ある日、夢を見た。
オレと亜希が、暗い一本道を歩いている。暗黒の闇の中にいるのに、どうしてか足元だけはしっかりと見える。
道幅は一メートルほどしかなく、両側は絶壁だ。足を滑らせて脇へ落ちてしまったら、決して生きては戻ってこられないだろう。オレたちはそんな危うい道を、とりわけ注意深く歩くわけでもなく、前を見て進んでいく。
二人の間には沈黙がおりている。それは気まずかったり空気が痛かったりするものではなく、二人がここまで長い道のりをともに歩んできたという自信や信頼から生まれる、絆のような沈黙だった。
それでもたまには、他愛もない談笑を交えながら、オレたちは二人でその一本道を歩いていく。たった、それだけの夢かと思った。
しかし、しばらく経った後、オレが半歩後方にいた亜希に話し掛けようと後ろを振り向くと、そこに亜希の姿がなかった。驚くことさえ許されないほど唐突に、亜希の姿は忽然と消えた。
オレは再度辺りを見回す。どこにもいない。もしかして、とオレの頭に最悪の可能性が過ぎった。
もしかして、絶壁に──!
「亜希!」
絶叫のようにその名を呼んで、地面に手を付き谷底を覗いた。黒みがかった濃厚な紫の霧が、視界を阻んでいる。オレの声さえ、その霧に吸収されてしまう気がした。
その直後、最悪の可能性は幸いにも免れていたことを知る。オレの屈んでいるこの道から、二十メートルほど離れた場所に、もう一本の道が出現していた。そこを亜希は淡々と歩いている。
いつの間にか、道が分かれてしまっていたらしい。気付かないうちに、オレたちは違う道を歩み始めていたのだ。
亜希は真っ直ぐに前を見つめたまま、迷いや躊躇いの一切灯らない、毅然とした瞳で歩を進めている。
「亜希」
オレが再び呼ぶと、こちらをちらと見遣って、亜希は微かに笑った。
なんの微笑だ、と思った。
口元は笑っているのに、双眸には悲哀の色があった。謝罪のようにも見えた。いや、もしかしたら苛立ちや困惑の目つきだったのか。
意図の汲めない微笑だった。少なくとも、そのときのオレには。
そのまま、亜希はまた正面を凛と見据えて、進んでいってしまった。もう名を呼んでも、こちらを振り向いてはくれなかった。
──同じ道を歩いていると思っていた。
今までも、これからだって、ずっとそうだと信じていた。
なんだかオレは悲しくなって、言いようのない不安に襲われて、どうにかして追いかけようと思い立つ。来た道を戻って、二手に道がわかれたその場所まで走っていって、亜希の背中を捕まえようとした。
でも叶わなかった。オレの後ろに広がる道は、もう途切れて、やはり絶壁だけがそこに厳しい面持ちで鎮座していた。
もう戻れない。亜希はどんどん先に行ってしまう。
「待って……っ」
叫ぼうとしたが、うまく声が出せなかった。
オレを置いていくのかよ。親友を置いていくのか。
ちょっと待てよ。一人だけ、どんどん先に行くなよ。なあ、亜希!
