それ以来、私は貝を手放せなくなった。眠ることもできない。目を閉じて、夢から覚めた時、期待するのが嫌だったから。遥斗がもういない事を夢だと思うの、期待したくなかったから。
葬儀は出られなかった。体はまた一進一退を繰り返し、白い病室に閉じ込められたまま。ハルは燃やされたらしい。これで、夢だと思うことはできなくなった。証拠を隠す子供みたい、火葬って。
死んだのが悲しいから、なかったことにしようって証拠隠滅してるんだ。何度も思い出をなぞる。何度も、何度も。けれど思い出す度、思い出がやけに美化されていった。本当じゃなくなっていく。ふと心は死んでいるのに、体は生きようとしていることがおかしくなった。……試してみようか?
病室のベッドの脇に置かれている果物ナイフを私は持った。長年、お母さんがりんごを剥いてくれたナイフ。それをこんなことに使うんだから、私は最悪なやつだ。
手首に強く当て、思いっきり引いた。裂かれた皮膚は傷ができた瞬間は痛かったものの、あとはすっと痛みは痺れた。傷口に赤い玉が出来た。赤い玉は流れることなく、腕の上にとどまって、ムクムクと大きくなってから、ようやくこぼれ落ちた。
痛い感覚、惨めな感覚、母さんへの罪悪感、自分への罰の快楽。ハルに近づける期待。混ざって、混ざって。
もう、その気持ちをなんて呼べばいいかわからない。
ハルは眠っていると思ったままかな? 死んだことに気づいていないのかな? それならきっと私が怯えていたあの孤独な世界に一人でいるんだ。
そんな怖い世界に一人でいるのに、私が忘れてしまったら遥斗は……一人だ。私は遥斗を一人にしない。でも、それは……死ぬということだ。
生きることを望んでいたはずだった。命の尊さを何よりも知っているはずだった。でも、私に笑ってくれるハルのそばに行きたかった。生きている意味は、死ぬのが怖かったのは、全部、ハルと繋がっていた。
そんな事をしたら、きっと怒るね。泣いちゃうかもしれない。それでも、それが間違いだってよかった。また会えるのなら、それが間違いだって構わなかった。
あの貝殻を捨てると、私はそっとナイフを首に滑らせた。ここに遥斗がいないなら。あとで怒られても嫌われても構わない。もう、二度と目なんか覚まさないよ。
「綾子さん」
寝転がって溢れだす血を横目で見ながら、ハルの悲しんでいる声が聞こえた気がした。
ねぇ、ハル。嫌なら目を覚ましてよ。今すぐ起き上がって、ここで怒ってよ。生きているハルに会いたいよ。……会いたいよ。
ハルが目を覚ますなら、そしたら私も起きるから。
目を開けて息をする。
とても冷たい液体が体をめぐっている感覚と、水滴の音で目が覚めた。そこはどこでもない場所だった。病院でもなければ、家でもない。見覚えのない浅瀬が空を鏡のように映し、朝焼けのような白む光の見たことのない場所。
漣の音が聞こえる。砂がざらざらと音を立て、海水の中で舞っている。
波があるということは、ここは海なのだろうか。
「ここは天国かな」
とても静かで優しい光をまとった浅瀬が続く海。が光できらきらと光ってみたことのないほど美しかった。
遠いところに来てしまったのだと悟った瞬間、涙がこぼれた。
死んだことが悲しいのか、死んでもハルに会えなかったのが悲しいのか、ずっとわからないままなのに、病院になんて戻りたくないのに、胸が締め付けられる。
「生きたいなんて、久々に思ったな」
遠雷のように誰かの声が聞こえる。
空気を振動して、空間がゆがむような眩暈でくらくらした。けれどその声は、ずっと聴きたかった声。
「綾子さん、どうして」
声は泣いていた。静かな波の音に交じって嗚咽が聞こえる。
「ねぇ、ハルなの?」
声の主は答えなかった。
「一緒の場所にいけたの?」
ハルの声は黙ったまま、深く痛みに耐えるように息を吐いてからいう。
「どうして馬鹿なことをしたの」
そう低い声で問うその声には怒りが混じっていた。
キラキラと光るに立つ。青く空の映る水は、冷たいのにとても心地いい。天国なのかもしれない。ここは誰もいない天国。体の痛みも感覚の喪失もない。
ただここはきれいなだけだ。
走りだすと水滴がを作り、を荒らす。
