あの夢のステージから七年後の秋を迎えた。
若葉とエディは昨年の春に結婚して、最近子どもが生まれた。若葉そっくりの可愛い女の子で、エディがもう「これでもか!」ってくらいベタ惚れなんだとか。
あたしはあのステージの後、とあるレコード会社から声がかかって、念願の歌手デビューの夢が叶った。
先日、地方のライブツアーを終えて、今度は音楽のラジオ番組のゲストとして出演予定。
EDENは、もともとどこにも所属がないインディーズのまま活動していて、一躍有名にはなったけど、メンバーのそれぞれの進路もあり、あの素顔公開のライブ以降は活動を休止している。
忙しくも充実した毎日を送っている反面、どこか物足りなさを感じることもある。
その正体が何なのかわからないまま、25歳を過ぎた頃。
若葉とエディの結婚が決まったと聞いて、あたしは真っ先に二人の元へ駆けつけた。
結婚式では、友人代表スピーチを務めさせてもらった。
二人の幸せそうな姿を見て、あたしは心からの祝福をした――つもりだった。
そして、同時に気づいてしまった。
もし、涼ちゃんがまだ生きていたら。
あたしにも、こういう未来があったのかもしれない……と。
でも、今更そんなことはできない。
涼ちゃんが遺してくれたこの指輪。未だに外せずにいたけれど。
少し前から、涼ちゃんのことをあまり考えなくなっていることに気づいた。
あたし、涼ちゃんのこと……忘れかけている?
途端に、怖くなった。
でも、涼ちゃん以外の人と恋をするイメージがどうしてもできなくて。
いや、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。
本当は、既に別の人を見始めている。
あたしの今、一番気になる人。
それは……。
*
「何をしている」
背後から聞こえた声に、肩が跳ねた。
(亞紗斗さん……?)
振り返れなかった。
手の中には、桜を象った指輪。
捨てようとして。
捨てられなくて。
あたしは、それを握りしめたまま泣いていた。
「選べない……」
ようやく、それだけが声になった。
「できない……。涼ちゃんを、忘れることなんてできない……」
亞紗斗さんは、何も言わなかった。
言い訳も。慰めも。
急かす言葉もなく。
ただ、あたしの後ろに立っていた。
しばらくして、
「忘れなくていい」
静かな声が落ちてきた。
「……え?」
「それは、梨歩にとって大切なものじゃないのか」
あたしは、握りしめていた手をゆっくり開く。
涙で滲んだ視界の中で、小さな桜が光っていた。
「……わからない」
大切。
そんなの、わかっているはずなのに。
「わからない……。大切なはずなのに。涼ちゃんだけを感じていたいのに、最近は……涼ちゃん以外の人のこと、考えたりして……」
言葉にするたび、胸が痛くなる。
「涼ちゃんのこと、忘れたくないのに……その人のことを思うと、苦しくて……」
亞紗斗さんは黙って聞いていた。
「これを外せば、次に進めるかもしれない。楽になるかもしれない。涼ちゃんのお姉さんも、手放してもいいって言ってくれた」
それでも。
「でも、涼ちゃんがそう言ったわけじゃないし……」
もう。
「もう涼ちゃんに聞くこともできないから……どうしたらいいのかわからない……」
返事は、永遠に返ってこない。
それが、たまらなく苦しかった。
「梨歩……。好きなやつが、できたのか」
「…………」
心臓が大きく跳ねた。
答えられない。
代わりに、彼にずっと聞きたかったことを口にした。
「亞紗斗さんなら……どう思う?」
「何がだ」
「前の恋人からもらったものを、いつまでも持ってる人」
怖かった。
それでも聞いた。
「やっぱり、いい気はしないよね。いつまでも過去に執着する、未練タラタラな人って思うよね」
声が震える。
「そんな人のこと、好きになんて……なれないよね……」
沈黙。
そして。
「梨歩」
「……なに?」
「俺が好きなのか?」
「え?」
思考が止まった。
「少なくとも、そう聞こえたんだが」
「…………」
しまった。
「あ……えっと……」
今さら誤魔化せるわけもない。
「あ、あははは……」
「何故笑う」
「あっははは! あたしってば、間抜けすぎる!」
涙を拭いながら、無理やり笑った。
「うっかり本人を目の前にして、口を滑らせるなんて。最悪。恥ずかしすぎ――」
「俺は別に構わない」
ん?
「え?」
「そもそも」
亞紗斗さんの視線が、あたしの手の中へ落ちた。
「忘れる必要があるのか?」
「で、でも……」
「手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない」
「…………」
「誰に何を言われようと、それがお前にとって大切なら、それでいい」
違う。
そんなに簡単じゃない。
「それだと……涼ちゃんにも、亞紗斗さんにも悪いっていうか……」
指輪を握りしめる。
「こんな中途半端な気持ちなら、そもそも、もう恋なんてしない方が――」
その瞬間。
背中に、温もりが触れた。
「――!」
後ろから伸びてきた腕が、あたしの身体を包み込んだ。
亞紗斗さんだった。
声も出なかった。
いつだって冷静で。
必要以上に人との距離を詰めようとしない人が。
あたしを、抱きしめている。
(う、うそ……嘘でしょ。 何この状況……、何が、どうなってるの?)
