「青色ってどんな色だっけ?」
視界に映るぼんやりとした光の方を向いて声をかける。今はもう昔になってしまった海と空を想って聞いた。
記憶に眠る、潮の匂い。白く輝く光の中に、波打ち際で走る私がいる。透明な雫が泡立つ波打ち際、砂が舞う水面をつま先で蹴り上げたあの記憶。
遠雷のごとくどこまでも響く波音は、耳を傾ければいつまでもリフレインして思い出を美化していく。
見ていたころの幸せな記憶。けれどもう、鮮明には思い出せない。海水の透明さ、砂粒がかかる感触。泡立った波打ち際さえどこかぼやけてしまって、解像度の低い映像に成り下がる。
例えば絵の具で海と空を描いたなら、その絵には海と空の違いなんかなくて、全部一色の青色で染まってしまうだろう。それはもう、海の底に雲があるような、空の中に鮮やかな魚が泳ぐような、そんな曖昧なものになってしまう。
この目に映っていた世界を思い出せないでいる。たった数年で、全てが空ろになってしまった。
母が笑った時の目じりのしわも、父が怒った時の眉の上がった表情も、冷たくて心地いいフローリングの木目も。
全て空ろでどんどん淡くくすんでいく。
「うん? どんなって言われてもな……。なんだか冷めてて、頭の中にすっと入ってくる感じ」
困り声が耳に届き、一気に現実に引き戻される。
「……なにそれ? 感覚すぎてわかんないよ」
「わかんなくていいんだよ。だってその方が想像できて楽しいだろ?」
窓を開ける音がした。外には穏やかな海。寄せては引いてを繰り返す波の音に、潮の匂い。鼻の奥をつんと痛く刺激する冷たさに混じる、冬の匂いがする。薄氷の張った海面を一つ一つ割って遊んだ、荒々しい岩肌の続く海の記憶。思い出そうとすれば、一つ一つが霧散して曖昧なものになってしまう。
去年建て替えられた白を基調にした病院の中、目の端に移る白い光だけが私の知る感覚になってしまった。
静かに移り変わっていく季節の中で、温度と湿度、音の高低差と強い光しかわかるものがない時間の中で、私とハルは話をした。全部、想像のお話。
色の感覚の話。黄色はまぶしい、赤は痛い、白は悲しい。そんな感覚をわかるような、わからないような不思議さを抱きながら話していく。
「想像すれば世界は自由だから。目に見える決められた正解より、どこまでも縛られずに、思うがままに決められるよ」
少し笑ったようなハルの息遣い。けれどそれは軽やかで優しい息遣い。手を伸ばしてそっと感じ取る息の温度、湿った息の温かさ。
「……想像って、ハルの顔とか? 確かに想像でならイケメンになれるかもね」
「失礼な。綾子さんだって、鏡みたらショックで泣いちゃう顔だっての!」
気を使われた気がして憎まれ口をたたいてみる。おどおどと相手の様子を伺って、噛みつく子犬のように、目の見えない私はおびえているのだ。
「それはないね」
「なんでだよ!」
「それならハルはここには来てくれないでしょう? 美人でもないと思うけど、同情は誘える顔なんじゃないの?」
沈黙が口を開けて、私たちを飲み込んだ気がした。顔が見られないのになぜだろう? 手に取るようにハルの表情がわかる。呆然と口を開けて、目を見開いている間抜けな顔。
それを想像するとおかしいのに、何故か笑えなかった。
「もう、来なくていいんだよ? ハルは世界を広げた方がいいよ。私はもう見ることはできないけど、きっと海も空も広くて大きくて、きっと色鮮やかなんだよ。その世界に行けるハルを私は足止めしてる」
息を止める喉の音がした。
「同じだよ。同じ世界にいるのに、どうしてそんなこと言うの」
ハルの声はかすかにふるえていて、涙にぬれている。鼻をすするみっともない音に、情けなく力ない声が少し愛おしい。
それほどに想っていてくれていることに、嬉しくて泣きそうになる。
たくさんの思い出が走馬灯のように頭に横切る。けれど、私は静かに呼吸をし直して、言葉にしていく。
この時間のなに一つも、取りこぼさないようにかみしめて。
長い沈黙が少しずつ私に覚悟させて、ついに口にするしかなかった。
「……違うよ」
「違わない」
