なに一つ、残らなかったとしても

目を開けた瞬間、ぼろぼろと涙がこぼれた。赤く腫れた目元が痛くて、息もできないほど涙が出た。
泣きながら目覚めた病室には誰もいない。
だから指につけたままの指輪を抱きしめて、大声で泣いた。
生きているのはこんなに苦しいのに、死んじゃうかもしれないのに。絶望してひざを折ってこの病に苦しめられ続けるかもしれないのに。
生きたいと思うことがうれしいことが、悲しい。悲しくてたまらない。
愛しているという言葉が何度も口をつきそうになった。けれど、裏切りのように死のうとした私がその言葉を口にして泣くことはできなかった。

十九歳になった私は、同じ病院に入院していた患者の男性とお付き合いをするようになった。
ハルのことを話し、ずっと大事にしている指輪のことを彼に話した。
「俺も恋人が死んだんです。ずっと前、がんで。ずっとそばにいるって約束しました。だから、彼女も。あなたの恋人も、ずっと、ずっとそばにいますよ」
 そう伝えてくれた彼の優しい表情が忘れられない。一緒の悲しみを持つもの同士、深い仲になるのに時間はかからなかった。けれど彼も私も同じ気持ちを抱えながら、思いを告げられずにいたのだ。新しい恋をすることが何よりも怖く、相手の人の気持ちには答えられないとずっと断っていたのに。彼の中に彼女を感じることも嫌だった。
「私、忘れられないのに、あなたが好きなの」
 それは告白というより罪を白状する罪人の気持ちだった。
 彼はそれを聞いて、大声で豪快に笑う。
「なんで笑うの!」
 顔を真っ赤にして怒ったのに彼は優しくんだまま、私の頭を優しく撫でた。
「ごめん、ごめん。あのね、綾子。俺は誰かを大切にすることを止めたいんじゃない。ただそばにいることを許してほしいだけなんだよ。それだけでいいんだ」
そういって笑う彼の姿が、なぜかひどく懐かしくなって気が付いたら抱きしめていた。
「浮気に、なっちゃうのかな」
 そういうと彼は少し優しい息遣いで笑う。
「俺以外に生きてる人を好きになったら浮気かもね。ハルくんはもう綾子の中から消えないだろう」
 彼は優しくんで少し寂しそうな顔をする。
「バカ」
 そう答えて、彼のをつねった。
「私が決めたの。幸せになるって。幸せになるためにあなたが必要だったの。一緒に幸せになってくれる?」
 そういうと彼は少し涙を浮かべて私を抱きしめた。彼の体温は高く、温かい。あの冬の海のハルとは大違いで、満たされるのに寂しかった。それでも前を進むと決めたのだ。
「プロポーズみたいだね」
 そういって私たちは見つめあって笑った。病気は一進一退を繰り返しているものの、死ぬのはまだのようだ。
「いつか死んだら、晃は悲しんでくれる?」
 彼は笑わずに言う。
「生きよう。死ぬのはまだ先だよ」
 泣きそうになりながら、何度も頷く。
「うん。私、まだ生きるよ」
 幸せになると約束したのだから。