恋の解法 〜友達以上にはならないと契約した親友(学園王子)にキスされたんだけど約束が違うな?〜

 深海を漂泊している──息苦しくはない。ああ、夢か。
 ダークブルー一色に包囲された中を、しゃぼん玉のような空気のボールが上へ上へと向かって泳いでいく。深い海は自分の瞳の色にも似ていた。
 水中にいるはずなのに呼吸もできるし殊更寒くもなかった。むしろ浮遊感が心地よいくらいで、手足をゆらゆらと自由に動かした。

「ん、なんだ?」

 急に、左耳の方だけがじわじわと冷たくなってくる。水が入ってきているようだ。慌てて手で耳を塞いだが効果はなく、冷んやりとした液体が外耳孔から侵入してくる。

「冷たっ!」

 飛び起きた。亜希の部屋のベッドの上にいる。
 左耳はもちろんその付近一帯は水だらけで、髪まで水滴が滴っている。用意周到なことに、オレの頭の下にはしっかりバスタオルが敷いてあり、ベッドそのものは濡れないような工夫までされていた。
 右を見ると、亜希が水の入ったコップを片手に携えて立っていた。いたずらを仕掛けている割には、大して楽しそうな表情はしていない。

「これぞ正に『寝耳に水』」
「ふ、普通に起こせよ!」

 左耳を下にして、頭部の右側面を掌で何度も叩く。奥に入り込んだ水が出てこなくて気持ち悪い。

「十回は普通に起こした」

 早く着替えろ、と制服のシャツを投げてくる。先週から半袖になったそれに黙って腕を通した。起床した時点で部屋に蒸し暑さを感じる。六月も終わりに差し掛かっていた。
「シャム猫」の日以来、オレは帰宅後にすぐ亜希の家へ遊びに訪れ、そのまま泊まっていくという流れが多くなった。そのうちにもはや自宅に寄るのが面倒になり、最近では真っ直ぐ亜希の家へ二人で帰宅してしまう。
 ふと、半袖のシャツが皺ひとつないことに気がつく。まさか。

「……アイロンかけてくれた?」

 亜希は食パンをトースターに二枚並べながら背中で答える。もちろん片方のパンはオレのだ。

「みっともないんだよ、いつも皺だらけで」

 トースターのスイッチを入れると、亜希は何も言わずにオレの髪を結い、ネクタイを結ぶ。人に対する世話の焼き方が異常である。
 こういうとき、なぜ亜希は「自分でやれ」と言わないのか。天性の不幸体質なのか、奴隷体質なのか。不思議に思い、以前尋ねたことがある。すると彼は、どこか忌々しげにこう語った。

 ──姉がいるからだろうな。

 姉? と顎を突き出したオレに言い募る。

 ──姉がいるせい。それ以上の説明は無用だ。無粋だ。これは「姉」をもつ男たちにしかわからない感覚だ。
 ──そんなに姉って怖いの?

 そういえば、「姉」と「怖」という字はどこか似ている気もした。

 ──俺は地獄の閻魔には唾を吐きかけられる自信があるが、姉には無理だ。

 その言葉に背筋が寒くなった。オレには妹がおり、なかなか彼女も曲者で兄であるオレによく歯向かってくるが、それの比ではないであろうことは推測できた。

「早くパンを食え」

 差し出してくれた皿に、完璧な焼き加減のトーストが載っている。マーガリンの上に、いちごジャムまで塗ってくれていた。オレの大好きな組み合わせだ。

「美味しそう。サンキュー!」

 亜希はどうか知らないが、オレは彼のお姉さんに感謝している。
 

 オレが起床した時点で、いつも乗る電車には間に合わないことが確定していた。次の電車に乗れなければ遅刻である。
 二人で自転車に跨り、梅雨の蒸し暑さの中で亜希が懸命にペダルを漕ぎ出す。