間髪入れず、ハルは否定するけれど。私は諭すように優しく声をかけた。
「……違うの。違うんだよ。私の世界はこの病室だけ、私にわかるのは白色だけ。もうどこにも行けない。私とハルは違うんだよ」
ぼんやりと白い光が目に映る。それを遮るように黒い影が私を包んだ。手の感触、体温、優しく包む腕の力。
「なんで、そんなこというの? 俺だって失くしたくないものがあるのに、なんでそんなこと言うんだよ……」
私は少しだけ笑って言った。
「ハルは優しいから。私が死んじゃったら悲しんじゃうから」
記憶の中。あの海の記憶。耳に当てた貝殻から聞こえた波の音が、未だ私に夢を見せる。青い夢とハルの夢を。幾度も幾度も、恋焦がれるほどに夢を見させるのだ。
もし願いが叶うなら、私はあの青い世界にハルと一緒に戻りたかった。
私は十六歳の夏にその宣告を受けた。
体の機能が徐々に低下していき、機能しなくなる難病。いずれは死に至ると言われたその病気が、一番はじめに私から奪ったのは視力だった。
最初はなんだか視界がぼやける程度、気になって母さんにつれて行かれた病院での、あまりに辛い宣告だった。
内容はぼやかして私の耳に伝えられたけど、子供ながらに死ぬんだろうなって思った。
曖昧な死のイメージ。
死んだ祖母の記憶がよみがえる。
ハツラツとした笑顔で、物腰も柔らかく元気で年老いてもなお美しい彼女。人に好かれた元気いっぱいの彼女は見る影もない。
その肌は血の気が失せ、まるで精巧に作られた蝋人形だ。ほほはやせこけ、骨ばった体は栄養失調のせいか身長も縮んでいた。
現実に頭が追い付かず、突然あんぐりと大口をあけて飲み込まれた気がした。それはこれから永遠にその人に二度を会えない残酷な事実。
病に蝕まれ、血色の良かった肌は青白さを通り越して、土気色をして目の下に濃いクマができて、美人で有名だった彼女とは似ても似つかない。何もかも病気に奪われていった。亡骸は抜け殻なのかもしれない。生きる力が抜けた彼女ではないなにか。
これが人の最後かと悲しくなった。
何もかも奪われた抜け殻。私もそうなるのかと回らない頭で理解した。
最初はなんだか信じきれず、嘘のような気がしていたのに、霞んでいく視界が、時折動かなくなる足が、現実味を持って私の嘘という妄想を打ち砕いていった。
つまづいて、歩くこともままならない自分の惨めさに泣いた。まともに動いていない体が情けなくて、みっともなくて、それでも病院はそんな人ばかりで。
自分を悲観する前にやってくるのは、目の前で一人一人消えていく患者たちの結末。悲観してうつむいても病気は進行していく。延命しなければ死ぬだけの現実を叩きつけられて、私は恐怖で毎日泣いた。
泣いて泣いて、そして、気づいた。
泣いても今以上のことを誰かがしてくれるわけじゃない。今以上のことなんて、医者だろうか家族だろうができない。他人ができる精いっぱいなんて限られている。この病気に立ち向かうのは、結局のところ自分だけ。
一人取り残されたような感覚、真っ暗な穴に落とされて、泣いて喚いて助けを求めたって、誰にも気づいてもらえない恐怖。母に当たり、父に当たり、看護婦さんに当たって、それでも恐怖は押さえつけられず、押し殺した声で何度も泣いた。
けれど、現実は変わらず自分を苦しめ続ける。
病院から逃げ出したのは、ここにいればきっと私は本当に死んでしまう気がしたから。眠るように死ねたならばいいだろう。安らかに消えてしまえたなら、私はこんなに怯えなかっただろう。
でも、現実はそうじゃなかった。
たくさんの人が苦しむのを見た。毎夜、うめき声を聞いた。隣のベッドのおばあちゃんが苦しみだし、血を吐いたのをみた。ああ、私もこんなふうに死んじゃうんだと思ったら、恐怖以前に悲劇でしかなかった。
想像した未来とは、全然違うものが私に襲ってきていて、多くを望んだわけではないのに、大それたことなんて一つも願ってないのに。どうして私がこんなふうになっちゃったんだろうって。
誰のせいにもできない、誰も恨めない、それが歯がゆく首をいつも絞められているようで。
