恋の解法 〜友達以上にはならないと契約した親友(学園王子)にキスされたんだけど約束が違うな?〜

 青、と辞書で引いてみた。
 辞書特有の薄っぺらい紙面上には、こうある。
「七色の一。また、三原色の一。みどり色にもいう」。
 もちろん、恋人関係を暗に示唆する色だなんて、そんな馬鹿げた説明は記載されていない。雁首を揃えて、しかつめらしい、お堅い説明書きがずらり羅列している。
 しかし「青」の項目の末尾には、こうあった。
「晴れた空のような色」。
 ほう、これはなかなか、ロマンチックだ。 

***

 化粧を施され、白雪姫のドレスを身に纏ったオレが舞台上に現れたと同時に、大講堂内に轟然と歓声が渦巻いた。
 眼前には、大講堂の収容人数の二倍近い人々が、立錐の余地も無い状態で犇き合っている。ほとんどの生徒がカメラを手にしており、バズーカのような超望遠レンズの一眼レフを構えている者もいる。学園内にいる人間のほとんどがここへ集結しているので、講堂の外はかなり閑散としてしまっている。
 代表の挨拶や表彰などで、壇上に上がること自体は慣れている。そのため緊張はそこまでなかったが、こちらの一挙一動に呼応して響く黄色い声には参った。ピンマイクをつけているとはいえ、そもそも台詞が客席に届いていない気がする。
 劇は順調に進んだ。魔女役のクラスメートが、大袈裟に腰を丸めながら、毒林檎という設定の、普通の林檎をオレに差し出した。

「お嬢さん、おひとつ、いかがかな」

 無理なしゃがれ声だ。

「まあ、なんて美味しそうな林檎」

 まあ、と言いながらオレが口元に手を持っていくときのぎこちなさといったら。
 林檎を一口齧る。スーパーの安い林檎であろうことはすぐにわかった。蜜の少ないスポンジのような食感が口内に広がった。ガクリと舞台に膝を付く。
 すぐに七人の小人達に、遺っ付け仕事で作られた寝台のような場所へ運ばれ、横たえられる。オレを持ち上げた時のクラスメートの「軽っ!」という小さな驚きが癇に障った。
 間もなく、王子が現れるときのBGM、トラックの十五番が流れ出すだろう。
 ああどうしよう! と過剰な演技で悲嘆する小人Bを横目で見ながら、徐々に異常な心拍を打ち始める心臓あたりをこっそり手でおさえた。
 ――やばいかもしれない。
 ひとつ深く息をする。すう、はあ。変な汗が出そうになる。
 顔をちょっと観客席から背けた。既にのぼせ上がりそうな額や頬を、見られるわけにはいかなかった。

「そこの、通りすがりの美青年。姫を助けてください。毒林檎を食べて倒れたのです」

 オレの心臓が今一度跳ね上がった。
 スーツ姿の亜希が上手から出てきた。歓声というより悲鳴に近いような叫喚が再び巻き起こる。
 オレは姫役のみならず全員の台詞を暗記していたので、『王子、姫にキス』のくだりまで着々と劇が進行していく様子が手に取るように分かった。思わず進行を妨げたくなるがそうはいかない。オレはこのどうしようもない状況に、拍車がかかっていくのをただ静観するしかない。
 王子と小人のやり取りの間では、何度か堂内が笑いに包まれていた。脚本家の才が皆無だと思われた小木津だったが、存外、そうでもないのかもしれない。
 亜希が小人たちに引き摺られて、オレが横たわる寝台の横に立った。
 喧騒で満ち溢れていた講堂内が、途端、しんと静まり返った。おのおのが手元のカメラに意識を集中し始めたのかもしれない。千載一遇のシャッターチャンスを逃すまいと。
 ちょっと待ってくれよ、とオレは叫びたくなる。わいわい騒いでもらっていたままの方が、まだよかった。
 やり手の実業家が、つまり亜希が、オレの巻いた髪があたる頬のあたりに、そっと手をやった。それだけでオレはびくりと肩を揺らしてしまう。

「……美しい姫、」

 亜希がぽつりと言った。台詞が間違っている。ここは本来、「確かに、美しい」と言うべきはずの場面だ。
 亜希の声はまるで演技がかっておらず、それがかえってオレをドキドキさせた。

「綺麗だ」

 台詞が違うだろ、全然違うだろ。オレは亜希を咎めたくなる。亜希の手は弄ぶようにオレの頬の上をまだ這っていて、ときおり、巻き毛にも触れている。何かを焦らすかのように。オレはもちろん、観客席にいる人々全員と、固唾を呑んで見守る十組のメンバー全員までも、焦らしている。

