Embrace it all

 あの夢のステージから七年後の秋を迎えた。


 若葉とエディは昨年の春に結婚して、最近子どもが生まれた。若葉そっくりの可愛い女の子で、エディがもう「これでもか!」ってくらいベタ惚れなんだとか。


 あたしはあのステージの後、とあるレコード会社から声がかかって、念願の歌手デビューの夢が叶った。
 先日、地方のライブツアーを終えて、今度は音楽のラジオ番組のゲストとして出演予定。

 EDENは、もともとどこにも所属がないインディーズのまま活動していて、一躍有名にはなったけど、メンバーのそれぞれの進路もあり、あの素顔公開のライブ以降は活動を休止している。


 忙しくも充実した毎日を送っている反面、どこか物足りなさを感じることもある。


 その正体が何なのかわからないまま、25歳を過ぎた頃。

 若葉とエディの結婚が決まったと聞いて、あたしは真っ先に二人の元へ駆けつけた。

 結婚式では、友人代表スピーチを務めさせてもらった。


 二人の幸せそうな姿を見て、あたしは心からの祝福をした――つもりだった。


 そして、同時に気づいてしまった。



 もし、涼ちゃんがまだ生きていたら。


 あたしにも、こういう未来があったのかもしれない……と。



 でも、今更そんなことはできない。

 涼ちゃんが遺してくれたこの指輪。未だに外せずにいたけれど。


 少し前から、涼ちゃんのことをあまり考えなくなっていることに気づいた。


 あたし、涼ちゃんのこと……忘れかけている?



 途端に、怖くなった。


 でも、涼ちゃん以外の人と恋をするイメージがどうしてもできなくて。

 いや、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。



 本当は、既に別の人を見始めている。


 あたしの今、一番気になる人。



 それは……。









「何をしている」

 背後から聞こえた声に、肩が跳ねた。


(亞紗斗さん……?)


