昨日は一日中、食事が喉を通らなかった。水分だけは摂取せねばと清涼飲料水を飲んだが、なんの味も感じなかった。
埃っぽい自宅のベッドに横になっても夜通し寝付けず、ただ窓の外が徐々に白んでいくのを監視していた。起床時間になったらそのまま体を起こし、着替えて家を出る。
連日の日照りで火傷した地表を労るかのような、柔らかな慈雨が降っていた。駅のホームに亜希の姿はない。オレとは時間をずらして登校しているのだろう。
いつもより重く感じる傘を手に、おぼつかない足取りで登校する。手に力が入らない。寝不足がたたっているのと、かるい栄養失調のような状態になっているのだろう。
一時間目は体育館でバスケットボールの授業だった。オレは立っているのもやっとの感覚で、結局、ゲーム開始直後にめまいを起こして倒れてしまった。
世界が暗転する。
チク、タク、チク、タク……。
アナログ時計の発する規則正しい音を耳に受けて目を開けた。保健室の無機質な時計の針は、十二時を少し回ったところだった。三時間ほども眠り込んでいたらしい。目の奥のズンとした重みがスッキリとしていた。
上半身を起こし、カーテンを横にスライドさせてみると、デスクで書類仕事をしていた養護教諭が顔を上げた。
「あら、起きたのね。どうしたの、睡眠不足?」
そんな感じです、と曖昧に言葉を濁す。
「クラスメートがここまでおぶって運んでくれたのよ」
養護教諭が何気なく呟いた言葉に、オレは過剰に反応した。
「誰が?」
「え? えーと……たしか、小木津君だったかしら。茶髪の」
オレは溜息とともに肩を落とす。何を期待しているのだか。ともあれ小木津にはあとで、何か礼をしなければ。
「いいから、そこにあるものでも食べておきなさい。誰が置いていったのかしら」
そこにあるもの? 左手のサイドテーブルを見た。
食堂のカレーが持ち帰り用のパックに入って、恐縮するようにちょこんと座っている。白米の上には、一面が真っ赤になるほどの一味唐辛子がかけられていて、福神漬けは添えられていない。食堂の甘口カレーを激辛仕様にし、苦手な福神漬けを抜いてもらう、いつものオレのアレンジだ。
オレがこんな奇天烈なアレンジをすることを知っているのは、一人しかいない。
「……亜希」
なんで黙って、置いていくんだよ。黙っていれば、オレがわからないとでも思ったのか。なめんなよ、バカ亜希が。
掛け布団のシーツを強く握りしめる。そして、大きく深呼吸した。
そのシーツから、隣の激辛カレーの香りから、勇気を吸い取るみたいに。
***
静かに街を濡らしていた雨はあがり、水溜りだけが、降り続いた雨の余韻を描いていた。
帰路を辿り、自宅の最寄り駅まで到着すると、いつものように前方五メートルあたりに、閉じた傘を携えた亜希の背中がある。
たったの五メートル。それなのに、千里ほどに感じる。
今日は雨が降っていたから、自転車ではないようだ。亜希の歩幅のほうが広いから、どんどんと距離は離れていく。
知らん振りをするようにこちらを振り向かない背中。頑ななまでに。
「……亜希、」
口元でまごつく声を、小さく漏らす。だけど亜希の耳には届かずに、彼の歩みは止まらない。
この途方もない現実に、打ち勝つ術などオレにあるのだろうか。
でもきっとそれは、簡単なことなんだ。
「亜希……ッ!」
ただ、名前を呼べばいい。
はあっ、とそれだけで息を切らした。また目元が熱くなった。馬鹿みたいだ。
亜希の足が、一瞬、止まる。
届け。
この声よ、届け。
ひゅう、と一匹の赤とんぼが、オレの視界の右から入って左へ抜けた。
初秋の景色の中、はるか向こうに見える背中は、涙で輪郭がぼやけていた。それが悲しくて、恨めしげに目元を拭う。
単調に、そして冷然と歩を進めていた亜希の足がほんの少し、動きを鈍らせた。躊躇うように、また、歩き出そうとする。