ただ、逃げ出したかった。
逃げ出して、私の病気を知らない人の世界に行けば、私は病気じゃなくなる気さえした。夜眠るとき、歯鳴りを抑えられない。怖くて寂しくて、誰かにそばにいてほしかった。大丈夫だよって手を握っていてほしい。
けれど、そんなこと言えない。心配させて苦しめたくない。母が病室から帰るとき、いつも隠れて泣いているのを知っている。普段は気丈に振舞っていても、私を大切に思うあまり心はボロボロなのだ。
だからこそ言えない。怖くても言えない。
作り笑顔は上手に作れているだろうか。そんなことばかり気にしていたら、毎日息が詰まりそうで……。
気がついたら病院のスリッパを履いたまま、海にきていた。
浜辺に向かうコンクリートの階段の手すりにしがみついて、ゆっくりと下る。握った鉄の手すりからつんとするような錆びた匂いがして、それさえもうじき感じられなくなるならと、ゆっくり嗅いでみた。
格別いい匂いでもないのに、涙が出た。全部なくすんだと痛感したからだろうか。でも、今は何も理解したくなかった。
階段を降りたところで足が耐えきれなくなり、座り込む。砂は冷たく体温を奪う。色濃くくすんだ空は唸り声をあげ、水分を多分に含んだ雪を降らせる。
その当時は春にしては凍えるほど寒く、雪が白い花吹雪みたいに空に舞う。夏なんてもう二度と来なんじゃないかと思うほどに、裏切られた寒さだった。
寄せては引く波でさえ拒絶するような冷たさをはらんで、しぶきを吹きかけてくる。
鼻の奥が冷たさでツンと痛い。奥歯がカタカタと鳴る。裸足になって歩いてみても、ひんやりと私から熱を奪うばかりだった。
けれど、これてよかった。何一つ、自分を歓迎していない寂しく冷たい景色の中にいるのに、私はそれでよかったのだ。
このまま、海に沈んでしまおう……。まだ分かる感覚が、この針が指すような冷たさの海に震えても、今はそれすら愛しく大切な感覚で、そうやって死んでしまって水の底でいつか太陽が暖かく照らしてくれるのを待とうか。
感覚を失えば、自分が生きているのか、死んでいるのかもわからなくなる。
私は一人世界に取り残されて、真っ暗な世界に閉じ込められるんだ。死んでいることにも気づかないで。
そこに人がいるのに気づかれないのは、きっとこの世界で一人生き残るよりも孤独だ。
冷たい海水が不思議と暖かく感じた。
ガクガクと震える足は水中だと不思議と軽い。小さな泡になった人魚の末路が、昔は酷く悲しく感じたのに、今は自分と重なって幸せな最後だったって思える。
波が泡を立てながら押し寄せた瞬間、足が何かに取られて体が沈み水面が見えた。突然のことで何が起こったのかわからない。
驚いて思わず海水を飲み、せき込んだ。しょっぱい、海の味がする。反射的に起き上がろうとしたけど、腕が何かに掴まれて身動きが取れない。わけが分からなくて、必死に体を起こそうとする。
けど、ダメだ。動けない。漏れた息が銀の水面に向かい、水中からたやすく出ていく。ダメだ、息が苦しい。もう、頭にはそれしかなかった。
自分に絡みつく何かを必死に振り払って起き上がると、無我夢中で浜辺に向かった。
白くかすむ息が蒸気のように立ち込め、せき込む音とともに涙が出た。
身を裂くような冷たい空気が、肺に押し込める酸素が、全部が苦しくて涙が出る。
凍えるなんて言葉じゃ追いつかない。鋭いナイフであちこち傷つけられたように肌が痛む。吐き出した息が白く凍る。
自分を抱いて、何度も深く息をした。涙が溢れて止まらなかった。
「死ぬ気なんてなかったんじゃん……」
後ろから聞こえた声にぞっとする。その声は冷たく、蔑んで軽蔑する鋭さが隠れている。
そっと振り向くと、びしょ濡れの少年が私を見下ろしていた。私は言葉を失ったように、その少年を見入った。
例えば世界を逆さまにして、下にボタボタ落ちていった汚い悪意に濡れたような、暗い冷たいその表情は、嫌悪すら抱いてしまうほどに全てから見捨てられた――。
酷く寂しい目をした少年だった。
そっと自分の腕を見ると手形に痣ができている。この少年が私を掴んでいたのだろうか?