 振り返れなかった。

 手の中には、桜を象った指輪。

 捨てようとして。

 捨てられなくて。

 あたしは、それを握りしめたまま泣いていた。

「選べない……」

 ようやく、それだけが声になった。

「できない……。涼ちゃんを、忘れることなんてできない……」

 亞紗斗さんは、何も言わなかった。


 言い訳も。慰めも。

 急かす言葉もなく。

 ただ、あたしの後ろに立っていた。



 しばらくして、



「忘れなくていい」




 静かな声が落ちてきた。

「……え?」



「それは、梨歩にとって大切なものじゃないのか」


 あたしは、握りしめていた手をゆっくり開く。



 涙で滲んだ視界の中で、小さな桜が光っていた。



「……わからない」


 大切。


 そんなの、わかっているはずなのに。


「わからない……。大切なはずなのに。涼ちゃんだけを感じていたいのに、最近は……涼ちゃん以外の人のこと、考えたりして……」



 言葉にするたび、胸が痛くなる。


「涼ちゃんのこと、忘れたくないのに……その人のことを思うと、苦しくて……」



 亞紗斗さんは黙って聞いていた。



「これを外せば、次に進めるかもしれない。楽になるかもしれない。涼ちゃんのお姉さんも、手放してもいいって言ってくれた」


 それでも。


「でも、涼ちゃんがそう言ったわけじゃないし……」


 もう。



「もう涼ちゃんに聞くこともできないから……どうしたらいいのかわからない……」



 返事は、永遠に返ってこない。



 それが、たまらなく苦しかった。



「梨歩……。好きなやつが、できたのか」


「…………」


 心臓が大きく跳ねた。



 答えられない。




 代わりに、彼にずっと聞きたかったことを口にした。


「亞紗斗さんなら……どう思う?」

「何がだ」

「前の恋人からもらったものを、いつまでも持ってる人」




 怖かった。

 それでも聞いた。



「やっぱり、いい気はしないよね。いつまでも過去に執着する、未練タラタラな人って思うよね」

 声が震える。

「そんな人のこと、好きになんて……なれないよね……」

 沈黙。






 そして。

「梨歩」

「……なに?」




「俺が好きなのか?」




「え?」

 思考が止まった。



「少なくとも、そう聞こえたんだが」

「…………」



 しまった。

「あ……えっと……」



 今さら誤魔化せるわけもない。


「あ、あははは……」

「何故笑う」

「あっははは! あたしってば、間抜けすぎる!」

 涙を拭いながら、無理やり笑った。



「うっかり本人を目の前にして、口を滑らせるなんて。最悪。恥ずかしすぎ――」

「俺は別に構わない」

 ん?


「え?」

「そもそも」


 亞紗斗さんの視線が、あたしの手の中へ落ちた。


「忘れる必要があるのか?」

「で、でも……」

「手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない」

「…………」

「誰に何を言われようと、それがお前にとって大切なら、それでいい」



 違う。

 そんなに簡単じゃない。


「それだと……涼ちゃんにも、亞紗斗さんにも悪いっていうか……」


 指輪を握りしめる。


「こんな中途半端な気持ちなら、そもそも、もう恋なんてしない方が――」

 その瞬間。




 背中に、温もりが触れた。


「――!」




 後ろから伸びてきた腕が、あたしの身体を包み込んだ。





 亞紗斗さんだった。




 声も出なかった。


 いつだって冷静で。

 必要以上に人との距離を詰めようとしない人が。

 あたしを、抱きしめている。



(う、うそ……嘘でしょ。 何この状況……、何が、どうなってるの?)



