「いって」
シャンプーが目にしみた。急いでシャワーで洗い流す。このAIの時代になってもなお、シャンプーが目にしみるのは何故なのだ。
はあ、と溜息を吐き出す。目の痛みが改善したからではない。帰宅してから今までの数時間で、口から産出された溜息の数はゆうに千を超えていた。
湯船に浸かり、そっと自分の口元に触れる。先刻、亜希の唇がかすめた場所だ。
──なんで別れ際ばかり、あんなことするんだ。
そのせいで翌朝まで頭から亜希の顔が離れなくなる。いやむしろ、それを狙っているのか。故意犯なのか。
『……俺のものに、なったらいいのにな』
湯の中に頭まで潜り、ゴジラのような咆哮をあげる。ブクブクブク、と湯船の湯が細かな爆発をたくさん起こした。
酸欠寸前で水中から離脱し、肩で息をする。鏡が湯気で曇っていて良かった。ゆでダコのように赤面している情けない姿を見ないで済む。
俺のものに……と言われた時点でオレは既に前後不覚になっていたのに、その上、耳元で、好きだと告げられた。
神峰亜希という、神の寵愛を一心に受けし男にあのようなことを囁かれて、愛の言葉をかけられて──要するに、口説かれて──正気を保っていられる人間などいるはずがない。男も女も、老いも若きも関係あるもんか。世の中に絶対などないとよく言うが、これは絶対だ。
あの後、亜希は特にこだわる様子もなく、すぐに体を支離して「じゃあ、また明日」と去っていった。実にあっさりとしたものだ。オレはそのまま玄関に座り込み、小一時間は動けなかったというのに。こちらとしては、とんだ時限爆弾をしかけられた気持ちになる。
濡れた両手で顔を覆う。
「……死ぬ……」
明日からは、あの<やばい亜希>を発現させないように、微に入り細を穿ち、慎重に行動しなければ。でないと、親より先に死ぬ。
あの亜希は「格好良い」だとか「イケメン」だとか、そのような生優しいものではない。
一種の殺人兵器だ。
***
今朝の空は雁の腹のような厚い雲に覆われていた。昼間から夕方にかけての降水確率は五割を超えており、当然のように亜希は徒歩で姿を現した。学校に折り畳み傘を常備しているので、その手に傘はない。
「……風邪?」
アパートの前で亜希を待っていたオレを見て、眉根に困惑の色を載せた。
「いえ、元気です」
口元に大きな不織布マスクを装着しているオレは、亜希の半歩先を歩き出す。また昨日のように、防御する間もなくキスをされたらたまらない。あれはルパンも顔負けの素早さだった。本当なら額も防御するために、もう一枚マスクを使って顔の上部も覆い隠したかったが、ミイラ男のようになるうえ視界も塞がれるので諦めるしかなかった。
「なら、なんでマスク」
「あのさ、」
亜希の問いには答えず、オレは前を向いたまま喋りだす。
「……き、昨日みたいなことを言うときは、事前に、予告しろ。確認しろ」
そうでないと、心臓がもたない。
「昨日みたいなこと」
オレの言葉を素朴な口調でオウム返しにしている。
「だからその、『綺麗』だとか……『好き』だとか」
たったこれだけの会話で、緊張で変な脂汗をかいた。ああ、と亜希は得心したふうだが、
「『今から好きだと言わせていただきますが、よろしいでしょうか』って?」
そして考え込むように何秒か曇天を見上げる。
「それって、同じ意味だろ」
「うるさい。口答えするな」
オレはぴしゃりと叱る。それからあの変な亜希も出すなよ、という文句も喉元まで出かかったが、なんとか飲み込んだ。どうせまた頓狂な顔をされるだけだ。
「でも良かった」
亜希がオレの隣に追いつき、爽やかな微笑でこちらを覗き込んできた。
「『好きって言うな』とは言われなくて」
両頬が熱を帯びたのは、マスクで隠せただろうか。「……できれば、言うな!」
「善処いたします」
亜希はその長い足で颯爽とオレを追い越していく。「善処します」は、どちらかといえば断りの文句だろうが、とオレは難色を示す。
そもそも今の亜希は、どっちの亜希なのだ。境目がわからなくなってきた。ハイブリッド型か?
