あー。あー。マイクテスト、マイクテスト。テステス……。聞こえてる?
オーケー。よし。じゃあ、話を始めよう。
オレは十王聖那、十五歳。
まずは、このオレのこれまでの人生を、数十行で説明したい。退屈な説明だからなるべく短く話すけど、聞き流してもらっても構わない。
「あれ、今日は火曜日? 『夢のソナタ』は水曜の九時からだったかしら?」
一心不乱にフローリングの床に掃除機をかけていた母親が、唐突にその動きを止めて虚空を見上げた。『夢のソナタ』は当時放映していた連続ドラマだ。
誰にともなく漏らされたその問いかけに答えたのは、当時三歳のこのオレだった。
「『夢のソナタ』は、帝国テレビ、火曜の十時だよ」
あら聖那、そんなことがわかるの、すごいわね。母親が緩やかに目を細める。オレはトミカを棚の上で滑らせながら言い募った。
「水曜の九時は、NHKが『アインシュタインは見た』、帝国テレビが『まるごと日本開発!』、共同テレビが『殺人の理論』……」
さすがに三歳児が漢字を読めたはずはない。しかし両親が定期購読してくれていた「こども新聞」には、全ての漢字にルビがふってあった。
「十時からは、NHKが『書道にトライ』、帝国テレビが『ミスタージャスティス』……」
ここで、柔らかかった母親の笑みが引き攣った。
「せ、聖那、まさか全部覚えてるの」
「ママはなんで覚えてないの、逆に」
「ぎゃ、逆に……」母親が完全に真顔になった。
「僕より長い時間、いつも新聞を見てるのに」
トミカを再駆動させる。誕生日に買ってもらった、消防車を模した真っ赤なトミカ。大切な宝物だった。しかし残念ながらオレがそれで遊んだのは、その日が最後になった。
この様子を横から見ていた父親は、トミカを取り上げ、かわりにオレの右手に鉛筆を持たせた。そしていつからかタイマー片手に、一日八時間の勉強を強いるようになった。母親はオレに対しいつも優しかったが、高圧的な父親に逆らうことはできなかった。
「悪魔の頭脳」を持つといわれ、読んだ書物の全てを暗記できたというジョン・フォン・ノイマンという歴史上の偉人がいる。オレは彼に近い能力を持っていたらしかった。手に血豆ができて流血しても鉛筆を持たされ続けたが、オレはオレで、学べば学ぶだけ水を吸うスポンジのように実力のついていく感覚は悪いものではなかった。勉強を億劫に思った日もないわけではなかったが、「教育虐待」という単語を当てはめるほどの凄絶な日々でなかったことは付け加えておきたい。
我が家はごくごく庶民的な一般家庭だ。普段の暮らしぶりを考えるに、世帯年収は中央値を少し下回っていただろう。オレの才能を目敏く、そして狡猾にも見抜いた父親は、オレを高給取りの職につかせて老後に楽をしようとでも考えたに違いない。
オレは十一歳になるころには高校教育課程までの学習内容を、凄まじい精度で、完璧に理解していた。
ちなみに父親はフィンランド人で、オレも彼と同じブロンド色の髪と碧眼を持っている。その父親はオレが中学一年にあがる年に、交通事故であっけなく亡くなった。生命保険金がおりたのはもちろん、仕事中の事故だったため労災も適用され、我が家にかなりまとまった額の保険金、さらには遺族年金が継続的に入ってきたことは僥倖だった。
──はい、おしまい。
退屈な身の上話はここまで。
辛気臭い話は長引かせたくないんだ。聞いててつまらないだろ?
だってオレは、恋の話をするためにここにきた。
これから始めるこの話には、神獣も、転生も、異世界も、なんか強いスライムも、もちろんジョン・フォン・ノイマンも、実はなんにも出てこない。よくある韓流ドラマみたいに、愛する人の記憶だけ失くしたり、脳内に消えない腫瘍ができたりもしない。
え? 刺激が少なくてつまらなそう?
