馳せ参じたのだ。そのアイディアについてはこの十王聖那様が褒めてつかわした。
 近くの空き地に三人で移動する。熱帯夜の蒸した空気が首筋にまとわりついた。
 導火線に点火棒で火をつけた小木津がこちらへと駆け寄ってきたのを合図に、ドン、と小気味良い音を立てながら満天の星空に花火が咲く。おぉ、と微かな歓声をあげた三人の顔が花火に照らされる。
 花火を見上げるとき、人はいつも笑顔だ。
 たまやー、と小木津が声をあげる。オレも倣った。

「たまやー!」

 火を扱える動物は、実のところ、人間以外にもいるらしいと聞いたことがある。だけど火を芸術として昇華したのは、おそらく人類だけだろう。
 隣の亜希が呟いた。

「人類は粋なものを開発したものだ」
「まるっきり同じことを、今思った」オレは同調する。

 袋から鼠花火や線香花火を取り出し、三人で次々と火をつける。多少騒いでも近所迷惑にならないのは、田舎の長所だ。鼠花火を互いの足元に投げ合っては笑い転げ、線香花火の火玉が落ちるまでの時間を競った。
 ──時間が止まれば良いのにな。
 そう思った。この額縁にいれておきたいような空間の中に、この宝石みたいな時間の中に、永遠にいられたら良いのに。

「オレ、ちょっと自販機で飲み物買ってくるよ」

 財布の中に小銭があるかを確かめているオレに、

「オレ、コーラ」小木津が挙手している。
「オレンジ。果汁百パーセントじゃないやつ」

 亜希は果汁比率の指定までする。百パーセントのは喉がいがいがするから、と言い足している。
 あいよ、と返事をして踵を返した。
 一人で夜道を歩きながら、去年までの夏休みを思い出す。花火も、プールも海も、友達と満喫したものは一つもない。
 でも今年は違う。夏祭りも、海もプールも、川遊びにも行きたい。「夏」がこんなに、宝石箱みたいに美しい季節だったなんて知らなかった。
 以前、小木津にかけられた言葉が頭の裏側に蘇った。「Beauty is meaningless until it is shared.(共有されるまで、美にはなんの意味もない)」。
 そうだ。今年は、美しい日本の夏をみんなでシェアするんだ。

 最寄りの自販機の前まで来て、まず自分用の麦茶を買い、次にコーラを、最後にオレンジジュースのミニッツメートを買った。

「あ、これ百パーセントだ」ボタンを押した後に気がついた。きっと亜希に怒られる。

 オレの腹部に毛深い腕が回ったのは、そのときだ。
 肩を聳やかし、手に持ったドリンクを落とす。背後を振り向くまでの数秒の間に、慣れた手際でオレの口元がガムテープで塞がれた。

「ん、う……ッ!」

 痩身を軽々と引きずられ、人気のない公園の中へ入っていく。そこにはボール遊びをするための煉瓦造りの塀があり、その陰となる場所へと連れて行かれた。
 気づけば手首もテープで拘束されていた。これでは得意の柔道も、相手を言い負かしてきた舌鋒を披露するのも不可能だ。そのまま塀に体を押し付けられたら、もう身じろぎすらままならなかった。男の腕力は、今まで相手にしてきた中学生男子たちのそれとは桁違いだった。

「んー! んんー!」
「騒ぐな」酒焼けしたざらついた声が耳元で広がる。「騒いだら殺す」

 背筋に怖気が走る。全身が粟だつ。頭の中が銀色に染まる。
 毛虫のように黒々と毛を生やした指が、ティーシャツの裾から侵入してきた。オレの痩せた腹部や背中を堪能するように撫で回す。喘ぐような荒い息遣いが耳朶に触れ、吐き気を催す。
 誰か、誰か。
 ──亜希……ッ!
 ざらりと首筋に下劣な舌が這い回ったとき、喉の奥で金切り声をあげた。

「ギャアっ!」

 やにわに男が絶叫し、尻を押さえて飛び上がった。なぜお前が叫ぶ、叫びたいのはこっちだ──

「正義のヒーローさんじょー」

 抑揚のない亜希の声が聞こえた。
 亜希の手には、シューシューという音とともに明るい火花を放つ手持ち花火があった。どうやらそれで男の尻を焼いたらしい。
 オレは体の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。

「聖那ちゃん、大丈夫っ?」

 小木津はオレの身を心配しながらも、男の所持品であるガムテープを拾い上げ、まだ熱さに悶絶しているその手足にぐるぐると巻き付けた。

「柔道黒帯も形無しだな」

 呆れたような声音で、亜希がオレの口と手首に巻かれたガムテープを剥がしていく。

「か、体がなまってたんだよ」
「本当にどこも怪我してない? 大丈夫? 本当に大丈夫なの?」

 小木津は被害者のオレよりもおろおろしている。

「大丈夫、大丈夫。慣れてますから」

 尻についた草を払い、気丈に足を踏ん張って立ち上がる。手足と口元をガムテープで塞がれ、足元で芋虫のように転がっている男の体を三人でそれぞれ一発ずつ蹴った。
 亜希はポケットからミニッツメートを取り出した。オレが道端に落としてきたのを拾ったようだ。

