万花のいろ、千葉のにほひ


 鏡王女の気がかりは、何を置いてもやはり妹のことだ。神の言の葉を紡ぐ、美しい資質を持った額田王。
 しかし当の額田王は……――
 さりげなく、鏡王女は尋ねた。一度ならず尋ねてきたことではあった。
「大海人皇子様の妃になるつもりはないのですか、額田の君」
「…………」
 一瞬の迷いもなく、額田は首を横に振った。

 ――大海人皇子。
 天皇の「兄弟」である皇子である。
 今現在、皇子……日嗣の皇子になりうる可能性のある大海人皇子と、額田の仲は公然のものだった。
 だが、額田は正式に大海人皇子の室に入ることはしなかった。やんわりと断り続け、確たる職宮につかぬままでいる。
 妹の心情を、多少は察している鏡王女だが、それでも「何故」と問いたかった。
 愛しているのに、と。
 愛し、そして愛されているのに、何故。



 かつて、中大兄皇子と称されていた皇子は御位につき、天皇(大王)となった。
 中臣鎌足とともに蘇我家の頭領を討ち、軽皇子を即位させてから、実に十六年という年月を要しての即位だった。

 即位前、そして即位後も、政権は落ち着かず、世は乱れを残したままでいる。
 姉の問いに、額田王は朗らかな気性に似つかわしくない淋しげな微笑を湛えて、曖昧に応えた。
「大海人皇子様には成すべきことがあるのです。いまはまだ籠の中に囲われていても、いつか……」
 ふいにかすめた予感を、額田は首を振って払った。
 姉の鏡王女とともに、近江の宮に留まることになった額田は、宮廷を取り巻いている暗闇を、常に見つめていた。
 中大兄皇子の即位以前から、その闇は続いている。ますます闇が濃くなっていく……――

 年長者ではあるが、血筋ゆえに御位から遠ざかることになった大海人皇子との「出逢い」は、現在の近江宮ではない。かつてあった宮の近在地、狩場で二人は出逢った。
 いつか再び相見える日がくる。
 幼い頃の予感が現実となり、運命的な恋に額田を導いた。