「ネクタイを結んでくれろ」
オレは今なお、このネクタイとやらの結び方を覚えていなかった。黒を基調とした色彩のネクタイを、後ろの席に座る亜希に差し出した。
「それは命令口調なのか? 懇願口調なのか?」
「五分五分かな」
「相加相乗平均もガウス記号もわかるやつが、なぜいつまでもネクタイを結べないんだ」
入試や定期試験に出た問題を引き合いに出してくる。亜希は結構、根に持つタイプだ。
「高校までの、どの教科書にも載ってなかったんだ」教科書に載っていないことはわからない、とオレは大げさに肩の位置を高める。
「家庭科には載ってるんじゃないのか」
「家庭科は管轄外」
「なら今度、俺が『数学B』に載せるよう文科省に頼んでおく」
皮肉りながらも、器用な手先であっという間に結んでくれる。「なんか曲がってるな」などと独り言をもらしながら、微調整までしている。
オレはなんとはなしに、亜希の数学のノートを手に取り、パラパラと見た。薄い几帳面な字が羅列しているが、埋まっているのはノートの十ページ程度だけだ。とうに二冊目に入った生徒もいることを考えれば、勤勉家のノートとは口が裂けても言えない。
「怠惰なノートだ」
「聖那よりはマシ」
そのとき、裏表紙と最後のページに挟まっていたルーズリーフが一枚、ズバッと出てきた。
はらり、とかではなく、ズバッと。そのルーズリーフには両面ぎっしりとシールが貼られており、ずっしりとした重みがあったのだ。
「……なにこれ?」
「ああ、そんなとこに紛れてたのか。小木津に頼まれて持ってきたんだ」
ネクタイの角度がお気に召したらしい亜希はオレから手を放し、事も無げに言う。小木津とはクラスメートの一人である。
それらのシールは全部、プリクラだった。亜希が所持していたんだから、当然彼も写っているのかと思いきや、そこにはたったの一枚も亜希が写っているシールはなかった。女の子ばかりで、どの子も見事に粒揃いだ。
「お前、こういう可愛い子の写真を集める趣味があんの? 金輪際、オレに近寄るな」
亜希は億劫そうに頬杖をつく。「そんな訳あるか」
「冗談はさておき、これは誰?」適当に目に付いた子を指差す。
「元、彼女」
「こっちは?」
「元、彼女」
「これは?」
「元、彼女」
「この子もこの子もこの子も、ぜーんぶ、元、彼女?」
「そう」彼の瞼は眠たげに半分下りている。前の授業が体育だったためだ。
「お前はすぐに性病の検査に行け」
苦言を呈しつつ、繁々とその紙切れを眺めてしまった。ルーズリーフたった一枚とはいえ、裏表にぎっしりと貼ってあれば結構な数だ。
わかった、とオレは手を打ち鳴らした。
「わかったぞ、お前が首席を取れない理由」
「は?」
「色恋沙汰なんかに惚けているからだ」
亜希が、はいはい、と興味なさげに呟いた。
「そこっ、静かにしろ」
数学の男性教師がぴしゃりと放つ。今は授業中だ。複素数と方程式について講義がなされているが、オレはこの単元を九歳の頃にはマスターしていた。
亜希は亜希で、高校の教育課程はおおむね学び終えているらしい。オレと似た幼少期、学童期を辿ったとも言えるだろうが、血豆に自分でオロマイン軟膏を塗りつけていたオレとは違い、亜希には専属の家庭教師がいたそうだ。詳しいことは、亜希があまり話さないのでわからないが。
注意を受け私語を慎んだのはいいけれど、その途端オレたちは、体育の疲弊から泥のような眠気に襲われた。亜希もオレとまったく同じ様子だ。すでにわかりきっていることの講釈をされるのは、決して苦痛ではないが、ただただ、眠たい。
ここで断っておきたいのだけれど、オレや亜希は決して、教師に盾突いてやろうなどとは微塵も考えていない。教師は敬うべき存在だと頭ではわかっている。
ただ、眠たいのだ。ただただ、快適な睡眠を求めているだけなのだ。なんせ、成長期ですから。
示し合わせたわけでもなく、オレたちは一斉に立ち上がってユニゾンした。
「ちょっと具合が悪いので、保健室へ行ってきます」
***
保健室へ訪れると、うら若い養護教諭が眉をハの字に曲げた。
「ちょっと今、一つしかベッドが空いてないのよね……」
保健室──別名、サボり魔の巣窟。
