恋の解法 〜友達以上にはならないと契約した親友(学園王子)にキスされたんだけど約束が違うな?〜

 週末である。学校は休みだ。
 一人で過ごす、長すぎる土日が幕を開けた。亜希の家へ遊びにいってもあがらせてはもらえないだろうし、今となっては、訪問する勇気もなかった。というよりも、亜希と二人きりになる勇気がない。
 怒涛の一週間であった。これまでの人生において、ここまで激動の七日間があっただろうか。
 先週の日曜日は夏休みの最終日で、亜希と『アーミネーター』を鑑賞し、シュワちゃんの物真似をしてはげらげらと能天気に笑い合っていた。太平楽を絵に描いたような、平凡な学生の夏休みの図であった。それなのに。
 今のこの状況はどうだ。一体なんなのだ。
 まだ朝日が昇り切らない、朝方の四時。オレは一人、自室のベッド上で毛布にくるまり、饅頭のように丸くなっている。
 昨夜、星空のもとで口付けを交わした後、互いの体が離れた後もオレはしばらくその場から動けなかった。生まれたての子鹿のように頼りない両足で石塀にもたれ、肩で息をし、痛む胸を押さえ、顔は真っ赤で、目元にはうっすらと涙まで滲んでいた。見ようによっては心臓発作に苦しむような姿にも見えただろう。
 亜希はそんなオレを見て薄く笑いながら、「……救急車、呼ぼうか?」などと茶化してきた。オレがそんな亜希の腹にすぐさまパンチを入れたことについては、わざわざ論ずるまでもない。
 風呂から上がっても頭を切り替えられず、ベッドの上で何度も体を反転しながら、一向にオレを迎えに来ない睡魔を待ち続ける。最後に夜通し熟睡できた日はいつだったか。
 ワンルームの中央に置かれたテーブルの上に、二つの赤いピアスが載っている。片割れをまだ亜希に返せていない。二つの赤い目が、こちらをじろじろと観察しているようだった。あの赤いピアスを耳に光らせていた日々は、もう遥か昔のことみたいだ。

『──今からキスするけど』

 思い出すな。思い出すな。頭を振る。

『……一、二、』

 どくん、と体の最奥が跳ねる。手触りがありそうなほどの臨場感で、亜希の声が耳元で蘇る。

「あの、嘘つきが……」

 和解した日、亜希はこう言っていた。

『こうやって、また目を合わせて、話ができるなら。それで十分だ』。

 どこがだよ! オレは脳内で吼える。
 着々とステップアップをしてきやがって。こんなのオレは聞いてない。許した覚えもない。
 テーブルの上の、二つの赤い目が尋ねてくる。
 ──それならなんで、キスから逃げない?
 知るか。
 自分自身、わからない。どうしたいのか。亜希とどうなりたいのか。
 だってまだ、たったの一週間なんだ。清水の舞台から飛び降りるには、時間も、気概も、まだ不足し過ぎている。


 長すぎる土日は、メットフリックスとスマホゲームでやり過ごした。昨今メトフリとスマホがあれば、地上の娯楽はほとんど手中に入れたも同然だ。どんな傑作映画を見ても、内容は一切頭に入ってこなかったが。

「聖那ちゃん、魂を家に忘れてきてるよ」

 取りに戻ったら? と隣に立つ小木津がこちらの顔を覗き込んできた。授業と授業の合間の短い休憩時間だ。目の焦点が合わないオレは、机の上に組んだ両腕に顎を乗せたまま、微動だにしない。小木津の軽口も左の耳から右に抜ける。