「シャム猫のような、サファイアブルーの瞳。星の色を宿した金の髪」

 目を閉じているのに、瞳の色がわかるわけないだろ。筋の通らない亜希のアドリブに難癖をつける。
 張り詰めたような静けさの中で、亜希の胸元のピンマイクが、愚直にその声を拾った。

「……俺の聖那」
 オレは辛抱たまらず体を起こして喚いた。「台詞が違うだろうが! 全っ然違うだろ!」

 途端、亜希の長い指がオレの首元あたりに巻きつき、くいっと力を込められた。
 体勢を崩したオレの唇を、いつも亜希は盗むみたいにして奪っていく。オレの心臓をいちいち脅かすことを、楽しんでいるのだ。
 目を閉じる暇も与えず、唇はすぐに離れた。茶目っ気を宿した漆黒の瞳に射抜かれる。オレの口元に塗りたくられていたビビッドな赤色のリップグロスが、亜希の唇にも色移りしていた。
 頬の紅潮を感じながら唇を右手で押さえる。オレと同様に不意を衝かれた観客席から、フラッシュはひとつも、焚かれなかった。

「おはよう、聖那」

 亜希は、寝台の縁に悠然と頬杖をついている。まるでいつもの朝みたいに。ドクドクという心臓の音だけが体内に反響し、オレは言葉を発せない。

『学校中の生徒を集めて、『俺の聖那』って、宣言できたらいいのに』

 ――こいつ、本当にやりやがった。
 数拍遅れて、今日一番の絶叫が堂内の空気を裂いた。
 最前列に座っていたどんぐりガールが、お定まりのように白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
 おい、誰か、AEDを持ってこい。
 彼女と、それからオレ用にだ。

***

 劇は大盛況の中、幕を閉じた。
 制服に着替えて帰り支度をする。疲労困憊だった。若干一名、舞台の上で暴走した男のおかげで。

「お疲れ、お疲れ」

 小木津が背後から労うように肩を叩いてきた。亜希と二人で振り返ると、手に持った十センチ四方の小さな紙袋を渡してくる。その上部は金色のシールで留められていた。

「何これ」

 受け取りながら亜希が疑問符を点す。

「言ったじゃん。大和祭が終わったら、いい物あげるって」

 開けていいよ、と促され、紙袋を逆さにする。亜希の掌に、青いピアスが落ちてきた。「おお」とオレと亜希の声が重なる。

「赤、黄色、ときたら、青しかないでしょ」

 小木津は称賛しろと言わんばかりに胸を張る。

「恋愛成就のお祝いだ」

 オレはつい周囲を確認する。この会話を人に聞かれてはいないかと。
 末永くお幸せに、と手をひらひら振りながら小木津が退出していく。亜希は青のピアスに目を落としながら呟いた。

「恋愛成就って……なんで小木津が知ってる?」

 実はまだ、小木津がうちにきたことを亜希に話していなかった。白雪姫役は、あの日の翌日に、オレが急に思い立って交替したことにしている。オレの告白に小木津の後押しがあったことを知れば、亜希が拗ねそうだったからだ。

「……何か話してないことあるだろ、聖那」
「オレだって、そりゃ一つや二つはあるさ」

 亜希が簡易ベッドのことを隠していたように。小木津の件と、ネクタイを結べることは、まだ秘密にしておこう。

***

 夜道の中に、彼女はいた。
 オレと亜希が駅から自宅の方へ自転車で疾走していると、向こうから花梨嬢が現れた。ここへ初めて来たときに携えていた旅行バッグを脇に提げている。ご帰還されるのか、と察する。予定ならあと一泊あるはずだったが。
 こちらの行く手を阻むように、前方三メートルあたりで立ち止まっている。オレたちは自転車から降り、亜希が後輪のスタンドを立てた。

「今日は、お疲れ様ですわ。劇は大盛況でございましたわね」

 ああ、学園祭に来ていたのか、とオレは呑気に胸中で思い、

「お二人は、たいへん仲がよろしいようで」

 次の瞬間、あっと血の気が引く。目をこらすと、花梨嬢の笑顔から極小の棘を発見できた。

「あ、あの、あれはですね」

 拙い弁解を始めようとする。

「きゃ、脚本、通りに、ですね」まずは責任のありかを小木津に定め、
「あれが、白雪姫の脚本ですの? 『俺の聖那』が?」
「あ、あれは亜希が勝手に」次に亜希に責任転嫁する。

