恋の解法 〜友達以上にはならないと契約した親友(学園王子)にキスされたんだけど約束が違うな?〜

 CDプレーヤーは、教室内に場違いな曲を流し始めていた。

「聖那ちゃん、曲が違う。次は十五番」

 監督の小木津がこちらに尖り声を投げた。オレは肩を揺らし、すぐさま十五番に曲を合わせる。慌てたためにボタンを押しすぎ、十七番まで曲を進め、二つ戻した。音響も意外に気の抜けない仕事だ。
 大和祭は明後日に迫っていた。今日は教室での最後の調整で、明日は本番さながらの大講堂での予行演習が入っている。
 その予行演習では、全てのシーンを本番と同じように再現する。例のキスシーンも、フリではなく、実際に行うそうだ。必要なことだろうとは思う。神峰亜希からの口付けというものに、田崎も事前に耐性をつけておいた方がいい。でないと衆人環視の中、壇上で失神しかねない。
 ここで衣装合わせを終えた亜希が教室に入ってきた。かぼちゃパンツに白タイツではなく、黒を基調としたスーツを身にまとい、前髪は横分けにセットされている。小木津いわく、やり手の実業家という設定らしい。白タイツを亜希が固辞したためである。

「着てみたけど、どうかな」

 亜希の何気ない一言に対し、オレを除くクラス全員が異口同音に放った。

「素晴らしい」

 制服と大差もないようなスーツ姿に、拍手まで巻き起こる。「ダビデ像がスーツを着るとあんなふうなんだな」、「当日はAEDが要る」、「神峰は前世で戦争でも止めたのか?」等々、種々の感想が飛び交った。
 亜希はプレーヤーの傍らに立ち、今度はピンポイントでオレに向けて問うた。

「どう?」

 昨夜、亜希の部屋で一悶着あったオレたちだったが、一夜明けた今はおおむねいつも通りに振る舞えている。少なくとも周囲に勘付かれない程度には。

「オレはかぼちゃパンツのダビデ像が見たかった」
「俺を褒めると死ぬ病気にでもかかってるのか?」

 周りを見習えよ、と不服そうにしている。
 亜希が演習の輪に加わった。毒林檎を食した後の田崎は制服姿のまま床に横たわっていた。彼の衣装はまだ間に合っていないらしい。
 王子役が登場するということは取りも直さず、キスシーンの直前のところだ。CDの二十一番をまわす。キスシーン用のBGMが場に優雅さを演出する。

「そこの、通りすがりの美青年。姫を助けてください。毒林檎を食べて倒れたのです」

 小人役の一人が音吐朗々と放つ。

「キスすれば、生き返るわけ?」
 王子役の亜希の質問に小人が答える。「そのようです」
「その根拠を教えてくれよ」
「いいでしょ、減るもんでもない」

 小人たちに引かれてたどり着いた先で、遂に王子は運命の相手との邂逅を果たす。亜希が田崎の肩のあたりにしゃがみ込む。

「……確かに、美しい」

 オレは演習の風景から目をそらした。二人のキスシーンを見ないで済むように。雑念を振り払いたくて、教室内にある適当な数字を探しては素因数分解をしてやり過ごす。「2772」という数字を見つける。二の二乗、三の二乗、七と十一……。

「お目覚めですか、姫」

 その亜希の台詞を合図に、目覚めの後の音楽に切り替えた。これが最後の曲に当たる。

「はい、カットォ。オーケー。今日はこれで終了」

 小木津が爽やかに言い放った。
 クラスメートたちが帰り支度を始める。オレもCDプレーヤーの「停止」を押して、コードを引き抜いた。ご苦労なことに、また制服に着替えに行った亜希を待つ。
 無作法にも机の上に座り、足をぶらぶらさせながら、ちらりと、背中に付いた埃を友達に払ってもらっている田崎を見る。
 明日と明後日、二回、亜希がキスをする相手。オレが亜希とキスした回数と同じだ。