でもできればここからは、聞き流さないでほしいんだ。
これは日本の片田舎を舞台にした、魔法も使えない、特殊スキルもない、ただの高校生二人の、ただの、くだらない恋の話。
これまでの十五年間は、たった数十行の説明で済んだ。でも今から話す一年間には、きっと数百ページを費やすだろう。
だってこの恋はオレの人生の、ほとんど全てだからだ。
***
チチチ、という小鳥の囀りが耳朶を打つ。
オレは自分のアパートの安っぽいベッドの上にいた。窓から差し込む朝の光が眩しい。
おそらく寝ぼけたオレにアラーム音を止められ、沈黙していたスマホは八時ちょっと前を示していた。
「や、やべえ」
これが一人暮らしの辛さだ。
飛び起きて支度をする。一瞬だけ見たスマホの画面に、母親からのメッセージ通知がきていた。「入学式、行けなくてごめんねえ」と、涙を流した顔文字付きの文面だった。ちょうど三つ下の妹の入学式と重なってしまったためだ。
手櫛で適当に髪を梳いてから、後ろに束ねて一本結びにする。肩まであるこの金の長髪が、女子に見間違われる原因の一つであることはわかっているのだが、なかなか切れずにいる。
幼少期、長時間の勉強を強いられていたころ、最も集中力の妨げとなったのが「伸びかけの髪」だった。ならばいっそのこと、と結べる程度まで伸ばしてしまったら、それがことのほか快適で、四歳頃からこの髪の長さを変えたことがない。今となっては、後ろに束ねる髪がないと落ち着かなくなってしまった。
朝食などもちろん取れるはずもなく、空腹のまま家を飛び出した。
ごめんなさい神にも仏にも女神にも誓って返します! と胸の前で十字を切ってから、アパートの前のボロ自転車をかっぱらって漕ぎ出した。結び方のわからないネクタイと通学バッグを籠に突っ込んで、渾身の力でペダルを踏む。
八時十五分発の電車に乗れば、ギリギリ間に合う!
「大和高等学校」の、煉瓦積みの正門から敷地内に全速力で進入する。通称「ヤマ高」と呼ばれるここは、国内随一の難関私立高校である。
喘ぐように息を切らしながら、入学式の席に着く。八時起床で、九時開始の式典になんとか間に合った。胸の中で自分に拍手喝采する。扱い方が不明のネクタイは、体育館の入り口に立っていた職員の女性が結んでくれた。
さあ、くるぞ……と、オレは腹を括る。
コソコソ、コソコソ、という潜まった声がこちらの耳を濡らし始める。耳を澄ませばその「コソコソ」には、キャーとか、ウソーとか、やばくない? とかそういった、感情先行型の、語彙力不足の言葉たちが内在されていることがわかる。
オレは前髪で顔が隠れるように俯く。
自慢ではないし、それどころか自称するのは情けない限りだが、オレは女顔の極致とでもいうべき容貌をしている。父親から譲り受けた北欧の血が影響しているのもあるだろう。
幼稚園のお遊戯会、小・中学校の学園祭など、「姫役」が必要な場面が訪れた時には、それらの役柄は一つ残らずオレに押し付けられた。
そして得てして、女顔の男、というのは良いもの、もしくは美しいものに分類されてしまうらしい。オレとしては気味が悪いものとして扱ってもらったほうが、むしろ楽だったのではないかと思う。男の体に女じみた顔が載っているのだから、半人半獣のケンタウルロスのような違和感を覚えられて然るべきだろうが――。
そんな詮無いことを思案しながら、その場をやり過ごす。オレの座る列全員分の、好奇と驚異で満ちたナイフのような視線が、ぐさぐさと身体を刺してくる。
それでも、こんな状況下にももう慣れた。十五年間、人生のステージが変わるごとに感じてきたのだ。
そのヒソヒソ声はゴキブリの生命力のごとく、すさまじいスピードで周囲に感染していくため、最後には全方位からのナイフを覚悟しなければならない。