「無視すんなっ、バカ亜希……!」
オレは顔を覆ってしゃがみ込んだ。みぞおちあたりの臓器が、握られたように痛くて、息苦しい。
亜希の動きが再び止まる。それでもまだ身体は向こうを見たままだ。
「亜希、」
他の言葉が、なんにも、浮かんでこなかった。頭がその二文字だけに染まる。溢れる涙が鬱陶しい。けれど止まってくれそうにない。
気の利いた台詞なんて、なにも思いつかない。ただ、ただ、この世で一番大切なその名前を呼んだ。
「亜希、亜希、亜希、あき……っ!」
名前を一回呼ぶたびに、心臓が強く脈打つ。全身の血液が沸騰しそうだった。
バサ、とも、ゴト、ともつかない音が遠くでした。傘が倒れたんだと思った。亜希が、持っていた傘を投げ出したんだ。
ぱたぱたと走ってくる音が鳴る。その音が、丸くなってしゃがみ込むオレのすぐ側で止まった。涙で歪んだ世界の片隅に、困ったように佇む亜希の長い足が見えた。
こんな狭い世界の中にいる。オレの手の届く場所にいる。
「……聖那」
困惑するように震えた亜希の声には、様々な色合いが詰まっていた。それらの思いを全て一言で表せる言葉なんて存在しないから、とにかく名前を呼んだ。そんな感じだ。オレも同じだった。
その時に聞いた亜希の声は、肉体よりも魂の名前を呼ばれたみたいに、体の奥の方へ響いた。大きく魂が揺さぶられた。
頭を持ち上げる。亜希と数日ぶりに目が合った。途端、強く腕を引かれ、その胸に抱きとめられた。呼吸の仕方を忘れる。
「ごめん、聖那」
オレの右肩に亜希の顔が埋まり、その表情は伺い知れなかった。
「結局、俺も、今まで聖那の周りにいた男たちと同じだ」
その声は、微かに震えている。オレの背中を掴んだ手も。
「聖那を裏切った。傷つけた。守るって、決めてたのに」
瞬きをするたび、一筋ずつ、自分の両目から涙がこぼれた。でももう、さっきまでの冷たい涙じゃなかった。
「ごめんは……オレのほうだ」
亜希は何も悪くない。全部、悪いのはオレの方だ。鈍感で、頭の血の巡りが悪くて、本当、駄目なやつなんだ。勉強以外はなんにもできない。妹の言う通り。
だけどこんなオレを、好きになってくれたのか。
お前みたいな、完璧なやつが。
「なんで謝る? 聖那は何も悪くない」
亜希がゆっくりと視線をこちらに寄越した。
「『友達協定』なんて馬鹿げたこと言って、亜希を縛り付けた。苦しめた。誰かを好きになるのに、謝る必要なんてないのに。全部オレのせいだ」
ごめんな、ともう一度言った。やっと言えた。あの日からずっと、謝りたかった。
「……許してくれるのか、俺を」
許すもなにも亜希は何も悪くないけれど、説明するとややこしくなりそうだったから、「うん」とだけ頷いた。
周囲を歩く人たちの目線が痛くなってきたので、互いの体を少し離す。木陰で口元を押さえて赤面している婦人と目が合い、理由もなく会釈をした。
「もちろん許すけど、ただ……その」
目線を足元に彷徨わせながら、オレは強張った声調で補足する。
「今後、その、我々が、どうしていくかということについては……」
それについては、自分の中で議論が終わっていない。全然、まったく、終わっていない。それどころか、まだ始まってすらいない。顔が熱くなってきた。
「わかってるよ」
肩の力を抜くみたいに、亜希が笑った。
「『今後、我々がどうしていくか』って。マニフェストでも語るのか?」
眉を吊り上げる。「笑うな! 人が真剣に」
「俺は待つから」
オレの末尾を遮り、それに、と亜希は言い募る。
「『待たせてる』と思う必要もない。聖那は一生、その地点にいたっていい」
十五センチ上からこちらを見下ろし、涙でオレの目元に貼りついていた前髪を、悠然と横によける。亜希とまともに目線が絡んだ。