 自分で言っていて虚しいほどに無理があった。もう泣きたい。美女に詰問をされるのは心臓に悪かった。何もかも、隣の暴走男のせいだ。おい亜希、面倒くさそうな顔をしてないで、お前もなんか喋れよ。

「言い訳は不要ですわ」

 ふう、と綺麗な形をした唇の隙間から吐息を漏らして、

「あなた方を一目見た時から、わかってましたから」

 肩に担いでいた重そうなボストンバッグをコンクリートに置く。

「……亜希が、あなたを好きだって。あんなに優しい眼差しで、愛おしそうに誰かを見つめる亜希なんて、記憶にないもの。今までの彼女たちとは全く次元の違う存在であることも、すぐにわかったわ」

 オレたちは二人して口を噤んでいる。それだけの迫力とオーラが彼女にはあった。

「……こういうのも、失恋っていうのかな」つまらなさそうに星空を見上げる。「結構、頑張ったのになあ」

 花梨嬢の口調が、不意にくだけたものに変わった。彼女の独白は続く。オレたちにというよりは、頭上の星たちに向けて語りかけているようにも見えた。

「許嫁なんて、親たちが冗談半分で言っているだけなのに、馬鹿みたいにそれに縋って。『ですわ』なんて、いまどき流行るわけないのに」

 自嘲めいた物言いに、オレは何か励ましの言葉をかけたくなる。でもなんと言えばいいのか、そもそもオレに励ます権利などあるのか、はかりあぐねた。

「子どものころに亜希が、お嬢様口調を自然にできるぐらいの淑女が良い、なんてふざけて言ったから、それを馬鹿みたいに実行して。時間にルーズな女は嫌だって言ってから、一日のルーティンも崩さないようにしたし、料理だって裁縫だって頑張って覚えた」

 不可解な入浴時間も、古風な口調も、箱入り娘には似つかわしくない器用な手先も、全部、亜希のためだったのか。

「中学時代に亜希が、代わる代わる誰かと付き合っているのを見ても諦めなかった。亜希のために一番努力してるのも、亜希のことが一番好きなのも、私だって自信があったから」

 彼女はまだ、星空に意識を泳がせている。

「男は星の数ほどいるなんていうけど……亜希より良い男なんて、どこにもいないもん」

 最後は少しだけ、涙声のように聞こえた。しかし顔を正面に戻した時には、彼女の目尻に光るものはなく、いつもの一本気な瞳だった。

「よくある少女漫画なら、二人で亜希を取り合うようなバトルが、もう一場面あるんでしょうね。でも安心して。私はそんな無様なことはしないから。散り際くらい美しくないとね」

「花」の漢字を名に冠した、彼女らしい言い回しだった。そうして思い立ったように、彼女はオレのほうへ歩を進め、目の前まで来て足を止める。オレより彼女のほうが、わずかに背が高かった。

「さあ、歯を、食いしばって」
「……へ?」

 え、まっ、待って。歯って、どうやって食いしばるんだっけ──
 花梨嬢は右手を大きく振りかぶった。そして一抹の躊躇いもなしに、オレの左頬を思いっきり平手打ちした。亜希の制止も間に合わなかった。
 夜の帳に響き渡った快音。

「花梨!」

 亜希は咎めるように言ってから、大丈夫か、とオレのそばに焦って屈む。
 オレはその場に片膝をついて、引っ叩かれた左頬を押さえながら、ひたすら脳内を占拠するはてなマークを処理することに専念している。え、なんで? どうして? おう、かなり、ビンタって痛いもんなんだなあ。

「娘の嫁ぎ先の相手には、父親がこうして一発、見舞ったりするものなのでしょう?」

 嫁って、嫁ぎ先って、父親って……なにからなにまで違うような気がしたが、美人が言うと、謎の説得力がある。

「……それと、」

 まだあるのか、とオレは絶望にも似た気持ちで花梨嬢を見上げた。しかし彼女は正面ではなく、オレの真横に回っていた。オレが花梨嬢の位置を確認できたあたりで、叩かれていないほうの頬に、触れるだけのキスをされた。オレは叩かれたときよりももっと頑丈に、硬直した。今のオレの身体を使えば、釘だって打てる。