「あっ、雀だ」

 民家の石塀に、雀が二匹佇んでいた。物凄いスピードで疾走していくオレたちを、小首を傾げて見つめている。つぶらな黒い瞳が愛らしかった。

「雀なんて、久しぶりに見た気がする。あんなに可愛かったっけ」

 オレの呟きにも亜希は何も答えない。電車に間に合うべく必死なのだ。
 ところで、昭和の文豪である武者小路実篤は『人生論』で、幸福についてこう書いている。

「空が青いのを見て、ああいい気持だと思える人は、それだけで幸福を一つ持つてゐる。道ばたの花を見て、綺麗だなと思へる人は、また一つ幸福を持つてゐる」。

 雀を見つけた。可愛いなと思えた。今日は幸せな日になりそうだ。

***

 一時間目が終わった後の十分休憩で、隣席の亜希が声をかけてきた。

「聖那、起きろ」

 机に伏しているオレの体を揺する。以前は後ろの席だったが、今はオレの隣だ。一度席替えをした際、見事にオレたちの席が離れてしまったのだが、アキセナ党をはじめとするあらゆる党派の人間が職員室に殴り込んだらしい。「亜希様と聖那様の席を離すな」と。よってオレたちの席は隣同士と相なった。

「……何」

 オレは顔を持ち上げる。

「このあと教室移動だ。俺は職員室に出しに行くものがあるから、そこから直接向かう」

 要は、一人で教室移動をしろよ、ということだ。わかった、とまた顔を伏せる。もう一眠りしたかった。亜希が席を立つ音が聞こえた。
 二、三分そのままの体勢でいたが、さすがに次の教室に向かわなければと体を起こした。時間割を見ると、次は「総合」とある。なんのテキストを持てばいいのかわからず、スマホだけポケットに突っ込んで立ち上がる。
 行く前にトイレに寄ろうと思い、用を足してから廊下に出た。クラスメートは全員が既に次の教室へ向かったため、十組の教室はもぬけの殻だった。
 えーと、とオレはその場に立ち止まる。教室移動、と亜希は言っていた。次の授業は「総合」。理科なら理科室、外国語なら英会話室、体育ならグラウンドか体育館と予測がつくが、「総合」とは。

「……どこの教室に行くんだっけ」

 朝の会で担任の柳井が話していたのだろうが、まったく聞いていなかった。その場に棒立ちしているうちに、二時間目の開始を告げるチャイムが鳴り響いてしまった。それとほぼ同時に、ポケットのスマホが鳴る。液晶の表示を見ると「亜希」。

「……もしもし」
『馬鹿、どこにいるんだよ』
「十組の前。迷子になった」

 はあ、と電話ごしに亜希の深いため息が聞こえた。眉間を指で押さえるその様子まで目に浮かぶようだった。

『そこにいろ。迎えに行くから』

 無事に亜希によってパソコン教室に連れて来られたオレを見て、小木津は好物のいちごミルクをストローで吸いながら悪びれもなく言った。

「聖那ちゃんを見てるとさ、教科書から得られる知識って、意外と少ないんだなーって思うよ」

 いつもなら言い返すところだが、今日のところは流石に反論の余地がなかった。「総合」も「家庭科」も管轄外なんだよオレは、と舌打ちする。

***

 その後は平和に一日が過ぎたが、いつもと違う事態が起こったのは下校時刻を迎えたときだった。

「亜希、帰ろ」

 紺色の通学バッグを肩に担いで亜希に声をかけると、こう返ってきた。

「田中も一緒にいいか?」

 見ると、亜希の傍らにクラスメートが一人立っていた。人の良さそうな笑みを口元に浮かべている。細い銀縁の眼鏡をかけており、インテリジェンスな雰囲気もある。オレとはあまり馴染みがないクラスメートだが、亜希と一緒に話しているところは何度か見かけたことがあった。
 予想外の事態にちょっと驚いたが、断る理由があるはずもなかった。

「あ、うん、もちろん」

 よろしく、と田中が小さく頭を下げる。衒いのない、人好きのする雰囲気に好感を持てた。

「男前だね、田中くん」

 オレは素直に褒める。

「ええ?」両眉をジャンプさせたのは田中だ。「隣に歩く彫刻がいるのに、僕にそんなことを言ってくれるんだ」
「亜希は……もう、言われ飽きてるだろ、そんなのは。だから今更いいんだよ」