けれど今日は、後方からの視線は全く感じなかった。オレの後ろ側に、そのゴキブリ並みの感染を断ち切る、なにか強力な抗生物質があるらしかった。
その抗生物質はなんだろう? と疑問を覚えた時、校長の長い講話が始まった。
「えーこの学園の生徒という、うー、自覚とけじめを持ち、えー、日々勉学と、おー、精進に勤しみ、いー……」
オレは「あーいーうーえーおー」が全てコンプリートされるかどうかの検証を始める。早くも残りは「あー」だけだが。
そんなことをしながら遊んでいても、やはり暇だし鼻に付く話なので、パイプ椅子をギィギィ唸らせながら後ろへ頃けていた。
ギィギィ、ギィギィ……。バタンッ。
後ろに倒れた。幼児でも予見可能な連鎖だった。だって暇なんだもん──。
倒れた、と思ったのに、いつまで経っても背中に衝撃は来ない。不運にもオレの後ろの席に座ってしまった奴が、倒れてきたオレを素晴らしい反射神経で受け止めていた。
そのナイスな反射神経の持ち主に、「わりィ」と謝罪しようとした。
けれど、その言葉を呑みこんでしまった。
ああ、わかった。
後方から視線を感じなかった理由。
「抗生物質はあんたか!」
倒れ掛かった状態のまま、探偵の気分になる。パンダじゃなかった。
「は?」
は? と、不快そうに眉根を寄せて、にべもない返事をしてきた男は、まことに美しかった。
ミケランジェロのダビデ像も尻尾を巻いて逃げ出さんばかりの、美男子だ。まさに人語を話す彫刻と言えた。
オレのような「女顔」という姑息な手段──と自負している──ではなくて、まっとうな、正攻法の、男前だ。美しさという意味ではオレと共通の部分があるのに、まったくの対極。
その抗生物質は、ガタッとオレの椅子を元の位置に黙って戻した。その粗野な仕草から彼の苛立ちが伝わる。まあ、当たり前だ。
──そう、今思えば。
物理的に初めて接触したその瞬間から、オレは彼の手を焼かせていたわけだ。
オレは暫くお利口さんに、校長の講話のコンプリート具合を再度検証していたけれど、やっぱりすぐに飽きたので、またギィギィしはじめた。
そして再び後ろに倒れた。
「……お前、その学習能力の無さで、よくこの学校入れたな」
後ろの抗生物質は、また律儀に倒れてきた椅子を支えながら、こちらを腐してくる。
「アイムソーリー! ユアウェルカム! ドントウォーリー! ワッチャネーム?」オレはおどけてみせた。
「なるほど、わかった。お前補欠合格だな。しかもギリギリまで正規合格者の辞退を待ち望んでた類だ。そのひ弱な体つきはスポーツ推薦でもなさそうだしな。さては裏口入学か?」
「それってつまりオレがこの中で、一番馬鹿ってことを言いたいのかな?」
「それ以外の解釈があるなら教えてくれよ」抗生物質は取り付く島もない。
一番馬鹿ね、とオレは繰り返す。「確かに、それと似てる部分はある」
「だろうな」
そこまで吐き捨てるように言って、椅子をまた元の位置へ戻してくれる。律儀な奴だな。
「……続きまして、新入生代表の辞」
厚化粧の女性教員がマイクに向かって無愛想に告げる。さきほどオレのネクタイを結ってくれた女性だ。
新入生代表の辞は、入試で首席だった生徒が担うらしい。
「……はい」
という気だるげな返事と共に、誰かが立ち上がった。
誰が立ち上がったかって。
オレだ。
後ろの抗生物質の驚愕の表情を見下ろして、ニタリ、と笑みをロ元に貼り付けた。
「一番は一番だけど、下じゃなくて、上なんだ」ちょっとだけ肩をすくめてみせる。「おしかったね、ボク」
彼の目元が、暗く陰ったように見えた。敗北という名の屋根の下に入ったかのようだった。
そしてこれこそが、オレと親友との出会いだったわけである。
***
一学年に十クラスある。
