庭へ下りると、昼間とはまるで違う世界が広がっていた。
この庭園は、体調が戻ってから何度も歩かせてもらっている。石畳の続く道も、刈り込まれた松の形も、池の縁の飛び石も、もうすっかり覚えたつもりでいた。
けれど夜の庭は、私の知っている庭ではなかった。
道沿いに置かれた石灯籠に、ひとつずつ火が入っている。
橙色の小さな光が、足もとの石畳だけを頼りなく照らし、その先はすべて濃い藍に沈んでいた。
木々は昼の緑を失って、黒い塊としてそこにある。
りぃ、りぃ、と虫が鳴いていた。
鈴を振るような声が幾重にも重なって、庭のあちこちから湧いてくる。
鳴きやんだかと思うと、また別の場所から返事のように上がる。
こんなにたくさんの生き物が、この庭で息をしていたなんて。
昼のあいだは、まるで気づかなかった。
ふわ、と夜風が渡り、袖の中を通り抜けていく。
どこからか、甘い香りが流れてきた。
「……いい、香りです」
「金木犀だ。この時季になると、邸の裏まで匂う」
言われて振り仰いでも、暗くて木の姿は見えない。
見えないのに、香りだけが確かにここにある。
それがなんだか不思議で、私は少しのあいだ、目を閉じて息を吸った。
──けれど。
灯籠の光が届かない木立の奥へ視線が滑った瞬間、指先がすっと冷えた。
あの闇の色を、私は知っている。
湿った土間の匂い。膝を抱えた腕の重さ。扉の向こうが静まり返っていくときの、あの、置き去りにされる感覚。
夜というものは、ずっと、私にとってそういうものだった。
朝が来るまで、ただ耐えるだけの時間。
肩が小さく震えたのを、隣の方に気づかれてしまったのだろうか。
「寒くないか」
「……いえ」
「こちらへ来い」
言うより早く、手を取られた。
驚いて視線を落とすと、暁臣様は手袋を外していた。
何ものにも触れられないはずの、黒薔薇の手。
その素手が、私の指をひとつずつ確かめるように包み込んでいる。
「……あ」
手の平から伝わってくる熱が、腕を伝って、胸の奥まで届く。
闇の色は、さっきとなにも変わらない。
それなのに、もう、こわくなかった。
顔を上げると、松の梢の向こうに、月があった。
白く、まるく、あまりにも静かに。
池の水面にも、もうひとつ同じものが浮かんで、風が渡るたびに細かく揺れる。
その光を見ているうちに、胸の底から、ゆっくりと言葉が浮かんできた。
「暁臣様」
「なんだ」
「……蔵から見ていた月と、同じ月なのですね」
言ってから、しまった、と思った。
せっかくの夜に、こんな話をするものではない。
繋いだ手を離されてしまうかもしれない。
けれど暁臣様は、なにも言わず、ただ、握る指の力が、静かに強くなっただけ。
その痛いほどの力が、どんな慰めよりも雄弁で、私は言葉を失う。
あの頃、月は、遠くから眺めるだけのものだった。
高くて、白くて、私には決して届かないもの。
いいものは、みんな遠くにあるのだと、そういうふうにできているのだと思っていた。
それが今、私は浴衣を着て、庭を歩いて、この方と手を繋いで、同じ月を見上げている。
「……ずっと、見ていても、いいのでしょうか」
「月は逃げない」
この庭園は、体調が戻ってから何度も歩かせてもらっている。石畳の続く道も、刈り込まれた松の形も、池の縁の飛び石も、もうすっかり覚えたつもりでいた。
けれど夜の庭は、私の知っている庭ではなかった。
道沿いに置かれた石灯籠に、ひとつずつ火が入っている。
橙色の小さな光が、足もとの石畳だけを頼りなく照らし、その先はすべて濃い藍に沈んでいた。
木々は昼の緑を失って、黒い塊としてそこにある。
りぃ、りぃ、と虫が鳴いていた。
鈴を振るような声が幾重にも重なって、庭のあちこちから湧いてくる。
鳴きやんだかと思うと、また別の場所から返事のように上がる。
こんなにたくさんの生き物が、この庭で息をしていたなんて。
昼のあいだは、まるで気づかなかった。
ふわ、と夜風が渡り、袖の中を通り抜けていく。
どこからか、甘い香りが流れてきた。
「……いい、香りです」
「金木犀だ。この時季になると、邸の裏まで匂う」
言われて振り仰いでも、暗くて木の姿は見えない。
見えないのに、香りだけが確かにここにある。
それがなんだか不思議で、私は少しのあいだ、目を閉じて息を吸った。
──けれど。
灯籠の光が届かない木立の奥へ視線が滑った瞬間、指先がすっと冷えた。
あの闇の色を、私は知っている。
湿った土間の匂い。膝を抱えた腕の重さ。扉の向こうが静まり返っていくときの、あの、置き去りにされる感覚。
夜というものは、ずっと、私にとってそういうものだった。
朝が来るまで、ただ耐えるだけの時間。
肩が小さく震えたのを、隣の方に気づかれてしまったのだろうか。
「寒くないか」
「……いえ」
「こちらへ来い」
言うより早く、手を取られた。
驚いて視線を落とすと、暁臣様は手袋を外していた。
何ものにも触れられないはずの、黒薔薇の手。
その素手が、私の指をひとつずつ確かめるように包み込んでいる。
「……あ」
手の平から伝わってくる熱が、腕を伝って、胸の奥まで届く。
闇の色は、さっきとなにも変わらない。
それなのに、もう、こわくなかった。
顔を上げると、松の梢の向こうに、月があった。
白く、まるく、あまりにも静かに。
池の水面にも、もうひとつ同じものが浮かんで、風が渡るたびに細かく揺れる。
その光を見ているうちに、胸の底から、ゆっくりと言葉が浮かんできた。
「暁臣様」
「なんだ」
「……蔵から見ていた月と、同じ月なのですね」
言ってから、しまった、と思った。
せっかくの夜に、こんな話をするものではない。
繋いだ手を離されてしまうかもしれない。
けれど暁臣様は、なにも言わず、ただ、握る指の力が、静かに強くなっただけ。
その痛いほどの力が、どんな慰めよりも雄弁で、私は言葉を失う。
あの頃、月は、遠くから眺めるだけのものだった。
高くて、白くて、私には決して届かないもの。
いいものは、みんな遠くにあるのだと、そういうふうにできているのだと思っていた。
それが今、私は浴衣を着て、庭を歩いて、この方と手を繋いで、同じ月を見上げている。
「……ずっと、見ていても、いいのでしょうか」
「月は逃げない」



