無華の花嫁~発売記念番外編~

 あまりにも身勝手な言い分だという自覚はある。
 だが、この娘が誰かに向ける笑みは、あまりにも長いあいだ誰にも向けられずにいたものだ。
 その笑みを、野良の猫に先に持っていかれたと思うと、腹の底が収まらない。

「すみれ。こちらを向け」
「は、はい……」

 顎に指をかけ、上向かせる。
 猫の毛に触れていた手が、行き場を失って所在なげに宙をさまよい、やがて俺の胸もとの布を、おずおずと掴んだ。
 その仕草ひとつで、簡単に許してしまう自分がまた腹立たしい。

「あ、あの……暁臣様、外は……」
「見ているのは月だけだ」

 言い終える前に、唇を塞いだ。
 餡の甘さが、まだ残っている。

 驚いて震えた身体が、やがてゆっくりと力を抜き、俺の腕の中へ倒れ込んでくる。
 その重みを支えながら、もう一度だけ深く口づけた。

 足もとで、猫が心底どうでもよさそうに毛づくろいをしている。

「……っ、はぁ……あ、暁臣、様……」

 唇を離すと、すみれは真っ赤な顔で、荒く息をしていた。
 月明かりを反射した美しい紫色の瞳が潤み、今度こそまっすぐに俺だけを映している。
 月にも、猫にも渡すつもりはない。

「すみれ」
「……はい……」
「もう一度言う」

 夜風が渡り、薄の穂が揺れると、金木犀の香りがまた濃く流れてくる。

「月が、綺麗だな」

 すみれは、空を見上げなかった。
 瞬きを二度して、それから、燃えるように耳まで赤くなる。

「……っ、あの、それは……お月様のことでは、ないのですね……?」
「ようやく通じたか」

 両手で顔を覆ってしまった娘の、結い上げた髪から覗くうなじが赤い。
 その頭を胸へ抱き寄せて、今度こそゆっくりと空を仰いだ。

 高く、白く、あの日となにひとつ変わらない月がある。
 冷たい蔵の隙間から、この娘がひとりで見上げていたのと、同じ月が。

 あの夜、この光は、誰の味方にもならなかった。

 だが今は違う。
 来年も、その次の年も、この庭で同じものを見せてやる。浴衣を着せて、団子を食わせて、隣で手を握って。
 そのたびに、俺だけが月を見ずに、この娘を見ているのだろう。

「暁臣様」
「なんだ」
「……あの、来年も。一緒に、見てもよいでしょうか」

 胸の中から、躊躇いがちな声がした。
 答える代わりに、抱き寄せる腕へ力を込める。
 薄の向こうで、黒猫が一度だけ振り返り、それから夜の中へ静かに消えていった。
 虫の声だけが、いつまでも庭に満ちていた。