「それなら、俺が全部受け入れる」
「…………え?」
耳元で聞こえる声は、いつもと変わらない。
落ち着いていた。
だからこそ。
一言一言が、胸の奥へまっすぐ入ってきた。
「梨歩の涼平への思いも、涼平の梨歩への思いも」
「…………」
「過去は過去だ。でも、その過去があるから今の梨歩がいる」
亞紗斗さんの腕に、わずかに力がこもる。
「過去も含めて梨歩の一部だとしたら、それほど大切なものはない」
涙が、また溢れた。
「だから、忘れなくていい」
ずっと。
誰かに言ってほしかったのかもしれない。
忘れなくていい、と。
涼ちゃんを好きなままでいい、と。
「梨歩の過去も、今も」
静かな声。
「これから先の未来も、俺が全部受け入れる」
「亞紗斗さん……」
「だから、もう迷うな」
そんなこと――できるわけがないと思っていた。
どちらかを選ばなければいけないと思っていた。
涼ちゃんを選ぶなら、ずっと一人でいる。
亞紗斗さんを選ぶなら、涼ちゃんを過去にする。
そのどちらかしかないと。
「俺は涼平の代わりにはなれない」
亞紗斗さんが言った。
「…………」
「なるつもりもない」
その言葉に、胸が震えた。
「でも、涼平の分まで、これからの梨歩を支えることは……俺にもできる」
一度、言葉が途切れた。
迷っているわけではなかった。
亞紗斗さんは、いつだってそうだ。
自分の言葉を、自分の意志で選ぶ。
そして。
「いや、少し違うな」
あたしを抱きしめる腕が、少しだけ強くなった。
「俺が……そうしたい」
「…………」
「梨歩」
「……うん」
「彼を忘れろとは言わない」
涙が頬を伝う。
「指輪も、持っていればいい」
「…………っ」
「涼平を好きだった自分を、否定するな」
もう。
我慢できなかった。
「……亞紗斗さん……」
「俺は俺で」
静かに。
けれど、何ひとつ迷いのない声で。
「梨歩が好きだ」
胸の奥で。
何かが、ほどけた。
「梨歩の過去も何もかも……全部持ったまま、俺のところに来ればいい」
涼ちゃん。
ごめんね。
そう言いそうになって。
やめた。
代わりに。
手の中にある桜の指輪を、そっと握った。
忘れない。
忘れなくていい。
涼ちゃんを愛したことも。
今でも大切に思っていることも。
そして。
この人に惹かれていることも。
全部。
全部、あたしなんだ。
*
半年後。
久しぶりに、亞紗斗さんと予定が合った。
本当に、久しぶりだった。
あたしは地方のイベント出演を終えて、その翌日が午前移動。
亞紗斗さんは同じ街で、別のアーティストのライブにサポートヴァイオリニストとして出演していた。
同じ県内にいる。
たったそれだけのことなのに。
「会えるかもしれない」
そう思った瞬間から、落ち着かなかった。
仕事が終わってケータイを見ると、亞紗斗さんからメッセージが一件。
『終わった。そっちは?』
短い。
いつも通り。
『あたしも終わった!』
送った直後。
『ホテルはどこだ』
一瞬、どきりとした。
場所を伝えると――『今から行く』
それだけ。
「…………」
思わず口元が緩んだ。
たった五文字で、こんなに嬉しくなるなんて。
我ながら単純だと思う。
*
あたしの泊まるホテル近くの川沿い。
夜風が、少し冷たかった。
それは、四月に入ってまもなくの頃だった。
昼間は暖かくなってきたけれど、夜になるとまだ薄手の上着が欲しくなる。
あたしは遊歩道のベンチに座って、亞紗斗さんを待っていた。
遠くに橋の灯りが見える。
川面に反射して、細長く揺れている。
左手に目を落とす。
桜の指輪。
涼ちゃんが遺してくれたもの。
七年以上経っても――今でも、ここにある。
あの日。
捨てようとして。
できなくて。
そのあたしに、亞紗斗さんは言った。
――忘れなくていい。
――全部持ったまま、俺のところに来ればいい。
あの言葉に救われた。
でも。
救われたからといって、全部の迷いが消えたわけじゃない。
亞紗斗さんと付き合うようになって。
幸せな時間が増えて。
それと同時に――ふと、怖くなる瞬間もあった。
涼ちゃんを思い出さない日が増えた。
昔なら、朝起きた瞬間に思い出していたのに。
最近は……
仕事の予定を確認して。
今日の衣装を考えて。
亞紗斗さんから連絡が来ていないか確認して。
そうして一日が始まる。
それが怖かった。
でも。
前ほど、その恐怖にも飲み込まれなくなった。
忘れているんじゃない。
あたしの中に、ちゃんといる。
毎日思い出さなくても、涼ちゃんを愛したことがなくなるわけじゃない。
そんなふうに思えるようになったのは、たぶん。
亞紗斗さんのおかげだ。
「待たせた」
玲瓏とした彼の声に、あたしは顔を上げる。
「亞紗斗さん」
いつもの銀髪をオールバックにした姿。
黒いジャケット。
ライブ帰りなのか、片手には細長いヴァイオリンケースを持っていた。
「お疲れさま」
「そっちもな」
隣に腰掛ける。
いつもの距離。
近すぎず、遠すぎず。
「今日どうだった?」
「問題ない」
「感想それだけ?」
「何を期待している」
「あはは。いつも通りだね」
あたしが笑うと――亞紗斗さんが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それだけで嬉しい。
昔だったら……こんなクールな人を好きになるなんて、想像もしていなかった。
あたしは、どちらかというと……ちょっと間抜けで不器用で、あたしをいっぱい笑わせてくれる人がタイプだった。
それで、あたしのやりたいことを思いきりやらせてくれて。
一緒にいて、飽きない人。
口数が少なかったり、あまり感情を表に出さない人は、どこか苦手だった。
はずなのに。
いつの間にか、好きになっていた。
「梨歩」
「ん?」
