恋の解法 〜友達以上にはならないと契約した親友(学園王子)にキスされたんだけど約束が違うな?〜

  満員電車の様子を「鮨詰め」と最初に例えた人は天才だ。
 駅員が人々をぎゅーっとオレたちを車内へ押し込む。このとき人類はまさに、押し寿司の米の一粒と成り果てる。
 足の甲に刺さってくる女性のパンプスの踵にも、隣の中間管理職と思しき男性の体臭にも相当な憎悪を感じたが、最悪なのはこれだ。
 痴漢。
 人混みのどこかから伸びてきた手が、オレの腰回りを撫でまわしてくる。スラックスごしに臀部の輪郭を確かめるような触り方だ。
 ゲス野郎が……とひとりごちながら、飽き飽きした気分になる。悲しいかな、こういった性犯罪のターゲットにされることは過去にも多くあった。
 ここで電車のドアが開く。幸運にも、降りる客の多い駅だったので、電車内は一気に関散とした。
 オレは勢いをつけて後ろを振り向き、相手の胸元を鷲掴む。ニット帽を目深に被った痩身の男は、驚いたように目を剥いている。眼窩下縁にどす黒い隈があり、その落ち窪んだ目元は淡水魚のアロワナによく似ていた。

「なめんなよ、下衆が」

 以前、誰かさんに「ひ弱な身つき」などと評されたが、こう見えてもオレは柔道の黒帯だ。ここでこのアロワナを背負い投げしてやることもできたが、過剰防衛とみなされたら面白くない。

「き……綺麗だね、君」

 何を言うかと思えば──アロワナはうわごとのように呟いた。

「今まで触った子の中で、一番綺麗だ……」
「こんなのも、税金で生かさなきゃいけないのか?」

 心の声が音になっていた。仮にこいつを逮捕して何年か懲役させたとして、はて、更生など可能なのだろうか。オレは怒りを通り越し、日本の司法のあり方に疑問を覚えた。
 痴漢男を駅員に突き出している最中、電車から降りてきた亜希が後ろを通りかかった。その光景だけで全てを察したのだろう、口元を押さえて肩を震わせながら、特にこちらに助力をするでもなく通り過ぎていった。
 あの野郎、人の不幸を笑いやがって。覚えてろよ……。

***

 押さえつけられたのが、腕だけだったら楽勝だ。
 中学校の頃の、放課後の教室。卑しい目つきと息遣いでオレの上に覆いかぶさってくる男の股間を、右足で一発。文字通り、これで事は「一蹴」だ。
 オレが中一で、相手は中三。つまり中学という狭いコミュニティの中で見たら「先輩」にあたる相手だが、野球部だろうがサッカー部だろうが望むところだ。成長曲線の下限を這いながら人生を送ってきたような小柄なオレだが、負ける気は一切しない。重ねて言うが、これでも黒帯なのだ(厳密には黒帯を取得したのは十四歳のときだが)。
 柔道を始めたのは九歳の時。ある日、食品スーパーで暴漢に誘拐されかけたオレを見て、当時まだ六歳だった妹が金言を寄越してきた。「自分の身は自分で守りなよ、聖那。男だろ」。非の打ちどころのない正論に、「あ、はい」とオレはただ頷くしかなかった。ちなみに妹は母親似で、日本人らしい見た目をしている。しかし父親の長身の遺伝子だけは、嘆かわしいことに妹にだけ引き継がれ、三歳差なのに兄妹の身長差はほとんど無かった。
 話を戻して、オレの痛烈な蹴りを股間で受けた三年生はその場で身悶えた。オレを一対一でどうにかしようなんて、甘すぎる。

「おととい来やがれ、睾丸脳が」

 筋肉脳とはよく言うが──こういう救えないやつらは、右脳左脳の中身と、両の睾丸の中身が入れ替わっているに違いない。だから<睾丸脳>だ。
 オレの卒業した中学校は男子校であったため、学生たちは暴発寸前のリビドーの捌け口を常に探していた。そこに「中性的」をやや超越したオレのような後輩が入学してきたら、高学年たちの標的にされるのは自明のことだった。

「……やっぱり、この顔のせいなのか」

 教室を辞しながら呟いた。
 こんなふうに日常的に性的暴行の標的にされたり、人生で累計三回も誘拐未遂の憂き目にあったりしているのは(その度に母親が決死の形相で救い出してくれた)、全部、この女みたいな顔のせいなのか。
「綺麗なお顔ね」と、たくさんの人が言ってくれる。お人形さんみたいね、と。これまで出会った人々の、ほとんど全てに一度はかけられたと言っても過言ではない。
 でもオレにとってこの容姿は、こうした数々の災厄を運んでくる元凶にしか思えなくなっている。「綺麗ね」という褒め言葉は、もはや呪詛だ。人と違う瞳や髪の色にも、忌々しさしかない。
 名前だけじゃなくて容姿も、男らしい西郷隆盛の肖像画みたいだったら良かったのに。