「……だったらなんだよ」

 暗然とした声が無意識に喉からついて出た。
 その回数がオレと同じだからって、だったらなんだというんだ。馬鹿馬鹿しい。
 明日と明後日、亜希は彼と二回口付けをして、その後は花梨嬢の待つ自宅へ帰る。その一連の流れの中に、オレが介入する隙はない。いつもオレを軸として回っていた亜希の世界が、すっかり変わってしまったように思えた。
 だったらなんだ。もう一度、音もなく言う。音響を志願したのは自分のくせに。

 じゃあな、とアパートの前で亜希と別れた。
 暗闇の中を縫っていく自転車の姿を、すこしの間、見つめる。今日は駅から脱走を図らず、一週間ぶりに自宅までの距離を共に過ごした。けれど何もイベントが起こることはなく、自転車の反射板は早々と夜景に消えた。
 ──今日は逃げなかったのに、キスされなかった。
 肋骨の内側が、ずっとヒリヒリしている。これじゃ、待ってるみたいじゃないか。自分が愚かで、恥ずかしくて、その場から消えてしまいたかった。

***

「あ、」

 雨だ。
 暗雲が地上にばらまく雨が、窓枠に鋭い爪を立ててきた。すっかり暗くなった窓外の景色を、無数の水滴がざくざくと裂いていく。
 洗濯物をベランダに干しっぱなしだったことに気づき、急いで取り込む。その短時間でオレまでずぶ濡れになった。ゲリラ豪雨というやつだろう。
 身体もろくに拭かず、濡れそぼった洗濯物と一緒に床に寝そべった。窓ガラスを隔てた雨の音以外、何も聞こえない。
 静かだ。こう静かだと考えたくもないことばかり、考えてしまう。例えば、明日の予行演習のこと──
 玄関の扉が無遠慮に叩かれたのは、そのときだ。

「ヘイ! ちょいと、開けてくれ!」

 驚きのあまりオレは床から体を浮かせる。
 扉の向こうから声がした。亜希ではない。用心深くドアスコープを覗いてみると、小木津が立っていた。

「サンクスソーマッチ」

 大きめのトートバッグを遠慮会釈もなしに床にどんと置いた。傘をさしていたようだが、バッグも小木津も濡れている。しかし室内にいたはずのオレの方が濡れていたので、小木津は当然のように眉間に皺を寄せていた。

「……なんで聖那ちゃんが濡れてんの?」
「『ショーシャンクの空に』を真似した」
「馬鹿と天才は紙一重って本当なんだね」

 とりあえず二枚タオルを持ってきて、一枚を小木津に渡す。もう一枚で自分の髪を拭いた。

「こんな時間にどうしたんだよ」

 時計は九時ちょっと前を指している。アポイントなしで人様の家を訪問すべき時間でないことは確かだ。

「いやあ、ちょっと親が旅行に行っててさ。今晩オレ一人ぼっちで、寂しいから泊めてよ」
「はあ?」

 随分唐突だ。まあ、小木津千紘に脈絡というものがあった試しはない。ちなみに彼は一人暮らしではなく、ヤマ高からの徒歩圏内に実家がある。

「別にいいけど、オレの家はなんにもないぞ」

 客人をもてなすどころか、雑然と散らかっていてほとんど足の踏み場もないほどだ。

「オレのなんかよりも、亜希の家のほうが──あ、ごめん、今は駄目だ」

 花梨嬢がいる。
 丹念に腕の部分にタオルを擦りつけていた小木津が、不思議そうにこちらを見た。

「なにが?」

 オレは返答にまごつく。

「あー、なんか、昨日から客人がいるみたいで」
「客人?」

 小木津の眉間の皺が深くなる。

「うん、そう。お客様」
「男? 女?」語尾には少し険悪な色彩が塗られていた。
「傾国の美女」
「な」ぎょっと目を見張った。「なんだよ、それ」
「亜希の幼馴染で、許嫁らしい」然して関心も無いかのように、事も無げに言う。「この時代に『許嫁』とは──」
「なんだよそれ!」