痛みを感じるほどの冷たさに身震い一つせず、少年はただうつろな目で私を見ている。
「なんで死のうと思ったの?」
ふいに何の躊躇いもなく少年は声に出した。
途端に心の中が温度を失う。責められたわけでもない抑揚のない声のはずなのに、抉るような痛みが……。何より自分を責めて痛い。
死を意識した時、目の前に映ったのは一人になった世界だった。みんなが幸せそうに笑っているのに、それを見ていることしかできない。私は私が死んだことにも気づかない。
そんな世界で必死に声を上げる自分の、惨めな姿だった。
そんな惨めで寂しくて、声も出ない世界に、閉じ込められるのが怖かった。ただ怖かった。そんな世界で自分一人が居続けることが、何よりも怖かった。
「……っ」
言葉が出ない。絡んだ痰が言葉を詰まらせるみたいに、涙が出た。
心が言葉をつまらせる。震えが声を出させなくする。海水で熱を奪われた肌に流れた涙は焼け付くように熱い。痛い。
「寒いの?」
そう聞いた少年を見上げると、寒いのがおかしいみたいに不思議そうな顔をしている。そう、彼は身震い一つしていない。どうしてこんなにも冷たい水の中にいるのに、震えもせずに立っているのだろう?
低いところで唸る雲が雪を降らせる。白く淡く、手の平に乗せただけで溶けてしまいそうなほど、水気を含んだ雪が髪に、服に張り付いて、すっと溶ける。
少年はそれをぼんやりと眺めてから、お風呂に浸かるみたいに膝を折って海の中に入った。
「……痛みを感じなければ生きていけないって言われたんだよ」
少年は水気をどっしりと含んだシャツを脱ぎ捨てると、心臓が止まるほどの冷たさをはらんだ海に素肌で浮かんだ。
「俺は痛みを感じない。無痛症っていう病気なんだ。……だから人の痛みがわからない、気持ちすらあまり見えていない。……だから、君が死ねばいいと思った。そう、望むのなら。それが君の幸せなら、君が死ねばいいと思った。でも、君は生きたがる。死を望む心の奥で、張り裂けそうなほどに叫んでる。死にたくないって」
少年は唸り声を上げる空をただ見つめた。どこまでも濁りの増す、泥中の底を描いたような虚ろな目で。
「君が死ねば、もしくは生きれば、何かが変わるかもしれないと思った。俺は、望むことすらできなかったから。死ぬなんて、生きるなんて。どちらも望むことなんかできなかったんだ。死ぬこともできず、人の気持ちを組み取ることのできない自分が、寂しいと、悲しいと、自分勝手に思ったところで誰が見てくれる? それでも死ぬことは絶つことだとも分かっていた。もしかしたらを、本当はあるかもしれない希望を絶つことだってわかっているから。何も望むこともできないまま……。何も変わらない」
浮かんだ彼からこぼれたのは、もしかしたら涙だったのかもしれない。目を腫らすこともない、嗚咽を吐くこともない、その行為は薄っぺらで重みもない。けれど、これほど悲しい泣き方を見たのは、初めてだった。この海は彼の涙だと思える程に、彼は海だった。彼から感じる痛みは、それこそ海底に沈むような息苦しさ。空気なんて存在しない世界にきて、あとは窒息死するだけの最後を受け入れるしかない、そんな――諦めにも似た苦しみ。
深く息をする少年が、凍った吐息の白い霧を放ち、ゆっくりと海に浮かんだまま目をつぶり呆然と呟いた。
「ねぇ。……俺は、生きてるの?」
その言葉を聞いた瞬間、自分のみた世界と重なった。
誰も私がいることに気づかず、死んだことにも気づかないで叫び続ける惨めな自分と。
彼の涙で出来た海に私の心が混ざった。それは春を拒絶する雪の降るこの場所には、似つかわしくない熱い大雨だった。
声なんか出ない。けれど、こんなに涙が出るのは初めてだった。大粒の大雨が私の頬を伝い、そして海と混ざる。彼は立ち上がると、そっとその冷たい手で私の涙を拭う。ゆっくりと顔をこわばらせて私の顔を一つ一つの指で確かめながら触れる。