「ソファでも大丈夫です」
オレが提案すると、ソファは書類が並べてあり使えないのだという。確かに、整然と紙切れや薬品が並列していた。納品物の確認作業のようなものを行っているのかもしれない。
「どちらか教室に戻る? それとも、二人で一つのベッドで寝る?」
養護教諭は究極の二択を提示してきた。どちらも御免こうむりたい。
オレたちは暫し睨み合ったが、渋々、空いているベッドへ二人で向かうしかなかった。声を潜めて互いに文句を投げあう。
「おい、もっとそっち行けよ、デカい図体しやがって」
「俺を落とす気か、聖那こそもっと壁に寄れるだろ」
「たく、何が悲しくて野郎と同衾しなきゃならんのだ」ホモかよ、と吐き捨てる。
「こっちの台詞だ」
お互いに、狭い、狭いと愚痴を垂れながら背中合わせで眠りにつく。
どんなに壁とベッドの淵へ寄っても、二枚の背中の距離は十五センチ程度だった。
***
古代ローマに生きたキケロの著作に、こんな一文がある。
「友情においては、次の掟を守るべし。破廉恥なる事柄を要求せず、また要求されし場合にも、これをせざること」。
古代ローマらしい露骨な表現に失笑するが、キケロのいうことが正しければ、オレには本当の「友達」なんてこれまで一人もいなかったのではないか。心の底からそう思う。
小学校はそもそもほとんど通わせてもらえなかった。父親の亡き後、中学校からはふつうに登校をしていたが、容姿も成績も周囲と一線を画していたオレに対し、周りはどこか敬遠の念を抱いていた。
前述のとおり、様々な災難にも見舞われた。そしてその都度、「友達」という存在は少しずつオレから遠ざかった。十王聖那に関わると面倒ごとに巻き込まれる、と思われていたのかもしれない。クラスメートがオレに話しかけてくるのは、天気やニュースの話のような、当たり障りのない話題ばかりだった。
オレだって生身の人間だからそれなりに辛かった。自分に災難を降りまいた奴らにはもちろん、周りと比較して過度に突出した自分の能力や容姿にも苛立った。
だけどある時、信頼できる奴ができた。名前は思い出したくもない。
仮に彼を「A」としてみるならば、オレはAを信頼していたし、Aはとてもいい奴だった。細やかな気が利き、話もうまく、よく笑わされた記憶がある。
中学時代、泊りがけの学校行事では、オレは常に一人部屋に回されていた。言わずもがな、常々オレが性的な被害に遭いかけていることを学校側も承知していたからだ。消灯時は必ず鍵を確認するように、と何度も言い聞かされ、その度にうんざりする。情けなくて不甲斐なくて、なにより人間不信に陥りそうだった。
しかし中学最後の修学旅行で、Aたっての希望で、オレはAと同室になることを許されたのだ。
そのあとは、もう、ご想像の通り。
オレの中での「友達」の条件は、たった一つ──オレの身を危険に晒さないこと。たった、たったそれだけなのに。
今までのお前はなんだったんだ。オレは襲ってきたAを投げ飛ばしたあとで、そう詰問した。その返答は、今でも耳に焼き付いて、離れない。
「お前を油断させるために決まってるだろ」。
寝驚いて、飛び起きた。久しぶりに、おぞましい記憶を引っ張り出してしまった。
男と同室で宿泊するということは、イコール、こういうこと。あまつさえ、同じベッドで眠るなんて言語道断だ。
今までは、そうだった。
そこで、隣にある黒い頭に気付く。亜希がぐうすかと眠りこけている。もちろん整った寝顔だったが、無防備さが一面に広がっているその様は、どう好意的に見積もってもアホ面といえた。
隣に眠っていたオレなど眼中の外、という様子で、まだ亜希は夢のなかを泳いでいる。
「……こんなことって、なかったな」
修学旅行などで友達同士、夜遅くまで恋愛や性について語らい、一緒に眠る。そんな普通で当然の思い出が、体験が、オレにはなかった。なかったんだ。
さも当然、とでも言いたげに、亜希はすやすやと寝息を立てている。
──こんなにもあっけなく、手に入った。
あっけなくて、ちょっと笑えた。
亜希の寝顔をのぞき込む。冗談みたいに長いまつ毛が伏せられていた。
「お前、友達一号、かも」
彼の夢の中に、その囁きは届いただろうか。