「こうやって、また目を合わせて、話ができるなら。それで十分だ。聖那に彼女ができるのも、友人代表スピーチも、そりゃかなり……嫌だけど、」
言葉を苦しく絞り出すように紡ぐ。
「それでも、失うよりは何倍もいい。昨日と今日で、心からそう思った。他の奴には触れさせないなんて、俺が欲張りすぎたんだ。美しいものはみんなで共有すべきなのに」
いつだったか小木津が言っていたようなことを引っ張り出し、オレの頬に手を添えた。慈しむような、尊ぶような、穏やかな眼差しが降ってくる。数秒間を置き、ゆるく弧を描いた唇の端から、言葉を落としてきた。
「……綺麗だ、聖那」
どくん、と体の中心が大きく拍動した。全身が一瞬で熱を帯びた。
「な……な、」
亜希は心底不思議そうに首を傾げた。「照れてる? 綺麗なんて、言われ慣れてるだろ」
そうだ。言われ慣れている。「綺麗」や「可愛い」をすべて足せば、ひょっとしたら、自分の名前よりも他人にかけられてきた台詞かもしれない。
それでも、びっくりした。だって、
「あ、亜希から言われたのは、初めてだし……」
「そうだっけ?」
亜希は気にするふうでもない。
「あ……亜希は、そんなふうに、オレを思ってないんだと、思ってた……自分のほうが、美形だから」
「思ってるよ」
今度は軽い調子で、まるで鼻歌でも歌うように、言葉を並べてきた。
「当たり前に、思ってる。いつも思ってる。名前を呼ぶたび。朝、目が覚めるたび。聖那が笑うたび。いつもだ」
な、なんだ。なんなんだ。これは、もしや、口説かれているのか。オレは目がぐるぐるしてくる。木陰の婦人の目も、ぐるぐるしていそうだ。オレに恋心がばれたからと、もう自棄になっているのか? いきなり亜希がギアを上げてきた感じがする。
「聖那は? 俺のこと、どうも思わない?」
次はちょっと甘えたような、いたずらっぽい言い方だ。
「俺も聖那に、格好良いとか、イケメンとか、言ってもらったことない。聖那以外は、みんな言ってくれるのに。俺は聖那にさえ、言ってもらえたらそれでいいのに」
「だ、だって、おかしいだろ、友達同士で『格好いい』とか『可愛い』とか」
友達同士で口説きあうのは変だ。
「田中には言ってたのに」
「はあ?」田中の顔を思い出すのに、数秒かかった。
「『男前だね』って。田中には言ってた」
最後はまるで、拗ねたように。亜希がこんなにころころと表情を変えるのは珍しい。よほどオレと和解したことが嬉しいのか。
「お、お前、そんなこと気にしてたのかよ」
「あれは妬けた」
二人で初めての喧嘩をしたとき、確かに亜希の口ぶりは妙に冷たく感じた。「依存しすぎるな」だのと御託を並べ、もちろんそれがすべて嘘だったとは思わないが、そこにはやきもちも多分に混ざっていたのか。
「俺に言わないなら、他の誰にも言うな」
亜希のことを、格好良いと思うかって? 確かに一度も、彼に面と向かってそう告げたことはない。
──だけどオレだって、もちろん思ってる。当たり前だ。
起こしてもらって目を開けて、そこに立っている亜希を見るたび。ネクタイを結んでもらうたび。映画を鑑賞しているときの横顔を、盗み見るたび。呼ばれて、目が合うたび。
いつも思ってる。きっと誰よりも思っている。
でもそんなことを言い合うのはおかしい。照れ臭い。オレたちはただの友達だから。
前に、「断じて見惚れているわけではない」などと述べた。あれは嘘だ。オレはシャイで嘘つきだから、オレがこうして話すことが全て真実などとは、みなさん、くれぐれも思わないように。これは語り部がたまに嘘をつく物語なのである。
亜希に「シャム猫みたい」と言われたあの夜だって、本当は結構、ドキドキしていた。
「帰るか」
亜希に背中を押され、並んで歩きだす。苔むした自転車の濡れたサドルに止まった赤トンボと、木陰の婦人が、いつまでもオレたちを見ていた。