「それなら、俺が全部受け入れる」

「…………え?」




 耳元で聞こえる声は、いつもと変わらない。


 落ち着いていた。


 だからこそ。


 一言一言が、胸の奥へまっすぐ入ってきた。




「梨歩の涼平への思いも、涼平の梨歩への思いも」

「…………」

「過去は過去だ。でも、その過去があるから今の梨歩がいる」



 亞紗斗さんの腕に、わずかに力がこもる。


「過去も含めて梨歩の一部だとしたら、それほど大切なものはない」




 涙が、また溢れた。

「だから、忘れなくていい」




 ずっと。



 誰かに言ってほしかったのかもしれない。


 忘れなくていい、と。


 涼ちゃんを好きなままでいい、と。




「梨歩の過去も、今も」


 静かな声。


「これから先の未来も、俺が全部受け入れる」

「亞紗斗さん……」

「だから、もう迷うな」



 そんなこと――できるわけがないと思っていた。


 どちらかを選ばなければいけないと思っていた。




 涼ちゃんを選ぶなら、ずっと一人でいる。


 亞紗斗さんを選ぶなら、涼ちゃんを過去にする。


 そのどちらかしかないと。





「俺は涼平の代わりにはなれない」

 亞紗斗さんが言った。

「…………」

「なるつもりもない」

 その言葉に、胸が震えた。




「でも、涼平の分まで、これからの梨歩を支えることは……俺にもできる」


 一度、言葉が途切れた。


 迷っているわけではなかった。

 亞紗斗さんは、いつだってそうだ。

 自分の言葉を、自分の意志で選ぶ。

 そして。



「いや、少し違うな」

 あたしを抱きしめる腕が、少しだけ強くなった。

「俺が……そうしたい」


「…………」




「梨歩」

「……うん」

「彼を忘れろとは言わない」



 涙が頬を伝う。

「指輪も、持っていればいい」

「…………っ」

「涼平を好きだった自分を、否定するな」



 もう。

 我慢できなかった。

「……亞紗斗さん……」

「俺は俺で」



 静かに。

 けれど、何ひとつ迷いのない声で。




「梨歩が好きだ」




 胸の奥で。

 何かが、ほどけた。


「梨歩の過去も何もかも……全部持ったまま、俺のところに来ればいい」





 涼ちゃん。

 ごめんね。




 そう言いそうになって。



 やめた。


 代わりに。

 手の中にある桜の指輪を、そっと握った。



 忘れない。


 忘れなくていい。


 涼ちゃんを愛したことも。


 今でも大切に思っていることも。




 そして。

 この人に惹かれていることも。

 全部。



 全部、あたしなんだ。




 半年後。

 久しぶりに、亞紗斗さんと予定が合った。

 本当に、久しぶりだった。



 あたしは地方のイベント出演を終えて、その翌日が午前移動。
 亞紗斗さんは同じ街で、別のアーティストのライブにサポートヴァイオリニストとして出演していた。

 同じ県内にいる。

 たったそれだけのことなのに。


「会えるかもしれない」



 そう思った瞬間から、落ち着かなかった。

 仕事が終わってケータイを見ると、亞紗斗さんからメッセージが一件。


『終わった。そっちは?』

 短い。

 いつも通り。

『あたしも終わった!』

 送った直後。

『ホテルはどこだ』

 一瞬、どきりとした。


 場所を伝えると――『今から行く』

 それだけ。

「…………」

 思わず口元が緩んだ。

 たった五文字で、こんなに嬉しくなるなんて。
 
 我ながら単純だと思う。 




 あたしの泊まるホテル近くの川沿い。

 夜風が、少し冷たかった。


 それは、四月に入ってまもなくの頃だった。

 昼間は暖かくなってきたけれど、夜になるとまだ薄手の上着が欲しくなる。

 あたしは遊歩道のベンチに座って、亞紗斗さんを待っていた。

 遠くに橋の灯りが見える。

 川面に反射して、細長く揺れている。


 左手に目を落とす。

 桜の指輪。

 涼ちゃんが遺してくれたもの。

 七年以上経っても――今でも、ここにある。


 あの日。

 捨てようとして。

 できなくて。


 そのあたしに、亞紗斗さんは言った。



 ――忘れなくていい。

 ――全部持ったまま、俺のところに来ればいい。


 あの言葉に救われた。

 でも。


 救われたからといって、全部の迷いが消えたわけじゃない。

 亞紗斗さんと付き合うようになって。

 幸せな時間が増えて。

 それと同時に――ふと、怖くなる瞬間もあった。

 涼ちゃんを思い出さない日が増えた。


 昔なら、朝起きた瞬間に思い出していたのに。

 最近は……

 仕事の予定を確認して。

 今日の衣装を考えて。

 亞紗斗さんから連絡が来ていないか確認して。

 そうして一日が始まる。


 それが怖かった。
 
 でも。


 前ほど、その恐怖にも飲み込まれなくなった。

 忘れているんじゃない。

 あたしの中に、ちゃんといる。


 毎日思い出さなくても、涼ちゃんを愛したことがなくなるわけじゃない。

 そんなふうに思えるようになったのは、たぶん。

 亞紗斗さんのおかげだ。


「待たせた」

 玲瓏とした彼の声に、あたしは顔を上げる。

「亞紗斗さん」

 いつもの銀髪をオールバックにした姿。

 黒いジャケット。

 ライブ帰りなのか、片手には細長いヴァイオリンケースを持っていた。

「お疲れさま」

「そっちもな」

 隣に腰掛ける。

 いつもの距離。


 近すぎず、遠すぎず。


「今日どうだった?」

「問題ない」

「感想それだけ?」

「何を期待している」

「あはは。いつも通りだね」

 あたしが笑うと――亞紗斗さんが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 
 それだけで嬉しい。

 昔だったら……こんなクールな人を好きになるなんて、想像もしていなかった。

 あたしは、どちらかというと……ちょっと間抜けで不器用で、あたしをいっぱい笑わせてくれる人がタイプだった。
それで、あたしのやりたいことを思いきりやらせてくれて。
一緒にいて、飽きない人。