「……!」
答えようとするのに、その言葉は出てこなかった。
「……!」
何度も口にしようとするのに、いうなと口を塞がれているように何も言えない。
「ずるいよ。どうして言わせてくれないの?」
ハルはしばらく黙ったまま、静かに声を響かせた。
「生きていくのが……悲しかったの?」
私は考える。生きていくのが悲しかった? ううん、違う。そうじゃない。生きていくことが悲しかったんじゃない。
「ハルがいないのが、悲しかった」
ようやく出た声は堰を切ったように言葉をあふれさせる。
「生きていくことは怖い。でもハルがそれでもそばにいたから、そうやって生きてこれたから、私は幸せだったの。何も怖いものなんて本当にないと思ってた。……でもあったんだね。幸せなまま終わる物語なんてないんだね。絶対に幸せには悲しいが付きまとって、永遠に愛する人に会えない結末をたどって、終わるのが……。そんな結末が、私には耐えられなかった」
その瞬間、浅く続く海の向こうにハルが見えた。
悲しい表情をして、初めて出会った時のような暗い目をしていた。
「大切な人に生きていてほしいって願うのは、死んだ人のエゴかもしれない」
そういってハルは少しずつ私に向かって歩き出した。
「大切な人に生きててほしいのは、幸せになってほしいから。死ぬと物語はそこで終わってしまう。先の未来は閉ざされてしまう。悲しい結末が確定してしまう。人生なんてさ、どこまで行っても苦しいかもしれない。辛くて悲しくて、目もむけられない結末で終わるなんてざらだし、幸福になんてなれないかもしれない。そんな人生をどうして生きてほしいのか、生きててほしいと願わずにいられないか、綾子さんはわかる?」
を作り、ハルは私の前まで来ると私を優しく抱きしめた。
死んだはずのハルからハルの肌の匂いがした。その瞬間、涙が止まらなくなり、声を上げた。
「どうして、今悲しいのに。辛いのに。どうしてそれでも生きてほしいなんて言うの! 幸せな未来なんて待ってない。これから先も苦しいって思うかもしれない。一生泣いて過ごすかもしれない。それなのにどうして生きろなんて残酷なことをいうの?」
息がままならない。こんなに泣くだけで苦しいのに、悲しいのに、それなのにどうして死ぬのが悲しいなんて思うのか。自分が自分でわからなかった。
いやきっと。私は認めたくなかったのだ。生きたいなんて。このままじゃいやだなんて。幸せになりたいなんて。全部認めたくなかったのだ。
「生きていくことは可能性なんだよ。幸せになれる可能性。それを捨てないで。苦しんでも悲しんでも、本当は幸せになりたいんだって、自分でわかってるなら、その可能性を捨てたりなんかしないで。生きることはきれいなことだよ。幸せを願い続けることは、無駄なんかじゃない。無駄なんかじゃなかったって、俺に証明して見せてよ」
静かに薄れていく意識の中で、まどろみにも似た空間の中で、私はハルの声にうなずくことしかできなかった。
「お願いだ。生きて幸せになって」
ハルの言葉にしがみついた。
どうしてこんなに生きたいと願うのに悲しいのか。大切な人と離れるのが悲しいと思うのに、生きることを捨てられないのか。
罪悪感と苦しみの光の中に手を伸ばし続けた後に、望む未来が待っているかなんてわからないのに、ハルはきっとずっと前から私の心を知っていた。
「ハル……! 忘れないで、私を。忘れないで!」
消えそうな幻影に私を手を伸ばす。ハルは優しい息遣いをして答える。
「普通、逆じゃない? ……綾子さん」
ハルは涙をいっぱいにためて笑いながら言う。
「愛してる」
葬儀は出られなかった。体はまた一進一退を繰り返し、白い病室に閉じ込められたまま。ハルは燃やされたらしい。これで、夢だと思うことはできなくなった。証拠を隠す子供みたい、火葬って。
死んだのが悲しいから、なかったことにしようって証拠隠滅してるんだ。何度も思い出をなぞる。何度も、何度も。けれど思い出す度、思い出がやけに美化されていった。本当じゃなくなっていく。ふと心は死んでいるのに、体は生きようとしていることがおかしくなった。……試してみようか?