***
オレはすっかり亜希の家まで歩いていくつもりだったのに、オレのアパートの前まで来ると、亜希は諭すように言った。
「聖那は自分の家に帰れ」
虚を衝かれたようにきょとんとしてしまった。「なんで」
「聖那が俺の家まで来て、百パーセント安全か、まだ言い切れない」
曖昧な表情でそう呟いて、亜希の目論み通りに言葉を継げなくなったオレに、じゃあな、と手を振って歩き出した。
「ちょ、ちょっと待て! そこで待ってて」
もうすぐ闇に埋没しそうになった背中を呼び止めて、慌ててアパートに入り、キッチンに置き去りにしていた小さな紙袋を持ってくる。
「これ」
それを亜希の胸元にぐいと押しつけた。
「お前、誕生日だったろ。もう過ぎちゃったけど」始業式の次の日だったのだ。「渡そうと思ってたのに」
前もって買っておいた、黄色のピアスだ。二学期からは新しいのをつけようって、決めていた。亜希の顔が綻んだ。
「いいね、黄色」
礼も言わずに、まず亜希はそう告げた。
「少し進んでよし、だ」
いぶかしむオレに、亜希はいつもの余裕な笑みで囁く。
「赤は『止まれ』だ。黄色は『気を付けて進め』」
そう意味のわからないことを言って、オレの前髪を掻きあげたかと思うと、額にキスをする。
「『友達』止まりは終わりだ」
赤と青の間、ニュートラルな色で非常にいいね、と亜希は呑気に感心した。額を押さえて呼吸の止まっているオレなど露知らず。
「次は青だ」
そうおどけて笑う亜希に、
「お、お前は、ほんとに、しゃあしゃあと……!」
罵倒してやりたいのに、うまく言葉が見つからない。
「おやすみ」
亜希は踵を返し、颯爽と歩き去っていった。誕生日おめでとうって言うつもりだったのに、額に口付けられた瞬間、頭が真っ白になってしまった。
暑くも寒くもない、初秋の心地よい風がオレの頭を撫でていった。「頑張ったね」って、言ってくれてるみたいに。
埃っぽい自宅のベッドに横になっても夜通し寝付けず、ただ窓の外が徐々に白んでいくのを監視していた。起床時間になったらそのまま体を起こし、着替えて家を出る。
連日の日照りで火傷した地表を労るかのような、柔らかな慈雨が降っていた。駅のホームに亜希の姿はない。オレとは時間をずらして登校しているのだろう。
いつもより重く感じる傘を手に、おぼつかない足取りで登校する。手に力が入らない。寝不足がたたっているのと、かるい栄養失調のような状態になっているのだろう。
一時間目は体育館でバスケットボールの授業だった。オレは立っているのもやっとの感覚で、結局、ゲーム開始直後にめまいを起こして倒れてしまった。
世界が暗転する。
チク、タク、チク、タク……。
アナログ時計の発する規則正しい音を耳に受けて目を開けた。保健室の無機質な時計の針は、十二時を少し回ったところだった。三時間ほども眠り込んでいたらしい。目の奥のズンとした重みがスッキリとしていた。
上半身を起こし、カーテンを横にスライドさせてみると、デスクで書類仕事をしていた養護教諭が顔を上げた。
「あら、起きたのね。どうしたの、睡眠不足?」
そんな感じです、と曖昧に言葉を濁す。
「クラスメートがここまでおぶって運んでくれたのよ」
養護教諭が何気なく呟いた言葉に、オレは過剰に反応した。
「誰が?」
「え? えーと……たしか、小木津君だったかしら。茶髪の」
オレは溜息とともに肩を落とす。何を期待しているのだか。ともあれ小木津にはあとで、何か礼をしなければ。
「いいから、そこにあるものでも食べておきなさい。誰が置いていったのかしら」
そこにあるもの? 左手のサイドテーブルを見た。