「明日は何時に出る?」
「十時くらい。亞紗斗さんは?」
「昼過ぎだ」
「そっか。じゃあ朝ごはんくらい一緒に食べられる?」
「ああ」
それだけの約束が、嬉しい。
本当に。
「なんかさ」
「何だ」
「あたしたち、恋人っぽくないよね」
「今さら何を言っている」
「だって普通、もっとこう……毎週デートしたり、休みの日は一日一緒にいたりするもんじゃない?」
「普通が何かは知らない」
「ですよね」
あたしは笑った。
でも。
亞紗斗さんは続けた。
「俺はこれでいい」
「え?」
「会える時に会えばいい」
「…………」
「毎日会えなくても、関係が変わるわけじゃない」
さらりと言う。
簡単に。
でも。
その言葉が、やけに胸に沁みた。
「あたしさ」
「何だ」
「たまに不安になるんだよね」
「何が」
「会えない時間が長いと」
少し迷った。
でも、言った。
「また、大切な人が遠くに行っちゃう気がして」
亞紗斗さんは黙った。
あたしは続ける。
「涼ちゃんの時とは違うって、分かってるんだけどさ」
生きてる。
連絡できる。
次に会う約束だってできる。
全部違う。
でも。
体のどこかが、まだ覚えている。
突然失う怖さを。
「だから、返事がないと勝手に心配したりする」
「…………」
「重いよね」
笑って誤魔化そうとした。
でも。
亞紗斗さんは、笑わなかった。
「重くない」
「え?」
「それで不安になるなら、俺に言え」
「でも忙しいでしょ」
「忙しいことと、梨歩を不安にさせることは別だ」
「…………」
そういうことを。
この人は、本当にさらっと言う。
ずるい。
「亞紗斗さんってさ」
「何だ」
「たまに反則だよね」
「意味が分からない」
「分からなくていい」
笑った――その時。
亞紗斗さんが、ヴァイオリンケースとは反対の手を、ジャケットのポケットへ入れた。
「梨歩」
「ん?」
何かを取り出す。
小さな箱。
「…………」
理解するまでに、数秒かかった。
「え」
亞紗斗さんが、こちらを見る。
いつもと同じ。
落ち着いた目。
アイスグレーの瞳。
でも。
どこか、いつもより真剣だった。
「開けろ」
「え、ちょ、ちょっと待って」
「何故だ」
「いや、だって、これ……」
「いいから」
亞紗斗さんに差し出され、あたしは受け取る。
それは、小さなケース。
指先が震えた。
「……これ、まさか」
「開ければ分かる」
「あの……あたしには、心の準備ってものが」
「以前も同じことを言っていたな」
「何の話?」
「婚約者だと公表した時」
「はぁ! それ今言う!?」
思わず声が裏返る。
週刊誌に撮られて。
熱愛だ、密会だと騒がれて。
記者に囲まれた亞紗斗さんが。
『彼女は俺の恋人ではありません。婚約者です』
と。
勝手に全国へ発表した。
いや。
婚約の話は、以前からしていた。
将来的には結婚しようとも言われていた。
だけど。
まさか、先に世間へ言うとは思わなかった。
「あれ本当にびっくりしたんだからね」
「事実だっただろ」
「まだ正式にプロポーズされてなかった!」
「だから今している」
「順番!!」
また。
亞紗斗さんの口元が、少しだけ緩んだ。
「開けろ」
「……もう」
観念して、ケースを開く。
息が止まった。
細身のプラチナリング。
小さなダイヤが並んでいて。
中央は、わずかに柔らかな曲線を描いている。
派手じゃない。
でも。
綺麗だった。
亞紗斗さんらしいと思った。
無駄がなくて。
静かで。
でも、ちゃんと目を引く。
「綺麗……」
あたしは思わず呟いた。
そして、気づく。
その形。
「これ……」
左手を見る。
桜の指輪。
もう一度、新しいリングを見る。
「もしかして」
胸が震えた。
「これ……重ねられるの?」
「そうだ」
即答だった。
「…………」
言葉が出なかった。
亞紗斗さんは続ける。
「お前の指輪に合うように作ってもらった」
「…………っ」
「店で何度か調整した」
「何度か?」
「ああ」
「わざわざ?」
「当然だ」
当然。
その言葉に、涙が滲んだ。
「どうして……」
分かってる。
聞かなくても分かる。
でも、聞きたかった。
「どうして、この形にしたの?」
亞紗斗さんが、あたしの左手を見る。
桜の指輪。
「外せないんだろ」
「…………」
「涼平の指輪」
胸が詰まる。
「それは、梨歩にとって大切なものだ」
「……うん」
「なら、外す必要はない」
「でも……」
声が震えた。
「でも、これ……婚約指輪なのに……」
普通なら。
前の恋人の指輪を外して。
新しい人の指輪をつける。
そういうものなんじゃないの。
「亞紗斗さん、嫌じゃないの?」
「何が」
「自分が贈った指輪の隣に、涼ちゃんのがあるの」
「別に」
亞紗斗さんは少しも迷わなかった。
「…………」
「同じ意味の指輪じゃないだろ」
「え……?」
「涼平のそれは、梨歩が涼平に愛された証だ」
静かな声だった。
「俺のこれは」
亞紗斗さんがケースからリングを取り出す。
「これからの約束だ」
涙が落ちた。
「過去と未来は、意味が違う」
亞紗斗さんが、あたしの左手を取る。
「一つを選ぶために、もう一つを捨てる必要はない」
「…………っ」
「俺は前にも言ったはずだ」
亞紗斗さんの指が、あたしの桜の指輪にそっと触れる。
「全部持ったまま、俺のところに来ればいいと」
「亞紗斗さん……」
もう。
涙が止まらなかった。
「ずるい……」
「何が」
「ほんと、ずるいよ……」
涼ちゃんを忘れなくていい。
指輪も外さなくていい。
それなのに。
未来までくれる。
そんなの。
「そんなことされたら……」
声が震える。
「もっと好きになるじゃん……」
亞紗斗さんが、わずかに目を細めた。
「それでいい」
「……っ」
「梨歩」
あたしは呼ばれる。