「これ、果汁百パーセントじゃねーか。おつかいも碌にできないのかよ」

 この状況下で文句を言うか。小木津みたいにもっと心配するとかないのかよ、人でなしが……。
 嫌なら飲まんでいい、と奪い取ろうとしたが、華麗にかわされた。

***

 大量のボディソープをボディタオルに垂らす。それをよく泡立てもせずに、まず嫌な感覚が残る首筋をがしがしと洗う。かぶれてしまいそうなほど、強い力で。
 汚れが消えないような気がした。あの感覚も一生消えないのではないか。
 舌を這わせられるところまで至ったのは初めてだった。思い出すと、まだ腕が震える。
 もし亜希たちが気付いてくれていなかったら、どうなっていただろう。考えたくもない。また体が震え出してしまう前に浴室を出た。

 パジャマを着込み、タオルで髪の水分をおおかた取ってから、亜希の方へ静々と近寄っていく。すでに彼はドライヤーを構えていた。
 亜希に背中を向けて体育座りをする。強い風が頭全体を温め、亜希の長い指が絡まった髪を丁寧に解いていく。頭を撫でられているみたいだ。
 ドライヤーがあまりに温かくて、亜希の手つきがあまりに優しくて、そこで初めて視界が滲んだ。感銘の涙ならともかく、人前で弱って涙を流したことなんて、記憶にある中では初めてだ。
 いつも気丈でいることを求められてきた。でないと舐められる。付けいられる。小柄でこんな容姿で、女みたいだから。
 ──本当は、怖かったんだ。
 今日だけじゃない。中学時代だって、本音ではずっと怖ろしかった。相手を投げ飛ばした帰り道も、いつも手足は微かに震えていた。
 事態を知った母親が憂えても、なんてことないよ、って涼しい顔を貼り付けてきた。心配させたくなかったからだ。
 だけど本当は、誰かに慰めてほしかった。大変な思いをしたねって。もう大丈夫だからねって。
 体育座りの立膝に顔を埋めると、パジャマが涙を吸い込んだ。
 まだ髪は生乾きだったが、ドライヤーの音が止む。かわりに「聖那」と呼ぶ声が耳に届いた。顔を上げたくなくて、その体勢のまま「何」と応ずる。

「ミニッツメート、美味しかったよ」
「……百パーセントなのに?」

 うん、と亜希は答え、オレの頭を撫でてから、

「ありがとう」

 と言った。
 ──ありがとうを言うのは、こっちだよ。
 なんだか、この世の全ての悪事が許された気がした。
 我慢していたのに、オレはついにしゃくりあげはじめてしまった。涙がとめどなく溢れてくる。

「俺が少しでも目を離すと、聖那はすぐに危機的状況に陥る」

 後ろから聞こえてくるのは、少しだけ愉快げな色が混じった声色だった。

「……ごめん、いつも……迷惑ばっかり、かけて……」

 涙が邪魔してうまく喋れない。
 いつも亜希に面倒をかけてばかりだ。朝は起こしてもらい、パンを焼いてもらい、ネクタイと髪と、知らぬうちに靴紐まで結んでもらい、自転車を漕いでもらい、教室の移動先を教えてもらい、帰宅後は髪を乾かしてもらう。夜中オレが寝付けずにいると、亜希も必ず目を覚まして、眠れるまで話し相手になってくれる。
 オレは一体、彼に何を返せている? 友情とは、親友とは、対等であるべきなのに。

「……オレは、なんにも亜希に……してやれなくて、ごめん……」

 不器用で忘れっぽくて、迂闊で、隙だらけで、勉強以外は何もできない。
 自分がこんなに面倒な生き物だったとは。中学の同窓たちがオレと親しくなりたがらなかったのは、ある意味では正解といえたのかもしれなかった。

「聖那」

 亜希が、オレをまた呼んだ。

「こっち向いて」
「……嫌だ。泣き顔だから」

 すると亜希は前方に回り込み、壮健な両腕でオレの体を持ち上げて、正面から抱きとめてきた。驚いて涙が引っ込む。

「聖那。こっち向いて」

 しつこいので仕方なく、ちら、と亜希を見上げた。きっと白ウサギみたいに真っ赤な目だろう。
 亜希が目尻を下げ、相好を崩す。世界共通の黄金比さえ超越した美しさが、そこにある。

「これでいいんだ」

 え? と返さざるを得ない。

「俺が呼べばこっちを見たり、隣で笑ったり、怒ったり、映画で泣いたり、あくびしたり、そういうことをしてくれていればいい」

 まあ要するに、と亜希は結論する。

「俺の隣で、ご機嫌に生きててくれればそれでいい」

『おめえらが生きててくれたら、オレはそれだけでいいんだぜ』。
 ドゥラえもんの映画の台詞を思い出した。
 ごめん、ジャイアント。
 やっぱりお前とは結婚できそうにない。

 オレはジャイアントより、神峰亜希の方が好きだ。