***

「……また寝坊した……」

 起床と同時にスマホで時刻を確認し、もう歩きでは駅に間に合わないという事実に直面する。

「……しょうがねーな」

 今日もあいつに頼るか。背に腹はかえられぬ。
 支度をしてアパートの外へ出ると、絶好のタイミングで、向こうから一台の自転車が走ってくる。なんとも驚くことに、あいつは二つ隣のアパートに住んでいるのだ。
 これは運命的だ。そう、彼はオレを駅まで送り届けるために生まれるべくして生まれ、そして出会うべくしてオレと出会ったのだ。運命には逆らえない。
 ヤマ高は国内随一の進学校でありながら、茨城県の辺鄙な片田舎にある。そのおかげで、陸上部や野球部のグラウンドに広大な敷地をあてることができているのだが、いかんせん都内からは通学できない。寮もあるにはあるが、建屋がかなり古びているのと寮則が厳しいためにあまり人気がなく、アパートを借りて一人暮らしをする学生が多い。

「亜希くん、おはようございます! とても良い朝ですね!」

 颯爽と道路を駆けるその自転車の籠に、オレは二階からバッグを落とす。ナイッシュー。
 キキッ、と驚いて停止した自転車の運転手が、またか、と辟易していることが二階からも見て取れた。
 意気揚々とアパートの階段を降り、自転車の荷台に立つ。亜希が背負っていた通学バックを奪い、オレが背負いなおす。

「いざ、発進!」
「自転車の二人乗りは、道路交通法、第57条、第2項に基づく県の条例で禁止されています」

 亜希はけんもほろろだ。

「お巡りさんが見えたら飛び降りるから大丈夫」
「血だるまになるぞ」
「その瞬間、減速してくれたらいいだろ」
「減速も停車もお断りだ、」二人分の重さを載せた自転車がゆるゆると動き出す。「電車に乗り遅れる」
「オレの身体より、電車が大事かよ」
 後ろ姿の両肩が大袈裟にすくめられる。「なにを当たり前のことを」
「ひでえ」
「いいから、落ちるなよ」

 最後には配慮をしてくれるあたり、育ちの良さが滲み出る。どうやら亜希の実家はかなりのブルジョワらしいのだ(だったらもっと良いアパートやマンションに住めばいいのに、と以前言ってみたら、親の脛は極力齧りたくないんだと返された)。
 自転車が走り出す。陽春の柔和な風と空気が、オレの鼻先をくすぐっていく。

「このまま学校までチャリで行けたらいいのになあ」

 満員電車は嫌いだ。

「今日もまた痴漢男を駅員に突き出す仕事があるのか?」

 亜希の声色はからかいの笑いを含んでいた。

「好きでやってるわけじゃねえ」
「さすがは、『ヤマ高の姫君』」ご苦労なことだ、と亜希の背中がほくそ笑む。
「うるせえな」オレは亜希の肩をガタガタ揺らした。「そっちの『白馬の王子』のほうがださいっつうの!」
「うわ、やめろ、倒れる!」

 オレたちの騒ぎに驚いたのか、左手の木立の梢から、小鳥たちが一斉に飛び立った。
「ヤマ高の姫君」に、「白馬の王子」──オレは脳内で繰り返しながら、顔を顰める。

***

「聖那様党」、「亜希様党」。
 疑問符を浮かべているアナタ、その反応、大正解。
 これらは、入学式からわずか二週間足らずで発足した不可解な集団のことを指す。要は、オレ派か亜希派という話らしいが、かと言って敵対関係にあるわけではないらしい。
 学内の女子のほぼ全てがどちらかの党派に所属しているらしく、また、なかには男子もいる。そして男子共は大抵「聖那様党」だ。まったく歓迎したくはないが、多様性を叫ばれたらもはや何も言えまい。
 聖那様党と亜希様党の人数は五分五分ぐらいで、驚くべきことに各党に部室のような部屋まである。学校の許可を得ているのか、勝手に党員たちがその部屋を占拠しているのかは判然としない。
「聖那様党」の部室のドアには、

「『可愛い』の権化。ヤマ高の姫君、十王聖那様」

 と大書された垂れ幕が飾ってある。亜希はこの垂れ幕に笑い転げていたが、対となる「亜希様党」の垂れ幕には、

「ヤマ高に降臨されし白馬の王子、神峰亜希様」

 とある。どちらの痛々しさも、甲乙つけ難い。



 学校の昇降口にたどり着いたオレたちは、「せーの」と下駄箱の前で、声を揃えた。
 下駄箱の扉をガバリと一気にあけて──ここではわずかな遅疑逡巡も許されない──その中身を確認するより先に、落ちてくる数々の代物を腕で受け止める。もちろんそれらは、その中にあって然るべきシューズなどではない。
 大抵は手紙のたぐいだが、飴やチョコレートなどのお菓子も交ざっている。

「……今から、バレンタインが憂鬱だ」

 となりの亜希が、大量の手紙と菓子を抱えながらこぼす。オレは首肯した。

「当日はキャリーケースが必要かな」
「キャリーケースで間に合うか? 軽トラが要る」

 シューズを履いて、亜希の背中に続いて歩き出す。ふと見ると、彼のブレザーの肩口に肌色の粉が付着していた。

「亜希、肩のとこ汚れてる。ファンデーションかな?」

 何度か軽く叩くことで払い落としてやった。

「満員電車だったからな」

 そう何気なく呟く亜希を見て、はたと思い当たる。今朝もいつも通り押し寿司の米粒に成り果てていたが、オレは壁際、そして亜希がその前に立ちはだかるように位置していたことで、不愉快な痴漢野郎に出くわさずに済んだ。

「……まあ、偶然か」

 そうひとりごちたが、その日以降、電車で痴漢被害に遭うことはなくなったのだった。