「おーい。駄目だこれは。危篤だ。危篤状態」

 小木津はまだ戯言を弄している。それでもなお、オレはピクリとも動かない。隣席に亜希の姿はない、飲み物を買いに教室を出ていた。

「古代ローマのオウィディウスは良いことを言ったよね。『恋と咳は隠せない』」

 小木津はうんうんと自分の台詞に満足し、

「恋の病だね」

 勝手に結論した。オレは立ち上がり、小木津の両の頬を思い切り指で捻り上げた。

「勝、手、に、決、め、つ、け、ん、な」

 イテテテと小木津は身を捩っている。

「ぶん殴るぞ」
「その顔で、そんなこと言わないでくれ、」解放された頬をさすっている。「興奮しちゃうだろうが」

 この男は……。まともに言い返すのも馬鹿らしく、寝不足なだけだ、と乱暴に椅子に腰を戻す。オレに裁縫ができたなら、小木津の上下の唇をすぐにでも縫い付けてやるのに。
 今、オレは真剣に思案を巡らせているのだ。今日の帰り道はどうするかと。
 昨日の亜希はマジックのごとき手捌きでオレのマスクを外していた。本当に一瞬だった。末恐ろしい男である。
 このままでは、来週の今頃には、二回瞬きをする間に身ぐるみを剥がされ、五回目の瞬きで抱かれ終わっていてもおかしくない。背筋に冷たい汗が一筋伝う。
 それは、さすがに駄目だ。オレたちはまだ飽くまで「ニュートラル」だ。友人でも恋人でもないニュートラル。裸の付き合いだけは避けねばならない。明らかにそれは一線を越えている──いや、キスも余裕で越えているとは思うが。
 だからと言って、抵抗できるのか? 自問する。くどいようだが、あの<やばい亜希>の猛攻に抗う術を持っていない。このままでは流される。
 ならば、逃げるしかない。変な亜希が発現する前に。三十六計、である。

 その日からオレは一週間ほどのあいだ、川尻駅に電車が到着するや、「また明日!」と言い残してその場から爆走で帰宅するという手法をとった。自転車の亜希は当然オレに後から追いついてくるが、オレの意図を汲んでいるのか、素知らぬ顔で傍らを通り過ぎていく。その耳には黄色いピアス。
 止まれでも進めでもない、半端な色。でもオレはまだここにいたい。このモラトリアムの中に。
 だって恋人同士になるということは──つまり、「そういうこと」だろ? お互い裸になって、言葉にするのも憚られるような、あんなことやこんなことを……。キスされただけで救急車を呼ばれそうになっているこのオレが、そんな状況に耐えうるはずがない。命は一つしかないのである。

***

 彼女は、斉藤花梨(さいとうかりん)と名乗った。
 亜希が教室に自転車の鍵を忘れたというので、肌寒い秋風にさらされつつ校門の前で待っていた。すると風にのって一枚のハンカチがオレの足元に舞ってきた。反射的に拾い上げると、ラベンダーの刺繍の入ったそれから芳しい香りが立ちのぼる。

「すみません、ありがとうございます」

 声のした方を振り返る。絶世の美女、という言葉が咄嗟に脳内に浮かんだのは初めてだった。

「それ、わたくしのです」

 美しくカールしたセミロングの茶髪を耳にかける。そこから覗いた小さな耳は寒さに赤らんでいた。彼女も誰かを待っているのだろうか。
 彼女の美しさを前に無様に凍りついていたオレは、ようやく我に返りハンカチを手渡す。

「ド、ドウゾ」

 ありがとう、とリスのようにつぶらな瞳を細める。その両目からは、どこか芯の強そうな雰囲気も垣間見られた。

「失礼ですけれど、この学校に──」

 彼女が何かを尋ねようとしたとき、その大きな目が更に見開かれた。オレの身体越しに、校舎の方を認めている。そして、彼女はこう叫んだ。

「亜希!」

 ああ、とオレは悟った。全国の美男子と美女は、極秘のルートで全員、繋がりあっているんだと。いいなあ、オレも惜しいところまではいっているはずなんだが。どうやら悲しいことに、オレはその「美人ネット」からは除外されているらしかった。