一組から三組はスポーツ推薦クラスで、四組からは原則成績順にクラス分けされ、数が増えるごとに成績優良度が上がっていく。入試で主席を取ったオレが在籍するのは当然、十組だ。ちなみにスポーツ推薦クラス以外は、男女別にクラス分けされているらしい。奇数が女子クラス、偶数が男子クラス、という具合だ。
オレは十組の前に立って、ドアに貼られたコピー用紙を頼りに自分の席を確認した。
一番左の列の一番前。「十王」という自分の苗字を考えれば、どうやら五十音順の並びではなさそうだ。
示された座席へ腰を下ろし、机の上に腕を組んで頭を載せる。すでに疲労困憊だ。代表の辞の際、壇上で浴びた全校生徒からの好奇の目線に、もうオレのHPは至極僅かになっていた。
生徒が全員着席し終わると、担任と思しき男が入ってきて、黒板に「柳井猛」と名前を書いた。その風体は名前から受ける印象ほどの雄々しさはなく、ごく一般的な中肉中背で、剛毛のスポーツ刈りに少しだけ白髪をまじらせている。歳は四十を少し過ぎたくらいか。黒と茶色の斑模様の眼鏡もかけている。
担任の男らしい「猛」という名前が羨ましかった。西洋風の容姿に加え、「聖那」なんていう中性的な名前も、女子に間違われる悲しき一因なのだろう。いっそのこと改名してやろうかな、たとえば太蔵とか、隆盛とか……などと取り止めもないことを思案しながら、無意識のうちにまた椅子をギィギィさせていた。
そのギィギィしていた椅子を、何者かの手がぐっと後ろから抑えて静止させてきた。驚いて後ろを振り向く。座席表によれば、そこには「神峰亜希」という生徒がいるはずだった。
「……ダニエル電池の仕組みはわかるのに、椅子の座り方はママに教わらなかったのか?」
神峰亜希は、先刻の「抗生物質」だった。ちなみにダニエル電池とは入試の理科に出た問題の一つである。
「ダニエルって誰? 君のお父さんの名前?」オレは空とぼける。
「それを言うならお前だろ、」神峰亜希は常に溜め息混じりだ。「俺は純日本人だ」
余談だが、オレの父の名前はマッティ・ユハニ・ヴィルタネン。覚えなくていいですよ、皆さん。おそらくもう二度と出てこない。
「ところで、この席順ってなんの順番?」
「入試の成績順」
神峰亜希はこちらの問いかけにあっさり答える。余計な贅肉の一切ない、骨格だけみたいな話し方だった。
席順は入試の成績順。ならば、彼は二位だったということか。
「でも初めだけだそうだ。あとは席替えするらしい」
と補足してくれる。なぜこんなにヤマ高のことに詳しいのか謎だったが、あとから聞いた話によれば彼の姉がここの卒業生らしい。
「入試の成績順か。なら、どうしてオレが君の前なんだろう。補欠合格なのに」
式典中に面罵されたことへの意趣返しのつもりで、試しに言ってみる。別にもう気にしてもいなかったが。
「入試では人間性ははかれないという貴重な知見を得た」
「お前な」
ダビデ像よろしくの美顔で、どこまでも皮肉っぽい話し方をする彼に噴き出しそうになりながらも、「負けっぷりが悪いぞ」と指摘する。神峰亜希は観念したように首を横に振った。
「井の中の蛙ということわざを肌で体感したのは初めてだ」
「蛙ちゃん、大海デビュー」くれぐれも、溺れるなよ。「オレという大海は広いぞ」
「溺れるどころか、蛙は海に至ったら数時間で死ぬ。両生類は基本的に淡水棲だ」
冗談なのか本気なのか判断しかねる言い方が笑えた。死んじゃうのかよ、とオレが肩を揺らすと、神峰亜希が初めてうっすらと口元を綻ばせた。このまま蝋で固めればすぐにルーブル美術館へ納品できそうなほどの、完全無欠の微笑といえた。
神峰亜希とは馬が合いそうだ。良い友達になれるかもしれない、と感じた。
そう、「友達」だ。