 時代錯誤だよな、と続けようとしたオレの言葉を、小木津の怒号が遮断した。びっくりしてタオルを落とす。その甲斐走った声も、小木津の険しい表情も、怒気にまみれている。こんなふうに本気で怒る彼を見るのは初めてだ。
 以前、オレが倒れて保健室へ運ばれたとき、小木津が亜希に対し怒鳴ったらしいことを思い出した。小木津は普段へらへらしているだけに、いざというときにこうして凄まれると、こちらは思わず身が竦む。

「な、なに、いきなり」
「どうすんだよ。なにしてんだよ、聖那」

 小木津の声の調子はまだ怒気を引き摺っていて、オレを怯ませる。

「どうすんだよって、何が」
「聖那はそれで平気なのかよ」

 いつもは「ちゃん」付けの呼称を、今だけやめるなんて、なんかお前、ずるいだろ。

「……別に、オレには関係ない」

 空気の抜けた風船のように萎れたオレの声を聞いて、小木津がはわざとらしい溜息混じりで首を横に振る。

「聖那ちゃんな、それ、鈍いとかじゃなくて、もう痛いぞ。イタい」

 ますます強くなっていく雨脚が、オレをせせら笑っているかのようだ。

「誰がどう見ても相思相愛なのに、なんで亜希をほっとくんだよ。亜希だって人間だぞ」

 相思相愛と言われて耳の裏が熱くなったが、亜希だって人間、という言葉にはみぞおちが重くなった。

「聖那ちゃんな、一個、言っておくけど」

 彼の声から怒気は薄れ、諭すような口調に変わる。

「誰だって、待つばかりの恋愛なんて嫌だぞ」

 そんなこと、わかってる。オレだってわかってるよ。待つばかりの恋愛がつらいことも、亜希が人間だってことも。オレは唇を噛む。そうでもしないと、情けない雨露が瞳から、落ちてきそうだった。

「亜希だって仏じゃねえんだ。呆れもすればうんざりもするし、飽きたりだって、心変わりだってする」

 淡々と告げる小木津は、それでも、どこか苦しそうだ。わかってやれよ、という声が、言外に匂っている。

「来ないとわかっているバスを、バス停で待つ奴がいるかよ」

 小木津、お前に何がわかる。そうしたたかに反論したかった。だけどそんな権利はない気がした。彼の言うことはまごうなき正論だった。

「バスが来ないバス停で待つよりも、他に車があるなら、そっちに乗って行っちゃうのが、人間の心理だろ」

 ぐうの音もでない。拾い上げたタオルを強く握りしめた。

「聖那ちゃんはな、お堅く考えすぎなんだ。恋人なんて、友達にプラスアルファしただけの存在だって、そうお気楽に考えてればいいんだよ。全く違うものなんていう考え方だから、そうやっていつまでもまごついている」

