無華の花嫁~発売記念番外編~

 暁臣様が、まっすぐ前を向いたまま言う。

「ゆっくり見ればいい」

 池を望む東屋には、赤い毛氈が敷かれ、すでに支度が整えられていた。
 背の高い薄が花器から溢れるように挿され、穂先が夜風になびいている。

 その隣に、三方。
 白い丸いものが、きちんと積み上げられていた。
 下の段に多く、上に向かうにつれて少なく。てっぺんにひとつ。

 まるで小さな塔のようだ。

「……わあ」

 思わず、膝をついて近づいてしまう。
 月明かりを受けて、ほんのりと青白く光っている。
 こんなに整然と、美しく積まれたものを、私は見たことがなかった。

「これは……飾るものでは、ないのですか?」

 問いかけると、暁臣様がわずかに眉を上げた。

「団子だ」
「だん、ご……」
「月に供えたあと、人が食う。そういうものだ」
「た、食べてしまうのですか!」

 もったいない……せっかくこんなに綺麗に積まれているのに。
 崩してしまったら、もう二度と、このかたちには戻らないのに。

「餅は、食ったことがあるだろう」
「……はい。お正月に、お雑煮を」

 あの朝のことは、よく覚えている。
 汁の中で、箸で持ち上げようとして、白いものがとろりと伸びる様に驚いた。

「あれは、しょっぱいものかと思っておりました」
「甘いのもある」

 暁臣様が、三方から団子をひとつ取り、小皿の餡にくぐらせる。
 崩れた頂上の跡が、なんだか申し訳ない。

「食べていい」
「……はい」

 返事はしたものの、手が動かなかった。
 どうしても、動いてくれない。
 いただいてよいと言われている。ここにいてよいと言われている。それはもう何度も、この方の口から聞かせてもらってきた。

 それでも、自分から手を伸ばすという行いは、私にはまだ、あまりにも大それたことだった。
 伸ばした手を打たれてきた回数を、この身体が覚えている。

「……すみれ」
「あ……も、申し訳ありません、私……」
「口を開けろ」
「え」

 顔を上げた瞬間、目の前に団子があった。
 白いまるいものが、暁臣様の指に摘ままれて、私の唇のすぐ手前で止まっている。

「あ、あの、そんな、自分で」
「いいから開けろ」

 観念して、ほんの少しだけ唇を開く。
 やわらかいものが、そっと押し込まれた。
 噛むと、餅が歯にまとわりつくように潰れて、遅れて餡の甘さが舌の上に広がる。

 お雑煮の餅とは、まるで別のものだった。
 やさしい甘さが、口の中いっぱいに満ちていく。

「……っ」

 どうしてだろう。
 視界が、じわりとにじんだ。
 悲しいわけでも、痛いわけでもない。ただ、甘いだけなのに。

「泣くほどか」
「ちが……ちがうのです。ただ……」

 うまく言えない。
 あの蔵の中で、母屋から漂ってくる甘い菓子の匂いを、私は何度も想像していた。
 どんな味なのかも知らないまま、想像だけで胸を縮めていた。
 その想像の先に、こんなにもやわらかい味があったなんて。

「……甘い、です。とても」
「そうか」

 暁臣様は、それ以上なにも聞かなかった。
 代わりに、指の腹で私の目もとをひと拭いして、また団子をひとつ手に取る。

「もうひとつ食え。痩せすぎだ」

 二つ目を口に運ばれながら、私は空を仰いだ。
 高く澄んだところに、月がある。
 薄が揺れて、虫が鳴いて、隣にはこの方がいて、口の中には甘いものがある。

 ……こんな夜が、この世にあったなんて。

「すみれ」
「はい」
「──月が、綺麗だな」

 私は素直に、月を見上げた。

「はい。とても、綺麗ですね」