**×
幸運なことに、通勤ラッシュの電車で今日は座席に座ることができた。通学バッグからスマホを取り出し、最近始めたパズルゲーム「パズ虎」のアプリを起動する。パズルを巧みに解くことで強力な技を繰り出すことができ、敵を撃破していくゲームだ。ちなみに小木津はこのゲームがプロ並みに上手い。
隣に座る亜希が横から覗き込んできた。
「俺にもやらせて」
「えっ」思わずオレは手を止めた。「珍しい。亜希がゲームやりたがるなんて」
亜希がスマホゲームに興じているところなど見たことがない。
スマホを亜希に手渡すと、ぎこちない手つきで画面に指を這わせ始めた。数十秒で、不協和音のメロディと共に「ゲームオーバー」の文字が舞う。オレはマスクの下で噴き出した。
「絶望的に下手だな」
「そう。俺は、実はゲームが下手なんだ」
亜希はあっさり認め、子どもが計数するように親指を折り、
「それから、虫も苦手」さらに人差し指を折る。「風呂場にダンゴムシが出た時は、危うく裸のまま聖那に助けを求めかけた」
「……き、急に何を言い出すんだよ」
「いいから最後まで聞け」
そう言って中指を折る。
「そして、本当は音痴でもある。学校の音楽は全部口パクでやり過ごしている」
オレは勢いよく顎を突き出した。「まじ?」
亜希は照れ隠しをするように薄く笑った。
「今まで、黙ってた。聖那に嫌われたくなくて」
オレにスマホを返してから続ける。
「みんな俺を完璧な男だなんて言うけど、全然そんなことない。必死に格好つけてるだけなんだ。好きな相手一人、振り向かせられないでいるくらいなんだから」
そう言ってオレの目を見る。うなじが熱くなるのを感じた。
「ま、また『好き』とかそういう――」
予告しろって言っただろうが。
「これはノーカン。聖那に向けて言ってない。独り言」
衒いのない口ぶりで、屁理屈めいたことをのたまっている。
「なんで急に、って言ったよな。聖那に、知っててほしいと思ったんだ。俺は完璧な男じゃないって。『完璧なふりをしてる神峰亜希』を好かれても困るから」
亜希は窓に後頭部を凭れて、ふー、と長く息を吐き出した。
「言うの、ちょっと緊張した」甘やかな声色とともに、こちらに目線を投げてきた。「……俺のこと、嫌った?」
オレは下がりかけたマスクを目元まで上げる。馬鹿なやつだな、と思った。
「……嫌うわけないだろ、そんなことで」
よかった、とハイブリッド型の亜希が微笑んでいる。ほんと馬鹿だな、この男は。
***
学校の廊下で、不可解なものを発見した。
大和祭の、十組の宣伝ポスターだ。一見ではなんの変哲もない、「白雪姫」と洒落た字体で書かれたポスター。その字の周りを、黒いシルエットの小人たちや姫、そして毒りんごと思しき果実が囲っている。
場所は、大講堂とあった。ヤマ高の敷地内で最も多くの人数を収容できる施設である。
その下に配役がある。王子、神峰亜希。白雪姫、
「あれ」
オレは思わず声をあげた。
白雪姫の横、つまり生徒の名を記すべき場所には厚紙が厳重に貼られていて、名前が見えないようになっている。そこには田崎の名前があるはずだ。
ははあ、とオレは悪質な笑みをマスクの下で作る。
聖那様党の空襲を怖れたわけだ。学校全体が、白雪姫は十王聖那が演じるとすっかり思い込んでいるのだろうが、実のところそうではない。本番直前まで秘匿しておき、集客を図る作戦なのだろう。開演してしまったあとはもう、野となれ山となれである。
学園祭を控えて、学内はにわかに慌しくなっていた。
「……完成だ」
昼休みに、教室で拳を高々と突き上げたのは小木津だった。彼は脚本兼監督をすすんで買って出ていた。基本的に彼はお祭り好きなのだろう。
小木津は恍惚と原稿を見つめる。白雪姫の脚本が出来上がったらしい。
「どれどれ」
この聖那様の眼鏡にかなうかどうか、出来立ての原稿に目を走らせた。
「あれ、聖那ちゃん風邪?」小木津が言う。
それには亜希が答えた。「いや、元気らしい」
「なら、なんでマスクなの」
「歯列の矯正を始めたんだ」
「聖那の話は半分が嘘だな」
亜希が呆れるが、「お前だけには言われたくない」と応酬する。
脚本に目を落とす。序盤は順調に進んだ。王道かつ無難なストーリーが展開される。定石通りすぎて面白みに欠けるともいえるが、これを全員男子が演じるとなれば、それなりに見物にもなるのだろう。
「白雪姫の類話はいっぱいあってさ、結構苦労したんだ。そもそもグリム童話の原作では王子が姫にキスしない。眠った姫を運んでいた召使が躓いた拍子に、白雪姫が林檎を吐き出して蘇生するんだ。それの何が面白いのか教えてくれよ」
