亞紗斗さんが、わずかに目を細めた。
「それでいい」
「……っ」
「梨歩」
あたしは呼ばれる。
真っ直ぐで、逃げ道なんて与えない亞紗斗さんの声で。
「俺は涼平の代わりになるつもりはない」
「うん」
「涼平と梨歩が過ごした時間に、入っていくつもりもない」
「うん……」
「でも」
握られた手に力がこもる。
「これから先の時間は、俺にくれ」
息が止まった。
「…………」
「梨歩がどこへ行こうと、何をしようと、仕事を続けようと構わない」
亞紗斗さんらしい。
あたしに仕事を辞めろとは、絶対に言わない。
「俺も今の仕事を続ける」
「うん」
「だから、会えない時間はなくならない」
「うん」
「すれ違うこともある」
「……うん」
「それでも」
アイスグレーの瞳が――まっすぐ、あたしを見る。
「俺は、梨歩と生きたい」
「…………っ」
だめだ。
もう。
涙で、ほとんど見えない。
「梨歩」
一度、静かに息をついて亞紗斗さんが言った。
「結婚してくれ」
世界が、静かになった。
川の音も。
遠くの車の音も。
何も聞こえなくなった。
ただ――目の前にいる人の声だけが。
胸の中に残った。
(結婚――あたしが……誰かと)
昔。
考えたことがあった。
涼ちゃんと。
もし、病気なんてなくて。
事故なんてなくて。
あのまま一緒にいられたら。
いつか結婚するのかなって。
でも。
その未来は叶わなかった。
だから。
もう一度誰かと未来を考えることが、ずっと怖かった。
約束したら、また失うかもしれない。
幸せになったら、また壊れるかもしれない。
でも、今は。
それでも。
「……うん」
声が震えた。
「亞紗斗さん」
あたしは、涙を拭う。
ちゃんと見たかった。
この人の顔を。
「何だ」
もう一度。
今度は、はっきり。
「あたしも、結婚したい……亞紗斗さんと」
亞紗斗さんは、大げさに笑ったりしなかった。
ただ、少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しそうに笑った。
その表情を見た瞬間――胸がいっぱいになった。
「左手、出せ」
「……うん」
あたしは、亞紗斗さんに左手を差し出す。
桜の指輪。
涼ちゃんが遺してくれたもの。
亞紗斗さんは、それを外さなかった。
その指輪に寄り添うように、新しい指輪を通していく。
ゆっくり。
ゆっくり。
二つのリングが、ぴたりと重なった。
はじめから、本当に一緒につけるために作られていたみたいに。
桜の花を包むように。
新しいリングの曲線が寄り添っている。
「……綺麗」
涙が、また落ちた。
「ほんとに……綺麗……」
涼ちゃん。
見てる?
あたし。
指輪、外さなかったよ。
あなたを忘れたわけでもない。
でも。
あたし――未来を選んだよ。
もう、「ごめんね」とは思わなかった。
代わりに、心の中で「ありがとう」と言った。
涼ちゃん。
あたしを好きになってくれて。
あたしに、あんなに大切な時間をくれて。
ありがとう。
そして。
「亞紗斗さん」
「何だ」
「ありがとう」
「何に対してだ」
「全部」
亞紗斗さんは、少しだけ困ったように息を吐いた。
「抽象的すぎる」
「いいの」
あたしは笑った。
泣きながら。
それでも、ちゃんと笑えた。
「全部だから」
過去も。
今も。
これからも。
涼ちゃんを愛したあたしも。
亞紗斗さんを愛しているあたしも。
全部。
何ひとつ。
消さなくていい。
何ひとつ。
捨てなくていい。
二つの指輪が重なった左手を。
亞紗斗さんが、そっと包み込む。
「帰るか」
「え?」
「冷えてきた」
「あ、うん」
あたしたちは、立ち上がる。
少し歩いて、あたしは亞紗斗さんの腕に、自分の腕を絡めた。
「何だ」
「いいでしょ。婚約者なんだから」
「好きにしろ」
「あはは」
いつも通り。
でも。
もう、少しだけ違う。
左手には、二つの指輪。
一つは。
あたしが愛した人から。
もう一つは。
これからを一緒に生きる人から。
どちらも、あたしの人生。
どちらも、大切な愛。
だから、全部。
抱えていく。
これが、あたしの選んだ未来だから。
あたしのすべてを受け入れてくれた彼に、あたしのすべてをかけて。
彼の未来ごと、抱きしめていく。
涼ちゃんを愛した過去も。
亞紗斗さんを愛する今も。
これから二人で歩いていく未来も。
あたしはこれからも、生きていく。
彼らと共に、生きていく。