真っ直ぐで、逃げ道なんて与えない亞紗斗さんの声で。
「俺は涼平の代わりになるつもりはない」
「うん」
「涼平と梨歩が過ごした時間に、入っていくつもりもない」
「うん……」
「でも」
握られた手に力がこもる。
「これから先の時間は、俺にくれ」
息が止まった。
「…………」
「梨歩がどこへ行こうと、何をしようと、仕事を続けようと構わない」
亞紗斗さんらしい。
あたしに仕事を辞めろとは、絶対に言わない。
「俺も今の仕事を続ける」
「うん」
「だから、会えない時間はなくならない」
「うん」
「すれ違うこともある」
「……うん」
「それでも」
アイスグレーの瞳が――まっすぐ、あたしを見る。
「俺は、梨歩と生きたい」
「…………っ」
だめだ。
もう。
涙で、ほとんど見えない。
「梨歩」
一度、静かに息をついて亞紗斗さんが言った。
「結婚してくれ」
世界が、静かになった。
川の音も。
遠くの車の音も。
何も聞こえなくなった。
ただ――目の前にいる人の声だけが。
胸の中に残った。
(結婚――あたしが……誰かと)
昔。
考えたことがあった。
涼ちゃんと。
もし、病気なんてなくて。
事故なんてなくて。
あのまま一緒にいられたら。
いつか結婚するのかなって。
でも。
その未来は叶わなかった。
だから。
もう一度誰かと未来を考えることが、ずっと怖かった。
約束したら、また失うかもしれない。
幸せになったら、また壊れるかもしれない。
でも、今は。
それでも。
「……うん」
声が震えた。
「亞紗斗さん」
あたしは、涙を拭う。
ちゃんと見たかった。
この人の顔を。
「何だ」
もう一度。
今度は、はっきり。
「あたしも、結婚したい……亞紗斗さんと」
亞紗斗さんは、大げさに笑ったりしなかった。
ただ、少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しそうに笑った。
その表情を見た瞬間――胸がいっぱいになった。
「左手、出せ」
「……うん」
あたしは、亞紗斗さんに左手を差し出す。
桜の指輪。
涼ちゃんが遺してくれたもの。
亞紗斗さんは、それを外さなかった。
その指輪に寄り添うように、新しい指輪を通していく。
ゆっくり。
ゆっくり。
二つのリングが、ぴたりと重なった。
はじめから、本当に一緒につけるために作られていたみたいに。
桜の花を包むように。
新しいリングの曲線が寄り添っている。
「……綺麗」
涙が、また落ちた。
「ほんとに……綺麗……」
涼ちゃん。
見てる?
あたし。
指輪、外さなかったよ。
あなたを忘れたわけでもない。
でも。
あたし――未来を選んだよ。
もう、「ごめんね」とは思わなかった。
代わりに、心の中で「ありがとう」と言った。
涼ちゃん。
あたしを好きになってくれて。
あたしに、あんなに大切な時間をくれて。
ありがとう。
そして。
「亞紗斗さん」
「何だ」
「ありがとう」
「何に対してだ」
「全部」
亞紗斗さんは、少しだけ困ったように息を吐いた。
「抽象的すぎる」
「いいの」
あたしは笑った。
泣きながら。
それでも、ちゃんと笑えた。
「全部だから」
過去も。
今も。
これからも。
涼ちゃんを愛したあたしも。
亞紗斗さんを愛しているあたしも。
全部。
何ひとつ。
消さなくていい。
何ひとつ。
捨てなくていい。
二つの指輪が重なった左手を。
亞紗斗さんが、そっと包み込む。
「帰るか」
「え?」
「冷えてきた」
「あ、うん」
あたしたちは、立ち上がる。
少し歩いて、あたしは亞紗斗さんの腕に、自分の腕を絡めた。
「何だ」
「いいでしょ。婚約者なんだから」
「好きにしろ」
「あはは」
いつも通り。
でも。
もう、少しだけ違う。
左手には、二つの指輪。
一つは。
あたしが愛した人から。
もう一つは。
これからを一緒に生きる人から。
どちらも、あたしの人生。
どちらも、大切な愛。
だから、全部。
抱えていく。
これが、あたしの選んだ未来だから。
あたしのすべてを受け入れてくれた彼に、あたしのすべてをかけて。
彼の未来ごと、抱きしめていく。
涼ちゃんを愛した過去も。
亞紗斗さんを愛する今も。
これから二人で歩いていく未来も。
何ひとつ、手放さない。
全部、抱えて。
あたしはこれからも、生きていく。
彼らと共に、生き抜いていく。
〈Fin.〉
若葉とエディは昨年の春に結婚して、最近子どもが生まれた。若葉そっくりの可愛い女の子で、エディがもう「これでもか!」ってくらいベタ惚れなんだとか。
あたしはあのステージの後、とあるレコード会社から声がかかって、念願の歌手デビューの夢が叶った。
先日、地方のライブツアーを終えて、今度は音楽のラジオ番組のゲストとして出演予定。
EDENは、もともとどこにも所属がないインディーズのまま活動していて、一躍有名にはなったけど、メンバーのそれぞれの進路もあり、あの素顔公開のライブ以降は活動を休止している。
忙しくも充実した毎日を送っている反面、どこか物足りなさを感じることもある。
その正体が何なのかわからないまま、25歳を過ぎた頃。
若葉とエディの結婚が決まったと聞いて、あたしは真っ先に二人の元へ駆けつけた。
結婚式では、友人代表スピーチを務めさせてもらった。
二人の幸せそうな姿を見て、あたしは心からの祝福をした――つもりだった。
そして、同時に気づいてしまった。
もし、涼ちゃんがまだ生きていたら。
あたしにも、こういう未来があったのかもしれない……と。
でも、今更そんなことはできない。
涼ちゃんが遺してくれたこの指輪。未だに外せずにいたけれど。
少し前から、涼ちゃんのことをあまり考えなくなっていることに気づいた。
あたし、涼ちゃんのこと……忘れかけている?
