なに一つ、残らなかったとしても

それからだった。少年が度々病院に訪れ、私を海に連れ出すようになったのは。
「どれぐらいなら平気? これは痛い?」
 少年はゆっくりと優しく手を握るようになった。
「痛くないよ」
「そっか」
 春の海はまだ少し冷たいけれど、優しい色合いした光がキラキラと光る。風が少し暖かく、朝のような新しくて穏やかな匂いがする。
ゆっくりと手を引いて少年が歩く。その頃にはもう色は、ぼんやりとしか判断できなくなっていた。
「綾子さん、貝殻に耳当てると漣の音がするって知ってる?」
「知ってるよ」
「じゃ、なんで音がするか知ってる?」
砂と同じ色をした、明るい茶色の貝殻を手のひらに押しつけられ、恐る恐る持ってみた。少し大きい刺のついた巻貝みたいだ。
「……知らない」
少しだけ優しく笑ったような息づかいが聞こえてきて、ハルはゆっくりと私から貝を取り上げ、私の耳元に当てた。強すぎる力によろめきそうになりながら、見えない目を閉じて音を聞いた。寄せては引いて、波が砂をさらう音が聞こえる。
ザラザラと動き回る砂たちの音を聞いただけなのに、深く濃い青色が踊っているのが目に映る。見えないはずなのに……地平線が見えた。海と空の境界線。
「貝はね、記憶するんだよ。音をね。だから綾子さんも大丈夫。大丈夫なんだよ」
 何を言われているのか、一瞬わからなかった。
そしてゆっくり意味が飲み込めると、本当に大丈夫な気がした。
例え私が見ることも感じる事が出来なくなっても、ハルがいたことを思い出せば、一人じゃないって、思える。だから、怖くない。何一つ怖いものなんかないってそう思えた。
 それでも何も言えなかった。泣くことも笑う事もできず、ただ呆然と光のある方を向いて頷くことしかできなかった。
「俺、そっちじゃないよ」
 またおどけたように笑う声に、少し恥ずかしくなった。
 
 分からない事が少しずつ当たり前になってきた。ぼんやりとしか見えないことが当たり前で、そのうち食べ物の味も分からなくなった。
「綾子さん、また残してる」
「……味がしないんだ」
 目が見えないことで、ほぼ手の感覚だけでご飯を食べる。時々ひっくり返して全部をぐちゃぐちゃにしてしまう。
そんな時、人の気持ちまで踏みにじっている気がする。病室を出た母の泣き声が耳から離れない。気丈にふるまっているのは私に気を使っているから、そして私もそんな母に気を使って……。
自分の事で精いっぱいなのに――。
耳も早く聞こえなくなれ。そう願ってはいけないのに、閉ざしてしまいたくたる。自分の心に鍵をかけて、誰の泣き声も聞こえなくしてしまいたくなる。その度私はハルにいう。
「ねぇ、貝殻出して」
「海、恋しいの?」
「……ううん、そうじゃないけど」
 私の記憶の全ては今だけじゃない。手で触れ、目で見て、匂いも味も……。チョコの甘さも、お味噌汁のしょっぱさも、ハルとあの海も――。
リフレインさせる。海の漣を創造して。すがって最後まで醜くハルを心に焼きつけたくて……。
「人と関わるの慣れてきた?」
「うん、ありがとう。綾子さんのおかげだ」
そう言ったハルの目は、以前の声のようなさはなくなり、ひだまりのような暖かさを秘めている。優しいがあの時の海を彷彿とさせる。
 嬉しいのと同時に、手放すのが惜しかった。きっと彼は、もう広い世界へ出ても大丈夫。冷たさのない優しさを手に入れたなら、誰からも愛されるだろう。離すべきだ。私から、悲しい終わりしか待っていない私との結末から。けれど、ハルがいなくなったら――。
本当にこの世界で一人ぼっちになるんだ。私は震える手で貝を持ち続けるしかなくなる。きっと波の音を聞いても――。
「ねぇ、ハル……」
「なに?」
 手を伸ばせば届くだろうか? 見えなくなった手で、感覚を失った足で、ハルに近づいて手を伸ばせば、届くだろうか? 
一瞬でいい、ただ一言でいい。ハルの言葉でほしい言葉があった。私は声のする方へ手を伸ばした。掴むように精いっぱい手を伸ばした。
 体を乗り出した途端、落ちるようにベッドから滑った。
「ちょっ!」
 慌ててハルが私を支える。ハルの匂いとあったかさが私を包む。そっとベッドまで私を戻そうとしたけれど、私が離れようとはしなかった。
「……私と一緒にいられて嬉しかった?」
 抱きしめたのは逃がさないためだった。その言葉が聞けたら報われた。嘘でも、本当でも、私はそれだけを心に秘めて、死ぬ時を待つ勇気にする。
「嬉しかったじゃないよ。……まだ、過去になってない。嬉しいんだよ」
 そう言ったハルは少しだけ強めに私を抱きしめた。
「今まで、泣いてくれる人なんていなかった。初めてだった。俺のために泣いてくれたの、綾子さんだけだった。嫌がらずに俺に教えてくれた。どのぐらいの強さで人に触れるのか、痛いって気持ち。悲しい気持ち。誰かと一緒に居ることの心地よさも全部――」
 ハルは声を震わせて言った。
「ありがとう、大好きだよ」
視界が、溢れる雫で光が濁りを増した。誰かにすがる気持ちがわかった。
きっと大事にできないで台無しにしてしまう。でも、心地よくて暖かくて放せない。寂しくて辛くてたまらないのに、こんなに優しい腕を離すなんてできない。弱い自分でごめんなさい。 
心の中で何度もごめんを呟いた。離せなくてごめんね。悲しい想いをさせてごめんね。何度も、何度だって……。海と空を思った。例えばの具で海と空を描いたなら、そのには海と空の違いなんかなくて、全部一色の青色で染まってしまうだろう。
 それと同じに、私はいつかハルを忘れてしまうんだろうか? あんなに好きだった海を忘れてしまったように、私はハルを忘れてしまうんだろうか?