「……なんでこんなところにいるんだよ、」亜希の苛立ったような声が背後から聞こえた。「花梨」

 花梨――オレの脳裏にいつか見た、亜希のお姉さんからのSNSの内容が蘇った。彼女こそが亜希に『会いたがって』いたという女性なのだ。

「ご、ご親戚かなにか?」

 花梨嬢と亜希という美の双璧に挟まれ、しどろもどろ訊く。花梨嬢は満面の笑みをたたえ、亜希の右腕にしがみついた。

「あら、そちらは亜希のお友達でしたのね。わたくし斉藤花梨と申します。お見知り置きを」
「あ、ハイ。亜希の友達です」

 オレは頷いて名を名乗った。別れ際にキスする仲を「友達」と呼ぶのであればだが、と無音の注釈を入れた。

「親戚かというのは、半分あたり、半分はずれですわ」

 美女は小悪魔的に笑んで意味深なことを言う。このご時世に語尾が「ですわ」の女子が存在するとは驚きだ。

「大はずれだ」

 亜希は生きていること自体が面倒になった、というような表情をしている。花梨嬢が絡ませている腕を振り払おうとしないのは、それすら面倒なのだろう。

「どうして花梨がここにいるんだよ」

 亜希はさっきも言ったことを繰り返す。内容は同じだが、先ほどのものより語気が刺々しい。

「だって亜希ったら、私の送った手紙にもメッセージにも反応なしで、夏休みにようやく帰省したと思ったら、会いに行く前に帰ってしまうんですもの」
「帰省の際には花梨の顔を見なければいけない法律でもあったか?」

 亜希の言うことはもっともだが、美女の喋ることはすべて世界の摂理のようにも聞こえたので、どちらが正しいのかは判じかねた。

「あら、帰省の際に、将来の妻に一目会っていくなんて、誰に言われなくとも当然のことですわ」

 その衝撃的な台詞に愕然とする。

「フィ、フィアンセ、ですか」

 花梨嬢の笑顔が一層増す。それと反比例するように亜希の顔の難色は濃くなった。
 本物の、王子と白雪姫のご登場である。

「ええ」そうなんですの、と歯を見せた妻。未来は超然たる美女。
「くれぐれも相手にするな、聖那」と、取り付く島もないような様子の、夫。未来は見目麗しい弁護士。
 出来過ぎである。もうこの時点で既に、この未来の夫婦と肩を並べて歩いていることに引け目を感じてきていた。

「早く帰れ、花梨」

 亜希の語調は怒気に急かされ幾分速い。

「ご冗談。お泊り道具一式を持ってきましたから、ご安心を」
「あ、そう。ホテルは確か南東の方角にあったはずだから」
「……本気でおっしゃってますの、亜希」

 花梨嬢の頬がここで初めて引き攣った。

「本気でおっしゃってます」

 亜希が無表情にリピートする。
 もう! と堪忍の緒を切らしたように花梨嬢がいきり立った。「亜希の家に泊まっていくに決まってますわ」

 決まってるんだ、とオレは舌を巻く。美女には神から与えられた特別な権限が色々とあるのだろう。彼女にとって思惑通りにならないものなど、この世にはなさそうに思えた。腕を組んで隣を歩いている、この男を除いては。
 帰りの道すがら聞いた話によると、亜希と花梨嬢は家が近所同士の同い年であり、中学までは通う学校も幼稚園も同じ、要するに幼馴染のような関係らしかった。

「じゃあ、また明日」

 亜希が気だるそうに呟いた。その顔からは生気が消え失せている。彼の腕にしがみつく花梨嬢が、吸血鬼よろしく、そこから彼の生命力を吸い取っているようにしか見えない。
 うん、手短に亜希に応ずる。亜希の右腕を掻き抱いている花梨嬢はふわりと笑い、