食堂のカレーが持ち帰り用のパックに入って、恐縮するようにちょこんと座っている。白米の上には、一面が真っ赤になるほどの一味唐辛子がかけられていて、福神漬けは添えられていない。食堂の甘口カレーを激辛仕様にし、苦手な福神漬けを抜いてもらう、いつものオレのアレンジだ。
オレがこんな奇天烈なアレンジをすることを知っているのは、一人しかいない。
「……亜希」
なんで黙って、置いていくんだよ。黙っていれば、オレがわからないとでも思ったのか。なめんなよ、バカ亜希が。
掛け布団のシーツを強く握りしめる。そして、大きく深呼吸した。
そのシーツから、隣の激辛カレーの香りから、勇気を吸い取るみたいに。
***
静かに街を濡らしていた雨はあがり、水溜りだけが、降り続いた雨の余韻を描いていた。
帰路を辿り、自宅の最寄り駅まで到着すると、いつものように前方五メートルあたりに、閉じた傘を携えた亜希の背中がある。
たったの五メートル。それなのに、千里ほどに感じる。
今日は雨が降っていたから、自転車ではないようだ。亜希の歩幅のほうが広いから、どんどんと距離は離れていく。
知らん振りをするようにこちらを振り向かない背中。頑ななまでに。
「……亜希、」
口元でまごつく声を、小さく漏らす。だけど亜希の耳には届かずに、彼の歩みは止まらない。
この途方もない現実に、打ち勝つ術などオレにあるのだろうか。
でもきっとそれは、簡単なことなんだ。
「亜希……ッ!」
ただ、名前を呼べばいい。
はあっ、とそれだけで息を切らした。また目元が熱くなった。馬鹿みたいだ。
亜希の足が、一瞬、止まる。
届け。
この声よ、届け。
ひゅう、と一匹の赤とんぼが、オレの視界の右から入って左へ抜けた。
初秋の景色の中、はるか向こうに見える背中は、涙で輪郭がぼやけていた。それが悲しくて、恨めしげに目元を拭う。
単調に、そして冷然と歩を進めていた亜希の足がほんの少し、動きを鈍らせた。躊躇うように、また、歩き出そうとする。
「無視すんなっ、バカ亜希……!」
オレは顔を覆ってしゃがみ込んだ。みぞおちあたりの臓器が、握られたように痛くて、息苦しい。
亜希の動きが再び止まる。それでもまだ身体は向こうを見たままだ。
「亜希、」
他の言葉が、なんにも、浮かんでこなかった。頭がその二文字だけに染まる。溢れる涙が鬱陶しい。けれど止まってくれそうにない。
気の利いた台詞なんて、なにも思いつかない。ただ、ただ、この世で一番大切なその名前を呼んだ。
「亜希、亜希、亜希、あき……っ!」
名前を一回呼ぶたびに、心臓が強く脈打つ。全身の血液が沸騰しそうだった。
バサ、とも、ゴト、ともつかない音が遠くでした。傘が倒れたんだと思った。亜希が、持っていた傘を投げ出したんだ。
ぱたぱたと走ってくる音が鳴る。その音が、丸くなってしゃがみ込むオレのすぐ側で止まった。涙で歪んだ世界の片隅に、困ったように佇む亜希の長い足が見えた。
こんな狭い世界の中にいる。オレの手の届く場所にいる。
「……聖那」
困惑するように震えた亜希の声には、様々な色合いが詰まっていた。それらの思いを全て一言で表せる言葉なんて存在しないから、とにかく名前を呼んだ。そんな感じだ。オレも同じだった。
その時に聞いた亜希の声は、肉体よりも魂の名前を呼ばれたみたいに、体の奥の方へ響いた。大きく魂が揺さぶられた。
頭を持ち上げる。亜希と数日ぶりに目が合った。途端、強く腕を引かれ、その胸に抱きとめられた。呼吸の仕方を忘れる。
「ごめん、聖那」
オレの右肩に亜希の顔が埋まり、その表情は伺い知れなかった。
「結局、俺も、今まで聖那の周りにいた男たちと同じだ」
その声は、微かに震えている。オレの背中を掴んだ手も。
「聖那を裏切った。傷つけた。守るって、決めてたのに」
瞬きをするたび、一筋ずつ、自分の両目から涙がこぼれた。でももう、さっきまでの冷たい涙じゃなかった。
「ごめんは……オレのほうだ」
