五月も半ばを過ぎる頃には、葉桜の緑もすっかり濃くなっていた。
健は、誰にでも同じだった。
「消しゴム忘れた……」
私の斜め前の席にいる女子が、小さく呟く。クラスでも大人しいほうの、あまり目立たない子。誰も貸そうとしない。
「はい、これ使いなよ」
真っ先に声をかけたのは──健だった。
彼女が戸惑いながらお礼を言うと、健は「いいよ、いいよ。なんならあげる」と笑いながら前を向いた。
「お前、自分の消しゴムがないじゃん」
彼のすぐ前にいる男子が言う。
「俺は間違いを消したりしない男だから」
「きしょっ!」
教室に笑い声が広がった。健も声を上げて笑っている。
誰かを笑わせようとしているつもりはないのだろう。健は、いつもこんな調子なんだから。
体育の授業でグループを組むときも同じだ。
健はいつも、たまたま近くにいた人と自然に組む。運動が得意な子とも、そうでない子とも、態度を変えない。
だからだろう。健の周りには、いつも人が集まった。
引き寄せているわけじゃない。向こうから勝手に寄ってくる。太陽に向かって伸びる向日葵みたいに。
そのことに健は気づいているのか、いないのか。たぶん、気づいていない。だって、あまりにも自然で、無邪気なんだから。
そういうところも、彼の魅力なんだと思う。
この頃になると、放課後は私と健、それから何人かの気の合うメンバーでファミレスへ寄ることも増えた。
「健、またコーラだ」
ドリンクバーへ向かった健の後を追って、私は言った。
「これが一番うまいじゃん」
「子どもみたい」
「俺、まだ子どもだし」
他愛のない話をしながら、私は上段に置かれているおしぼりへ手を伸ばした。
あと少し届かない。背伸びをしようとした、そのとき。
横から長い腕が伸びてきて、私より先におしぼりを取った。
「はい」
「私、そんなに小さくないけど!」
「あはは。でも届いてなかったじゃん」
「まあ、そうだけど。……ありがと」
受け取ったおしぼりを手に、私は少しだけ俯いた。
こういうところだ。さりげなくて、押しつけがましくなくて、誰かが困っていたら当たり前みたいに手を貸す。
「健って、ほんと誰にでも優しいよね」
「別に、普通だと思うけど」
「普通じゃないよ、それ」
私は笑って誤魔化したけれど、内心では少し違うことを考えていた。
誰にでも優しい。それは知っている。
でも、誰にでも同じように優しいということは──誰も健の特別じゃないということだ。
私は、彼の特別になりたかった。
◆
梅雨に入った教室は、毎日じめっと蒸し暑くなっている。
うなじに張りつく髪が鬱陶しくて、私は久しぶりにポニーテールで登校した。
「今日はポニテなんだ」
「そ。湿気で髪広がるしさ」
「わかるわ〜。でもいいじゃん、似合ってるよ」
「うん、可愛い」
クラスの女子たちが口々に褒めてくれる。
満更でもない気持ちで髪に触れていると、健が教室に入ってきた。
「おはよ」
「おはよ」
いつも通りの挨拶。
健は自分の席へ向かいかけて、ぴたりと足を止めた。こっちを見て、それから少し目を細める。
「亜梨沙、今日はなんか雰囲気違うね」
「髪型違うからね」
私の髪をじっと見る健。審査員の真似事みたいに、何かを考えるようにあごに手を添えている。
「なに?」
訊ねると、彼は大きく頷いて、
「うん。似合ってる」
と言った。すごく無邪気な笑顔で。
あまりにもあっさり言われて、私は一瞬、言葉を失ってしまう。周りの女子たちが「ほら〜」と小さく笑ってくれた。その声につられ、私もようやく笑うことができた。
「……どうも」
頬が熱くなっていく。自分でもどうしようもないくらいに。
──やっぱり……。
私は、心の中でその言葉を確かめるように繰り返した。
やっぱり、健は私のことが好きだと思う。
◆
期末テストも終わった、七月上旬。
夏休みを目前にした教室は、みんなどこか浮き立っているように見える。もちろん、私もその中の一人だ。