 田中は一七八センチある亜希よりも背が高い。長身二人に挟まれるのはちょっと勘弁だなあ、と薄い憂鬱が胸を過ぎった。いつかオカルト番組で見た、連行される宇宙人の写真を思い出す。
 三人で並んで歩き始め、しばらくしてから気付いたことがある。それは、亜希と田中はかなり意気投合しているらしいということだ。
 なんでも、二人とも「映画鑑賞」という共通の趣味があるようだ。オレが耳にしたこともないような映画の名前が次々と二人の口から放たれた。オレを真ん中に挟んで会話しているので、自分の頭の上を言葉が飛び交っている感覚は、あまり快いものではなかった。

「『メトロ』って映画があるんだけど」

 口火を切った田中に、「知ってる」と亜希が顎を引く。

「まじ? うわ、知ってる人初めて会った」「あれは不朽の名作だよな」「あのラストシーンの……」云々、延々と映画の話が続く。
 オレも映画を見ないわけではないが、マニアックな話ばかりが飛び出すので、全く付いていけない。『メトロ』なんて聞いたこともないぞ、と石ころを蹴飛ばしたら、自分が俯いていることに気が付いた。
 二人の勢いはそのまま電車の中でも持続した。『水の王国』やら『アンダーザライト』やら、あらゆるジャンルを網羅した映画の話が繰り広げられる。なかには知っている作品もあったけれど、話に入る気力はなかった。オレはだんまり押し黙ったまま、窓外の目まぐるしく変わる景色をぼうっと眺めていた。
 三人とも同じ「川尻駅(かわじりえき)」で下車し、改札を出たところで田中と別れた。

「田中もここで降りるんだな」

 逆方向に向かって歩いていく彼の背中を見ながら、どうやらオレに話しかけたらしい亜希は無視し、無愛想に歩を進めた。
 自転車の鍵を外した亜希が、

「聖那、荷台に乗らないのか」

 その問いかけもスルーした。亜希は自転車に跨ってオレに追いつき、顔を覗き込んでくる。

「……なんか怒ってる?」
「怒ってねえ」
「あ、そう」亜希は肩の位置を高める。「とりあえず乗れって。置いてくぞ」

 腑に落ちない気持ちだったが置いて行かれるのはもっと癪だったので、とりあえず荷台に立ち、亜希のアパートまで帰ることにした。



 玄関をあけて部屋の中に入ると、亜希は開口一番にこう言った。

「あんまり、俺だけに依存しすぎるな」

 まだ機嫌の直らないオレが疑念に満ちた顔で亜希を見遣ると、亜希は言葉を継ぐ。

「俺が熱でも出して学校を休んだら、聖那は誰と喋って誰と帰る? 今日みたいに教室移動でまた迷子になったら? 体育の後、ジャージから制服に着替えるとき、お前のネクタイは誰が結ぶんだ」

 心配なんだよ、と亜希はソファに身を預けた。

「俺だけに依存してると、困ることがあるだろ。だからもう少し広い交友関係を──」
「……なんだよそれ」

 身体の芯がカッと熱くなった。
 自意識過剰めとか、小木津とだって喋るしとか、色々な抗議があったけれど、それとは違う、もっと論旨と離れた部分でオレは怒りが湧いた。
 亜希はわかっていない。全然わかっていない。
 オレにとって亜希が、どんな存在なのかということが。
 心から、自信を持って「友達」といえる、人生で初めての存在だ。友達の第一号なんだ。それがオレにとってどんなに大切で、貴重で、稀有なものなのか、亜希はわかっていないのか。
 お揃いの赤いピアスも、「友達協定」とかいうくだらない契約も、二人でシェアする自転車もベッドも、毎日聞かされる皮肉っぽい言葉たちも、オレには全部特別なんだ。全部初めてだからだ。
 だからこの掛け替えのない「友達」を、どう守ればいいのか、どう扱えば壊れずに済むのか、手放さずにいられるのか、いつも考えている。手探りしている。わからないから、初めてだから。教科書に載っていないことだから。
 亜希の言っているのは、友達の二号や三号を早く作れってことだろ? 馬鹿言うなよ。まだ一号だって、亜希のことだって、大切にしきれてないって思うのに。