まさか彼と友達を越えたホニャララの関係になるなんて──その時は夢にも、本当に夢にも思っていなかった。
オーケー。よし。じゃあ、話を始めよう。
オレは十王聖那、十五歳。
まずは、このオレのこれまでの人生を、数十行で説明したい。退屈な説明だからなるべく短く話すけど、聞き流してもらっても構わない。
「あれ、今日は火曜日? 『夢のソナタ』は水曜の九時からだったかしら?」
一心不乱にフローリングの床に掃除機をかけていた母親が、唐突にその動きを止めて虚空を見上げた。『夢のソナタ』は当時放映していた連続ドラマだ。
誰にともなく漏らされたその問いかけに答えたのは、当時三歳のこのオレだった。
「『夢のソナタ』は、帝国テレビ、火曜の十時だよ」
あら聖那、そんなことがわかるの、すごいわね。母親が緩やかに目を細める。オレはトミカを棚の上で滑らせながら言い募った。
「水曜の九時は、NHKが『アインシュタインは見た』、帝国テレビが『まるごと日本開発!』、共同テレビが『殺人の理論』……」
さすがに三歳児が漢字を読めたはずはない。しかし両親が定期購読してくれていた「こども新聞」には、全ての漢字にルビがふってあった。
「十時からは、NHKが『書道にトライ』、帝国テレビが『ミスタージャスティス』……」
ここで、柔らかかった母親の笑みが引き攣った。
「せ、聖那、まさか全部覚えてるの」
「ママはなんで覚えてないの、逆に」
「ぎゃ、逆に……」母親が完全に真顔になった。
「僕より長い時間、いつも新聞を見てるのに」
トミカを再駆動させる。誕生日に買ってもらった、消防車を模した真っ赤なトミカ。大切な宝物だった。しかし残念ながらオレがそれで遊んだのは、その日が最後になった。
この様子を横から見ていた父親は、トミカを取り上げ、かわりにオレの右手に鉛筆を持たせた。そしていつからかタイマー片手に、一日八時間の勉強を強いるようになった。母親はオレに対しいつも優しかったが、高圧的な父親に逆らうことはできなかった。
「悪魔の頭脳」を持つといわれ、読んだ書物の全てを暗記できたというジョン・フォン・ノイマンという歴史上の偉人がいる。オレは彼に近い能力を持っていたらしかった。手に血豆ができて流血しても鉛筆を持たされ続けたが、オレはオレで、学べば学ぶだけ水を吸うスポンジのように実力のついていく感覚は悪いものではなかった。勉強を億劫に思った日もないわけではなかったが、「教育虐待」という単語を当てはめるほどの凄絶な日々でなかったことは付け加えておきたい。
我が家はごくごく庶民的な一般家庭だ。普段の暮らしぶりを考えるに、世帯年収は中央値を少し下回っていただろう。オレの才能を目敏く、そして狡猾にも見抜いた父親は、オレを高給取りの職につかせて老後に楽をしようとでも考えたに違いない。
オレは十一歳になるころには高校教育課程までの学習内容を、凄まじい精度で、完璧に理解していた。
ちなみに父親はフィンランド人で、オレも彼と同じブロンド色の髪と碧眼を持っている。その父親はオレが中学一年にあがる年に、交通事故であっけなく亡くなった。生命保険金がおりたのはもちろん、仕事中の事故だったため労災も適用され、我が家にかなりまとまった額の保険金、さらには遺族年金が継続的に入ってきたことは僥倖だった。
──はい、おしまい。
退屈な身の上話はここまで。
辛気臭い話は長引かせたくないんだ。聞いててつまらないだろ?
だってオレは、恋の話をするためにここにきた。
これから始めるこの話には、神獣も、転生も、異世界も、なんか強いスライムも、もちろんジョン・フォン・ノイマンも、実はなんにも出てこない。よくある韓流ドラマみたいに、愛する人の記憶だけ失くしたり、脳内に消えない腫瘍ができたりもしない。
え? 刺激が少なくてつまらなそう?