「行くなよ……」
亜希の姿は紫の霧に埋没して、もう見えなくなった。オレは為す術もなく、ただそこに屈んだまま、深い渓谷の底を呆然と眺めていた。
「……行かないで……」
オレの唇から漏れたその声は、紫の霧がやっぱり食べてしまった。
はっ、と目が覚めた。その拍子に頭をぐっと持ち上げたら、亜希としたたかに頭をぶつけた。
「いてっ!」二人の呻きが重なる。
彼の左肩に頭を載せる形で寝ていたようだ。珍しく先に眠り込んだ亜希の横で『メトロ』を見続けていたのだが、オレも同様に寝入ってしまっていたらしい。
亜希がこれ見よがしに左肩を擦っている。
「痛い。聖那の頭が重くて痺れた」
そりゃ重いよな、ごめんな、とオレは手刀を切る。
「人の十倍の脳みそが詰まってるんだ」
「人の十倍も脳があるのに、教室移動もできない」
「すみません、よく聞き取れませんでした」オレはAIの口ぶりを真似る。「もう一度おっしゃてください」
「なんで起こしてくれないんだよ」
「起こしたって、何回も」以前も似たような会話を交わした気がする。「耳に水でも入れてほしかったのか?」
勘弁してくれ、と亜希は立ち上がって大きく伸びをし、ポリプロピレンのチェストから着替えを探し始めた。昨日はお互いシャワーも浴びずに寝てしまった。
さきほど見た奇妙な夢の話をしようかと考えたが、やめた。我ながら、大して面白い話ではないと思った。
──こんなにいつも、一緒にいるのに。
どうしてあんな、変な夢を見たんだか。
「亜希」
呼びかけると、「ん?」と亜希が振り向く。良かった、と胸を撫でおろした。夢の終盤では、何度呼んでも彼の目はこちらを映さなかった。あれはぞっとしなかった。
「夏休み、里帰りする?」
「まあな」チェストから取り出した下着を手にしている。「明日から帰る予定」
「もう? 早速だな」
「姉が帰ってこいとうるさい」
亜希が絶対に逆らえないという、あのお姉さんか。早く帰省しろと指示してくるとは、きっと彼女なりに弟を可愛がっているのだろう。
「何日間くらい?」
「さあ。三日間くらいじゃないか。特に決めてはいない」
そうか、とオレは腕を組み、再度ソファに凭れた。彼の実家は横浜市だったか。亜希が帰省してしまうなら、オレが一人でこの地に留まる理由はないように思えた。床に投げ出されていたスマホを手に取り、SNSを立ち上げて母親へのメッセージを作成する。「明日、そっち帰る」。
そのとき、亜希のスマホに、一通のSNSが届いた。画面に出た通知バナーの上部に、「亜弥姉」との名前が出た。盗み見する気はなかったが、内容が視界に入ってしまった。
『明日帰ってくるんだよね? 花梨ちゃんも会いたがってるよ』。
花梨?
誰だろう。亜希の口からは聞いたことのない名前だ。暗転したスマホの画面に、眉根を寄せた自分の顔が映り込み、咄嗟に目を背ける。
いとことか、叔母さんとか、そういう親戚かな――? 勝手に人のスマホを見てしまった手前、亜希にも聞きづらかった。
オレと亜希が、暗い一本道を歩いている。暗黒の闇の中にいるのに、どうしてか足元だけはしっかりと見える。
道幅は一メートルほどしかなく、両側は絶壁だ。足を滑らせて脇へ落ちてしまったら、決して生きては戻ってこられないだろう。オレたちはそんな危うい道を、とりわけ注意深く歩くわけでもなく、前を見て進んでいく。
二人の間には沈黙がおりている。それは気まずかったり空気が痛かったりするものではなく、二人がここまで長い道のりをともに歩んできたという自信や信頼から生まれる、絆のような沈黙だった。
それでもたまには、他愛もない談笑を交えながら、オレたちは二人でその一本道を歩いていく。たった、それだけの夢かと思った。
しかし、しばらく経った後、オレが半歩後方にいた亜希に話し掛けようと後ろを振り向くと、そこに亜希の姿がなかった。驚くことさえ許されないほど唐突に、亜希の姿は忽然と消えた。
オレは再度辺りを見回す。どこにもいない。もしかして、とオレの頭に最悪の可能性が過ぎった。
もしかして、絶壁に──!
「亜希!」
絶叫のようにその名を呼んで、地面に手を付き谷底を覗いた。黒みがかった濃厚な紫の霧が、視界を阻んでいる。オレの声さえ、その霧に吸収されてしまう気がした。
その直後、最悪の可能性は幸いにも免れていたことを知る。オレの屈んでいるこの道から、二十メートルほど離れた場所に、もう一本の道が出現していた。そこを亜希は淡々と歩いている。
いつの間にか、道が分かれてしまっていたらしい。気付かないうちに、オレたちは違う道を歩み始めていたのだ。
亜希は真っ直ぐに前を見つめたまま、迷いや躊躇いの一切灯らない、毅然とした瞳で歩を進めている。
「亜希」
オレが再び呼ぶと、こちらをちらと見遣って、亜希は微かに笑った。
なんの微笑だ、と思った。
口元は笑っているのに、双眸には悲哀の色があった。謝罪のようにも見えた。いや、もしかしたら苛立ちや困惑の目つきだったのか。
意図の汲めない微笑だった。少なくとも、そのときのオレには。
そのまま、亜希はまた正面を凛と見据えて、進んでいってしまった。もう名を呼んでも、こちらを振り向いてはくれなかった。
──同じ道を歩いていると思っていた。
今までも、これからだって、ずっとそうだと信じていた。
なんだかオレは悲しくなって、言いようのない不安に襲われて、どうにかして追いかけようと思い立つ。来た道を戻って、二手に道がわかれたその場所まで走っていって、亜希の背中を捕まえようとした。
でも叶わなかった。オレの後ろに広がる道は、もう途切れて、やはり絶壁だけがそこに厳しい面持ちで鎮座していた。
もう戻れない。亜希はどんどん先に行ってしまう。
「待って……っ」
叫ぼうとしたが、うまく声が出せなかった。
オレを置いていくのかよ。親友を置いていくのか。
ちょっと待てよ。一人だけ、どんどん先に行くなよ。なあ、亜希!
