私×0.5+わたし×0.5=◎


私は順調に回復していると思った。
これは神様がくれた罰なのか休息なのか、ともかくじっくり考える時間が出来たのだ。
四角く塗りつぶされていた漢字は、だんだんと丸みを帯びて見えてきている。

私は一冊の児童書を手にしていた。
親切にも、すべての漢字にルビが振ってある。
物語を一頁読み進めた後、次の頁に移動するのは難しかったが、それを何度も何度も執拗に繰り返しているうちに、私の脳の記憶領域に、単語が積み上げられていった。
だんだんと、世界を取り戻している気がした。

「調子どう? お雑煮食べる?」

初詣も行って来たし、混雑する売り場に体をねじ込ませて、一人でお守りも購入してみた。
ただし私が購入したお守りは「安産祈願」のお守りだったらしい。
後から母に教わり、私は面白くて笑った。
漢字の無い世界には、本当に驚かされる。
笑えるようになっただけマシだ。

学校を休学して二ケ月目に突入した。
高校に入学してから「普通」に大学へ進学しなければという呪縛に囚われていた私は、更に『今』を、無駄にしているのかもしれない。
しかし、二十四時間自分のためだけに時間を使えるようになり、私はこのヒトが居なければ、今、生きていなかっただろうと母に感謝する余裕すら生まれた。

まるで世間話でもするように、私の考えていたことを、先生に話していると、先生は何度も何度も大きく頷きながら、そうだね。と言った。
「完璧じゃなくても、普通じゃなくても、君は君のままでいいんだよ」と。

処方箋薬局に向うと、私の前に診療をすませていた「サノさん」がぼんやりと座っている。
インフルエンザが大流行している所為なのか、薬局の待合室は混雑気味だった。
私はなんとなく気まずいなと思いながら、一瞬だけ「サノさん」に視線を遣る。
すると彼女が私を見ながら「アンドウさん」と間違いなく呟いた。
小さな声だったけれども。
正直、驚きつつも、私も「サノさん」の名前を知っている。
だって、わざわざ毎週同じ時間の予約を取っているのだから。

彼女は、慌てたように「ごめんなさい」と続けた。

「サノさん」

思い切って私も、知っているのだと、一方的に知ってしまった彼女の名前を呼ぶ。

「あ……わたし」

サノさんは膝の上で拳を握り締めた。

「アンドウさんと、話してみたいと、思ってて……」

神妙な顔つきになる彼女の隣に、座った。

「あの……」

「サノさん。サノエリさん」

彼女が何かを言いかけるのと同時に、薬剤師さんがサノさんの名を呼ぶ。

エリだって!
私もエリだ。

支払いをしながら、ちらちらこちらを見るサノさんに、私は笑顔を見せた。

「アンドウさん。アンドウエリさん」

もう一人の薬剤師さんが、私の名前を呼んだ。
彼女は心底驚いたような顔をして「エリ」と唇を動かす。
私は彼女の隣に並んで立った。

私達は揃って処方箋薬局を後にする。
駅まで二人とも無言だった。

初めて会った同世代の子とどういう会話をしていたのか、良く思い出せない。
のろのろしている私より先に、サノさんがこう言った。

「あのね……わたし、漢字しか見えなくなっちゃったの。ひらがなとカタカナが世界に無くって。だから、彼氏にも振られちゃって、友達ともLINEできなくて……」

「うそ……漢字」

私は彼女の言葉に、正真正銘、絶句した。
同じような現象に悩まされているヒトがいるとは。
しかも、彼女は、私の半分を持っている。

「私は、漢字が欲しい。漢字ってどう?」

サノさんは首を横に振る。

「頭が痛くなる」

「ひらがなやカタカナばっかりでも、頭痛くなるよ」

私達は二人とも半分ずつ足りてない。
「普通」からはみ出してしまった、欠落した人間だ。

「ねえ……サノさん。今から時間ある?」

時計に視線を落とすと、午後六時過ぎだった。

「私さあ、漢字が読めなくなっちゃってから、ほとんど外に出てないんだよ。通院以外で」

「わたしも、です。ずっと家にいる……テレビばっかり見ていて、ヒトとも、ほとんど話し、して……」

そこまで言ってサノさんは言葉を詰まらせた。

「私たち、お互いがお互いに、足りない物を持っているじゃない? しかも物凄く判りやすい感じで。みんなが持ってる『普通の人生』みたいなものは、もうどっかいっちゃったけどさ」

アンドウエリの半分は、ひらがなとカタカナで出来ている。
サノエリの半分は、漢字で出来ている。

鼻をすすってサノさんが小さく頷く。

「わたしが漢字で」

「そう、そして私はそれが今、何よりも欲しい。で、サノさんは」

「ひらがなとカタカナ」

「ひらがなとカタカナは私が持ってるから……だからね」

久しぶりにどこかに行きたいな。

「私たち二人揃っていれば『エリ』が完成するよ。サノさんが漢字部分を担当でさ、私がひらがなとカタカナ担当するから。完璧じゃなくても、普通じゃなくても、二人で補い合えば生きていけるんじゃないかなーとか」

私の言葉に、サノさんが泣き笑いを浮かべた。

「なんか。アンドウさんよりかは、わたしの方がマシな気がしてきた」

「うわ、なんか嫌味」

「うそです。だってわたしはひらがなとカタカナの方が欲しいんだもん」

二人で顔を寄せ合ってくすくす笑いあう。
傍から見れば、どこにでもいる普通の女子高生二人組に見えるだろうか。
微妙な通勤ラッシュを迎えている上りの電車に、久しぶりに乗った。
車内に居る人々の様子は、前と全然変わっていない。

今、目の前に立っている女子高生達が、漢字が読めない世界を生きていたり、ひらがなやカナカナが姿を失った世界を、必死で歩いていることなど、誰も想像しないだろう。

誰もが完璧な「正解」を求めて苦しんでいる。
でも、最初から正解なんてなかったのだ。
足りないなら、誰かに頼ればいい。

久々に見た雑踏に二人揃って怯え、やっぱりまだ、いびつなままの街の光景に少しだけ落ち込んで。
それでも、繋いだ手のひらの温かさに支えられながら。

私達は、映画館のチケットカウンターに向った。
洋画は却下。
字幕がハードル高すぎるし、吹替だと負けた気がする。
セクシーな女優がポーズを決めているポスターの横に、色取り取りでポップなキャラクタ―イラストの絵。

小さい時頃から、気が付いたら私の世界の中に入り込んでいた、にくめない二頭身のキャラクター。
これだ。
私がじっとポスターを見つめているとサノさんが、「いいね、それにしよ」と頷いた。

「「アレのチケット下さい」」

カウンターの女性は一瞬だけ首を傾げたけれど、今日が封切りとなるらしい劇場版アニメの鑑賞チケットは、無事、二枚発券された。

【了】