でもできればここからは、聞き流さないでほしいんだ。
これは日本の片田舎を舞台にした、魔法も使えない、特殊スキルもない、ただの高校生二人の、ただの、くだらない恋の話。
これまでの十五年間は、たった数十行の説明で済んだ。でも今から話す一年間には、きっと数百ページを費やすだろう。
だってこの恋はオレの人生の、ほとんど全てだからだ。
***
チチチ、という小鳥の囀りが耳朶を打つ。
オレは自分のアパートの安っぽいベッドの上にいた。窓から差し込む朝の光が眩しい。
おそらく寝ぼけたオレにアラーム音を止められ、沈黙していたスマホは八時ちょっと前を示していた。
「や、やべえ」
これが一人暮らしの辛さだ。
飛び起きて支度をする。一瞬だけ見たスマホの画面に、母親からのメッセージ通知がきていた。「入学式、行けなくてごめんねえ」と、涙を流した顔文字付きの文面だった。ちょうど三つ下の妹の入学式と重なってしまったためだ。
手櫛で適当に髪を梳いてから、後ろに束ねて一本結びにする。肩まであるこの金の長髪が、女子に見間違われる原因の一つであることはわかっているのだが、なかなか切れずにいる。
幼少期、長時間の勉強を強いられていたころ、最も集中力の妨げとなったのが「伸びかけの髪」だった。ならばいっそのこと、と結べる程度まで伸ばしてしまったら、それがことのほか快適で、四歳頃からこの髪の長さを変えたことがない。今となっては、後ろに束ねる髪がないと落ち着かなくなってしまった。
朝食などもちろん取れるはずもなく、空腹のまま家を飛び出した。
ごめんなさい神にも仏にも女神にも誓って返します! と胸の前で十字を切ってから、アパートの前のボロ自転車をかっぱらって漕ぎ出した。結び方のわからないネクタイと通学バッグを籠に突っ込んで、渾身の力でペダルを踏む。
八時十五分発の電車に乗れば、ギリギリ間に合う!
「大和高等学校」の、煉瓦積みの正門から敷地内に全速力で進入する。通称「ヤマ高」と呼ばれるここは、国内随一の難関私立高校である。
喘ぐように息を切らしながら、入学式の席に着く。八時起床で、九時開始の式典になんとか間に合った。胸の中で自分に拍手喝采する。扱い方が不明のネクタイは、体育館の入り口に立っていた職員の女性が結んでくれた。
さあ、くるぞ……と、オレは腹を括る。
コソコソ、コソコソ、という潜まった声がこちらの耳を濡らし始める。耳を澄ませばその「コソコソ」には、キャーとか、ウソーとか、やばくない? とかそういった、感情先行型の、語彙力不足の言葉たちが内在されていることがわかる。
オレは前髪で顔が隠れるように俯く。
自慢ではないし、それどころか自称するのは情けない限りだが、オレは女顔の極致とでもいうべき容貌をしている。父親から譲り受けた北欧の血が影響しているのもあるだろう。
幼稚園のお遊戯会、小・中学校の学園祭など、「姫役」が必要な場面が訪れた時には、それらの役柄は一つ残らずオレに押し付けられた。
そして得てして、女顔の男、というのは良いもの、もしくは美しいものに分類されてしまうらしい。オレとしては気味が悪いものとして扱ってもらったほうが、むしろ楽だったのではないかと思う。男の体に女じみた顔が載っているのだから、半人半獣のケンタウルロスのような違和感を覚えられて然るべきだろうが――。
そんな詮無いことを思案しながら、その場をやり過ごす。オレの座る列全員分の、好奇と驚異で満ちたナイフのような視線が、ぐさぐさと身体を刺してくる。
それでも、こんな状況下にももう慣れた。十五年間、人生のステージが変わるごとに感じてきたのだ。
そのヒソヒソ声はゴキブリの生命力のごとく、すさまじいスピードで周囲に感染していくため、最後には全方位からのナイフを覚悟しなければならない。
