どうやって帰ってきたのかすら、わからなかった。
電車に乗ったのか、それとも歩いたのか。記憶が定かじゃない。
約二週間ぶりに戻ってきた自分のアパートは、空気がこもって鼻に付く臭いがした。バタンと閉じた玄関の門扉に寄りかかって、ずるずると靴も脱がずに玄関に崩れ落ちる。
涙はずっと流れている。どれほど泣けば、涙は枯れてくれるのだろう。どれほど泣けば、この体の痛みは止むのだろう。
震える手で、唇に触れてみる。それは氷のように冷たかった。下唇に小さな傷ができている。互いの歯が当たったせいだろう。
──どれほど泣けば、この出来事が、この傷が、夢になってくれるだろう。
這うように部屋の中へ上がり、敷かれた長座布団の上に力無く横たわった。目を閉じる。
ひどく疲れていた。何も考えたくなくて、投げ捨てるように意識を闇の中へ手放した。
***
学校を休むという選択肢はなかった。
亜希がどんな反応を寄越してくるのか予想がつかず、それに対する恐怖心も確かにあったけれど、逃げてはいけない気がした。
「……学校来るかな、亜希」
どんな顔をして会えばいいんだろう。
遅々とした動きで身支度をし、駅へ歩き出す。なんとはなしにスマホを確認すると、「あーちゃん」から二通メッセージが届いていた。ろくろく内容も読まずに既読マークだけをつけ、画面を閉じる。彼女には悪いが、おそらく返信することはないだろう。
平生の通りに振舞おうと決めたのは、行きの電車の中だった。流れていく景色をぼうっと見遣りながら、そう決めた。
昨日のことはなかったみたいに、忘れたみたいに、亜希に会ったら「おはよう」って声をかけよう。そうすれば亜希もいつもみたいに微笑み返してくれるかもしれない。そうすれば全部、元通りにできるかも。
重い足取りでゆっくりと教室へ近づく。心臓の拍動が大きくなる。自分の席にバッグを置いたら、隣に亜希がいるはずだ──
「……あれ」
オレの計画は一瞬で崩れた。隣の席に座っていたのは小木津だった。
「なんで」
感情のない声でそう尋ねると、
「席交換してくれってさ、亜希が」
小木津から訝しげな視線がオレに投げられる。
「……何か、あった?」
オレは力無く首を振る。あの出来事を誰かに話す気力など、まだ到底湧いてはこなかった。そもそも自分自身、まだ理解しきれていないのだ。
そうか、と音にならない声をこぼす。
そうか、オレたちはもう、壊れてしまったんだ。
全部元通り? 何を馬鹿なことを。
亜希は窓際の離れた席に座り、机に頭を伏せている。その右の耳朶は空っぽだ。
オレの左耳にはまだ赤いピアスがある。未練がましくて、なんだか情けなくなった。
淡々と授業は進み、昼休みになる。小木津が食堂に誘ってくれたが、食指など動こうはずもなかった。
「それ以上痩せたら、骨と皮になっちゃうぞ」
五時間目が始まる直前、小木津がプリンを机の隅に一つ置いてくれた。
そのプリンは甘くて、あまりにも甘すぎて、涙を堪えながら飲み込んだ。
***
自宅の最寄りの「川尻駅」は、利用者が少なくいつも閑散としているため、亜希と同じ電車に乗れば必ずホームで降りたところを見つけられる。オレたちがいつも乗る車両から、四つほど離れた車両に乗っていたようだ。徹底的に避けられていることを実感する。
亜希は駐輪場の自転車に跨って、さっさと帰路を辿ってオレの視界から見えなくなった。入学式以降、亜希と一度も会話を交わさなかった日は初めてだった。
家までの道を歩きながら、そうだ、と思い当たった。
そういえば夢を見た。奇妙な夢。
亜希と二人で絶壁に挟まれた道を歩いている夢だ。いつの間にか互いの道は二手に分かれて、オレたちは別々の場所を歩いていた。亜希、って何度呼んでも、最後は振り向いてくれなかった。
紫の闇の中に埋もれた亜希の背中と、自転車で走り去り、街並みの中へ消えていくその背中が、重なる。
──オレたちは、オレたちの道は、いつから分かれてしまっていたんだろう。