 口数が少なかったり、あまり感情を表に出さない人は、どこか苦手だった。

 はずなのに。


 いつの間にか、好きになっていた。




「梨歩」

「ん?」

「明日は何時に出る?」

「十時くらい。亞紗斗さんは?」

「昼過ぎだ」

「そっか。じゃあ朝ごはんくらい一緒に食べられる?」

「ああ」

 それだけの約束が、嬉しい。

 本当に。


「なんかさ」

「何だ」

「あたしたち、恋人っぽくないよね」

「今さら何を言っている」

「だって普通、もっとこう……毎週デートしたり、休みの日は一日一緒にいたりするもんじゃない?」

「普通が何かは知らない」

「ですよね」

 あたしは笑った。

 でも。

 亞紗斗さんは続けた。


「俺はこれでいい」

「え?」

「会える時に会えばいい」

「…………」

「毎日会えなくても、関係が変わるわけじゃない」

 さらりと言う。

 簡単に。


 でも。

 その言葉が、やけに胸に沁みた。


「あたしさ」

「何だ」

「たまに不安になるんだよね」

「何が」

「会えない時間が長いと」


 少し迷った。

 でも、言った。

「また、大切な人が遠くに行っちゃう気がして」


 亞紗斗さんは黙った。

 あたしは続ける。

「涼ちゃんの時とは違うって、分かってるんだけどさ」


 生きてる。

 連絡できる。

 次に会う約束だってできる。

 全部違う。


 でも。

 体のどこかが、まだ覚えている。


 突然失う怖さを。


「だから、返事がないと勝手に心配したりする」

「…………」

「重いよね」

 笑って誤魔化そうとした。

 でも。

 亞紗斗さんは、笑わなかった。


「重くない」

「え?」

「それで不安になるなら、俺に言え」

「でも忙しいでしょ」

「忙しいことと、梨歩を不安にさせることは別だ」

「…………」

 そういうことを。

 この人は、本当にさらっと言う。

 ずるい。


「亞紗斗さんってさ」

「何だ」

「たまに反則だよね」

「意味が分からない」

「分からなくていい」

 笑った――その時。



 亞紗斗さんが、ヴァイオリンケースとは反対の手を、ジャケットのポケットへ入れた。


「梨歩」

「ん?」

 何かを取り出す。

 小さな箱。

「…………」

 理解するまでに、数秒かかった。





「え」


 亞紗斗さんが、こちらを見る。


 いつもと同じ。

 落ち着いた目。

 アイスグレーの瞳。
 

 でも。

 どこか、いつもより真剣だった。



「開けろ」

「え、ちょ、ちょっと待って」

「何故だ」

「いや、だって、これ……」

「いいから」

 亞紗斗さんに差し出され、あたしは受け取る。


 それは、小さなケース。


 指先が震えた。



「……これ、まさか」

「開ければ分かる」

「あの……あたしには、心の準備ってものが」


「以前も同じことを言っていたな」

「何の話?」

「婚約者だと公表した時」

「はぁ! それ今言う!?」

 思わず声が裏返る。



 週刊誌に撮られて。

 熱愛だ、密会だと騒がれて。

 記者に囲まれた亞紗斗さんが。



『彼女は俺の恋人ではありません。婚約者です』
と。



 勝手に全国へ発表した。



 いや。

 婚約の話は、以前からしていた。

 将来的には結婚しようとも言われていた。 

 だけど。


 まさか、先に世間へ言うとは思わなかった。


「あれ本当にびっくりしたんだからね」

「事実だっただろ」

「まだ正式にプロポーズされてなかった!」

「だから今している」 

「順番!!」


 また。

 亞紗斗さんの口元が、少しだけ緩んだ。


「開けろ」

「……もう」

 観念して、ケースを開く。



 息が止まった。



 細身のプラチナリング。

 小さなダイヤが並んでいて。

 中央は、わずかに柔らかな曲線を描いている。


 派手じゃない。

 でも。