「なんで……なんでそんなこと、言うんだよ」

 大体、亜希の口ぶりは「俺の代替品を見つけておけ」みたいな言い方で、それは田中にも失礼だろうが。
 亜希は何もわかっていない。
 馬鹿たれだ。

「亜希は全然、わかってないッ!」

 悲しさや怒りを飛び越えた、粘度のある悔しさみたいなものが押し寄せて、頭がワンワンした。オレは勢いに任せて外へ出て、ドアを乱暴に閉めた。

***

 亜希のアパートを飛び出し、自宅に帰るでもなく、ぶらぶらと辺りをそぞろ歩いた。時節は夏至を過ぎたばかりだ。午後六時を迎えたというのに、公園から帰りたがらない子どものように、太陽はしぶとく頭上で粘っている。
 湿気を含んだ梅雨の風が頬に触れる。こんな生ぬるい風でも、頭を冷やすにはそれなりに役立った。
 高揚し、昂ぶった感情を落ち着かせる。子ども時代は癇癪持ちで、随分と母を困らせたと聞いている。頭に血が上るとすぐに喚き散らしてしまう性分は、この歳になっても変わっていないようだ。

「……馬鹿らし……」

 一方的に、完全に、自分が阿呆なだけだった気がしてきた。
 二人の会話にまざれないからといって一人でいじけて、オレの身を案ずる亜希の言葉に一人で怒って、何をやっているのだ。
 亜希の理屈はわかる。交友関係は広いほうがいいに決まっている。表面上しかまだ知らないとはいえ、田中だっておそらく気の良い奴だ。
 でも、

「でも……、」

 一矢を報いようと逆説の言葉を呟いてみたけれど、次の言葉は見当たらなかった。
 今朝、あそこの石塀で雀を見かけた。あのときは、今日は幸せな、良い日になると予感していた。

「……最悪だよ」

 電柱に凭れ掛かり、細く長く息を吐き出す。
 謝らなくちゃ、と思った。亜希はなんにも悪くないのだ。友達第一号を、オレの宝物みたいな存在を、こんなことで失うわけにはいかなかった。



「やっぱり戻ってくると思った」

 鍵があいたままだった無用心な扉をおずおずと押し開ける。ソファに腰掛けていた亜希がこちらに顔を向けた。
 穏やかなその表情に、胸を撫で下ろす。もし「出て行け」と追い返されていたら、きっと立ち直れなかったろう。

「……ごめん、さっきは」

 張りのない、くぐもった声を部屋の中に投げる。亜希の眉が少しだけ斜めに下がった。

「悪かったよ、俺も。あんな言い方して」
「亜希は何も間違ったこと言ってない」
「でも、聖那に嫌な思いをさせたろ」

 そこで亜希は一拍置き、

「だから、俺もごめんな」

 オレはおもむろに通学バッグから不織布製の黄色い袋を取り出す。いまや絶滅危惧種となりつつあるレンタルショップで借りてきた『メトロ』のDVDだった。

「……これ、面白いんだろ?」

 亜希は口元を綻ばせ、悠然と首肯する。

「あと、カレーも作るからさ。まだ夕飯食べてないでしょ」

 もう片方の手には、スーパーの袋を提げていた。中にはカレーの食材が入っている。

「聖那のカレー、ちょっと辛いんだよな」
「だから今日は、甘口のルーにしたよ」

 いいね、と亜希が笑みを深める。笑うと目元に寄る彼の笑い皺を知っているのは、きっとオレだけではなかろうか。
 実篤の言葉には、続きがある。
「御飯を食べて、おいしいと思へる人は、また一つ幸福を持つてゐる。さういふ風に、幸福はいくらでも自分の身のまはりにあるものだ。それに気がつくか、つかないかだけのことだ」。
 そう。オレにとっての幸福は、外の世界に探しに行くまでもない。
 いつもここに、亜希のいる場所にあるのだ。