途端に、怖くなった。
でも、涼ちゃん以外の人と恋をするイメージがどうしてもできなくて。
いや、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。
本当は、既に別の人を見始めている。
あたしの今、一番気になる人。
それは……。
*
「何をしている」
背後から聞こえた声に、肩が跳ねた。
(亞紗斗さん……?)
振り返れなかった。
手の中には、桜を象った指輪。
捨てようとして。
捨てられなくて。
あたしは、それを握りしめたまま泣いていた。
「選べない……」
ようやく、それだけが声になった。
「できない……。涼ちゃんを、忘れることなんてできない……」
亞紗斗さんは、何も言わなかった。
言い訳も。慰めも。
急かす言葉もなく。
ただ、あたしの後ろに立っていた。
しばらくして、
「忘れなくていい」
静かな声が落ちてきた。
「……え?」
「それは、梨歩にとって大切なものじゃないのか」
あたしは、握りしめていた手をゆっくり開く。
涙で滲んだ視界の中で、小さな桜が光っていた。
「……わからない」
大切。
そんなの、わかっているはずなのに。
「わからない……。大切なはずなのに。涼ちゃんだけを感じていたいのに、最近は……涼ちゃん以外の人のこと、考えたりして……」
言葉にするたび、胸が痛くなる。
「涼ちゃんのこと、忘れたくないのに……その人のことを思うと、苦しくて……」
亞紗斗さんは黙って聞いていた。
「これを外せば、次に進めるかもしれない。楽になるかもしれない。涼ちゃんのお姉さんも、手放してもいいって言ってくれた」
それでも。
「でも、涼ちゃんがそう言ったわけじゃないし……」
もう。
「もう涼ちゃんに聞くこともできないから……どうしたらいいのかわからない……」
返事は、永遠に返ってこない。
それが、たまらなく苦しかった。
「梨歩……。好きなやつが、できたのか」
「…………」
心臓が大きく跳ねた。
答えられない。
代わりに、彼にずっと聞きたかったことを口にした。
「亞紗斗さんなら……どう思う?」
「何がだ」
「前の恋人からもらったものを、いつまでも持ってる人」
怖かった。
それでも聞いた。
「やっぱり、いい気はしないよね。いつまでも過去に執着する、未練タラタラな人って思うよね」
声が震える。
「そんな人のこと、好きになんて……なれないよね……」
沈黙。
そして。
「梨歩」
「……なに?」
「俺が好きなのか?」
「え?」
思考が止まった。
「少なくとも、そう聞こえたんだが」
「…………」
しまった。
「あ……えっと……」
今さら誤魔化せるわけもない。
「あ、あははは……」
「何故笑う」
「あっははは! あたしってば、間抜けすぎる!」
涙を拭いながら、無理やり笑った。
「うっかり本人を目の前にして、口を滑らせるなんて。最悪。恥ずかしすぎ――」
「俺は別に構わない」
ん?
「え?」
「そもそも」
亞紗斗さんの視線が、あたしの手の中へ落ちた。
「忘れる必要があるのか?」
「で、でも……」
「手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない」
「…………」
「誰に何を言われようと、それがお前にとって大切なら、それでいい」
違う。
そんなに簡単じゃない。
「それだと……涼ちゃんにも、亞紗斗さんにも悪いっていうか……」
指輪を握りしめる。
「こんな中途半端な気持ちなら、そもそも、もう恋なんてしない方が――」
その瞬間。
背中に、温もりが触れた。
「――!」
後ろから伸びてきた腕が、あたしの身体を包み込んだ。
亞紗斗さんだった。
声も出なかった。
いつだって冷静で。
必要以上に人との距離を詰めようとしない人が。
あたしを、抱きしめている。
(う、うそ……嘘でしょ。 何この状況……、何が、どうなってるの?)
