なに一つ、残らなかったとしても

 病院に外出届を出して、パジャマ以外の服を着た。なんだが気恥かしくて、何度も鏡でチェックしたけど、何か絶対おかしなところがある気がして落ち着かない。
「別におかしいところなんてないよ」
「だって!」
「だってじゃない。大丈夫、ちゃんと可愛いよ。早く行こう!」
可愛いという言葉を聞いたのは、何年ぶりだろう? 病院で生活していると服にしろ、化粧にしろ、する機会なんてほとんどなかった。それどころじゃなかったせいもある。
それなのにその貴重な可愛いという言葉を、急かすために適当に言われたのはなんだかとてもうれしくない。
「なんか、拗ねてる?」
「拗ねてないよ!」
 あきらかに拗ねた声を出してしまった自分に自己嫌悪した。それでもやっぱりハルは笑う。本当に嬉しそうに笑うから、どうでもよくなってしまった。
外出届を出したというのに、来た海は病院からさほど離れていない。ハルと出会った海だった。
「ここでハルに沈められて」
「言い方ひどいな……」
「殺されかけたんだから、十分言い方優しいよ」
 そんな他愛のない会話が幸せで、こんな未来があの時にくるとは思っていなかった。私もハルも。あの春を拒絶したような冷たい海に居た時は思いもしなかった。
 繋いだ手が温かい。季節は春で、幸せで、こんな時間が続くといいな。あまりに大それた願いだったけど、今まで辛かったからきっと神様だって多めに見てくれる。
「そうだ、綾子さんにプレゼントがあるんだ」
急に思い立ったようにハルはポケットから箱を出した。それは白くてハルの大きな手のひらに収まる程度の小箱だった。
「なんか、指輪の箱みたいだね?」
「指輪だよ?」
 その言葉はハルらしく、やっぱり恥ずかしげもなく可愛げがない。
「先客がいれば誰もとらないでしょ?」
 そう言ってハルは私の左手を取ると、薬指にはめた。
「これ安物だけど、高そうに見える指輪を選んだんだ。時間かかって誰かが綾子さんに言い寄っても、指輪が本物に見えれば誰も手出さないよ」
失礼な事ばかり言い放つハルに、私は呆れて笑うしかなかった。
「待たせないでよ、あんまり一人にしたら浮気するよ」
「しないよ、だって俺のこと好きでしょ?」
 ハルはまっすぐ私を見る。嬉しそうに本当に、幸せそうに。
「知らない!」
あまりに真っ直ぐ見てくるから、いたたまれなくなって私は立ち上がると急ぎ足で反対車線のバス停に向かった。
道路に渡ろうとすると、青い乗用車がこちらに向かってくるのが見え、立ち止まろうと足を止めた瞬間だった。視界が歪み、世界が暗くなった。金づちで殴られるような酷い頭痛が私を襲う。あまりの痛みで思考がついて行かない。
病院の先生は、この病気が改善に向かった例がないと言っていた。だから急に悪化することもあるとも。ようやく歩けるようになった足がガクガクと自重を支えていられなくなる。
前のめりに転んでしまいそうになる。まっすぐ立とうとするのに、ふらつく足は止まって居られない。せめて後ろに下がりたいのにそれすらできない。そんな私が見ているはずの車はスピードをめることもしないで、りなクラクションだけを鳴らし続ける。
だめ、だめ、ここで倒れたら、せっかく生きられたのに、せっかく、ハルと居られたのに、だめ、倒れるな。
次の瞬間、私に後ろに引っ張られた。誰かが私の腕を思い切り引っぱって、その誰かが反動ではじき出されるように前に飛び出していった。その誰かはその青い車にぶつかり、車の部品に引っ掛かったのか、タイヤに踏まれた後も数メートル先まで引きずられて、放りだされた。青い車はそのまま何事もなかったように走り去る。
その誰かは、白い箱を持ったままの――見知った人。
誰だろう? この人は誰だろう? 判断ならとっくの昔についているはずなのに、認識できない。痛みはその頃には冷たい恐怖に変わり、このをむさぼるようにして大きくなる。この人は誰だろう?
腰が砕けたみたいに立てなかった。本当は急いで立たなきゃいけない。本当は助けなきゃいけない。なのに、なんで私は動けないんだろう?
「綾子さん、大丈夫?」
 その人は血で染みた体を躊躇いもなく起こすと、こっちに向かって笑顔を向けた。……血が……水たまりみたいに広がっていくのに。
 それなのに、どうしてこんな時まで笑う? どうしてそんなに幸せそうに笑うのだろう? 自分の体と心が離れてしまった。雫だけがな顔から流れ落ちる。
「何で泣くの? 笑ってよ。俺、死なないよ。痛みを感じない分、丈夫なんだ」
その人はゆっくりと立ち上がり、赤い液体をこぼしながら私に近付いて思い出したように足を止めた。
「ちょっとさすがに、……眠い……。 ちょっとだけ寝るけど、でも大丈夫だから。大丈夫……だから」
 そう言って歩道に座ると、目をつぶった。目をつぶってからぐったりと力の抜けた体はアスファルトの上に倒れた。立てないから腕で体を引きずってそこまで行く。体が妙に動かない、ゆっくりとしか進まない、その間、気が狂いそうになる。早く、早くと急かしても動かない体を殴りたくなる。
 やっとそこまで行くと、ハルは酷く疲れたような顔で目をつぶっていて、だんだんと血の気のない青白さがその顔を染めていく。息すら小さくなって、花火をした時に何度も消えたろうそくの火みたいに危うくて、触れることもできないまま、やがてそれは止まってしまった。
「……ハル……?」
呼んでも返事はない。自分の叫び声、周りの人間のざわめき声、それが聞こえるはずの耳が何も聞こえなくなった。しがみつく肌の体温、滴る涙の感触、何も感じない。何も感じられない。無音の世界が広がって私を飲む。
遥斗はいない、ここに体があるのに。もう動かない、笑わない。私を見ない。この世界からいなくなってしまった。私を置いて一人逝ってしまった。
いなくならないで。私を一人にしないで。どうして? 私がいなくなるはずだった世界に私がいたままなのに、ハルがいなくなるのだろう? この世界から拒絶されるはずだった私がここにいるのに。なのに、どうしてハルがいなくなるのだろう? 喉から血が出るほど叫んで、みっともないほど泣き喚いたのに。
――声が聞こえないから、これ以上もう叫べなかった。