でも、そんな空気の中で──菊池 彩葉のことが、いよいよ目につくようになっていた。
きっかけは、たぶん健。
「彩葉、それ先生に出した?」
「まだ」
「じゃあ一緒に持っていこうぜ」
「うん」
ほんの些細なやり取り。それを、たくさん目にする。
彼は誰にでも優しいから。当然のように、菊池 彩葉にだって優しくするんだ。
そう思いながらも、私は妙に気になっていた。
彼女は相変わらず、長い前髪で顔の半分を隠している。背が高くて、細くて、姿勢もまあ悪くない。
でも、顔は全然可愛くない。だって一重だし。鼻筋は綺麗だけど、前髪は重いし、暗そうだし。
私のほうが、ずっと可愛い。
なのに──どうしてだろう。健と並んでいると、前よりずっと気になってしまう。二人だけの、二人にしかない空気感というか。
「……あの二人って、仲いいの?」
思わず、近くにいた友達に訊いた。
「ん〜。まあ、一年のときから結構話してたよ」
「クラス違うのに?」
「うん。でも、健がちょこちょこ私たちのクラスに来て、彩葉さんと話してた」
「へえ……」
知らなかった。私の気づかないところで、接点があったなんて。
それから、私は少しだけ菊池 彩葉を気にするようになった。
暗そうに見えたけど、それなりの友だちとつるんで笑っているところだって見かける。口数は少ないけれど、思っていることはちゃんと言っているようにも聞こえた。
だからって、どうして健がそんなに菊池 彩葉のことを気にかけるのか。
「中学が一緒だったとか?」
「ううん、違うよ。私、健と同中だったけど、彩葉さんいなかったし」
「そうなんだ」
ますますわからない。
そんなことを考えていると、隣から友だちがにやにやしながら顔を覗き込んできた。
「なになに〜。亜梨沙、健と彩葉さんがデキてると思ってるの?」
「そんなわけないじゃん」
「だよね。私もそう思うわ」
そう言って笑う友だちにつられて、私も笑う。
少しだけ、ほっとした。
健が好きになる女子は、もっと他にいる。わざわざ、あんな子を選ぶ理由なんてないんだから。
健は、誰にでも同じだった。
「消しゴム忘れた……」
私の斜め前の席にいる女子が、小さく呟く。クラスでも大人しいほうの、あまり目立たない子。誰も貸そうとしない。
「はい、これ使いなよ」
真っ先に声をかけたのは──健だった。
彼女が戸惑いながらお礼を言うと、健は「いいよ、いいよ。なんならあげる」と笑いながら前を向いた。
「お前、自分の消しゴムがないじゃん」
彼のすぐ前にいる男子が言う。
「俺は間違いを消したりしない男だから」
「きしょっ!」
教室に笑い声が広がった。健も声を上げて笑っている。
誰かを笑わせようとしているつもりはないのだろう。健は、いつもこんな調子なんだから。
体育の授業でグループを組むときも同じだ。
健はいつも、たまたま近くにいた人と自然に組む。運動が得意な子とも、そうでない子とも、態度を変えない。
だからだろう。健の周りには、いつも人が集まった。
引き寄せているわけじゃない。向こうから勝手に寄ってくる。太陽に向かって伸びる向日葵みたいに。
そのことに健は気づいているのか、いないのか。たぶん、気づいていない。だって、あまりにも自然で、無邪気なんだから。
そういうところも、彼の魅力なんだと思う。
この頃になると、放課後は私と健、それから何人かの気の合うメンバーでファミレスへ寄ることも増えた。
「健、またコーラだ」
ドリンクバーへ向かった健の後を追って、私は言った。
「これが一番うまいじゃん」
「子どもみたい」
「俺、まだ子どもだし」
他愛のない話をしながら、私は上段に置かれているおしぼりへ手を伸ばした。
あと少し届かない。背伸びをしようとした、そのとき。
横から長い腕が伸びてきて、私より先におしぼりを取った。
「はい」
「私、そんなに小さくないけど!」
「あはは。でも届いてなかったじゃん」
「まあ、そうだけど。……ありがと」
受け取ったおしぼりを手に、私は少しだけ俯いた。
