「梨歩」
「……なに?」
「俺が好きなのか?」
一瞬、時が止まる。
「え?」
今度は、思考が止まった。
「少なくとも、そう聞こえたんだが」
「…………」
しまった。
「あ……えっと……」
今さら誤魔化せるわけもない。
「あ、あははは……」
「何故笑う」
「あっははは! あたしってば、間抜けすぎる!」
涙を拭いながら、無理やり笑った。
「うっかり本人を目の前にして、口を滑らせるなんて。最悪。恥ずかしすぎ――」
「俺は別に構わない」
ん?
「え?」
「そもそも」
亞紗斗さんの視線が、あたしの手の中へ落ちた。
「忘れる必要があるのか?」
「で、でも……」
「手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない」
「…………」
「誰に何を言われようと、それが梨歩にとって大切なら、それでいい」
違う。
そんなに簡単じゃない。
「それだと……涼ちゃんにも、亞紗斗さんにも悪いっていうか……」
指輪を握りしめる。
「こんな中途半端な気持ちなら、そもそも、もう恋なんてしない方が――」
その瞬間。
背中に、温もりが触れた。
「――!」
後ろから伸びてきた腕が、あたしの身体を包み込んだ。
亞紗斗さんだった。
声も出なかった。
いつだって冷静で。
必要以上に人との距離を詰めようとしない人が。
あたしを、抱きしめている。
(う、うそ……嘘でしょ。 何この状況……、何が、どうなってるの?)
「それなら、俺が全部受け入れる」
「…………え?」
耳元で聞こえる声は、いつもと変わらない。
落ち着いていた。
だからこそ。
一言一言が、胸の奥へまっすぐ入ってきた。
「梨歩が涼平を愛したことも、涼平に愛されたことも」
「…………」
「過去は消えない。でも、その過去があるから今の梨歩がいる」
亞紗斗さんの腕に、わずかに力がこもる。
「過去も含めて梨歩の一部なら、それを否定する必要がどこにあるんだ」
涙が、また溢れた。
「だから、忘れなくていい」
ずっと。
誰かに言ってほしかったのかもしれない。
忘れなくていい、と。
涼ちゃんを好きなままでいい、と。
「梨歩の過去も、今も」
静かな声。
「これから先の未来も、俺が全部受け入れる」
「亞紗斗さん……」
「だから、もう迷うな」
そんなこと――できるわけがないと思っていた。
どちらかを選ばなければいけないと思っていた。
涼ちゃんを選ぶなら、ずっと一人でいる。
亞紗斗さんを選ぶなら、涼ちゃんを過去にする。
そのどちらかしかないと。
「俺は涼平の代わりにはなれない」
亞紗斗さんが言った。
「…………」
「なるつもりもない」
その言葉に、胸が震えた。
「でも、これからの梨歩を支えることは……俺にもできる」
一度、言葉が途切れた。
迷っているわけではなかった。
亞紗斗さんは、いつだってそうだ。
自分の言葉を、自分の意志で選ぶ。
そして。
「いや、少し違うな」
あたしを抱きしめる腕が、少しだけ強くなった。
「俺が……そうしたい」
「…………」
「梨歩」
「……うん」
「彼を忘れろとは言わない」
涙が頬を伝う。
「指輪も、持っていればいい」
「…………っ」
「涼平を愛した自分を、否定するな」
もう。
我慢できなかった。
「梨歩の明るさも、素直さも、傷つきやすいところも」
「…………」
「俺は、梨歩の全部を知っているわけじゃない」
「…………」
「それでも、俺が知っている梨歩を、俺は好きになった」
「……亞紗斗さん……」
「俺は俺で」
静かに。
けれど、何ひとつ迷いのない声で。
「梨歩が好きだ」
胸の奥で。
何かが、ほどけた。
「梨歩の過去も何もかも……全部持ったまま、俺のところに来ればいい」
涼ちゃん。
ごめんね。
そう言いそうになって。
やめた。
代わりに。
手の中にある桜の指輪を、そっと握った。
忘れない。
忘れなくていい。
涼ちゃんを愛したことも。
今でも大切に思っていることも。
そして。
この人に惹かれていることも。
全部。
全部、あたしなんだ。