「……なんで、泣くの?」
震える声が泣いているみたいだった。
「なんで、……泣くの?」
二回目の問いはうなだれて下を向いたまま、私の海水で濡れたべたつく髪を撫ぜながらだった。肩を落とした力ない体は、病気の私よりも頼りなく無防備で、縋っていた。
痛みに耐えるように、息をした。
涙を拭いながらみた彼は、唇をかみしめ酷く辛そうな顔で私を見つめているだけだった。
何もいう必要はない。言葉では追いつかないから、涙が出る。それだけわかれば良かった。
少年と海から上がると、大きなタオルを上に被せられコートをかけられた。
「病院から逃げ出したんだろ?」
「……なんで?」
足を折ってタオルとコートに包まれながら、寒さでカタカタなる口から言葉にならない声を出すと、少年が転がっている病院のスリッパを指さした。
「死んじゃう病気とか?」
白く濁った雲の向こうの地平線を、呆然と見つめながら少年は聞く。私の方は一切見ないで。
「海を見に来たの。全部なくしてしまう前に。海を……見ておきたかったの」
「この寒いのに?」
「そう」
私はにんで見せた。
「全部飲み込んでくれそうでしょ? 広すぎて大きすぎて……。笑っちゃうくらい自分が小さくて、……全部許してくれそうでしょ」
最後の言葉だけ少しつまった。
「病気になっていろんなものを恨んだの。なんにも悪くないのにお母さんに当たっちゃったし、そんな自分に自己嫌悪した。誰のせいにもしたくなかったのに、誰かのせいにしなくちゃ怖くて保てなかった。もう、怖くて、辛くて。悲しませたくなくて笑ってみたけど、耐えられなくなって壊れちゃった。……平気じゃなかったんだよ。全然、死んじゃうの。平気じゃなかった」
膝を折って抱え込むように自分を抱きしめた。……寒いだけじゃない震えが、みっともなく体を震わせる。
どうして人は死に向かって生きてるのに、いつか死んじゃうのに、なんでこんなにも怖いんだろう? どうしてこんなに苦しい?
白い息を吐きながら空を見上げる。雲が破れ差した光がを照らした。暗い世界に光が指すと、それはこんなにも暖かいのに、まだこんなにも風は冷たい。
「……ねぇ、痛いってどんな感じなの?」
呆然と少年は呟いた。
「俺は痛みを感じない。といっても感覚はあるんだ。痛みと感覚って別なんだって。だから触れられるのはいい。でも人に触れるのはどうしたらいい? どのぐらいの力を入れてどのくらいの優しさで触れればいい? どうしたら傷つき、どうしたら壊れる? 小さな事だけど、どうしたらいいかわからない。痛みを知らなければ生きてはいけないって言われた意味も、今ならちゃんとわかる。人として欠落してるんだよ、痛みは写鏡だって……。自分を通じて人の痛みを図るための鏡だって、俺には何もわからない、何もわからないはずなのに、どうしてだろ? 死ぬのが怖いのはわかるんだ。生きているのに誰とも関われないでいる寂しさも、全部……痛いって思うのは、なんでだろ? どうして痛みを感じないはずなのに……こんなに痛いのかな?」
呟いた声は酷く澄んでいる。心を映した鏡のような海がキラキラと光る。そうして、息を忘れさせる程の美しさを見せびらかしながら、打ち寄せてはまた逃げようとする。
「あなたは……ちゃんと生きてる」
放った声は冷たさと羨望混じりだった。
「ちゃんと痛いって感じているじゃない。体の痛みは感じられなくても、ちゃんと心が痛いって感じられている。それじゃ不満なの? 私はね、もうすぐ感覚全て失うの」
そう言った瞬間、だった少年の顔色が少し変わった。
「目も耳も鼻も、この手でさえ飾りになってしまう。私は自分が死んだこともきっとわからなくなってしまう。だって目が見えるからそこにいるんだってわかる。肌で触るからここに私じゃない誰かがいるってわかる。じゃあ、それを失ったら私はどうやって自分以外がここにいるってわかるの? どうやって自分が生きてるって思えばいいの? 全部失くす、その前に死んじゃったら全部を覚えたまま死んでいける。それなのに、なんでこんなに怖いの? 本当はわかってる。あなたの言ったとおり、死ぬことは絶つことなんだよ。この先にある希望を閉ざしてしまうことなんだよ。だから怖かった……。怖いの」