病室のベッドの脇に置かれている果物ナイフを私は持った。長年、お母さんがりんごを剥いてくれたナイフ。それをこんなことに使うんだから、私は最悪なやつだ。
手首に強く当て、思いっきり引いた。裂かれた皮膚は傷ができた瞬間は痛かったものの、あとはすっと痛みは痺れた。傷口に赤い玉が出来た。赤い玉は流れることなく、腕の上にとどまって、ムクムクと大きくなってから、ようやくこぼれ落ちた。
痛い感覚、惨めな感覚、母さんへの罪悪感、自分への罰の快楽。ハルに近づける期待。混ざって、混ざって。
もう、その気持ちをなんて呼べばいいかわからない。
ハルは眠っていると思ったままかな? 死んだことに気づいていないのかな? それならきっと私が怯えていたあの孤独な世界に一人でいるんだ。
そんな怖い世界に一人でいるのに、私が忘れてしまったら遥斗は……一人だ。私は遥斗を一人にしない。でも、それは……死ぬということだ。
生きることを望んでいたはずだった。命の尊さを何よりも知っているはずだった。でも、私に笑ってくれるハルのそばに行きたかった。生きている意味は、死ぬのが怖かったのは、全部、ハルと繋がっていた。
そんな事をしたら、きっと怒るね。泣いちゃうかもしれない。それでも、それが間違いだってよかった。また会えるのなら、それが間違いだって構わなかった。
あの貝殻を捨てると、私はそっとナイフを首に滑らせた。ここに遥斗がいないなら。あとで怒られても嫌われても構わない。もう、二度と目なんか覚まさないよ。
「綾子さん」
寝転がって溢れだす血を横目で見ながら、ハルの悲しんでいる声が聞こえた気がした。
ねぇ、ハル。嫌なら目を覚ましてよ。今すぐ起き上がって、ここで怒ってよ。生きているハルに会いたいよ。……会いたいよ。
ハルが目を覚ますなら、そしたら私も起きるから。
目を開けて息をする。
とても冷たい液体が体をめぐっている感覚と、水滴の音で目が覚めた。そこはどこでもない場所だった。病院でもなければ、家でもない。見覚えのない浅瀬が空を鏡のように映し、朝焼けのような白む光の見たことのない場所。
漣の音が聞こえる。砂がざらざらと音を立て、海水の中で舞っている。
波があるということは、ここは海なのだろうか。
「ここは天国かな」
とても静かで優しい光をまとった浅瀬が続く海。が光できらきらと光ってみたことのないほど美しかった。
遠いところに来てしまったのだと悟った瞬間、涙がこぼれた。
死んだことが悲しいのか、死んでもハルに会えなかったのが悲しいのか、ずっとわからないままなのに、病院になんて戻りたくないのに、胸が締め付けられる。
「生きたいなんて、久々に思ったな」
遠雷のように誰かの声が聞こえる。
空気を振動して、空間がゆがむような眩暈でくらくらした。けれどその声は、ずっと聴きたかった声。
「綾子さん、どうして」
声は泣いていた。静かな波の音に交じって嗚咽が聞こえる。
「ねぇ、ハルなの?」
声の主は答えなかった。
「一緒の場所にいけたの?」
ハルの声は黙ったまま、深く痛みに耐えるように息を吐いてからいう。
「どうして馬鹿なことをしたの」
そう低い声で問うその声には怒りが混じっていた。
キラキラと光るに立つ。青く空の映る水は、冷たいのにとても心地いい。天国なのかもしれない。ここは誰もいない天国。体の痛みも感覚の喪失もない。
ただここはきれいなだけだ。
走りだすと水滴がを作り、を荒らす。
「……!」
答えようとするのに、その言葉は出てこなかった。
「……!」
