鏡の向こうの私たち

 私には、両親がいない。
 物心がつく前に、父親は他に女を作って家を出て行った。
 残されたのは、私と母の二人。
 母は、酒に溺れた。酒があれば、何も考えなくて済む。嫌なことを忘れられる。そうして母は、酒の中で生きるようになった。
 でも、溺れいるうちに泳ぎ方を覚えたのだろう。酒だけでは紛らわせなくなった感情が、別の行き場を求めた末──母は、私に手を上げるようになった。

 小学三年生のとき、私は施設に預けられる。
 母と暮らしていた頃より、規則正しい生活だった。
 朝になればやさしく起こされて、学校へ行って、帰れば夕飯がある。誰かに殴られる心配をせず眠れる。
 施設には、同じような子たちがたくさんいた。

 昔から背の高かった私は、すぐに注目の的になった。
 六年生に負けないくらいで、同い年の子たちからは「彩葉センパイ」なんて、ふざけて言われたりしたほどだ。それか案外、心地よかったりした。自分の居場所が見つかったみたいで。

 でも今思えば、父親譲りの長身も、母にとっては憎らしいものだったのだろう。
 見たくもない男。けれど、忘れることのできない男。
 その面影が、私の身体には残っていたのだから。

 平穏とも言えるような生活が続いていた、ある日。

「おお、でっけー」

 初めて聞く、無邪気な声。

「でっけー……」
「いいな、背が高くて! お前、かっこいいな!」

 少しだけ戸惑った。それまで、背が高いことを褒められたことなんてなかったから。

「お前、名前は?」

 なんて馴れ馴れしい。でも、瞳は答えを待つように輝いていて。
 
「菊池……彩葉」
「彩葉、な」

 こちらに手を差し出しながら、にかっと笑う。その手を、私はしばらく見つめていた。

「ほらっ!」

 促されて、ようやく私は手を取った。
 私と同じくらいの大きさの手。なのに、不思議と温かく感じた。
 
「おれ、五十嵐 健。よろしく」

 それが、健くんとの出会いだった。

 ◆

 健くんが施設にきた事情は、聞いてはいない。
 健くんに限らず、誰の事情も、わざわざ聞こうとはしなかった。
 子どもながらに、気遣いというものはあったのだと思う。
 お互い触れられたくないものには、触れない。聞かれたくないことは、聞かない。
 そういう暗黙の了解が、私たちの間にはあった。

 健くんは、いつも明るかった。
 同じ小学校に通い、クラスも同じ。教室のどこにいても目につくような子だった。
 長身の私とは、違う目立ち方。
 私は普通の子だったと思う。たまに「言い方がきつい」って言われたくらいで、それ以上目立とうとはしなかった。
 目立つのが嫌だった。よからぬ視線まで集めてしまいそうな気がしたから。

 ◆

 中学に上がる前、私は隣県にいる親戚の家に引き取られることになった。息子が独り立ちして、空いた部屋があったらしい。
 健くんも、同じ頃に施設を出ることになっていた。
 だから健くんとは、それきりになるのだと思った。
 そして、別れの日。

「これ、オレの連絡先」

 健くんが、携帯電話の番号を書いた紙を差し出した。

「もうスマホ持ってるの?」
「うん。施設出るからって、買ってもらった」
「いいの?」
「当たり前じゃん。彩葉も、スマホ買ったら絶対連絡くれよな」
「……うん。する」

 私は大事に、その紙を握りしめた。

 ◆

 中学の三年間は、特別なこともなく過ぎていった。
 年に二回だけ、健くんとは連絡を取っていた。
 決まって、お互いの誕生日。

 七月二十二日。
 健くんから、「誕生日おめでとう」と届く。

 三月二十一日。
 私から、「お誕生日おめでとう」と送る。

 施設で開かれた誕生日会を、健くんは覚えていてくれたらしい。
 そうして、歳を重ねていった。
 歳を重ねるほど──私は、鏡を見るのが嫌になった。


 十五歳の誕生日。
 いつものように届いたメールは、少しだけ違っていた。

《彩葉、高校決めた?》

 意外だ。いつもは「誕生日おめでとう」の一言だけだったのに。
 
《うん。楠ヶ崎(くすがさき)高校》
《まじか。俺もそこ》
《まじか》
《ま、思い出の場所っていうか。似たもの同士だな》

 楠ヶ崎高校は、私たちが育った施設と同じ県にある。健くんと初めて会った場所だ。

《落ちないように頑張ろうな、お互い》
《うん》

 そして、三月二十一日。
 健くんの誕生日。

《お誕生日おめでとう》
《ありがとう。連絡くるの待ってた!》
《受かってた?》
《受かってた!》
《おめでとう》
《彩葉も、おめでとう》
《なんで私が受かったって知ってるの?》
《彩葉が落ちるわけないじゃん。頭良さそうだし》

 思わず笑みがこぼれた。

《春からまたよろしくな》

 あの日、差し出された手を思い出した。