亜希は何も悪くない。全部、悪いのはオレの方だ。鈍感で、頭の血の巡りが悪くて、本当、駄目なやつなんだ。勉強以外はなんにもできない。妹の言う通り。
だけどこんなオレを、好きになってくれたのか。
お前みたいな、完璧なやつが。
「なんで謝る? 聖那は何も悪くない」
亜希がゆっくりと視線をこちらに寄越した。
「『友達協定』なんて馬鹿げたこと言って、亜希を縛り付けた。苦しめた。誰かを好きになるのに、謝る必要なんてないのに。全部オレのせいだ」
ごめんな、ともう一度言った。やっと言えた。あの日からずっと、謝りたかった。
「……許してくれるのか、俺を」
許すもなにも亜希は何も悪くないけれど、説明するとややこしくなりそうだったから、「うん」とだけ頷いた。
周囲を歩く人たちの目線が痛くなってきたので、互いの体を少し離す。木陰で口元を押さえて赤面している婦人と目が合い、理由もなく会釈をした。
「もちろん許すけど、ただ……その」
目線を足元に彷徨わせながら、オレは強張った声調で補足する。
「今後、その、我々が、どうしていくかということについては……」
それについては、自分の中で議論が終わっていない。全然、まったく、終わっていない。それどころか、まだ始まってすらいない。顔が熱くなってきた。
「わかってるよ」
肩の力を抜くみたいに、亜希が笑った。
「『今後、我々がどうしていくか』って。マニフェストでも語るのか?」
眉を吊り上げる。「笑うな! 人が真剣に」
「俺は待つから」
オレの末尾を遮り、それに、と亜希は言い募る。
「『待たせてる』と思う必要もない。聖那は一生、その地点にいたっていい」
十五センチ上からこちらを見下ろし、涙でオレの目元に貼りついていた前髪を、悠然と横によける。亜希とまともに目線が絡んだ。
「こうやって、また目を合わせて、話ができるなら。それで十分だ。聖那に彼女ができるのも、友人代表スピーチも、そりゃかなり……嫌だけど、」
言葉を苦しく絞り出すように紡ぐ。
「それでも、失うよりは何倍もいい。昨日と今日で、心からそう思った。他の奴には触れさせないなんて、俺が欲張りすぎたんだ。美しいものはみんなで共有すべきなのに」
いつだったか小木津が言っていたようなことを引っ張り出し、オレの頬に手を添えた。慈しむような、尊ぶような、穏やかな眼差しが降ってくる。数秒間を置き、ゆるく弧を描いた唇の端から、言葉を落としてきた。
「……綺麗だ、聖那」
どくん、と体の中心が大きく拍動した。全身が一瞬で熱を帯びた。
「な……な、」
亜希は心底不思議そうに首を傾げた。「照れてる? 綺麗なんて、言われ慣れてるだろ」
そうだ。言われ慣れている。「綺麗」や「可愛い」をすべて足せば、ひょっとしたら、自分の名前よりも他人にかけられてきた台詞かもしれない。
それでも、びっくりした。だって、
「あ、亜希から言われたのは、初めてだし……」
「そうだっけ?」
亜希は気にするふうでもない。
「あ……亜希は、そんなふうに、オレを思ってないんだと、思ってた……自分のほうが、美形だから」
「思ってるよ」
今度は軽い調子で、まるで鼻歌でも歌うように、言葉を並べてきた。
「当たり前に、思ってる。いつも思ってる。名前を呼ぶたび。朝、目が覚めるたび。聖那が笑うたび。いつもだ」
な、なんだ。なんなんだ。これは、もしや、口説かれているのか。オレは目がぐるぐるしてくる。木陰の婦人の目も、ぐるぐるしていそうだ。オレに恋心がばれたからと、もう自棄になっているのか? いきなり亜希がギアを上げてきた感じがする。
「聖那は? 俺のこと、どうも思わない?」
次はちょっと甘えたような、いたずらっぽい言い方だ。
「俺も聖那に、格好良いとか、イケメンとか、言ってもらったことない。聖那以外は、みんな言ってくれるのに。俺は聖那にさえ、言ってもらえたらそれでいいのに」