〈Fin.〉
「それでいい」
「……っ」
「梨歩」
あたしは呼ばれる。
真っ直ぐで、逃げ道なんて与えない亞紗斗さんの声で。
「俺は涼平の代わりになるつもりはない」
「うん」
「涼平と梨歩が過ごした時間に、入っていくつもりもない」
「うん……」
「でも」
握られた手に力がこもる。
「これから先の時間は、俺にくれ」
息が止まった。
「…………」
「梨歩がどこへ行こうと、何をしようと、仕事を続けようと構わない」
亞紗斗さんらしい。
あたしに仕事を辞めろとは、絶対に言わない。
「俺も今の仕事を続ける」
「うん」
「だから、会えない時間はなくならない」
「うん」
「すれ違うこともある」
「……うん」
「それでも」
アイスグレーの瞳が――まっすぐ、あたしを見る。
「俺は、梨歩と生きたい」
「…………っ」
だめだ。
もう。
涙で、ほとんど見えない。
「梨歩」
一度、静かに息をついて亞紗斗さんが言った。
「結婚してくれ」
世界が、静かになった。
川の音も。
遠くの車の音も。
何も聞こえなくなった。
ただ――目の前にいる人の声だけが。
胸の中に残った。
(結婚――あたしが……誰かと)
昔。
考えたことがあった。
涼ちゃんと。
もし、病気なんてなくて。
事故なんてなくて。
あのまま一緒にいられたら。
いつか結婚するのかなって。
でも。
その未来は叶わなかった。
だから。
もう一度誰かと未来を考えることが、ずっと怖かった。
約束したら、また失うかもしれない。
幸せになったら、また壊れるかもしれない。
でも、今は。
それでも。
「……うん」
声が震えた。
「亞紗斗さん」
あたしは、涙を拭う。
ちゃんと見たかった。
この人の顔を。
「何だ」
もう一度。
今度は、はっきり。
「あたしも、結婚したい……亞紗斗さんと」
亞紗斗さんは、大げさに笑ったりしなかった。
ただ、少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しそうに笑った。
その表情を見た瞬間――胸がいっぱいになった。
「左手、出せ」
「……うん」
あたしは、亞紗斗さんに左手を差し出す。
桜の指輪。
涼ちゃんが遺してくれたもの。
亞紗斗さんは、それを外さなかった。
その指輪に寄り添うように、新しい指輪を通していく。
ゆっくり。
ゆっくり。
二つのリングが、ぴたりと重なった。
はじめから、本当に一緒につけるために作られていたみたいに。
桜の花を包むように。
新しいリングの曲線が寄り添っている。
「……綺麗」
涙が、また落ちた。
「ほんとに……綺麗……」
涼ちゃん。
見てる?
あたし。
指輪、外さなかったよ。
あなたを忘れたわけでもない。
でも。
あたし――未来を選んだよ。
もう、「ごめんね」とは思わなかった。
代わりに、心の中で「ありがとう」と言った。
涼ちゃん。
あたしを好きになってくれて。
あたしに、あんなに大切な時間をくれて。
ありがとう。
そして。
「亞紗斗さん」
「何だ」
「ありがとう」
「何に対してだ」
「全部」
亞紗斗さんは、少しだけ困ったように息を吐いた。
「抽象的すぎる」
「いいの」
あたしは笑った。
泣きながら。
それでも、ちゃんと笑えた。
「全部だから」
過去も。
今も。
これからも。
涼ちゃんを愛したあたしも。
亞紗斗さんを愛しているあたしも。
全部。
何ひとつ。
消さなくていい。
何ひとつ。
捨てなくていい。
二つの指輪が重なった左手を。
亞紗斗さんが、そっと包み込む。
「帰るか」
「え?」
「冷えてきた」
「あ、うん」
あたしたちは、立ち上がる。
少し歩いて、あたしは亞紗斗さんの腕に、自分の腕を絡めた。
「何だ」
「いいでしょ。婚約者なんだから」
「好きにしろ」
「あはは」
いつも通り。
でも。
もう、少しだけ違う。
左手には、二つの指輪。
一つは。
あたしが愛した人から。
もう一つは。
これからを一緒に生きる人から。
どちらも、あたしの人生。
どちらも、大切な愛。
だから、全部。
抱えていく。
これが、あたしの選んだ未来だから。
あたしのすべてを受け入れてくれた彼に、あたしのすべてをかけて。
彼の未来ごと、抱きしめていく。
涼ちゃんを愛した過去も。
亞紗斗さんを愛する今も。
これから二人で歩いていく未来も。
あたしはこれからも、生きていく。
彼らと共に、生きていく。
〈Fin.〉