「ごきげんよう」

 顔の横で、細長い指をひらひらとふる。桜の花弁のように華麗で、華奢な指だった。
 夕闇の中に消えていく二人の背中を見送る。立てば芍薬というやつで、立ち去っていくその後ろ姿も、完璧に美しい二人だ。
 自分の部屋に入り、閉じた扉に背中を預けて、ひとつ溜息を吐き出した。バランスの取れないやじろべえのようにフラフラとベッドに近付き、倒れこむ。同時に埃が舞った。そういや、布団をしばらく干していない。亜希の部屋のベッドではこうはならない。どこまでも出来た男だ。
 制服を床に脱ぎ捨てて、そのへんに脱ぎ散らかされていた寝巻きを着込み、布団に潜り込む。
 それにしても──と、ベッドの上に思案の地図を広げた。それにしても、あの二人は本当にお似合いだった。絵になる二人とはまさにあのことだ。
 神峰亜希という完全無欠の男に、お誂え向きの女性としか思えなかった。彼の隣に並んでも美観を損ねない人物がこの世に存在するとは、なんともはや。
 二人はそろそろ亜希のアパートに到着しただろうか。腕を組んだあの二人がアパートの一室に入っていく様子を見て、彼らが恋人同士だと考えない者はいないだろう。
 亜希はオレのことが好きだと言うが、別に女の子が駄目というわけではない。以前に見た、歴代のガールフレンドのプリクラが犇めき合っていたルーズリーフを思い出す。
 クレオパトラも真っ青の美女、しかも自分に好意を寄せているときた、そんな女性と一夜を共にして、ストイックな態度を保ち続けられる男などいるのだろうか。それこそ、人生で最もテストステロンの分泌量が多いこの時期に。
 不意に、亜希と花梨嬢の睦みあいのようなものを想像してしまった。絵に描いたようなお似合いの二人は、きっと、絵に描いたようなキスやそれ以上のことをするのだろう。キスされただけで救急車を呼ばれかねないオレとは月とスッポンだ。
 いつもオレが腰掛けるローソファの左側に、今日は彼女が座り、いつもオレが寝ていた亜希のベッドの壁際に、今日は彼女が横になる。いつもオレだけを映しているような亜希の黒曜石の瞳に、今日は彼女が映る。オレにキスを降らせる唇が、もしかしたら今日は──

「……だからどうした」

 暗闇の中でひとりごちる。そういえば部屋の電気もつけていなかった。


 気づけば、亜希のアパートの家の前に立っていた。自分の手にはずっしりとした重みの両手鍋。蓋の隙間からスパイシーなカレーの香りが漏れている。
 何をやっているのだ、オレは。
 その自問は百遍はした。しかし居ても立っても居られなかったのだから仕方ない。 
 そういえば、この門扉の前に立つのは久しぶりだ。今、開けても大丈夫だろうか。二人がもう睦み合いのようなことを始めていたら大事だ。

「うほん、げほん!」

 不自然なほど大きい、偽の咳払いを二回する。大丈夫か、入るぞ! 入ろうとしている者がいるぞ! という意思をその咳に込める。
 途端、抱えていた鍋が、目の前のドアによってゴンと叩かれた。

「なにやってんの、お前」

 いぶかしみながら出てきた亜希は、きちんと服を着用していて、胸をなで下ろす。いつものスウェットだ。

「あ、カレーだ」

 亜希の顔の明度が上がる。最初こそ辛い辛いと文句を垂れていたが、今となってはすっかり亜希の好物となっている。

「花梨、主食がご丁寧に歩いてきたから、パスタは作らなくていい」

 亜希が部屋のほうに向かって告げた。どうやら、花梨嬢が夕飯を用意しているようだ。オレは体の向きを変える。

「あ、お嫁さんが夕飯を。失礼しました。では僕は、これにて退散」
「逃がさん、今夜の主食」

 服の襟を後ろから掴まれ、亜希宅へ引き戻される。為す術なく、テーブルを三人で囲む形になった。救いだったのは、招かれざる客であるオレに対し、花梨嬢が少しも疎ましそうな態度をとらなかったことだ。容姿端麗の上に、寛大なのか。

「やっぱり帰るよ、お邪魔虫だし。ここはどうぞ未来のご夫婦、水入らずで……」

 オレの言葉を聞いて、亜希が憮然とした視線を投げてくる。未来の夫婦という単語が気に食わなかったのか。

「お肉はお好きではなかったかしら?」

 エプロンを纏い、料理用のミトンをはめた花梨嬢が、キュートな仕草で首を傾げてオレに問う。その手には炊飯器の保温機能で作ったという艶やかなローストビーフがあった。

「あ、肉は、好きです」美人と話すのは緊張する。
「わたくしもカレーは大好きですわ。よろしければご一緒しましょう」

 オレに断れるわけもない。そもそも自分からのこのことやってきておいて、断る資格もない。
 料理店で出されるものにも見劣りしないローストビーフに見惚れているうちに、花梨嬢がカレーを淑やかな動作で口に運んでいた。