小木津は熱弁する。
「なので、かなり脚色を加えました」
「おい、これキスしすぎだろ」文章を流し読みし、オレは苦言を呈す。「過剰な脚色だ」
文中には、白雪姫の目覚めから完結までのわずかな間に、三回もキスシーンがある。無駄だ、無駄すぎる。
まずは王道なところで、目覚めのキス。これは外せない。白雪姫を舞台にするにあたって、欠かせない場面だ。
次に、王子が目覚めた姫にこう詠嘆する。
『王子「ああ、なんて美しいんだ、白雪姫。陶磁器のように白い肌、黒檀のように黒くしなやかな髪。」
(ここで王子がもう一回チュー)』
その後、大団円を迎えるシーンでも王子は姫に口付けを迫る。王子、ただの破廉恥漢である。
「年齢制限がつくぞ」愛想を尽かしたように亜希は脚本を投げ捨てる。「大体、こんな脚本なら俺はやらないからな」
「ひでえ、せっかくの作品を!」
小木津は不承不承、シャーペンを持ち直して推敲を始めた。
放課後になり、推敲を終えた脚本を用いて早速練習が始まった。衣装はまだ手芸部や販売先に発注をかけたばかりなので、全員が制服姿だ。
先日のロングホームルームで、オレは音響の仕事につくことが決まっている。以前、ともに下校をしたことのある田中の妹が白雪姫のサウンドトラックCDを持っているとのことで、それを借用した。
机を前に送った教室で、台本を片手に生徒たちが各々のセリフを読み上げていく。「白雪姫」最大の山場といえる、姫の目覚めのシーンではこんな質問が飛び出した。
「なあこれ、本当にキスすんの? フリじゃダメ?」
姫役の田崎だった。清潔感のある黒い短髪を載せた丸顔が、大きく歪む。
「オレはまだ死にたくない」
アキセナ党からの奇襲を危惧している。
その重大な質問の答えを催促するように、クラスのほぼ全員が、監督である小木津のほうへ視線を向けた。
「当然です。嘘は嫌いだからね」
田崎の悲愴さが加速した。「とりあえず、先に遺書だけ書かせてくれ」
「だから聖那がやるべきなんだろ、」眉間に皺を刻んでいるのは亜希だ。「田崎が人身御供だ」
「う……うるさい」
オレは亜希の方を見ずに、CDケースに記された曲名たちに目を落とすふりをする。さも、音響の仕事に精を出しているかのように。
「唇の間に、ラップでも敷けば」
「ダメ、ダメ、そんなの」
オレの提案は監督によって即刻却下される。
「アキセナ党をはじめとした集団からの報復は何か対策しておく。とにかく、本気でやれ」
「リハではフリでいいよな」
田崎は半泣きだ。いや、本当に、彼には衷心より謝罪したい。
「まあ、よしとしよう」
「なんでそんなに偉そうなんだ」
と亜希はぼやいてから、屈んで田崎に顔を近づけた。田崎の顔が翳る。息を止めているからなのか、亜希の彫刻顔が至近距離に迫ったからなのか、彼の顔が赤くなった。その様子に、幾人かから微笑ましげな笑いが漏れた。
ある程度顔を近づけられたところで、田崎がおずおずと目を開いた。それを受けて亜希が素の声色のまま言う。
「お目覚めですか、姫」
くっ……という、感嘆だか、苦悶だか、よくわからない呻きがいたるところで聞こえる。その気持ちもわかった。あれは、ハマりすぎだ。
「……オレ、お前になら抱かれてもいいわ……っ」
田崎が顔を両手で隠す。むろん、そのような台詞は台本には無い。爆笑が包んだ教室内で、亜希だけはシニカルに「俺はお断りだ」と気難しい顔をしていた。
***
星が綺麗な夜だった。
劇の練習によりいつもより大幅に下校時刻が遅れ、川尻駅に着いたときには辺りはすっかり闇に包まれていた。
天気予報は見事に外れ、朝少し曇っていただけで、昼間からはからりと晴れあがっていた。街頭やビルの少ない田舎であることも相俟って、星がとてもよく見える。雨は降らなかったが、星は降った。
「綺麗だな、星」
並んで歩く亜希に話しかける。彼も同じように頭上をあおいでいた。オレは夏の大三角形の一つを指差し、
「デネブ。あれ、二千六百年前の光だぞ。古代ギリシャ時代の光だ」
すごいよなあ、不思議だよなあ、と素直に感動する。マスクのせいでくぐもった声になってしまう。
「それ、マスク」
亜希は早々と夜空から視線を外していた。大して星には興味がないらしい。
「なんのため?」
ぎく、とオレは動きを止める。せっかく、満天の星空を堪能していたところなのに。
「……歯列矯正」
「なら、口開けて見せてみろ。どんな矯正器具を付けたのか興味がある」
性悪め、と腹の中で毒づきながらも、観念して理由を白状する。
「あ……亜希が、すぐキスとか、するからだろ」