けれど今日は、後方からの視線は全く感じなかった。オレの後ろ側に、そのゴキブリ並みの感染を断ち切る、なにか強力な抗生物質があるらしかった。
その抗生物質はなんだろう? と疑問を覚えた時、校長の長い講話が始まった。
「えーこの学園の生徒という、うー、自覚とけじめを持ち、えー、日々勉学と、おー、精進に勤しみ、いー……」
オレは「あーいーうーえーおー」が全てコンプリートされるかどうかの検証を始める。早くも残りは「あー」だけだが。
そんなことをしながら遊んでいても、やはり暇だし鼻に付く話なので、パイプ椅子をギィギィ唸らせながら後ろへ頃けていた。
ギィギィ、ギィギィ……。バタンッ。
後ろに倒れた。幼児でも予見可能な連鎖だった。だって暇なんだもん──。
倒れた、と思ったのに、いつまで経っても背中に衝撃は来ない。不運にもオレの後ろの席に座ってしまった奴が、倒れてきたオレを素晴らしい反射神経で受け止めていた。
そのナイスな反射神経の持ち主に、「わりィ」と謝罪しようとした。
けれど、その言葉を呑みこんでしまった。
ああ、わかった。
後方から視線を感じなかった理由。
「抗生物質はあんたか!」
倒れ掛かった状態のまま、探偵の気分になる。パンダじゃなかった。
「は?」
は? と、不快そうに眉根を寄せて、にべもない返事をしてきた男は、まことに美しかった。
ミケランジェロのダビデ像も尻尾を巻いて逃げ出さんばかりの、美男子だ。まさに人語を話す彫刻と言えた。
オレのような「女顔」という姑息な手段──と自負している──ではなくて、まっとうな、正攻法の、男前だ。美しさという意味ではオレと共通の部分があるのに、まったくの対極。
その抗生物質は、ガタッとオレの椅子を元の位置に黙って戻した。その粗野な仕草から彼の苛立ちが伝わる。まあ、当たり前だ。
──そう、今思えば。
物理的に初めて接触したその瞬間から、オレは彼の手を焼かせていたわけだ。
オレは暫くお利口さんに、校長の講話のコンプリート具合を再度検証していたけれど、やっぱりすぐに飽きたので、またギィギィしはじめた。
そして再び後ろに倒れた。
「……お前、その学習能力の無さで、よくこの学校入れたな」
後ろの抗生物質は、また律儀に倒れてきた椅子を支えながら、こちらを腐してくる。
「アイムソーリー! ユアウェルカム! ドントウォーリー! ワッチャネーム?」オレはおどけてみせた。
「なるほど、わかった。お前補欠合格だな。しかもギリギリまで正規合格者の辞退を待ち望んでた類だ。そのひ弱な体つきはスポーツ推薦でもなさそうだしな。さては裏口入学か?」
「それってつまりオレがこの中で、一番馬鹿ってことを言いたいのかな?」
「それ以外の解釈があるなら教えてくれよ」抗生物質は取り付く島もない。
一番馬鹿ね、とオレは繰り返す。「確かに、それと似てる部分はある」
「だろうな」
そこまで吐き捨てるように言って、椅子をまた元の位置へ戻してくれる。律儀な奴だな。
「……続きまして、新入生代表の辞」
厚化粧の女性教員がマイクに向かって無愛想に告げる。さきほどオレのネクタイを結ってくれた女性だ。
新入生代表の辞は、入試で首席だった生徒が担うらしい。
「……はい」
という気だるげな返事と共に、誰かが立ち上がった。
誰が立ち上がったかって。
オレだ。
後ろの抗生物質の驚愕の表情を見下ろして、ニタリ、と笑みをロ元に貼り付けた。
「一番は一番だけど、下じゃなくて、上なんだ」ちょっとだけ肩をすくめてみせる。「おしかったね、ボク」
彼の目元が、暗く陰ったように見えた。敗北という名の屋根の下に入ったかのようだった。
そしてこれこそが、オレと親友との出会いだったわけである。
***
一学年に十クラスある。