「あっ」

 オレは思わず漏らした。このカレーは激辛だ。亜希も、オレと同じような顔をして彼女を見ている。美女の顔が苦渋に歪むのは見たくなかった。
 花梨嬢は、ぱっと口元をあいている左手で覆った。せめて水をと思い、オレが席を立とうとしたとき、

「おいしい……! おいしいですわ。これは聖那さんが作られたのかしら」

 オレはもちろん、亜希までもが呆気に取られている。

「辛くないのか?」亜希が言いながら、一口味を見る。同時にむせた。「うわ、辛っ」
「あら、ご存知ないの? わたくしは大の辛い物好きですのよ」

 亜希は口に水を含みながら、

「そういや、花梨、学校は」
「お休みしてますわ」

 彼女は実にあっけらかんと答える。

「ラーケーション制度ってご存知? 校外での学びのためなら、事前に申請すれば欠席扱いにならない制度」
 オレは首を傾げた。「『校外での学び』?」
「花嫁修行ですわ。三日間のお休みをいただきました」

 芙蓉のように口元を綻ばせる。そこまでして亜希に会いに来たのか。惚れて通えば千里も一里というやつなのだろう。
 食事中にも花梨嬢はパタパタとよく動き回り、甲斐甲斐しく給仕をしてくれた。オレはほとほと感心してしまう。

「いい奥さんになりますなあ、本当」
「聖那さんたら、お上手ね」

 亜希が傍らで拗ねるようにオレを睨んでいるのには、気づかないふりをする。


 映画でも見ましょう、と提案したのは花梨嬢だった。テレビのリモコンを用いてメットフリックスを立ち上げる。

「どれが面白いんです?」

 亜希の機嫌が優れないのを嗅ぎ取っているらしい花梨嬢は、オレに問うてきた。

「えーと、そうですね、やっぱり『メトロ』かな」

 そう、と小さく漏らした花梨嬢は、『メトロ』にカーソルを合わせて決定ボタンを押した。繰り返し見たオープニングが流れ出す。展開も、ところどころは台詞さえ空で言えるほどわかりきった内容だが、それでもこの映画は涙腺を刺激してくる。
 オレが洟をすすりはじめ、まなじりに涙を浮かばせはじめたところで、花梨嬢は突如、席を立った。『メトロ』、最大の佳境の最中にである。

「お風呂に入ってきますわ」

 彼女は言った。その美しい瞳にも、オレと同様に涙が光っていた。それにもかかわらず風呂場へあっという間に消えた彼女を見て、オレは涙も忘れて唖然とする。『メトロ』の山場を無視できる人間を初めて見た。ここまできて、あなたも泣いているのに、どうして風呂へ行ってしまうの? ここからが一番面白いのに。
 言葉を発せないオレを差し置いて、亜希が代弁するかのように口を開いた。

「九時だから」
「は?」
「九時に、あいつは風呂に入るって決めてる」
「え?」
「風呂に入ることが不可能な状況じゃない限り、必ず、九時に風呂に入る」
「なんだそれ」
「詳しくは知らん」そうして、大きくひとつ欠伸をした。「でも、昔からそうなんだ」
「へ、へえ」と相槌を打つほかない。「女の子って、不思議な生き物だ」
「それで、きっかり一時間経ったら、出てくる」
「絶対?」
「絶対」亜希は断乎として言い切る。「十時になったら出てくる」
「ほーお」目を眇めて亜希を見る。「さすがは幼馴染。お風呂事情まで知り尽くしているとは。さすがは許婚」

 亜希の目元が苛立ちで曇ったのには気付いたが、オレは立板に水で捲し立てる。

「花梨さん、素晴らしい子じゃないか。身の回りのこともしっかりできるし、言動は淑やかだし、拗ねたふりはするけど怒りっぽくもないし、美人なのはもちろんスタイルだって抜群だし」