「ふーん」
「……だから、防具としてだな……」
あー、嫌だ。
なんか、また妙な雰囲気になってきた。性懲りもなく顔面が熱を持つ。
亜希は相変わらず淡々とした口ぶりだ。
「いいの? 田崎の件は」
「はあ?」
「俺とキスすることになっても」
「どうぞどうぞ、ご自由に」努めて、声に力を漲らせる。
「あ、そう」
亜希は面白くなさそうだ。小癪な、とでも言いたげな目線をしていたが、近くの石塀に背中を預けて再び星空を見上げた。
「確かに、横浜よりは綺麗だ」
オレも同じように隣に並ぶ。「仙台も似たようなもんかな、横浜と。ビルが多いし、空が狭い」
「おいおい、」亜希が大仰に肩の位置を高める。「横浜と仙台を一緒にするなよ」
「どっちも政令指定都市だろ」
「人口は横浜が三倍だ。監察医制度もある」
「そりゃ、死んだときは安心だな」オレは皮肉る。「誰かに殺されそうになったら、横浜に逃げよう」
監察医制度はないが、仙台には牛タンがある、と反論したくもなる。牛タンの素晴らしさは監察医制度と比較しても引けを取らないはずだ。
第一、横浜市民はなぜかプライドが高い、オレの統計によればだが。なお、この統計の調査に参加した人数は、横浜市民である神峰亜希、一名のみである。
「聖那」
ん? と夜空から亜希に視界をうつす。
「それ、マスク、外して」
藪から棒とはこのことだ。
「な、」泡を食って両の手でマスクを押さえつけた。「なんで」
亜希は、石塀に貼りついていたオレの背中を剥がし、その身に引き寄せた。両手をマスクの保護に使用しているため、口元は死守できているが、それ以外は無防備だ。なされるがまま、体の前面同士の距離がゼロになる。
「なんでだと思う?」
「な、なんでって……」
反問してくるな。一気に鼓動が早まる。
「いっ、今、星とか、横浜の話をしてたのに、なんで突然」
なんで急に出てくるんだよ、変な亜希が。
「突然じゃない、俺にとっては」
そう言って、額に触れるだけの口付けを降らせてくる。オレは例によって、硬直する。
「毎秒、聖那に触れたいと思ってる。だから全然、急じゃない」
そしてその白い手指で、オレの金の前髪に触れる。ガラス細工を扱うような繊細な手つきだ。
「……金色、星の色」
よく似てる、と亜希が美しく破顔する。目の毒とも思える、そのぞっとするほどの妖艶さに、息を呑む。
目を逸らしたい。だけど、逸らせない。瞬きすら忘れる。暴れる心臓の音が、どうか亜希に伝わっていないといい。
亜希の髪や瞳は、夜空と同じ色だ。オレの髪色が星だとして、だからこそ、離れられずにいるのだろうか。星は夜空でしか輝けない。
亜希に、シャム猫のようと例えられた碧眼。星の色だと称されたブロンドの髪。悪目立ちの原因としか思えなかった、人とは違ったその二つが、亜希の言葉だけで誇らしいものに変わる。亜希が「綺麗だ」と言ってくれたから、この容姿に生まれついて良かったのかもしれないと、人生で初めて思えた。十五年間もオレを縛り付けていた卑屈な価値観は、亜希のたった一言で、魔法のように解ける。
今度は、左の瞼にキスされた。
「……好きって、言ってもいい?」
顔が融けそうだった。彼の息づかいの温度を感じるほどの至近距離だ。
そういうことを言う前に予告しろと指示したのは確かにオレだけど、やっぱり、口をぱくぱくとするばかりで、何も返せない。絶句したまま、ただ赤らんだ顔をマスクから覗かせているオレを見て、亜希は小さく笑った。
「だから言った。同じ意味だって」
いつもの亜希に戻ってほしい。この亜希とは、うまく話ができない。見惚れることしかできなくなる。こんな亜希も、こんな自分も知らない。
そのうちに、気づけば地面にマスクが落ちていた。いつの間に外されたのか。
「──今からキスするけど、」
オレの頬に亜希の左手が添えられ、腰に右腕が回る。そのいずれもが、逃げようと思えば逃げられるくらいの力だった。
「三つ数えるから、嫌だったら、逃げて。いつもみたいに噛んだり、肘鉄して」
ずるい。
そう思った。逃げ道を用意するのはずるい。こちらに選択肢を与えるのは、ずるい。昨日まではルパンみたいに、オレの諾否も聞かずに盗んでいったくせに。
オレが逃げなかったら、まるで許したみたいじゃないか。
一歩も動けないでいる。だってこんな男に、神峰亜希という男に、この距離で見つめられて、口説かれて──正気を保てる人間がいるはずない。
だから、動けないのはオレだけじゃないんだ。きっと全人類、ここから逃げられない。
「……一、二、」