一組から三組はスポーツ推薦クラスで、四組からは原則成績順にクラス分けされ、数が増えるごとに成績優良度が上がっていく。入試で主席を取ったオレが在籍するのは当然、十組だ。ちなみにスポーツ推薦クラス以外は、男女別にクラス分けされているらしい。奇数が女子クラス、偶数が男子クラス、という具合だ。
オレは十組の前に立って、ドアに貼られたコピー用紙を頼りに自分の席を確認した。
一番左の列の一番前。「十王」という自分の苗字を考えれば、どうやら五十音順の並びではなさそうだ。
示された座席へ腰を下ろし、机の上に腕を組んで頭を載せる。すでに疲労困憊だ。代表の辞の際、壇上で浴びた全校生徒からの好奇の目線に、もうオレのHPは至極僅かになっていた。
生徒が全員着席し終わると、担任と思しき男が入ってきて、黒板に「柳井猛」と名前を書いた。その風体は名前から受ける印象ほどの雄々しさはなく、ごく一般的な中肉中背で、剛毛のスポーツ刈りに少しだけ白髪をまじらせている。歳は四十を少し過ぎたくらいか。黒と茶色の斑模様の眼鏡もかけている。
担任の男らしい「猛」という名前が羨ましかった。西洋風の容姿に加え、「聖那」なんていう中性的な名前も、女子に間違われる悲しき一因なのだろう。いっそのこと改名してやろうかな、たとえば太蔵とか、隆盛とか……などと取り止めもないことを思案しながら、無意識のうちにまた椅子をギィギィさせていた。
そのギィギィしていた椅子を、何者かの手がぐっと後ろから抑えて静止させてきた。驚いて後ろを振り向く。座席表によれば、そこには「神峰亜希」という生徒がいるはずだった。
「……ダニエル電池の仕組みはわかるのに、椅子の座り方はママに教わらなかったのか?」
神峰亜希は、先刻の「抗生物質」だった。ちなみにダニエル電池とは入試の理科に出た問題の一つである。
「ダニエルって誰? 君のお父さんの名前?」オレは空とぼける。
「それを言うならお前だろ、」神峰亜希は常に溜め息混じりだ。「俺は純日本人だ」
余談だが、オレの父の名前はマッティ・ユハニ・ヴィルタネン。覚えなくていいですよ、皆さん。おそらくもう二度と出てこない。
「ところで、この席順ってなんの順番?」
「入試の成績順」
神峰亜希はこちらの問いかけにあっさり答える。余計な贅肉の一切ない、骨格だけみたいな話し方だった。
席順は入試の成績順。ならば、彼は二位だったということか。
「でも初めだけだそうだ。あとは席替えするらしい」
と補足してくれる。なぜこんなにヤマ高のことに詳しいのか謎だったが、あとから聞いた話によれば彼の姉がここの卒業生らしい。
「入試の成績順か。なら、どうしてオレが君の前なんだろう。補欠合格なのに」
式典中に面罵されたことへの意趣返しのつもりで、試しに言ってみる。別にもう気にしてもいなかったが。
「入試では人間性ははかれないという貴重な知見を得た」
「お前な」
ダビデ像よろしくの美顔で、どこまでも皮肉っぽい話し方をする彼に噴き出しそうになりながらも、「負けっぷりが悪いぞ」と指摘する。神峰亜希は観念したように首を横に振った。
「井の中の蛙ということわざを肌で体感したのは初めてだ」
「蛙ちゃん、大海デビュー」くれぐれも、溺れるなよ。「オレという大海は広いぞ」
「溺れるどころか、蛙は海に至ったら数時間で死ぬ。両生類は基本的に淡水棲だ」
冗談なのか本気なのか判断しかねる言い方が笑えた。死んじゃうのかよ、とオレが肩を揺らすと、神峰亜希が初めてうっすらと口元を綻ばせた。このまま蝋で固めればすぐにルーブル美術館へ納品できそうなほどの、完全無欠の微笑といえた。
神峰亜希とは馬が合いそうだ。良い友達になれるかもしれない、と感じた。
そう、「友達」だ。
まさか彼と友達を越えたホニャララの関係になるなんて──その時は夢にも、本当に夢にも思っていなかった。