『好きになって、ごめんな』
亜希はそう言った。誰かを好きになることに、許可も謝罪も必要ないはずなのに。
オレが縛り付けていたんだろうか。呪いをかけていたんだろうか。「友達協定」などという馬鹿げた契約で、亜希を苦しめていたんだろうか。
亜希を、泣かせてしまった。
昨日は亜希を責める気持ちがどこかにあった。だけど今は違う。オレは無神経でデリカシーがなくて、すぐ悪ノリするから、『結婚式の友人代表スピーチは頼むぞ』なんて、ひどいことを言った。亜希の気も知らないで。昨日だけじゃない、きっとずっと長いこと、オレは彼を苦しめていた。
そのとき、スマホがメッセージの着信を知らせた。小木津からで、なかなかの長文だった。
『何があったか詳しくは知らないけど、大体予想はついてる。亜希はピアス外してるしな。どうせ亜希に告られたとか、そんなことだろ。言っとくけど、聖那ちゃん、亜希は何も悪くねーからな。毎日無防備に隣で好きな奴が寝てるっていうのに、しかも相手があの十王聖那なのに、何ヶ月も手を出さずにいたんだぞ。『人生で最もテストステロンの分泌量が多い時期』にだ。普通の男なら一日で限界だ。亜希は褒められこそすれ、非難される謂れはないからな』
呆気に取られつつ、即座に返信を打った。
『小木津、亜希の気持ち、知ってたのか?』
『知らなかったのは、日本でお前だけだよ』
そんな馬鹿な。
亜希とどうなりたいかなんて──亜希の気持ちにどう応えられるかなんて、今はまだ全然わからない。自分の気持ちさえ整理できていない。
だけど、亜希を失いたくない。それだけはわかるんだ。わがままだけど、また亜希につらい思いをさせるのかもしれないけど、それだけは確かなんだ。
それから、ちゃんと謝りたい。酷いこと言ってごめんって。苦しめて、苦しめていたことにすら気づかなくて、本当にごめん。
──もう少しだけ、勇気が出たら。
すぐに亜希の元へ走っていくから。
電車に乗ったのか、それとも歩いたのか。記憶が定かじゃない。
約二週間ぶりに戻ってきた自分のアパートは、空気がこもって鼻に付く臭いがした。バタンと閉じた玄関の門扉に寄りかかって、ずるずると靴も脱がずに玄関に崩れ落ちる。
涙はずっと流れている。どれほど泣けば、涙は枯れてくれるのだろう。どれほど泣けば、この体の痛みは止むのだろう。
震える手で、唇に触れてみる。それは氷のように冷たかった。下唇に小さな傷ができている。互いの歯が当たったせいだろう。
──どれほど泣けば、この出来事が、この傷が、夢になってくれるだろう。
這うように部屋の中へ上がり、敷かれた長座布団の上に力無く横たわった。目を閉じる。
ひどく疲れていた。何も考えたくなくて、投げ捨てるように意識を闇の中へ手放した。
***
学校を休むという選択肢はなかった。
亜希がどんな反応を寄越してくるのか予想がつかず、それに対する恐怖心も確かにあったけれど、逃げてはいけない気がした。
「……学校来るかな、亜希」
どんな顔をして会えばいいんだろう。
遅々とした動きで身支度をし、駅へ歩き出す。なんとはなしにスマホを確認すると、「あーちゃん」から二通メッセージが届いていた。ろくろく内容も読まずに既読マークだけをつけ、画面を閉じる。彼女には悪いが、おそらく返信することはないだろう。
平生の通りに振舞おうと決めたのは、行きの電車の中だった。流れていく景色をぼうっと見遣りながら、そう決めた。
昨日のことはなかったみたいに、忘れたみたいに、亜希に会ったら「おはよう」って声をかけよう。そうすれば亜希もいつもみたいに微笑み返してくれるかもしれない。そうすれば全部、元通りにできるかも。
重い足取りでゆっくりと教室へ近づく。心臓の拍動が大きくなる。自分の席にバッグを置いたら、隣に亜希がいるはずだ──
「……あれ」
オレの計画は一瞬で崩れた。隣の席に座っていたのは小木津だった。