 こっち側がまだ濡れてるぞ、と呟いて、小木津はオレの背後に回り、後頭部にタオルを当ててくれる。

「ほんと、恋愛偏差値ってやつが低いね、聖那ちゃんは。まさしく、基礎力も応用力もゼロ」

 勉強の方に全部持っていかれちゃったんだな、と小木津は一笑した。

「ま、そこがいいんだろうけど。亜希にとってはね」返す言葉もないオレなど、素知らぬ顔だ。「本当、亜希って物好き」
「……う、うるせえな」

 それも、わかっている。亜希が物好きだということは。肩をすくめて縮こまりながら、オレはやっと口を動かした。

「お、やっと喋ったね。亜希がけなされると、怒るんだ」

 小木津は破顔し、ふふふ、と卑しい笑いをした。

「嘘うそ。いい趣味してるよ、亜希は。見ててこっちが恥ずかしくなるくらい、べた惚れだからね、聖那ちゃんに」
「なっ」

 もう、どこからどう反撃したらいいのか、わからない。小木津はオレの髪を拭き終えると、タオルをぽいと床に投げた。

「亜希が好きなんだろ?」

 まるで、明日の天気を聞くみたいに、さらり。
 何度か目をしばたたいてから、オレは唇をなめた。
 心臓が痛くて、細い糸でぐるぐる巻きにされているかのように、息苦しい。視界が滲んで、瞼の縁に熱い液体が溜まった。外なんかよりずっと、大雨だ。自分のうじうじした気持ちの暗雲ばかりだ。嫌になる。自分が大嫌いだ。
 いつだって素直になれない。いつまでも、素直になれない。
 だって、自信がないんだ。いつも亜希に迷惑かけてばかりだ。彼の手を焼かせてばかり。こんなオレが、亜希に釣り合うのかな。亜希の隣に立っていていいのかな。花梨嬢のような、完璧な女性を押しのけてまで。
 勉強くらいしか誇れることがない。それに実は、すごく嫉妬深いんだ。そのことは最近まで、自分自身も知らなかったけれど。
 きっとオレはこれからもずっと、亜希を面倒ごとに巻き込み続ける。手を焼かせて、世話を焼かせて、それでいて大した恩返しもできない。こんなオレで、本当にいいのかな。
 ──でも、亜希が好きだ。
 どうしようもないくらい。亜希を想うだけで、涙が出るくらい。
 手に持ったタオルは、最終的にはオレの涙を拭う役目になった。洗い晒した手触りの悪いそのタオルで、乱暴に顔を拭った。
 こんなふうに、亜希との、友達以外の――友達以上の話になると、いつも涙が際限なく出てとまらなくなる。
 悲しいのかもしれない。寂しいのかもしれない。
「友達」が終わってしまうのが、悲しい。こんなに凄かったオレたちの関係が、変わるのは悲しくて、寂しい。良くなるにしても悪くなるにしても、やっぱり、寂しいんだ。
 オレは弱くて優柔不断で、歩調も遅いから、いつも迷子になってごめん。亜希を待たせてばかりで、ごめんな。
 亜希は最初から、なんにも悪くなかったよ。
 オレがのろまなだけだったね。

『抗生物質はあんたか!』
『は?』

 お互いの名前も知らなかったあのときから、惹かれていた。きっとずっと好きだった。もしかしたら、亜希よりももっと先に。

「……まあ、亜希なら、待つだろうな、」

 あいつも大概、馬鹿だから。
 小木津がそう言う。

「バスの来ないバス停で、ずっとバスを待つような、あいつも大した馬鹿だ」

 そういえば、哲学者のフランシス・ベーコンはこう言った。「恋をして、しかも賢くあることは不可能だ」。
 ダニエル電池の仕組みが分かっても、相加相乗平均やガウス記号が解けても、恋をするときは、みんな馬鹿なのだ。そしてみんな、臆病だ。

「早く行けよ」

 小木津がオレの背中を押してくれる。それに答えるようにゆっくりと、だけどはっきりと、顎を引く。
 オレンジ色の縁の壁掛け時計を見た。九時二十分になろうとしているところだった。花梨嬢は、いま、お風呂だ。
 涙で前方が見えにくいけれど、オレはどうにか立ち上がった。部屋を出る直前に、小木津を振り返る。

「……ありがとう」

 涙声で、格好は全然つかなかった。

「小木津のこともさ、けっこう好きだよ」
「今のは聞かなかったことにしておく」小木津は鼻を鳴らした。「そういうのは、先に亜希に言ってくれ。殺されるのはオレだ」

***

 篠突く雨が降り続いている。
 ただでさえ涙で滲んでいるのに、輪をかけて視界が悪い。でも大丈夫だ。亜希の家へと続くこの道は、目を閉じたって進める。
 亜希。あと少しだけ、あとちょっとだけ、待ってて。
 ──走っていくから。すぐに行くから。
 オレは傘も持たずに駆け出した。