最後のカウントのかわりに、唇が落ちてくる。腰に回った腕に力が加わり、自分と亜希の境界線がわからなくなる。
何度も角度を変えながら、二つの唇が重なった。がなる心臓の音だけが耳元で聞こえる。
息を吸うために、一秒、キスから逃れる。
「あ……亜希、」
またすぐに吐息を塞がれた。
亜希──亜希。亜希。
頭がその名前だけで埋まる。心の中で何度も、その名を呼んだ。
心臓が肋骨を殴打している。胸が苦しくて、息が吸えなくて、頭が熱くて、死にそうだ。
殺人兵器に──亜希に、殺される。
いっそ、横浜に逃げようか。
シャンプーが目にしみた。急いでシャワーで洗い流す。このAIの時代になってもなお、シャンプーが目にしみるのは何故なのだ。
はあ、と溜息を吐き出す。目の痛みが改善したからではない。帰宅してから今までの数時間で、口から産出された溜息の数はゆうに千を超えていた。
湯船に浸かり、そっと自分の口元に触れる。先刻、亜希の唇がかすめた場所だ。
──なんで別れ際ばかり、あんなことするんだ。
そのせいで翌朝まで頭から亜希の顔が離れなくなる。いやむしろ、それを狙っているのか。故意犯なのか。
『……俺のものに、なったらいいのにな』
湯の中に頭まで潜り、ゴジラのような咆哮をあげる。ブクブクブク、と湯船の湯が細かな爆発をたくさん起こした。
酸欠寸前で水中から離脱し、肩で息をする。鏡が湯気で曇っていて良かった。ゆでダコのように赤面している情けない姿を見ないで済む。
俺のものに……と言われた時点でオレは既に前後不覚になっていたのに、その上、耳元で、好きだと告げられた。
神峰亜希という、神の寵愛を一心に受けし男にあのようなことを囁かれて、愛の言葉をかけられて──要するに、口説かれて──正気を保っていられる人間などいるはずがない。男も女も、老いも若きも関係あるもんか。世の中に絶対などないとよく言うが、これは絶対だ。
あの後、亜希は特にこだわる様子もなく、すぐに体を支離して「じゃあ、また明日」と去っていった。実にあっさりとしたものだ。オレはそのまま玄関に座り込み、小一時間は動けなかったというのに。こちらとしては、とんだ時限爆弾をしかけられた気持ちになる。
濡れた両手で顔を覆う。
「……死ぬ……」
明日からは、あの<やばい亜希>を発現させないように、微に入り細を穿ち、慎重に行動しなければ。でないと、親より先に死ぬ。
あの亜希は「格好良い」だとか「イケメン」だとか、そのような生優しいものではない。
一種の殺人兵器だ。
***
今朝の空は雁の腹のような厚い雲に覆われていた。昼間から夕方にかけての降水確率は五割を超えており、当然のように亜希は徒歩で姿を現した。学校に折り畳み傘を常備しているので、その手に傘はない。
「……風邪?」
アパートの前で亜希を待っていたオレを見て、眉根に困惑の色を載せた。
「いえ、元気です」
口元に大きな不織布マスクを装着しているオレは、亜希の半歩先を歩き出す。また昨日のように、防御する間もなくキスをされたらたまらない。あれはルパンも顔負けの素早さだった。本当なら額も防御するために、もう一枚マスクを使って顔の上部も覆い隠したかったが、ミイラ男のようになるうえ視界も塞がれるので諦めるしかなかった。
「なら、なんでマスク」
「あのさ、」
亜希の問いには答えず、オレは前を向いたまま喋りだす。
「……き、昨日みたいなことを言うときは、事前に、予告しろ。確認しろ」
そうでないと、心臓がもたない。
「昨日みたいなこと」
オレの言葉を素朴な口調でオウム返しにしている。
「だからその、『綺麗』だとか……『好き』だとか」
たったこれだけの会話で、緊張で変な脂汗をかいた。ああ、と亜希は得心したふうだが、
「『今から好きだと言わせていただきますが、よろしいでしょうか』って?」
そして考え込むように何秒か曇天を見上げる。
「それって、同じ意味だろ」
「うるさい。口答えするな」
オレはぴしゃりと叱る。それからあの変な亜希も出すなよ、という文句も喉元まで出かかったが、なんとか飲み込んだ。どうせまた頓狂な顔をされるだけだ。
「でも良かった」
亜希がオレの隣に追いつき、爽やかな微笑でこちらを覗き込んできた。
「『好きって言うな』とは言われなくて」
両頬が熱を帯びたのは、マスクで隠せただろうか。「……できれば、言うな!」
「善処いたします」
亜希はその長い足で颯爽とオレを追い越していく。「善処します」は、どちらかといえば断りの文句だろうが、とオレは難色を示す。
そもそも今の亜希は、どっちの亜希なのだ。境目がわからなくなってきた。ハイブリッド型か?