日々は過ぎ去っていく。その度、ハルの時間は私が居ることで無駄になっていく。本当なら、ハルは人に囲まれて幸せに笑えるかもしれないのに、私がその機会を奪っている。
罪悪感に押しつぶされていく日々と、ハルがいることの安心感で、いつまでも口にできなかった別れの言葉のはずなのに。
その時が来れば意外にもあっさりと口にできた。
消え入りそうな漣の音、開けた窓から風がふんわりと潮の匂いを運んできた病室で。
「ハルは優しいから。私が死んじゃったら悲しんじゃうから」
目が見えないと、どんな顔をしてるのかわからない。悲しんでくれているのかな? できることなら悲しんで怒って二度と来ないでほしい。
自傷した傷のように、思い出すのも躊躇うくらい嫌いになってほしい。そうして、一生忘れないでほしい。白いノートに強く書いた文字のように、消しゴムでこすっても汚く残るであってほしい。
「なんで悲しんじゃいけないの?」
 不思議そうにハルは聞いた。まるで初めて会ったあの海の、痛みが分からないと言ったあの時のように。
「辛いから」
「辛いことの、なにが悪いの?」
すかさず問われ、私は少し言い淀んで答えた。
「……苦しいから」
「それは俺の感情だ。綾子さんが決めることじゃない」
 ハルはそういうと、そっと窓を閉めた。ふんわりと入ってきた風が止んで、代わりにぴりぴりとした空気が部屋を包む。
「俺はわからないから! ……人の気持ちなんて無視するから、それで綾子さんが悲しんでも苦しくても、それでも。やっぱり、失くしてしまうのは嫌だよ……。嫌なんだよ」
 叫んだ声が耳から離れない。悲痛だった。必死だった。嬉しかった。けれど、やっぱり余計悲しくなった。
そういってくれて嬉しいのに、この人を私は幸せにできない。
「なんで泣くの? 泣くくらいなら笑ってよ。……笑えよ。最後まで俺に笑って」
 時間があと少ししかないのなら、あと少ししか触れることも見ることも、感じることもできないのなら、幸せであろう。誰よりもたくさん笑って生きる。それをハルが望むのなら。私が、それを望むのなら。
私は顔をぐちゃぐちゃにして笑った。無理やり笑った。笑って、最後まで生きようと思った。