 強風で亜希の自転車が倒れている。
 そんなものには目もくれず、彼の部屋の門扉の前に立つ。臍を固めたつもりだったけれど、やっぱり、扉の前で少し立ち止まった。
 この扉が開いたら、きっと、終わる。「友達」が終わる。オレは終わらせにきたのだ。
 大きく深呼吸してから、扉を強く叩いた。

「……聖那?」

 待ちぼうけが、頭を出す。その顔を見ただけで、胸に狂おしいほどの熱が広がった。

「うわ、ずぶ濡れだぞ、なんで傘も持ってな──」

 亜希の首元に、倒れこむように抱きついた。

「……亜希……っ」

 粋な言葉なんて、全然見付からない。格好いい台詞なんて言えないけど、拙い言葉で、だけど、全部の思いを込めて、ちゃんと言うから、聞いて。

「……好き、」

 震える声を絞り出す。明日から一週間、声がでなくてもいい。だからどうか、届きますように。

「亜希が好き」

 亜希が好きで、好きで、死にそうだ。

「……聖那」

 亜希がオレの背中に腕を回す。その両手も微かに震えていた。
 その両手とか、足とか指とか、爪とか髪とか声とか、亜希を構成する細胞すべてが、オレのものであれば良かった。頭上の少し乱れた呼吸も、その瞬きのひとつひとつまで、何一つ、誰にも渡したくなかった。
 だけどそうじゃない。それは全部、やっぱり亜希のものだ。だから気持ちなんていう、弱々しいもので、繋ぎ留めておくしかない。
 オレたちは弱い。恋なんてものは弱い。友情なんかよりもよっぽど脆い。
 だからこそ、きっと綺麗なんだ。
 顔を少し離して、亜希を見上げた。まだ信じられないような、困惑したような表情がそこにある。この世の誰よりも、綺麗だ。
 亜希はいつも褒めてくれないなんて拗ねるけど、「格好良い」も「男前」も、亜希の前では安っぽいんだ。役不足だ。そんな言葉で彼を飾ったって、なんの意味もない。

「……亜希が、」

 背伸びをして、額と額を付けた。瞬きをすると、両目から涙がこぼれた。

「亜希が、オレにしか、見えなかったらいいのに……」

 こんなに欲深い自分を知らなかった。美は共有すべき? 冗談じゃない、お断りだ。

「オレは……嫉妬深いし、いつも亜希に、迷惑ばっかりかけて」

 亜希の親指がオレの涙を拭ってくれる。

「だから不安だったんだ。こんなオレでいいのかって。亜希のことを、オレが本当に、幸せにできるのかって……」

 その言葉を聞いて、亜希が薄く笑った。

「馬鹿だな、聖那は」

 お前のようなやつが、どうしてそんなこともわからないんだ、とオレの髪を梳く。

「聖那が、じゃない。聖那にしかできないんだ」

 引かれ合うように唇が重なった。永遠を感じるくらいの時間、ずっとそうしていた。

***

 花梨嬢がシャワーを止める音で、我に返った。
 玄関土間で抱き合っていたオレたちは唇を離し、ちょっと亜希の体を押しのけた。キスの最中、顔や体、脳みそからも発熱を感じるのは、いつものことだ。

「か、花梨さんが、風呂からあがる」
「……忘れてた」

 花梨嬢の話題を出すときの亜希の顔が、日に日に険しくなっていく。ひょいと室内を覗くと、ローソファが壁際に移動させられ、そこに簡易ベッドが置かれていた。見る限り、空気をいれて膨らませるタイプのものだ。

「何これ? 花梨さんが持ってきたの?」

 二人は同じベッドで夜を過ごしているのかと思っていたが、違うようだ。

「いや」亜希は飄然と首を振る。「四月からずっと、うちにあるけど」
「え? こんなデカいもの、どこに……」

 ベッドの横に、ポリエステルの袋が落ちているのを見て合点がいった。クローゼットの中にあった、やたらと大きくて邪魔くさかったあの袋。中身はテントかと思っていたが、来客用の簡易ベッドだったとは。

