万花のいろ、千葉のにほひ

紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも (大海人皇子 巻一 二一)


 時代は昏迷を極めていた。
 (くら)いうねりの中に額田王も否応なく巻き込まれていく。



 有間皇子が紀温湯で非業の死を遂げた。……抹殺されたのだということは、誰の目にも明らかだった。
 茅淳王の血筋であられた有間皇子は、聡明な人物であった。
 それを、額田王は知っていた。恐れ多くも、弟のように思い、歌を詠みかわしていた少年。常に周囲の目を気にしながら孤独に生きていた少年であった。

 有間皇子は、時代の犠牲となるべく生まれたようなものだ。
 それでも一縷の望みを抱いてはいたのだ。
 有間皇子が叛意を抱いていないことは誰の目にも明らかだったからだ。皇位を狙うなど、繊細な少年は考えもしなかったろう。
 それでも、聡い少年は知っていた。周りがそれを本気にとってはくれないのだろう、と。いや、知っていてなお、気弱な少年だからこそ担ぎ上げようとしていた。この当時、宮中は疑心暗鬼の念が渦巻いて、謀略が謀略を呼び、後宮の女人らでさえ、権謀の波の吞まれていた。
 有間皇子は狂人を装い保身を図っていた。ほかに手段はなかった。しかし、結局それも虚しかった。

 謀反の罪に問われ、都から半ば追放の憂き目にあい、ついには療養先で命を断たれてしまった。

 この事件は、額田の心をひどく傷ませた。皇子の死にだけではない。有間皇子を「陥れた」主犯格に姉の夫となる人物が関わっている。中大兄皇子と称されていた、葛城皇子である。この時点ではまだ皇位にのぼってはいなかったが、政治の実権を鎌足とともに掌握していた。
 額田は成す術もなかった。額田だけでない。他の誰も……有間皇子の「味方」になろうとすり寄った者達も、結局は有間皇子を切り捨てるしかなかった。

 致し方のないことだと、誰もが有間皇子の「事件」から目を逸らし、諦念の気持ちを募らせていた。
 薄幸の少年は、哀しい歌を額田に残していった。
 嘆き悲しみ、涙を流すことしかできない自分がもどかしい。
 もっと本気で、有間皇子を庇護するべきだった。いっそ三輪山の奥深くに隠し、安寧が訪れる日を持つべきだった……――
 額田は何度も有間皇子に御身を隠すことを促した。私の命にかけても、お守りしますから、どうか宮中からお逃げくださいと、切々と嘆願した。だが、有間皇子は苦く笑うばかりだった。

 額田の切実な訴えこそが、有間皇子に運命を悟らせた。


 額田は風に枝を揺らす松を見やり、頬を濡らす涙を袖で拭った。
 風の音が虚しい。まるで愁訴の声だ。額田の胸に迫ってくる。

 せめてもの名残にと、有間皇子は手ずら書いた歌を、額田に遺した。


 額田は癒えぬ悼惜を、遺された有間皇子の歌とともに胸に抱いた。
 終生、忘れることはできぬだろう。