**×
幸運なことに、通勤ラッシュの電車で今日は座席に座ることができた。通学バッグからスマホを取り出し、最近始めたパズルゲーム「パズ虎」のアプリを起動する。パズルを巧みに解くことで強力な技を繰り出すことができ、敵を撃破していくゲームだ。ちなみに小木津はこのゲームがプロ並みに上手い。
隣に座る亜希が横から覗き込んできた。
「俺にもやらせて」
「えっ」思わずオレは手を止めた。「珍しい。亜希がゲームやりたがるなんて」
亜希がスマホゲームに興じているところなど見たことがない。
スマホを亜希に手渡すと、ぎこちない手つきで画面に指を這わせ始めた。数十秒で、不協和音のメロディと共に「ゲームオーバー」の文字が舞う。オレはマスクの下で噴き出した。
「絶望的に下手だな」
「そう。俺は、実はゲームが下手なんだ」
亜希はあっさり認め、子どもが計数するように親指を折り、
「それから、虫も苦手」さらに人差し指を折る。「風呂場にダンゴムシが出た時は、危うく裸のまま聖那に助けを求めかけた」
「……き、急に何を言い出すんだよ」
「いいから最後まで聞け」
そう言って中指を折る。
「そして、本当は音痴でもある。学校の音楽は全部口パクでやり過ごしている」
オレは勢いよく顎を突き出した。「まじ?」
亜希は照れ隠しをするように薄く笑った。
「今まで、黙ってた。聖那に嫌われたくなくて」
オレにスマホを返してから続ける。
「みんな俺を完璧な男だなんて言うけど、全然そんなことない。必死に格好つけてるだけなんだ。好きな相手一人、振り向かせられないでいるくらいなんだから」
そう言ってオレの目を見る。うなじが熱くなるのを感じた。
「ま、また『好き』とかそういう――」
予告しろって言っただろうが。
「これはノーカン。聖那に向けて言ってない。独り言」
衒いのない口ぶりで、屁理屈めいたことをのたまっている。
「なんで急に、って言ったよな。聖那に、知っててほしいと思ったんだ。俺は完璧な男じゃないって。『完璧なふりをしてる神峰亜希』を好かれても困るから」
亜希は窓に後頭部を凭れて、ふー、と長く息を吐き出した。
「言うの、ちょっと緊張した」甘やかな声色とともに、こちらに目線を投げてきた。「……俺のこと、嫌った?」
オレは下がりかけたマスクを目元まで上げる。馬鹿なやつだな、と思った。
「……嫌うわけないだろ、そんなことで」
よかった、とハイブリッド型の亜希が微笑んでいる。ほんと馬鹿だな、この男は。
***
学校の廊下で、不可解なものを発見した。
大和祭の、十組の宣伝ポスターだ。一見ではなんの変哲もない、「白雪姫」と洒落た字体で書かれたポスター。その字の周りを、黒いシルエットの小人たちや姫、そして毒りんごと思しき果実が囲っている。
場所は、大講堂とあった。ヤマ高の敷地内で最も多くの人数を収容できる施設である。
その下に配役がある。王子、神峰亜希。白雪姫、
「あれ」
オレは思わず声をあげた。
白雪姫の横、つまり生徒の名を記すべき場所には厚紙が厳重に貼られていて、名前が見えないようになっている。そこには田崎の名前があるはずだ。
ははあ、とオレは悪質な笑みをマスクの下で作る。
聖那様党の空襲を怖れたわけだ。学校全体が、白雪姫は十王聖那が演じるとすっかり思い込んでいるのだろうが、実のところそうではない。本番直前まで秘匿しておき、集客を図る作戦なのだろう。開演してしまったあとはもう、野となれ山となれである。
学園祭を控えて、学内はにわかに慌しくなっていた。
「……完成だ」
昼休みに、教室で拳を高々と突き上げたのは小木津だった。彼は脚本兼監督をすすんで買って出ていた。基本的に彼はお祭り好きなのだろう。
小木津は恍惚と原稿を見つめる。白雪姫の脚本が出来上がったらしい。
「どれどれ」
この聖那様の眼鏡にかなうかどうか、出来立ての原稿に目を走らせた。
「あれ、聖那ちゃん風邪?」小木津が言う。
それには亜希が答えた。「いや、元気らしい」
「なら、なんでマスクなの」
「歯列の矯正を始めたんだ」
「聖那の話は半分が嘘だな」
亜希が呆れるが、「お前だけには言われたくない」と応酬する。
脚本に目を落とす。序盤は順調に進んだ。王道かつ無難なストーリーが展開される。定石通りすぎて面白みに欠けるともいえるが、これを全員男子が演じるとなれば、それなりに見物にもなるのだろう。
「白雪姫の類話はいっぱいあってさ、結構苦労したんだ。そもそもグリム童話の原作では王子が姫にキスしない。眠った姫を運んでいた召使が躓いた拍子に、白雪姫が林檎を吐き出して蘇生するんだ。それの何が面白いのか教えてくれよ」
小木津は熱弁する。
「なので、かなり脚色を加えました」
「おい、これキスしすぎだろ」文章を流し読みし、オレは苦言を呈す。「過剰な脚色だ」