こういうところだ。さりげなくて、押しつけがましくなくて、誰かが困っていたら当たり前みたいに手を貸す。
「健って、ほんと誰にでも優しいよね」
「別に、普通だと思うけど」
「普通じゃないよ、それ」
私は笑って誤魔化したけれど、内心では少し違うことを考えていた。
誰にでも優しい。それは知っている。
でも、誰にでも同じように優しいということは──誰も健の特別じゃないということだ。
私は、彼の特別になりたかった。
◆
梅雨に入った教室は、毎日じめっと蒸し暑くなっている。
うなじに張りつく髪が鬱陶しくて、私は久しぶりにポニーテールで登校した。
「今日はポニテなんだ」
「そ。湿気で髪広がるしさ」
「わかるわ〜。でもいいじゃん、似合ってるよ」
「うん、可愛い」
クラスの女子たちが口々に褒めてくれる。
満更でもない気持ちで髪に触れていると、健が教室に入ってきた。
「おはよ」
「おはよ」
いつも通りの挨拶。
健は自分の席へ向かいかけて、ぴたりと足を止めた。こっちを見て、それから少し目を細める。
「亜梨沙、今日はなんか雰囲気違うね」
「髪型違うからね」
私の髪をじっと見る健。審査員の真似事みたいに、何かを考えるようにあごに手を添えている。
「なに?」
訊ねると、彼は大きく頷いて、
「うん。似合ってる」
と言った。すごく無邪気な笑顔で。
あまりにもあっさり言われて、私は一瞬、言葉を失ってしまう。周りの女子たちが「ほら〜」と小さく笑ってくれた。その声につられ、私もようやく笑うことができた。
「……どうも」
頬が熱くなっていく。自分でもどうしようもないくらいに。
──やっぱり……。
私は、心の中でその言葉を確かめるように繰り返した。
やっぱり、健は私のことが好きだと思う。
◆
期末テストも終わった、七月上旬。
夏休みを目前にした教室は、みんなどこか浮き立っているように見える。もちろん、私もその中の一人だ。
でも、そんな空気の中で──菊池 彩葉のことが、いよいよ目につくようになっていた。
きっかけは、たぶん健。
「彩葉、それ先生に出した?」
「まだ」
「じゃあ一緒に持っていこうぜ」
「うん」
ほんの些細なやり取り。それを、たくさん目にする。
彼は誰にでも優しいから。当然のように、菊池 彩葉にだって優しくするんだ。
そう思いながらも、私は妙に気になっていた。
彼女は相変わらず、長い前髪で顔の半分を隠している。背が高くて、細くて、姿勢もまあ悪くない。
でも、顔は全然可愛くない。だって一重だし。鼻筋は綺麗だけど、前髪は重いし、暗そうだし。
私のほうが、ずっと可愛い。
なのに──どうしてだろう。健と並んでいると、前よりずっと気になってしまう。二人だけの、二人にしかない空気感というか。
「……あの二人って、仲いいの?」
思わず、近くにいた友達に訊いた。
「ん〜。まあ、一年のときから結構話してたよ」
「クラス違うのに?」
「うん。でも、健がちょこちょこ私たちのクラスに来て、彩葉さんと話してた」
「へえ……」
知らなかった。私の気づかないところで、接点があったなんて。
それから、私は少しだけ菊池 彩葉を気にするようになった。
暗そうに見えたけど、それなりの友だちとつるんで笑っているところだって見かける。口数は少ないけれど、思っていることはちゃんと言っているようにも聞こえた。
だからって、どうして健がそんなに菊池 彩葉のことを気にかけるのか。
「中学が一緒だったとか?」
「ううん、違うよ。私、健と同中だったけど、彩葉さんいなかったし」
「そうなんだ」
ますますわからない。
そんなことを考えていると、隣から友だちがにやにやしながら顔を覗き込んできた。
「なになに〜。亜梨沙、健と彩葉さんがデキてると思ってるの?」
「そんなわけないじゃん」
「だよね。私もそう思うわ」
そう言って笑う友だちにつられて、私も笑う。
少しだけ、ほっとした。
健が好きになる女子は、もっと他にいる。わざわざ、あんな子を選ぶ理由なんてないんだから。