オレは今なお、このネクタイとやらの結び方を覚えていなかった。黒を基調とした色彩のネクタイを、後ろの席に座る亜希に差し出した。
「それは命令口調なのか? 懇願口調なのか?」
「五分五分かな」
「相加相乗平均もガウス記号もわかるやつが、なぜいつまでもネクタイを結べないんだ」
入試や定期試験に出た問題を引き合いに出してくる。亜希は結構、根に持つタイプだ。
「高校までの、どの教科書にも載ってなかったんだ」教科書に載っていないことはわからない、とオレは大げさに肩の位置を高める。
「家庭科には載ってるんじゃないのか」
「家庭科は管轄外」
「なら今度、俺が『数学B』に載せるよう文科省に頼んでおく」
皮肉りながらも、器用な手先であっという間に結んでくれる。「なんか曲がってるな」などと独り言をもらしながら、微調整までしている。
オレはなんとはなしに、亜希の数学のノートを手に取り、パラパラと見た。薄い几帳面な字が羅列しているが、埋まっているのはノートの十ページ程度だけだ。とうに二冊目に入った生徒もいることを考えれば、勤勉家のノートとは口が裂けても言えない。
「怠惰なノートだ」
「聖那よりはマシ」
そのとき、裏表紙と最後のページに挟まっていたルーズリーフが一枚、ズバッと出てきた。
はらり、とかではなく、ズバッと。そのルーズリーフには両面ぎっしりとシールが貼られており、ずっしりとした重みがあったのだ。
「……なにこれ?」
「ああ、そんなとこに紛れてたのか。小木津に頼まれて持ってきたんだ」
ネクタイの角度がお気に召したらしい亜希はオレから手を放し、事も無げに言う。小木津とはクラスメートの一人である。
それらのシールは全部、プリクラだった。亜希が所持していたんだから、当然彼も写っているのかと思いきや、そこにはたったの一枚も亜希が写っているシールはなかった。女の子ばかりで、どの子も見事に粒揃いだ。
「お前、こういう可愛い子の写真を集める趣味があんの? 金輪際、オレに近寄るな」
亜希は億劫そうに頬杖をつく。「そんな訳あるか」
「冗談はさておき、これは誰?」適当に目に付いた子を指差す。
「元、彼女」
「こっちは?」
「元、彼女」
「これは?」
「元、彼女」
「この子もこの子もこの子も、ぜーんぶ、元、彼女?」
「そう」彼の瞼は眠たげに半分下りている。前の授業が体育だったためだ。
「お前はすぐに性病の検査に行け」
苦言を呈しつつ、繁々とその紙切れを眺めてしまった。ルーズリーフたった一枚とはいえ、裏表にぎっしりと貼ってあれば結構な数だ。
わかった、とオレは手を打ち鳴らした。
「わかったぞ、お前が首席を取れない理由」
「は?」
「色恋沙汰なんかに惚けているからだ」
亜希が、はいはい、と興味なさげに呟いた。
「そこっ、静かにしろ」
数学の男性教師がぴしゃりと放つ。今は授業中だ。複素数と方程式について講義がなされているが、オレはこの単元を九歳の頃にはマスターしていた。
亜希は亜希で、高校の教育課程はおおむね学び終えているらしい。オレと似た幼少期、学童期を辿ったとも言えるだろうが、血豆に自分でオロマイン軟膏を塗りつけていたオレとは違い、亜希には専属の家庭教師がいたそうだ。詳しいことは、亜希があまり話さないのでわからないが。
注意を受け私語を慎んだのはいいけれど、その途端オレたちは、体育の疲弊から泥のような眠気に襲われた。亜希もオレとまったく同じ様子だ。すでにわかりきっていることの講釈をされるのは、決して苦痛ではないが、ただただ、眠たい。
ここで断っておきたいのだけれど、オレや亜希は決して、教師に盾突いてやろうなどとは微塵も考えていない。教師は敬うべき存在だと頭ではわかっている。
ただ、眠たいのだ。ただただ、快適な睡眠を求めているだけなのだ。なんせ、成長期ですから。
示し合わせたわけでもなく、オレたちは一斉に立ち上がってユニゾンした。
「ちょっと具合が悪いので、保健室へ行ってきます」
***
保健室へ訪れると、うら若い養護教諭が眉をハの字に曲げた。
「ちょっと今、一つしかベッドが空いてないのよね……」
保健室──別名、サボり魔の巣窟。
「ソファでも大丈夫です」