 綺麗だった。

 亞紗斗さんらしいと思った。


 無駄がなくて。

 静かで。


 でも、ちゃんと目を引く。 


「綺麗……」

 あたしは思わず呟いた。


 そして、気づく。


 その形。



「これ……」

 左手を見る。



 桜の指輪。

 もう一度、新しいリングを見る。




「もしかして」


 胸が震えた。



「これ……重ねられるの?」


「そうだ」

 即答だった。
 
「…………」


 言葉が出なかった。


 亞紗斗さんは続ける。


「お前の指輪に合うように作ってもらった」

「…………っ」

「店で何度か調整した」

「何度か?」

「ああ」

「わざわざ?」

「当然だ」
 

 当然。

 その言葉に、涙が滲んだ。


「どうして……」


 分かってる。

 聞かなくても分かる。

 でも、聞きたかった。



「どうして、この形にしたの?」

 亞紗斗さんが、あたしの左手を見る。

 桜の指輪。


「外せないんだろ」

「…………」

「涼平の指輪」

 胸が詰まる。


「それは、梨歩にとって大切なものだ」

「……うん」

「なら、外す必要はない」

「でも……」


 声が震えた。

「でも、これ……婚約指輪なのに……」


 普通なら。


 前の恋人の指輪を外して。

 新しい人の指輪をつける。


 そういうものなんじゃないの。



「亞紗斗さん、嫌じゃないの?」

「何が」

「自分が贈った指輪の隣に、涼ちゃんのがあるの」

「別に」

 亞紗斗さんは少しも迷わなかった。





「…………」


「同じ意味の指輪じゃないだろ」

「え……?」

「涼平のそれは、梨歩が涼平に愛された証だ」


 静かな声だった。


「俺のこれは」


 亞紗斗さんがケースからリングを取り出す。




「これからの約束だ」




 涙が落ちた。

 
「過去と未来は、意味が違う」

 亞紗斗さんが、あたしの左手を取る。

「一つを選ぶために、もう一つを捨てる必要はない」

「…………っ」

「俺は前にも言ったはずだ」

 亞紗斗さんの指が、あたしの桜の指輪にそっと触れる。


「全部持ったまま、俺のところに来ればいいと」


「亞紗斗さん……」
 

 もう。

 涙が止まらなかった。


「ずるい……」

「何が」

「ほんと、ずるいよ……」


 涼ちゃんを忘れなくていい。

 指輪も外さなくていい。


 それなのに。



 未来までくれる。

 そんなの。


「そんなことされたら……」

 声が震える。

「もっと好きになるじゃん……」


 亞紗斗さんが、わずかに目を細めた。

「それでいい」

「……っ」

「梨歩」


 あたしは呼ばれる。

 真っ直ぐで、逃げ道なんて与えない亞紗斗さんの声で。


「俺は涼平の代わりになるつもりはない」

「うん」

「涼平と梨歩が過ごした時間に、入っていくつもりもない」

「うん……」

「でも」

 握られた手に力がこもる。


「これから先の時間は、俺にくれ」




 息が止まった。

「…………」


「梨歩がどこへ行こうと、何をしようと、仕事を続けようと構わない」


 亞紗斗さんらしい。

 あたしに仕事を辞めろとは、絶対に言わない。


「俺も今の仕事を続ける」

「うん」

「だから、会えない時間はなくならない」

「うん」

「すれ違うこともある」

「……うん」

「それでも」

 アイスグレーの瞳が――まっすぐ、あたしを見る。


「俺は、梨歩と生きたい」





「…………っ」

 だめだ。

 もう。


 涙で、ほとんど見えない。



「梨歩」

 一度、静かに息をついて亞紗斗さんが言った。



「結婚してくれ」




 世界が、静かになった。

 川の音も。


 遠くの車の音も。

 何も聞こえなくなった。


 ただ――目の前にいる人の声だけが。


 胸の中に残った。


(結婚――あたしが……誰かと)