「それなら、俺が全部受け入れる」
「…………え?」
耳元で聞こえる声は、いつもと変わらない。
落ち着いていた。
だからこそ。
一言一言が、胸の奥へまっすぐ入ってきた。
「梨歩の涼平への思いも、涼平の梨歩への思いも」
「…………」
「過去は過去だ。でも、その過去があるから今の梨歩がいる」
亞紗斗さんの腕に、わずかに力がこもる。
「過去も含めて梨歩の一部だとしたら、それほど大切なものはない」
涙が、また溢れた。
「だから、忘れなくていい」
ずっと。
誰かに言ってほしかったのかもしれない。
忘れなくていい、と。
涼ちゃんを好きなままでいい、と。
「梨歩の過去も、今も」
静かな声。
「これから先の未来も、俺が全部受け入れる」
「亞紗斗さん……」
「だから、もう迷うな」
そんなこと――できるわけがないと思っていた。
どちらかを選ばなければいけないと思っていた。
涼ちゃんを選ぶなら、ずっと一人でいる。
亞紗斗さんを選ぶなら、涼ちゃんを過去にする。
そのどちらかしかないと。
「俺は涼平の代わりにはなれない」
亞紗斗さんが言った。
「…………」
「なるつもりもない」
その言葉に、胸が震えた。
「でも、涼平の分まで、これからの梨歩を支えることは……俺にもできる」
一度、言葉が途切れた。
迷っているわけではなかった。
亞紗斗さんは、いつだってそうだ。
自分の言葉を、自分の意志で選ぶ。
そして。
「いや、少し違うな」
あたしを抱きしめる腕が、少しだけ強くなった。
「俺が……そうしたい」
「…………」
「梨歩」
「……うん」
「彼を忘れろとは言わない」
涙が頬を伝う。
「指輪も、持っていればいい」
「…………っ」
「涼平を好きだった自分を、否定するな」
もう。
我慢できなかった。
「……亞紗斗さん……」
「俺は俺で」
静かに。
けれど、何ひとつ迷いのない声で。
「梨歩が好きだ」
胸の奥で。
何かが、ほどけた。
「梨歩の過去も何もかも……全部持ったまま、俺のところに来ればいい」
涼ちゃん。
ごめんね。
そう言いそうになって。
やめた。
代わりに。
手の中にある桜の指輪を、そっと握った。
忘れない。
忘れなくていい。
涼ちゃんを愛したことも。
今でも大切に思っていることも。
そして。
この人に惹かれていることも。
全部。
全部、あたしなんだ。
*
半年後。
久しぶりに、亞紗斗さんと予定が合った。
本当に、久しぶりだった。
あたしは地方のイベント出演を終えて、その翌日が午前移動。
亞紗斗さんは同じ街で、別のアーティストのライブにサポートヴァイオリニストとして出演していた。
同じ県内にいる。
たったそれだけのことなのに。
「会えるかもしれない」
そう思った瞬間から、落ち着かなかった。
仕事が終わってケータイを見ると、亞紗斗さんからメッセージが一件。
『終わった。そっちは?』
短い。
いつも通り。
『あたしも終わった!』
送った直後。
『ホテルはどこだ』
一瞬、どきりとした。
場所を伝えると――『今から行く』
それだけ。
「…………」
思わず口元が緩んだ。
たった五文字で、こんなに嬉しくなるなんて。
我ながら単純だと思う。
*
あたしの泊まるホテル近くの川沿い。
夜風が、少し冷たかった。
それは、四月に入ってまもなくの頃だった。
昼間は暖かくなってきたけれど、夜になるとまだ薄手の上着が欲しくなる。
あたしは遊歩道のベンチに座って、亞紗斗さんを待っていた。
遠くに橋の灯りが見える。
川面に反射して、細長く揺れている。
左手に目を落とす。
桜の指輪。
涼ちゃんが遺してくれたもの。
七年以上経っても――今でも、ここにある。
あの日。
捨てようとして。
できなくて。
そのあたしに、亞紗斗さんは言った。
――忘れなくていい。
――全部持ったまま、俺のところに来ればいい。
あの言葉に救われた。
でも。
救われたからといって、全部の迷いが消えたわけじゃない。
亞紗斗さんと付き合うようになって。
幸せな時間が増えて。
それと同時に――ふと、怖くなる瞬間もあった。
涼ちゃんを思い出さない日が増えた。
昔なら、朝起きた瞬間に思い出していたのに。
最近は……
仕事の予定を確認して。
今日の衣装を考えて。
亞紗斗さんから連絡が来ていないか確認して。
そうして一日が始まる。
それが怖かった。
でも。
前ほど、その恐怖にも飲み込まれなくなった。
忘れているんじゃない。
あたしの中に、ちゃんといる。
毎日思い出さなくても、涼ちゃんを愛したことがなくなるわけじゃない。
そんなふうに思えるようになったのは、たぶん。
亞紗斗さんのおかげだ。
「待たせた」
玲瓏とした彼の声に、あたしは顔を上げる。
「亞紗斗さん」
いつもの銀髪をオールバックにした姿。
黒いジャケット。
ライブ帰りなのか、片手には細長いヴァイオリンケースを持っていた。
「お疲れさま」
「そっちもな」
隣に腰掛ける。
いつもの距離。
近すぎず、遠すぎず。
「今日どうだった?」
「問題ない」
「感想それだけ?」
「何を期待している」
「あはは。いつも通りだね」
あたしが笑うと――亞紗斗さんが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それだけで嬉しい。