「だ、だって、おかしいだろ、友達同士で『格好いい』とか『可愛い』とか」
友達同士で口説きあうのは変だ。
「田中には言ってたのに」
「はあ?」田中の顔を思い出すのに、数秒かかった。
「『男前だね』って。田中には言ってた」
最後はまるで、拗ねたように。亜希がこんなにころころと表情を変えるのは珍しい。よほどオレと和解したことが嬉しいのか。
「お、お前、そんなこと気にしてたのかよ」
「あれは妬けた」
二人で初めての喧嘩をしたとき、確かに亜希の口ぶりは妙に冷たく感じた。「依存しすぎるな」だのと御託を並べ、もちろんそれがすべて嘘だったとは思わないが、そこにはやきもちも多分に混ざっていたのか。
「俺に言わないなら、他の誰にも言うな」
亜希のことを、格好良いと思うかって? 確かに一度も、彼に面と向かってそう告げたことはない。
──だけどオレだって、もちろん思ってる。当たり前だ。
起こしてもらって目を開けて、そこに立っている亜希を見るたび。ネクタイを結んでもらうたび。映画を鑑賞しているときの横顔を、盗み見るたび。呼ばれて、目が合うたび。
いつも思ってる。きっと誰よりも思っている。
でもそんなことを言い合うのはおかしい。照れ臭い。オレたちはただの友達だから。
前に、「断じて見惚れているわけではない」などと述べた。あれは嘘だ。オレはシャイで嘘つきだから、オレがこうして話すことが全て真実などとは、みなさん、くれぐれも思わないように。これは語り部がたまに嘘をつく物語なのである。
亜希に「シャム猫みたい」と言われたあの夜だって、本当は結構、ドキドキしていた。
「帰るか」
亜希に背中を押され、並んで歩きだす。苔むした自転車の濡れたサドルに止まった赤トンボと、木陰の婦人が、いつまでもオレたちを見ていた。
***
オレはすっかり亜希の家まで歩いていくつもりだったのに、オレのアパートの前まで来ると、亜希は諭すように言った。
「聖那は自分の家に帰れ」
虚を衝かれたようにきょとんとしてしまった。「なんで」
「聖那が俺の家まで来て、百パーセント安全か、まだ言い切れない」
曖昧な表情でそう呟いて、亜希の目論み通りに言葉を継げなくなったオレに、じゃあな、と手を振って歩き出した。
「ちょ、ちょっと待て! そこで待ってて」
もうすぐ闇に埋没しそうになった背中を呼び止めて、慌ててアパートに入り、キッチンに置き去りにしていた小さな紙袋を持ってくる。
「これ」
それを亜希の胸元にぐいと押しつけた。
「お前、誕生日だったろ。もう過ぎちゃったけど」始業式の次の日だったのだ。「渡そうと思ってたのに」
前もって買っておいた、黄色のピアスだ。二学期からは新しいのをつけようって、決めていた。亜希の顔が綻んだ。
「いいね、黄色」
礼も言わずに、まず亜希はそう告げた。
「少し進んでよし、だ」
いぶかしむオレに、亜希はいつもの余裕な笑みで囁く。
「赤は『止まれ』だ。黄色は『気を付けて進め』」
そう意味のわからないことを言って、オレの前髪を掻きあげたかと思うと、額にキスをする。
「『友達』止まりは終わりだ」
赤と青の間、ニュートラルな色で非常にいいね、と亜希は呑気に感心した。額を押さえて呼吸の止まっているオレなど露知らず。
「次は青だ」
そうおどけて笑う亜希に、
「お、お前は、ほんとに、しゃあしゃあと……!」
罵倒してやりたいのに、うまく言葉が見つからない。
「おやすみ」
亜希は踵を返し、颯爽と歩き去っていった。誕生日おめでとうって言うつもりだったのに、額に口付けられた瞬間、頭が真っ白になってしまった。
暑くも寒くもない、初秋の心地よい風がオレの頭を撫でていった。「頑張ったね」って、言ってくれてるみたいに。