「なんで」
感情のない声でそう尋ねると、
「席交換してくれってさ、亜希が」
小木津から訝しげな視線がオレに投げられる。
「……何か、あった?」
オレは力無く首を振る。あの出来事を誰かに話す気力など、まだ到底湧いてはこなかった。そもそも自分自身、まだ理解しきれていないのだ。
そうか、と音にならない声をこぼす。
そうか、オレたちはもう、壊れてしまったんだ。
全部元通り? 何を馬鹿なことを。
亜希は窓際の離れた席に座り、机に頭を伏せている。その右の耳朶は空っぽだ。
オレの左耳にはまだ赤いピアスがある。未練がましくて、なんだか情けなくなった。
淡々と授業は進み、昼休みになる。小木津が食堂に誘ってくれたが、食指など動こうはずもなかった。
「それ以上痩せたら、骨と皮になっちゃうぞ」
五時間目が始まる直前、小木津がプリンを机の隅に一つ置いてくれた。
そのプリンは甘くて、あまりにも甘すぎて、涙を堪えながら飲み込んだ。
***
自宅の最寄りの「川尻駅」は、利用者が少なくいつも閑散としているため、亜希と同じ電車に乗れば必ずホームで降りたところを見つけられる。オレたちがいつも乗る車両から、四つほど離れた車両に乗っていたようだ。徹底的に避けられていることを実感する。
亜希は駐輪場の自転車に跨って、さっさと帰路を辿ってオレの視界から見えなくなった。入学式以降、亜希と一度も会話を交わさなかった日は初めてだった。
家までの道を歩きながら、そうだ、と思い当たった。
そういえば夢を見た。奇妙な夢。
亜希と二人で絶壁に挟まれた道を歩いている夢だ。いつの間にか互いの道は二手に分かれて、オレたちは別々の場所を歩いていた。亜希、って何度呼んでも、最後は振り向いてくれなかった。
紫の闇の中に埋もれた亜希の背中と、自転車で走り去り、街並みの中へ消えていくその背中が、重なる。
──オレたちは、オレたちの道は、いつから分かれてしまっていたんだろう。
『好きになって、ごめんな』
亜希はそう言った。誰かを好きになることに、許可も謝罪も必要ないはずなのに。
オレが縛り付けていたんだろうか。呪いをかけていたんだろうか。「友達協定」などという馬鹿げた契約で、亜希を苦しめていたんだろうか。
亜希を、泣かせてしまった。
昨日は亜希を責める気持ちがどこかにあった。だけど今は違う。オレは無神経でデリカシーがなくて、すぐ悪ノリするから、『結婚式の友人代表スピーチは頼むぞ』なんて、ひどいことを言った。亜希の気も知らないで。昨日だけじゃない、きっとずっと長いこと、オレは彼を苦しめていた。
そのとき、スマホがメッセージの着信を知らせた。小木津からで、なかなかの長文だった。
『何があったか詳しくは知らないけど、大体予想はついてる。亜希はピアス外してるしな。どうせ亜希に告られたとか、そんなことだろ。言っとくけど、聖那ちゃん、亜希は何も悪くねーからな。毎日無防備に隣で好きな奴が寝てるっていうのに、しかも相手があの十王聖那なのに、何ヶ月も手を出さずにいたんだぞ。『人生で最もテストステロンの分泌量が多い時期』にだ。普通の男なら一日で限界だ。亜希は褒められこそすれ、非難される謂れはないからな』
呆気に取られつつ、即座に返信を打った。
『小木津、亜希の気持ち、知ってたのか?』
『知らなかったのは、日本でお前だけだよ』
そんな馬鹿な。
亜希とどうなりたいかなんて──亜希の気持ちにどう応えられるかなんて、今はまだ全然わからない。自分の気持ちさえ整理できていない。
だけど、亜希を失いたくない。それだけはわかるんだ。わがままだけど、また亜希につらい思いをさせるのかもしれないけど、それだけは確かなんだ。
それから、ちゃんと謝りたい。酷いこと言ってごめんって。苦しめて、苦しめていたことにすら気づかなくて、本当にごめん。
──もう少しだけ、勇気が出たら。
すぐに亜希の元へ走っていくから。