「行くなよ……」
亜希の姿は紫の霧に埋没して、もう見えなくなった。オレは為す術もなく、ただそこに屈んだまま、深い渓谷の底を呆然と眺めていた。
「……行かないで……」
オレの唇から漏れたその声は、紫の霧がやっぱり食べてしまった。
はっ、と目が覚めた。その拍子に頭をぐっと持ち上げたら、亜希としたたかに頭をぶつけた。
「いてっ!」二人の呻きが重なる。
彼の左肩に頭を載せる形で寝ていたようだ。珍しく先に眠り込んだ亜希の横で『メトロ』を見続けていたのだが、オレも同様に寝入ってしまっていたらしい。
亜希がこれ見よがしに左肩を擦っている。
「痛い。聖那の頭が重くて痺れた」
そりゃ重いよな、ごめんな、とオレは手刀を切る。
「人の十倍の脳みそが詰まってるんだ」
「人の十倍も脳があるのに、教室移動もできない」
「すみません、よく聞き取れませんでした」オレはAIの口ぶりを真似る。「もう一度おっしゃてください」
「なんで起こしてくれないんだよ」
「起こしたって、何回も」以前も似たような会話を交わした気がする。「耳に水でも入れてほしかったのか?」
勘弁してくれ、と亜希は立ち上がって大きく伸びをし、ポリプロピレンのチェストから着替えを探し始めた。昨日はお互いシャワーも浴びずに寝てしまった。
さきほど見た奇妙な夢の話をしようかと考えたが、やめた。我ながら、大して面白い話ではないと思った。
──こんなにいつも、一緒にいるのに。
どうしてあんな、変な夢を見たんだか。
「亜希」
呼びかけると、「ん?」と亜希が振り向く。良かった、と胸を撫でおろした。夢の終盤では、何度呼んでも彼の目はこちらを映さなかった。あれはぞっとしなかった。
「夏休み、里帰りする?」
「まあな」チェストから取り出した下着を手にしている。「明日から帰る予定」
「もう? 早速だな」
「姉が帰ってこいとうるさい」
亜希が絶対に逆らえないという、あのお姉さんか。早く帰省しろと指示してくるとは、きっと彼女なりに弟を可愛がっているのだろう。
「何日間くらい?」
「さあ。三日間くらいじゃないか。特に決めてはいない」
そうか、とオレは腕を組み、再度ソファに凭れた。彼の実家は横浜市だったか。亜希が帰省してしまうなら、オレが一人でこの地に留まる理由はないように思えた。床に投げ出されていたスマホを手に取り、SNSを立ち上げて母親へのメッセージを作成する。「明日、そっち帰る」。
そのとき、亜希のスマホに、一通のSNSが届いた。画面に出た通知バナーの上部に、「亜弥姉」との名前が出た。盗み見する気はなかったが、内容が視界に入ってしまった。
『明日帰ってくるんだよね? 花梨ちゃんも会いたがってるよ』。
花梨?
誰だろう。亜希の口からは聞いたことのない名前だ。暗転したスマホの画面に、眉根を寄せた自分の顔が映り込み、咄嗟に目を背ける。
いとことか、叔母さんとか、そういう親戚かな――? 勝手に人のスマホを見てしまった手前、亜希にも聞きづらかった。