何度も口にしようとするのに、いうなと口を塞がれているように何も言えない。
「ずるいよ。どうして言わせてくれないの?」
ハルはしばらく黙ったまま、静かに声を響かせた。
「生きていくのが……悲しかったの?」
私は考える。生きていくのが悲しかった? ううん、違う。そうじゃない。生きていくことが悲しかったんじゃない。
「ハルがいないのが、悲しかった」
ようやく出た声は堰を切ったように言葉をあふれさせる。
「生きていくことは怖い。でもハルがそれでもそばにいたから、そうやって生きてこれたから、私は幸せだったの。何も怖いものなんて本当にないと思ってた。……でもあったんだね。幸せなまま終わる物語なんてないんだね。絶対に幸せには悲しいが付きまとって、永遠に愛する人に会えない結末をたどって、終わるのが……。そんな結末が、私には耐えられなかった」
その瞬間、浅く続く海の向こうにハルが見えた。
悲しい表情をして、初めて出会った時のような暗い目をしていた。
「大切な人に生きていてほしいって願うのは、死んだ人のエゴかもしれない」
そういってハルは少しずつ私に向かって歩き出した。
「大切な人に生きててほしいのは、幸せになってほしいから。死ぬと物語はそこで終わってしまう。先の未来は閉ざされてしまう。悲しい結末が確定してしまう。人生なんてさ、どこまで行っても苦しいかもしれない。辛くて悲しくて、目もむけられない結末で終わるなんてざらだし、幸福になんてなれないかもしれない。そんな人生をどうして生きてほしいのか、生きててほしいと願わずにいられないか、綾子さんはわかる?」
を作り、ハルは私の前まで来ると私を優しく抱きしめた。
死んだはずのハルからハルの肌の匂いがした。その瞬間、涙が止まらなくなり、声を上げた。
「どうして、今悲しいのに。辛いのに。どうしてそれでも生きてほしいなんて言うの! 幸せな未来なんて待ってない。これから先も苦しいって思うかもしれない。一生泣いて過ごすかもしれない。それなのにどうして生きろなんて残酷なことをいうの?」
息がままならない。こんなに泣くだけで苦しいのに、悲しいのに、それなのにどうして死ぬのが悲しいなんて思うのか。自分が自分でわからなかった。
いやきっと。私は認めたくなかったのだ。生きたいなんて。このままじゃいやだなんて。幸せになりたいなんて。全部認めたくなかったのだ。
「生きていくことは可能性なんだよ。幸せになれる可能性。それを捨てないで。苦しんでも悲しんでも、本当は幸せになりたいんだって、自分でわかってるなら、その可能性を捨てたりなんかしないで。生きることはきれいなことだよ。幸せを願い続けることは、無駄なんかじゃない。無駄なんかじゃなかったって、俺に証明して見せてよ」
静かに薄れていく意識の中で、まどろみにも似た空間の中で、私はハルの声にうなずくことしかできなかった。
「お願いだ。生きて幸せになって」
ハルの言葉にしがみついた。
どうしてこんなに生きたいと願うのに悲しいのか。大切な人と離れるのが悲しいと思うのに、生きることを捨てられないのか。
罪悪感と苦しみの光の中に手を伸ばし続けた後に、望む未来が待っているかなんてわからないのに、ハルはきっとずっと前から私の心を知っていた。
「ハル……! 忘れないで、私を。忘れないで!」
消えそうな幻影に私を手を伸ばす。ハルは優しい息遣いをして答える。
「普通、逆じゃない? ……綾子さん」
ハルは涙をいっぱいにためて笑いながら言う。
「愛してる」

