万花のいろ、千葉のにほひ

 今でも忘れられない、「出逢い」。
 再会だった。

 ――最初の邂逅から幾年が経ったか。

 あどけない童女から、聡明な娘へ。額田は美しく成長した。
 しかし慎ましくしとやかな姉とは違い、闊達で奔放な気質の額田は、一人で気ままに出歩いては、彼女に仕えている者達の気を揉ませていた。
 その日も、よく晴れた青空のまぶしい日だった。
 花を摘むために森へ出かけ、そこであやうく馬上の青年に矢を射掛けられるところだった。
 身を強張らせて立ち尽くしていた額田の前に現れたのは、美々しい青年だった。

「すまない、まさかこのような所に人がいるとは思わず、雄鹿かと……。怪我はないか」
 狼狽した様子で額田に声をかけ、青年は素早く馬上から降りた。凛とした声が耳に心地好い。目元の涼しげな、端正な顔立ちのすがしい青年である。秀でた額に、一房ぱらりと髪が落ちている。
 額田は目を見開き、青年を見つめた。胸中で、まるで花が音をたてて咲いたようだった。胸が高鳴り、気持ちが高揚していく。
「……あなたは」
 一目で分かった。
 初な童女だった頃に出逢った、三輪山の神様だと。あの時の御方だと。
 ああなんと、ご立派になられたのだろう。あの時よりもさらに美しく、凛々しい。まぶしいほどの「光気」が全身を覆っている。

「大事ないか? 驚かせて本当にすまなかった」
「いいえ、大丈夫です、こちらこそ驚かせてしまいました。……アヤノミコさま」
「……何故その名を?」
 今度は青年の方が瞠目する番だった。訝しげに眉をひそめ、目の前の娘を見つめ返す。
 凛と背筋を伸ばしている娘は、里の娘ではないことが一見して分かる。
 着衣も、色こそ濃緑と茶といった地味な重ねにしているが、襟元に覗く黄みをおびた緋色が、上等な裳であることをさりげなくしめしていた。小さな籠を腕に下げ、そこに軽く添えられている手が眩しいほど白い。
 何よりも、全身から匂い立つような浄妙とした雰囲気は、並々の娘の持つ雰囲気ではない。
 それでいて、人懐こく気安げな娘の笑顔に、ふと既視感を覚える。
 気圧されるような様子を微塵もみせない。まっすぐにこちらを見据えてくる、清らかなまなざし……――
「憶えていらっしゃらないのですね。残念ですけど、それもしかたありませんわ。あの時、わたしはまだ子供でしたもの」
 額田は悪戯っぽく笑う。あけすけな好意が満面の笑みをさらに明るくしている。無防備すぎるといっていいほどの笑顔だった。
 ややあってから、青年は思い出した。あ、と声を漏らす。
「三輪山の麓で出逢った、あの少女か、君は」
 何年前のことであろうか。
 川の辺で、白菊を手折ろうと立ち往生していた、童女。
 僅かの間の出逢いにしか過ぎなかったが、不思議なほど心に残り、今、ありありと思いだせる。
「そうか、君はあの時の」
「あの時は、花をありがとうございました。あの時、ちゃんとお礼を言ってなかった気がしますわ」
「そうだったかな? 君は何かいろいろと話してくれていたのは憶えているが。そういえばお互い名乗りもしなかったな」
 青年は改めて娘に名を問うた。額田は微笑み、それには答えなかった。
 ただ、「鏡王(かがみのおう)の娘」だということだけは告げた。軽々しく名を教えるのはたしなみがないと理性が止め、しかし別のところで「焦らしてみたい」気持ちが起こり、それが名を秘させた。父の名を告げた以上、隠すつもりはない。それを青年は察してくれたようだった。

「ところで、漢皇子という呼び名を、どこで憶えたのかな? あの時、名乗りはしなかったはずだが」
「お供の方がそう呼んでおられたように思ったのですが……違うのですか?」
「今は、違う。……今は、大海人と呼ばれている」
「オオアマ……皇子様?」
 その名前を知らされ、額田は少したじろいだ。

 知らぬ名前ではない。いや、知らぬわけがない名だ。
 姉の鏡王女がいずれお傍に仕えることになる「中大兄皇子」の兄弟の名だ。ゆくゆくは姉の背の君になろうかという皇子の血縁者である。名を聞かぬはずがなかった。
「皇子」であろうことは名が示していたので知っている気になっていたが、数多くいる「皇子」の中でとりあけ身分の高い……それどころか日継の君というそれこそ天上人の名ではないか。

 それでも、急に態度を改めて、恭しく礼をとるような真似を額田はしなかった。いまさら態度を急変させるのは、かえって礼を失する行為になるのではなと、彼女なりに思ったのだろう。
 尊い身分の御方ではあるが、堅苦しい態度を好まぬような、そんな雰囲気が大海人皇子にはあった。額田と相通じるものがある。
「鏡王の娘が宮中に上がるとうかがったが」
 大海人皇子は独り言のようにそう言った。それから、あなたの縁者なのだろうかと額田に尋ねる。「姉です」と額田は頷いてから、ふと訊き返した。
「お姉さまにお会いしましたの?」
「いや。だが、美しい方だとうかがっている。歌の才もおありだと」
「その通りですわ。お姉さまはお美しいだけではなく、とても優しい方で、わたしの自慢の姉です。詠まれる歌もその心映えをよくあらわして、玲瓏とした珠の音のような歌なのです」
 頬を紅潮させ、語気も高らかに、額田はここぞとばかりに姉を自慢しきる。本心からの言葉だった。
 大好きな姉を侮られまいと意気込む様子はいかにも幼げで、大海人皇子は思わず口元をほころばせ、微笑を零した。
「鏡王は、よい娘御をもたれたものだ」
 大海人皇子は目についた花を手折り、それを額田に差し出した。いつかもそうしたように。
 それもまた、白い花だった。だが白菊ではない。皇子はその花の名を知らなかった。
 夏の野に咲く、小さな白い花。

「いつか、また会おう。その時こそは、きっとそなたの名を教えてくれ」
「…………」
 額田は頷いて、そして花を受け取った。


 恋をし、唯一人の相手に巡り合えた喜びと幸せに胸を満たしていられたのは、しかし短き年月でしかなかった。