昔だったら……こんなクールな人を好きになるなんて、想像もしていなかった。
あたしは、どちらかというと……ちょっと間抜けで不器用で、あたしをいっぱい笑わせてくれる人がタイプだった。
それで、あたしのやりたいことを思いきりやらせてくれて。
一緒にいて、飽きない人。
口数が少なかったり、あまり感情を表に出さない人は、どこか苦手だった。
はずなのに。
いつの間にか、好きになっていた。
「梨歩」
「ん?」
「明日は何時に出る?」
「十時くらい。亞紗斗さんは?」
「昼過ぎだ」
「そっか。じゃあ朝ごはんくらい一緒に食べられる?」
「ああ」
それだけの約束が、嬉しい。
本当に。
「なんかさ」
「何だ」
「あたしたち、恋人っぽくないよね」
「今さら何を言っている」
「だって普通、もっとこう……毎週デートしたり、休みの日は一日一緒にいたりするもんじゃない?」
「普通が何かは知らない」
「ですよね」
あたしは笑った。
でも。
亞紗斗さんは続けた。
「俺はこれでいい」
「え?」
「会える時に会えばいい」
「…………」
「毎日会えなくても、関係が変わるわけじゃない」
さらりと言う。
簡単に。
でも。
その言葉が、やけに胸に沁みた。
「あたしさ」
「何だ」
「たまに不安になるんだよね」
「何が」
「会えない時間が長いと」
少し迷った。
でも、言った。
「また、大切な人が遠くに行っちゃう気がして」
亞紗斗さんは黙った。
あたしは続ける。
「涼ちゃんの時とは違うって、分かってるんだけどさ」
生きてる。
連絡できる。
次に会う約束だってできる。
全部違う。
でも。
体のどこかが、まだ覚えている。
突然失う怖さを。
「だから、返事がないと勝手に心配したりする」
「…………」
「重いよね」
笑って誤魔化そうとした。
でも。
亞紗斗さんは、笑わなかった。
「重くない」
「え?」
「それで不安になるなら、俺に言え」
「でも忙しいでしょ」
「忙しいことと、梨歩を不安にさせることは別だ」
「…………」
そういうことを。
この人は、本当にさらっと言う。
ずるい。
「亞紗斗さんってさ」
「何だ」
「たまに反則だよね」
「意味が分からない」
「分からなくていい」
笑った――その時。
亞紗斗さんが、ヴァイオリンケースとは反対の手を、ジャケットのポケットへ入れた。
「梨歩」
「ん?」
何かを取り出す。
小さな箱。
「…………」
理解するまでに、数秒かかった。
「え」
亞紗斗さんが、こちらを見る。
いつもと同じ。
落ち着いた目。
アイスグレーの瞳。
でも。
どこか、いつもより真剣だった。
「開けろ」
「え、ちょ、ちょっと待って」
「何故だ」
「いや、だって、これ……」
「いいから」
亞紗斗さんに差し出され、あたしは受け取る。
それは、小さなケース。
指先が震えた。
「……これ、まさか」
「開ければ分かる」
「あの……あたしには、心の準備ってものが」
「以前も同じことを言っていたな」
「何の話?」
「婚約者だと公表した時」
「はぁ! それ今言う!?」
思わず声が裏返る。
週刊誌に撮られて。
熱愛だ、密会だと騒がれて。
記者に囲まれた亞紗斗さんが。
『彼女は俺の恋人ではありません。婚約者です』
と。
勝手に全国へ発表した。
いや。
婚約の話は、以前からしていた。
将来的には結婚しようとも言われていた。
だけど。
まさか、先に世間へ言うとは思わなかった。
「あれ本当にびっくりしたんだからね」
「事実だっただろ」
「まだ正式にプロポーズされてなかった!」
「だから今している」
「順番!!」
また。
亞紗斗さんの口元が、少しだけ緩んだ。
「開けろ」
「……もう」
観念して、ケースを開く。
息が止まった。
細身のプラチナリング。
小さなダイヤが並んでいて。
中央は、わずかに柔らかな曲線を描いている。
派手じゃない。
でも。
綺麗だった。
亞紗斗さんらしいと思った。
無駄がなくて。
静かで。
でも、ちゃんと目を引く。
「綺麗……」
あたしは思わず呟いた。
そして、気づく。
その形。
「これ……」
左手を見る。
桜の指輪。
もう一度、新しいリングを見る。
「もしかして」
胸が震えた。
「これ……重ねられるの?」
「そうだ」
即答だった。
「…………」
言葉が出なかった。
亞紗斗さんは続ける。
「お前の指輪に合うように作ってもらった」
「…………っ」
「店で何度か調整した」
「何度か?」
「ああ」
「わざわざ?」
「当然だ」
当然。
その言葉に、涙が滲んだ。
「どうして……」
分かってる。
聞かなくても分かる。
でも、聞きたかった。
「どうして、この形にしたの?」
亞紗斗さんが、あたしの左手を見る。
桜の指輪。
「外せないんだろ」
「…………」
「涼平の指輪」
胸が詰まる。
「それは、梨歩にとって大切なものだ」
「……うん」
「なら、外す必要はない」
「でも……」
声が震えた。
「でも、これ……婚約指輪なのに……」
普通なら。
前の恋人の指輪を外して。
新しい人の指輪をつける。
そういうものなんじゃないの。
「亞紗斗さん、嫌じゃないの?」
「何が」
「自分が贈った指輪の隣に、涼ちゃんのがあるの」
「別に」
亞紗斗さんは少しも迷わなかった。
「…………」
「同じ意味の指輪じゃないだろ」
「え……?」