文中には、白雪姫の目覚めから完結までのわずかな間に、三回もキスシーンがある。無駄だ、無駄すぎる。
まずは王道なところで、目覚めのキス。これは外せない。白雪姫を舞台にするにあたって、欠かせない場面だ。
次に、王子が目覚めた姫にこう詠嘆する。
『王子「ああ、なんて美しいんだ、白雪姫。陶磁器のように白い肌、黒檀のように黒くしなやかな髪。」
(ここで王子がもう一回チュー)』
その後、大団円を迎えるシーンでも王子は姫に口付けを迫る。王子、ただの破廉恥漢である。
「年齢制限がつくぞ」愛想を尽かしたように亜希は脚本を投げ捨てる。「大体、こんな脚本なら俺はやらないからな」
「ひでえ、せっかくの作品を!」
小木津は不承不承、シャーペンを持ち直して推敲を始めた。
放課後になり、推敲を終えた脚本を用いて早速練習が始まった。衣装はまだ手芸部や販売先に発注をかけたばかりなので、全員が制服姿だ。
先日のロングホームルームで、オレは音響の仕事につくことが決まっている。以前、ともに下校をしたことのある田中の妹が白雪姫のサウンドトラックCDを持っているとのことで、それを借用した。
机を前に送った教室で、台本を片手に生徒たちが各々のセリフを読み上げていく。「白雪姫」最大の山場といえる、姫の目覚めのシーンではこんな質問が飛び出した。
「なあこれ、本当にキスすんの? フリじゃダメ?」
姫役の田崎だった。清潔感のある黒い短髪を載せた丸顔が、大きく歪む。
「オレはまだ死にたくない」
アキセナ党からの奇襲を危惧している。
その重大な質問の答えを催促するように、クラスのほぼ全員が、監督である小木津のほうへ視線を向けた。
「当然です。嘘は嫌いだからね」
田崎の悲愴さが加速した。「とりあえず、先に遺書だけ書かせてくれ」
「だから聖那がやるべきなんだろ、」眉間に皺を刻んでいるのは亜希だ。「田崎が人身御供だ」
「う……うるさい」
オレは亜希の方を見ずに、CDケースに記された曲名たちに目を落とすふりをする。さも、音響の仕事に精を出しているかのように。
「唇の間に、ラップでも敷けば」
「ダメ、ダメ、そんなの」
オレの提案は監督によって即刻却下される。
「アキセナ党をはじめとした集団からの報復は何か対策しておく。とにかく、本気でやれ」
「リハではフリでいいよな」
田崎は半泣きだ。いや、本当に、彼には衷心より謝罪したい。
「まあ、よしとしよう」
「なんでそんなに偉そうなんだ」
と亜希はぼやいてから、屈んで田崎に顔を近づけた。田崎の顔が翳る。息を止めているからなのか、亜希の彫刻顔が至近距離に迫ったからなのか、彼の顔が赤くなった。その様子に、幾人かから微笑ましげな笑いが漏れた。
ある程度顔を近づけられたところで、田崎がおずおずと目を開いた。それを受けて亜希が素の声色のまま言う。
「お目覚めですか、姫」
くっ……という、感嘆だか、苦悶だか、よくわからない呻きがいたるところで聞こえる。その気持ちもわかった。あれは、ハマりすぎだ。
「……オレ、お前になら抱かれてもいいわ……っ」
田崎が顔を両手で隠す。むろん、そのような台詞は台本には無い。爆笑が包んだ教室内で、亜希だけはシニカルに「俺はお断りだ」と気難しい顔をしていた。
***
星が綺麗な夜だった。
劇の練習によりいつもより大幅に下校時刻が遅れ、川尻駅に着いたときには辺りはすっかり闇に包まれていた。
天気予報は見事に外れ、朝少し曇っていただけで、昼間からはからりと晴れあがっていた。街頭やビルの少ない田舎であることも相俟って、星がとてもよく見える。雨は降らなかったが、星は降った。
「綺麗だな、星」
並んで歩く亜希に話しかける。彼も同じように頭上をあおいでいた。オレは夏の大三角形の一つを指差し、
「デネブ。あれ、二千六百年前の光だぞ。古代ギリシャ時代の光だ」
すごいよなあ、不思議だよなあ、と素直に感動する。マスクのせいでくぐもった声になってしまう。
「それ、マスク」
亜希は早々と夜空から視線を外していた。大して星には興味がないらしい。
「なんのため?」
ぎく、とオレは動きを止める。せっかく、満天の星空を堪能していたところなのに。
「……歯列矯正」
「なら、口開けて見せてみろ。どんな矯正器具を付けたのか興味がある」
性悪め、と腹の中で毒づきながらも、観念して理由を白状する。
「あ……亜希が、すぐキスとか、するからだろ」
「ふーん」
「……だから、防具としてだな……」
あー、嫌だ。
なんか、また妙な雰囲気になってきた。性懲りもなく顔面が熱を持つ。
亜希は相変わらず淡々とした口ぶりだ。
「いいの? 田崎の件は」
「はあ?」
「俺とキスすることになっても」
「どうぞどうぞ、ご自由に」努めて、声に力を漲らせる。
「あ、そう」