オレが提案すると、ソファは書類が並べてあり使えないのだという。確かに、整然と紙切れや薬品が並列していた。納品物の確認作業のようなものを行っているのかもしれない。
「どちらか教室に戻る? それとも、二人で一つのベッドで寝る?」
養護教諭は究極の二択を提示してきた。どちらも御免こうむりたい。
オレたちは暫し睨み合ったが、渋々、空いているベッドへ二人で向かうしかなかった。声を潜めて互いに文句を投げあう。
「おい、もっとそっち行けよ、デカい図体しやがって」
「俺を落とす気か、聖那こそもっと壁に寄れるだろ」
「たく、何が悲しくて野郎と同衾しなきゃならんのだ」ホモかよ、と吐き捨てる。
「こっちの台詞だ」
お互いに、狭い、狭いと愚痴を垂れながら背中合わせで眠りにつく。
どんなに壁とベッドの淵へ寄っても、二枚の背中の距離は十五センチ程度だった。
***
古代ローマに生きたキケロの著作に、こんな一文がある。
「友情においては、次の掟を守るべし。破廉恥なる事柄を要求せず、また要求されし場合にも、これをせざること」。
古代ローマらしい露骨な表現に失笑するが、キケロのいうことが正しければ、オレには本当の「友達」なんてこれまで一人もいなかったのではないか。心の底からそう思う。
小学校はそもそもほとんど通わせてもらえなかった。父親の亡き後、中学校からはふつうに登校をしていたが、容姿も成績も周囲と一線を画していたオレに対し、周りはどこか敬遠の念を抱いていた。
前述のとおり、様々な災難にも見舞われた。そしてその都度、「友達」という存在は少しずつオレから遠ざかった。十王聖那に関わると面倒ごとに巻き込まれる、と思われていたのかもしれない。クラスメートがオレに話しかけてくるのは、天気やニュースの話のような、当たり障りのない話題ばかりだった。
オレだって生身の人間だからそれなりに辛かった。自分に災難を降りまいた奴らにはもちろん、周りと比較して過度に突出した自分の能力や容姿にも苛立った。
だけどある時、信頼できる奴ができた。名前は思い出したくもない。
仮に彼を「A」としてみるならば、オレはAを信頼していたし、Aはとてもいい奴だった。細やかな気が利き、話もうまく、よく笑わされた記憶がある。
中学時代、泊りがけの学校行事では、オレは常に一人部屋に回されていた。言わずもがな、常々オレが性的な被害に遭いかけていることを学校側も承知していたからだ。消灯時は必ず鍵を確認するように、と何度も言い聞かされ、その度にうんざりする。情けなくて不甲斐なくて、なにより人間不信に陥りそうだった。
しかし中学最後の修学旅行で、Aたっての希望で、オレはAと同室になることを許されたのだ。
そのあとは、もう、ご想像の通り。
オレの中での「友達」の条件は、たった一つ──オレの身を危険に晒さないこと。たった、たったそれだけなのに。
今までのお前はなんだったんだ。オレは襲ってきたAを投げ飛ばしたあとで、そう詰問した。その返答は、今でも耳に焼き付いて、離れない。
「お前を油断させるために決まってるだろ」。
寝驚いて、飛び起きた。久しぶりに、おぞましい記憶を引っ張り出してしまった。
男と同室で宿泊するということは、イコール、こういうこと。あまつさえ、同じベッドで眠るなんて言語道断だ。
今までは、そうだった。
そこで、隣にある黒い頭に気付く。亜希がぐうすかと眠りこけている。もちろん整った寝顔だったが、無防備さが一面に広がっているその様は、どう好意的に見積もってもアホ面といえた。
隣に眠っていたオレなど眼中の外、という様子で、まだ亜希は夢のなかを泳いでいる。
「……こんなことって、なかったな」
修学旅行などで友達同士、夜遅くまで恋愛や性について語らい、一緒に眠る。そんな普通で当然の思い出が、体験が、オレにはなかった。なかったんだ。
さも当然、とでも言いたげに、亜希はすやすやと寝息を立てている。
──こんなにもあっけなく、手に入った。
あっけなくて、ちょっと笑えた。
亜希の寝顔をのぞき込む。冗談みたいに長いまつ毛が伏せられていた。
「お前、友達一号、かも」
彼の夢の中に、その囁きは届いただろうか。