「なっ……」憤ったのは亜希だ。「花梨ッ!」
「これは、亜希への仕返し、ですわ」

 もう彼女は、「ですわ」を楽しんでいるようだ。

「では、ごきげんよう」

 花梨嬢はたおやかに身を翻して、振り返りもせずに、さっさと歩いていってしまった。それから三分ぐらい経って、やっと声を発することが出来た。

「……め、めちゃくちゃだ」
「あいつは昔からめちゃくちゃなんだ」

 晴れない表情の亜希の肩に、こつんと頭を乗せる。

「まだ痛い」左頬は押さえたままだ。

 結構、痛い。でも、これで亜希を譲ってもらえるのなら、安いもんか。

***

 久しぶりだ、と亜希が言った。柔和な声だった。
 うん、とオレは答える。ぎこちない答え方だ。
 亜希のベッドで二人並んで眠るなんて、これまでに幾度となくしてきた事なのに、オレは亜希と上手く目も合わせられずにいる。もっといえば、気恥ずかしさのあまり、オレははじめ膨らんでいた簡易ベッドの方に寝ようとした。すると亜希が鋭利なキッチンバサミを台所から持ち出して、大きく振りかぶった。ここまで青春ラブストーリーだったはずの話が、最後にサスペンスに変わるのか――とオレは身構えた。
 ハサミはオレではなく、簡易ベッドを突き刺した。まあ当たり前だが。「高価そうなのに、勿体無い」と庶民代表のようなことを漏らすオレに、天上天下唯我独尊男はこう言った。「聖那のために選択肢を減らしてやった。感謝しろ」。本当は二人で寝たいと思っても、聖那は天邪鬼だから嫌がるふりをするだろと。刺殺された簡易ベッドが、プシュウ、と空気を吐き出している。かわいそうに、冥福を祈る。
 オレたちの物語は、いつもラブストーリーになりきれない。常にどこか、喜劇的だ。場面も学校と自宅の往復ばかりで、絵面に変わり映えもない。
 まあ、それがオレたちなんだけど、こんなに変わり映えのない話を、ここまで聞いてくれたアナタには感謝を送りたい。
 ベッドの上で向かい合わせになる。いつもの亜希のスウェット。いつものオレの、前開きのパジャマ。前と違うのは、ピアスの色が青いことだ。
 常夜灯の橙色が、亜希の顔を陰影豊かに照らし出す。世界の黄金比すら、つまらないものに変えてしまうような麗しさ。

「聖那」

 名を呼び、オレの頭を撫で、そのまま頬の輪郭に触れる。

「……キスしていい?」

 オレは瞠目して赤くなる。

「……い、いちいち、聞くなよ!」
「確認しろって言ったり、するなって言ったり、」

 亜希が眉を下げるようにして笑う。宇宙一、オレの好きな笑い方。

「十王聖那の攻略は難しい」

***

 息を切らして、無心に走っている。
 すぐに夢だとわかった。濃紺の霧があたりを覆い、絶壁の道がひたすら続いている、あの夢だ。亜希が初めて遠くに感じた、あの夢。
 オレは走って、走って、亜希の背中はもう、すぐそこまで来ていた。膝からは血が流れている、どこかで擦りむいたのかもしれない。
 向こう側に身体を向けている亜希を、大声で呼んだ。

「亜希!」

 走る足がもつれて、だけど、持ちこたえる。
亜希が静かに、こちらを振り返った。その身体に、転ぶみたいにして飛び込んだ。

「……聖那」

 息を整えながら、亜希の服を強く掴む。

「遅れて、ごめん」

 たくさん待たせて、たくさん苦しめて、ごめんな。
 亜希は静かにかぶりを振る。オレを許すように、慰めるように。

「手、繋ぐ?」

 そして、こちらに手を差し出してきた。格好悪い泣き顔のような表情で、オレは「うん」と答える。
 オレはいつも迷子になったり、立ち止まったりしちゃうから、ずっと、しっかり繋いでいよう。もう二度とはぐれないように。
 オレが手を取ると、亜希は優しく微笑んだ。
 二人で前を向く。今度こそ同じ方向を、二人で見つめる。
 赤色も、黄色も、青色も、全部大事な思い出だ。青春だ。どの色が欠けても、きっと今のオレたちはない。
 あの頃に戻れないのなら、あの頃を越えていこう。できるはずだ、オレたちになら。
 辺りの霧はいつの間にか晴れ渡り、吸い込まれるような青空が広がっていた。足元には草木が生い茂っている。
 ここから、駆け足で、ペダルを踏みこんで、アクセルをふかして、二人でどこまでも走っていける。
 信号は青だ。
 オレと亜希の耳たぶにも、小さな青。

「晴れた空のような色」。