 湊をもう一度すすった。

「なにより、女の子だし」

 オレと違って。
 何もかもが、オレと違う。彼女こそ、神峰亜希という非の打ち所がない男の横に、寄り添うべき存在に思えた。
 亜希から目をそらす。
 何を言ってるんだろう、オレは。こんなこと言うために、来た訳じゃないのに。
 久しぶりに亜希と食卓を囲んで、花梨嬢が抜けてやっと二人になれた。積もる話もあるんじゃないのか。でも今は、映画のBGMと、花梨嬢のシャワー音だけが、むなしく室内にこだましている。
 赤いピアスをしていたころは、会話の継ぎ穂を探そうと思ったことなんてなかった。話したいことは次から次へと湧き、ふとしたときにおりる沈黙にも、気まずいと感じたことはない。
 オレたちはこんなとき、どんな話をしていたんだっけ。どんなふうに笑い合っていた? どうして、もう思い出せないんだろう。
 間がもたなくなって、テーブルにあった水を飲みほした。

「やっぱり、駄目なのか」

 亜希が、心ここにあらずといった感じで呟いた。えっ、とオレは顔を上げる。思わず、手に持っていたコップを落としそうになった。

「やっぱり駄目かな、俺たち」

 何がって、そう言い掛けたのに、息が詰まった。亜希の目はこちらを見ず、遠い。

「ごめん、聖那」

 亜希の瞼が少し伏せられた。その睫毛が真っ直ぐに空間を切る。
 なんで謝る。なにに謝ってる。
 ここでようやくその遠い目が、オレを見た。決して、冷然としてはいなかった。穏やかでさえあった。

「ごめんな」

 好きになって。二人の関係を変えてしまって、ごめん。そう聞こえた。
 俺たち、もう、駄目かな。
 亜希の目が、そんなふうに言っている。
 当たり前みたいに無邪気に笑いあった、触れ合った、くすぐり合った、あんなふうにはもう、戻れない。戻れないんだ。
 亜希と遅くまで映画を見て、髪を乾かしてもらって、眠くなるまで話をした。全てが平穏で幸福で、何もかもが完璧だったあのときの二人には、もう戻れない。
 さようならなんだ。
 友情から恋は不可逆だ。一方通行。もう決して赤にはならない、イカれた信号機だ。
 だから、泣けてしまう。戻れないことがわかるから。
 心の中で亜希を思う時、以前はただ嬉しかった。幸せだった。でも今は、亜希を思うと苦しいんだ。どうしたらこの苦しみから逃げられる? なんの参考書を見ればいい。どこにも載っていない。誰も教えてくれない。だからわからないんだ。
 亜希はどうしてそんなに強いんだ。オレはお前と違って弱いから、馬鹿だから、どうしたらいいかわかんないよ。
 涙がぽろりと出た。こうなったらもう駄目だ。堰を切ったように涙が溢れ出て、止まらなくなる。
 うっ、と嗚咽を噛み殺しながら、腕で目を覆った。袖で乱暴に涙を拭う。悔しい。悲しい。たまらない。

「聖那、」

 亜希がうろたえたように、オレにそっと腕を伸ばす。そして躊躇いながらも、抱きしめてきた。

「泣かせたい訳じゃないんだ」

 オレだって泣きたいわけじゃない。こんな格好悪いところばかり、本当なら見せたくない。

「……出会った日と同じ、フラットな気持ちに、戻れたらと思うこともある。何度もある」

 亜希の両腕の力が強まる。間断なく伝うオレの涙が、亜希の鎖骨のあたりを濡らしていた。

「でも、そんなの無理だ。息をする回数だけ、お前を想ってる。聖那を想わずに生きるのは、生きていないのと同じだ。だからいつかは、きっとこうなるしかなかった」

 恋は咳と同じ。隠してはいられない。夏の終わりまでは秘められていた亜希の想いだって、いつかはどこかでオレに伝わったはずだ。

「好きなんだ、聖那。ごめん。どうしようもないんだ」

 その声を聞きながら、やっぱりまだ何も決めきれないオレは、ただ亜希の腕の中で弱々しくうち震えている。
 だけど本当は、気付いていた。亜希の口から「花梨」という単語が発されるたび、じりじりと胸が焼けている自分に。
 無邪気に笑い合った、あの日々に戻りたい。でも戻りたくない。キスされたくない。でもキスされたら、一晩中それを思い出している。オレは何がしたい。わからない。
 恋とはかくも、難しいのか。恋とはかくも、苦しいのか。息を吸っても、吐いても、痛い。
 ──オレも亜希も、確かに危篤だ。