 
 昔。


 考えたことがあった。

 涼ちゃんと。



 もし、病気なんてなくて。

 事故なんてなくて。

 あのまま一緒にいられたら。

 いつか結婚するのかなって。



 でも。

 その未来は叶わなかった。



 だから。

 もう一度誰かと未来を考えることが、ずっと怖かった。


 約束したら、また失うかもしれない。


 幸せになったら、また壊れるかもしれない。


 でも、今は。


 それでも。




「……うん」


 声が震えた。

「亞紗斗さん」

 あたしは、涙を拭う。


 ちゃんと見たかった。

 この人の顔を。


「何だ」

 もう一度。

 今度は、はっきり。



「あたしも、結婚したい……亞紗斗さんと」



 亞紗斗さんは、大げさに笑ったりしなかった。


 ただ、少しだけ。

 本当に少しだけ。


 嬉しそうに笑った。


 その表情を見た瞬間――胸がいっぱいになった。


「左手、出せ」

「……うん」

 あたしは、亞紗斗さんに左手を差し出す。


 桜の指輪。


 涼ちゃんが遺してくれたもの。


 亞紗斗さんは、それを外さなかった。


 その指輪に寄り添うように、新しい指輪を通していく。


 ゆっくり。

 ゆっくり。


 二つのリングが、ぴたりと重なった。




 はじめから、本当に一緒につけるために作られていたみたいに。


 桜の花を包むように。

 新しいリングの曲線が寄り添っている。

「……綺麗」
 

 涙が、また落ちた。


「ほんとに……綺麗……」

 涼ちゃん。


 見てる?

 あたし。

 指輪、外さなかったよ。


 あなたを忘れたわけでもない。


 でも。

 あたし――未来を選んだよ。


 もう、「ごめんね」とは思わなかった。


 代わりに、心の中で「ありがとう」と言った。


 涼ちゃん。

 あたしを好きになってくれて。

 あたしに、あんなに大切な時間をくれて。

 ありがとう。

 そして。



「亞紗斗さん」

「何だ」

「ありがとう」

「何に対してだ」

「全部」

 亞紗斗さんは、少しだけ困ったように息を吐いた。

「抽象的すぎる」

「いいの」

 あたしは笑った。


 泣きながら。

 それでも、ちゃんと笑えた。


「全部だから」

 過去も。

 今も。

 これからも。


 涼ちゃんを愛したあたしも。

 亞紗斗さんを愛しているあたしも。

 全部。

 何ひとつ。

 消さなくていい。


 何ひとつ。

 捨てなくていい。


 二つの指輪が重なった左手を。

 亞紗斗さんが、そっと包み込む。

「帰るか」

「え?」

「冷えてきた」 

「あ、うん」

 あたしたちは、立ち上がる。

 少し歩いて、あたしは亞紗斗さんの腕に、自分の腕を絡めた。

「何だ」

「いいでしょ。婚約者なんだから」

「好きにしろ」

「あはは」

 いつも通り。


 でも。

 もう、少しだけ違う。


 左手には、二つの指輪。


 一つは。
 あたしが愛した人から。

 もう一つは。
 これからを一緒に生きる人から。

 どちらも、あたしの人生。


 どちらも、大切な愛。


 だから、全部。


 抱えていく。



 これが、あたしの選んだ未来だから。






 あたしのすべてを受け入れてくれた彼に、あたしのすべてをかけて。

 彼の未来ごと、抱きしめていく。

 涼ちゃんを愛した過去も。

 亞紗斗さんを愛する今も。

 これから二人で歩いていく未来も。

 何ひとつ、手放さない。

 全部、抱えて。



 あたしはこれからも、生きていく。


 彼らと共に、生き抜いていく。


〈Fin.〉