「涼平のそれは、梨歩が涼平に愛された証だ」
静かな声だった。
「俺のこれは」
亞紗斗さんがケースからリングを取り出す。
「これからの約束だ」
涙が落ちた。
「過去と未来は、意味が違う」
亞紗斗さんが、あたしの左手を取る。
「一つを選ぶために、もう一つを捨てる必要はない」
「…………っ」
「俺は前にも言ったはずだ」
亞紗斗さんの指が、あたしの桜の指輪にそっと触れる。
「全部持ったまま、俺のところに来ればいいと」
「亞紗斗さん……」
もう。
涙が止まらなかった。
「ずるい……」
「何が」
「ほんと、ずるいよ……」
涼ちゃんを忘れなくていい。
指輪も外さなくていい。
それなのに。
未来までくれる。
そんなの。
「そんなことされたら……」
声が震える。
「もっと好きになるじゃん……」
亞紗斗さんが、わずかに目を細めた。
「それでいい」
「……っ」
「梨歩」
あたしは呼ばれる。
真っ直ぐで、逃げ道なんて与えない亞紗斗さんの声で。
「俺は涼平の代わりになるつもりはない」
「うん」
「涼平と梨歩が過ごした時間に、入っていくつもりもない」
「うん……」
「でも」
握られた手に力がこもる。
「これから先の時間は、俺にくれ」
息が止まった。
「…………」
「梨歩がどこへ行こうと、何をしようと、仕事を続けようと構わない」
亞紗斗さんらしい。
あたしに仕事を辞めろとは、絶対に言わない。
「俺も今の仕事を続ける」
「うん」
「だから、会えない時間はなくならない」
「うん」
「すれ違うこともある」
「……うん」
「それでも」
アイスグレーの瞳が――まっすぐ、あたしを見る。
「俺は、梨歩と生きたい」
「…………っ」
だめだ。
もう。
涙で、ほとんど見えない。
「梨歩」
一度、静かに息をついて亞紗斗さんが言った。
「結婚してくれ」
世界が、静かになった。
川の音も。
遠くの車の音も。
何も聞こえなくなった。
ただ――目の前にいる人の声だけが。
胸の中に残った。
(結婚――あたしが……誰かと)
昔。
考えたことがあった。
涼ちゃんと。
もし、病気なんてなくて。
事故なんてなくて。
あのまま一緒にいられたら。
いつか結婚するのかなって。
でも。
その未来は叶わなかった。
だから。
もう一度誰かと未来を考えることが、ずっと怖かった。
約束したら、また失うかもしれない。
幸せになったら、また壊れるかもしれない。
でも、今は。
それでも。
「……うん」
声が震えた。
「亞紗斗さん」
あたしは、涙を拭う。
ちゃんと見たかった。
この人の顔を。
「何だ」
もう一度。
今度は、はっきり。
「あたしも、結婚したい……亞紗斗さんと」
亞紗斗さんは、大げさに笑ったりしなかった。
ただ、少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しそうに笑った。
その表情を見た瞬間――胸がいっぱいになった。
「左手、出せ」
「……うん」
あたしは、亞紗斗さんに左手を差し出す。
桜の指輪。
涼ちゃんが遺してくれたもの。
亞紗斗さんは、それを外さなかった。
その指輪に寄り添うように、新しい指輪を通していく。
ゆっくり。
ゆっくり。
二つのリングが、ぴたりと重なった。
はじめから、本当に一緒につけるために作られていたみたいに。
桜の花を包むように。
新しいリングの曲線が寄り添っている。
「……綺麗」
涙が、また落ちた。
「ほんとに……綺麗……」
涼ちゃん。
見てる?
あたし。
指輪、外さなかったよ。
あなたを忘れたわけでもない。
でも。
あたし――未来を選んだよ。
もう、「ごめんね」とは思わなかった。
代わりに、心の中で「ありがとう」と言った。
涼ちゃん。
あたしを好きになってくれて。
あたしに、あんなに大切な時間をくれて。
ありがとう。
そして。
「亞紗斗さん」
「何だ」
「ありがとう」
「何に対してだ」
「全部」
亞紗斗さんは、少しだけ困ったように息を吐いた。
「抽象的すぎる」
「いいの」
あたしは笑った。
泣きながら。
それでも、ちゃんと笑えた。
「全部だから」
過去も。
今も。
これからも。
涼ちゃんを愛したあたしも。
亞紗斗さんを愛しているあたしも。
全部。
何ひとつ。
消さなくていい。
何ひとつ。
捨てなくていい。
二つの指輪が重なった左手を。
亞紗斗さんが、そっと包み込む。
「帰るか」
「え?」
「冷えてきた」
「あ、うん」
あたしたちは、立ち上がる。
少し歩いて、あたしは亞紗斗さんの腕に、自分の腕を絡めた。
「何だ」
「いいでしょ。婚約者なんだから」
「好きにしろ」
「あはは」
いつも通り。
でも。
もう、少しだけ違う。
左手には、二つの指輪。
一つは。
あたしが愛した人から。
もう一つは。
これからを一緒に生きる人から。
どちらも、あたしの人生。
どちらも、大切な愛。
だから、全部。
抱えていく。
これが、あたしの選んだ未来だから。
あたしのすべてを受け入れてくれた彼に、あたしのすべてをかけて。
彼の未来ごと、抱きしめていく。
涼ちゃんを愛した過去も。
亞紗斗さんを愛する今も。
これから二人で歩いていく未来も。
何ひとつ、手放さない。
全部、抱えて。
あたしはこれからも、生きていく。
彼らと共に、生き抜いていく。
〈Fin.〉