「お前、いつもオレの寝相が悪いとか、ベッドから蹴落とされたとか文句言うくせに、なんでこんな便利なもの隠してたんだよ」

 不興を掻き鳴らすオレに、亜希はあの、<やばい亜希>のときの、不敵な笑い方をした。

「さあ、なんででしょう」

 亜希が最後に、また軽く口付けてきた。
 ──オレたちの初めてのキスは、涙の味だった。
 だからこれからはこうして、幸福な、後から思い出したらにやけちゃうような、こんなキスだけ増やしていこう。そうやって、過去を上書きしていこう。


 自分の部屋に帰ると、小木津が座椅子で寛いでいた。家主に無断でテレビをつけ、メットフリックスでバラエティー番組を見ている。

「おかえり。早いな」

 そう目を丸くしてから、

「亜希ってそんなに、早漏なの?」

 オレは顔を真っ赤にして、履いていたエアジョーダンを足から抜き、小木津の側頭部に思い切り投げつけた。豪速球だ。球速百五十キロは出ていただろう。この卑俗の化身が……。

「あー、客人がいるからスケベはお預けかあ」エアジョーダンの激突した部位をさすっている。「亜希もつくづく、運のないやつ」

 小木津と話していると、「教養」というものの敗北をそこに見る。彼も一応、神童レベルの優秀な学生のはずだが。

「はい、これ」

 そう言って小木津が持参したバッグから何かを取り出す。オレが学校に置いてきた、白雪姫の台本だった。
 投げられたその紙の束を受け止める。どうしてこんなものを持ち歩いているのだ。

「当然、白雪姫役は聖那ちゃんに変更な」

 オレは色を失う。

「お、小木津、お前、最初からこのつもりで──」
「当たり前でしょ。君たちの痴話喧嘩のせいで、十組がアキセナ党に殲滅させられたらたまったもんじゃない」

 白々と小木津は肩をすくめ、両手を広げた。

「て、てめえ、騙したな……!」

 こんな魂胆があったとは。

「騙すとは人聞きの悪い。明日、ポスターの白雪役のところ、剥がしとかなくちゃ。それに予行演習も中止。生キッスのお楽しみは本番に取っとかないとね」

 宣伝ポスターでは、白雪姫役のところが紙で厳重に隠されていた。そこには最初から田崎の名前は書いていなかったわけだ。完全にこの食わせ者に一泡吹かされた。

「田崎は息を吹き返すだろうな。今日の帰り道は目も当てられないほどだった」

 音響の仕事は、ポスターを作り終えた広報係が担うことになっているのだと、聞いてもいないことを教えてくれる。監督である小木津と広報係以外には、この策は伏せられていたようだ。

「そんじゃ、オレは帰るから。お幸せに」

 そう言うと小木津は早々と靴を履きはじめる。

「お、おい、親が旅行とかって」
「あんなの嘘に決まってるだろ」
「な、」

 本当にもう、やられっぱなしだ。完膚なきまでに。その場に不甲斐なく立ち尽くす。
 扉を出て行く寸前、小木津が振り返った。

「本番、明後日だけど、台詞、入るか? 白雪は結構多いんだけど」

 それを聞いて、愚か者め、と無音で罵った。聖那は恋愛偏差値が低い分、勉強の方に傾いた、とか、散々喚いていたのは誰だ。

「オレを誰だと思ってる。十王聖那だぞ」

 十三年前の七月二十日のテレビ欄を、今でも全部書き出せる。最後にトミカで遊んだあの日だ。

「余計な心配だったね、失敬。じゃあ、また明日」

 小木津が後手に扉を閉める。雨脚は少し弱まっているようだった。
 オレは先ほどまで小木津が腰掛けていた座椅子に座り、台本を広げる。

『お目覚めですか、姫』

 オレは、亜希のこの台詞のとき卒倒しないだろうか。それが心配だ。かつてのどんぐりガールのように。
 夜の闇を切り取る吐き出し窓に、自分の姿が映っている。その耳には黄色いピアスがある。
「ニュートラル」は今日で終わりだ。