亜希は面白くなさそうだ。小癪な、とでも言いたげな目線をしていたが、近くの石塀に背中を預けて再び星空を見上げた。
「確かに、横浜よりは綺麗だ」
オレも同じように隣に並ぶ。「仙台も似たようなもんかな、横浜と。ビルが多いし、空が狭い」
「おいおい、」亜希が大仰に肩の位置を高める。「横浜と仙台を一緒にするなよ」
「どっちも政令指定都市だろ」
「人口は横浜が三倍だ。監察医制度もある」
「そりゃ、死んだときは安心だな」オレは皮肉る。「誰かに殺されそうになったら、横浜に逃げよう」
監察医制度はないが、仙台には牛タンがある、と反論したくもなる。牛タンの素晴らしさは監察医制度と比較しても引けを取らないはずだ。
第一、横浜市民はなぜかプライドが高い、オレの統計によればだが。なお、この統計の調査に参加した人数は、横浜市民である神峰亜希、一名のみである。
「聖那」
ん? と夜空から亜希に視界をうつす。
「それ、マスク、外して」
藪から棒とはこのことだ。
「な、」泡を食って両の手でマスクを押さえつけた。「なんで」
亜希は、石塀に貼りついていたオレの背中を剥がし、その身に引き寄せた。両手をマスクの保護に使用しているため、口元は死守できているが、それ以外は無防備だ。なされるがまま、体の前面同士の距離がゼロになる。
「なんでだと思う?」
「な、なんでって……」
反問してくるな。一気に鼓動が早まる。
「いっ、今、星とか、横浜の話をしてたのに、なんで突然」
なんで急に出てくるんだよ、変な亜希が。
「突然じゃない、俺にとっては」
そう言って、額に触れるだけの口付けを降らせてくる。オレは例によって、硬直する。
「毎秒、聖那に触れたいと思ってる。だから全然、急じゃない」
そしてその白い手指で、オレの金の前髪に触れる。ガラス細工を扱うような繊細な手つきだ。
「……金色、星の色」
よく似てる、と亜希が美しく破顔する。目の毒とも思える、そのぞっとするほどの妖艶さに、息を呑む。
目を逸らしたい。だけど、逸らせない。瞬きすら忘れる。暴れる心臓の音が、どうか亜希に伝わっていないといい。
亜希の髪や瞳は、夜空と同じ色だ。オレの髪色が星だとして、だからこそ、離れられずにいるのだろうか。星は夜空でしか輝けない。
亜希に、シャム猫のようと例えられた碧眼。星の色だと称されたブロンドの髪。悪目立ちの原因としか思えなかった、人とは違ったその二つが、亜希の言葉だけで誇らしいものに変わる。亜希が「綺麗だ」と言ってくれたから、この容姿に生まれついて良かったのかもしれないと、人生で初めて思えた。十五年間もオレを縛り付けていた卑屈な価値観は、亜希のたった一言で、魔法のように解ける。
今度は、左の瞼にキスされた。
「……好きって、言ってもいい?」
顔が融けそうだった。彼の息づかいの温度を感じるほどの至近距離だ。
そういうことを言う前に予告しろと指示したのは確かにオレだけど、やっぱり、口をぱくぱくとするばかりで、何も返せない。絶句したまま、ただ赤らんだ顔をマスクから覗かせているオレを見て、亜希は小さく笑った。
「だから言った。同じ意味だって」
いつもの亜希に戻ってほしい。この亜希とは、うまく話ができない。見惚れることしかできなくなる。こんな亜希も、こんな自分も知らない。
そのうちに、気づけば地面にマスクが落ちていた。いつの間に外されたのか。
「──今からキスするけど、」
オレの頬に亜希の左手が添えられ、腰に右腕が回る。そのいずれもが、逃げようと思えば逃げられるくらいの力だった。
「三つ数えるから、嫌だったら、逃げて。いつもみたいに噛んだり、肘鉄して」
ずるい。
そう思った。逃げ道を用意するのはずるい。こちらに選択肢を与えるのは、ずるい。昨日まではルパンみたいに、オレの諾否も聞かずに盗んでいったくせに。
オレが逃げなかったら、まるで許したみたいじゃないか。
一歩も動けないでいる。だってこんな男に、神峰亜希という男に、この距離で見つめられて、口説かれて──正気を保てる人間がいるはずない。
だから、動けないのはオレだけじゃないんだ。きっと全人類、ここから逃げられない。
「……一、二、」
最後のカウントのかわりに、唇が落ちてくる。腰に回った腕に力が加わり、自分と亜希の境界線がわからなくなる。
何度も角度を変えながら、二つの唇が重なった。がなる心臓の音だけが耳元で聞こえる。
息を吸うために、一秒、キスから逃れる。
「あ……亜希、」
またすぐに吐息を塞がれた。
亜希──亜希。亜希。
頭がその名前だけで埋まる。心の中で何度も、その名を呼んだ。
心臓が肋骨を殴打している。胸が苦しくて、息が吸えなくて、頭が熱くて、死にそうだ。
殺人兵器に──亜希に、殺される。
いっそ、横浜に逃げようか。