少年はしばらく黙ってから、そっと私の腕を人差し指で刺すようにつついた。
「……痛い?」
そう聞く少年はおかしいほど、情けなく不安そうで……やはり自分のようだった。私は少し笑いながら悲しくなって言った。
「痛いよ」
視界に映るぼんやりとした光の方を向いて声をかける。今はもう昔になってしまった海と空を想って聞いた。
記憶に眠る、潮の匂い。白く輝く光の中に、波打ち際で走る私がいる。透明な雫が泡立つ波打ち際、砂が舞う水面をつま先で蹴り上げたあの記憶。
遠雷のごとくどこまでも響く波音は、耳を傾ければいつまでもリフレインして思い出を美化していく。
見ていたころの幸せな記憶。けれどもう、鮮明には思い出せない。海水の透明さ、砂粒がかかる感触。泡立った波打ち際さえどこかぼやけてしまって、解像度の低い映像に成り下がる。
例えば絵の具で海と空を描いたなら、その絵には海と空の違いなんかなくて、全部一色の青色で染まってしまうだろう。それはもう、海の底に雲があるような、空の中に鮮やかな魚が泳ぐような、そんな曖昧なものになってしまう。
この目に映っていた世界を思い出せないでいる。たった数年で、全てが空ろになってしまった。
母が笑った時の目じりのしわも、父が怒った時の眉の上がった表情も、冷たくて心地いいフローリングの木目も。
全て空ろでどんどん淡くくすんでいく。
「うん? どんなって言われてもな……。なんだか冷めてて、頭の中にすっと入ってくる感じ」
困り声が耳に届き、一気に現実に引き戻される。
「……なにそれ? 感覚すぎてわかんないよ」
「わかんなくていいんだよ。だってその方が想像できて楽しいだろ?」
窓を開ける音がした。外には穏やかな海。寄せては引いてを繰り返す波の音に、潮の匂い。鼻の奥をつんと痛く刺激する冷たさに混じる、冬の匂いがする。薄氷の張った海面を一つ一つ割って遊んだ、荒々しい岩肌の続く海の記憶。思い出そうとすれば、一つ一つが霧散して曖昧なものになってしまう。
去年建て替えられた白を基調にした病院の中、目の端に移る白い光だけが私の知る感覚になってしまった。
静かに移り変わっていく季節の中で、温度と湿度、音の高低差と強い光しかわかるものがない時間の中で、私とハルは話をした。全部、想像のお話。
色の感覚の話。黄色はまぶしい、赤は痛い、白は悲しい。そんな感覚をわかるような、わからないような不思議さを抱きながら話していく。
「想像すれば世界は自由だから。目に見える決められた正解より、どこまでも縛られずに、思うがままに決められるよ」
少し笑ったようなハルの息遣い。けれどそれは軽やかで優しい息遣い。手を伸ばしてそっと感じ取る息の温度、湿った息の温かさ。
「……想像って、ハルの顔とか? 確かに想像でならイケメンになれるかもね」
「失礼な。綾子さんだって、鏡みたらショックで泣いちゃう顔だっての!」
気を使われた気がして憎まれ口をたたいてみる。おどおどと相手の様子を伺って、噛みつく子犬のように、目の見えない私はおびえているのだ。
「それはないね」
「なんでだよ!」
「それならハルはここには来てくれないでしょう? 美人でもないと思うけど、同情は誘える顔なんじゃないの?」
沈黙が口を開けて、私たちを飲み込んだ気がした。顔が見られないのになぜだろう? 手に取るようにハルの表情がわかる。呆然と口を開けて、目を見開いている間抜けな顔。
それを想像するとおかしいのに、何故か笑えなかった。
「もう、来なくていいんだよ? ハルは世界を広げた方がいいよ。私はもう見ることはできないけど、きっと海も空も広くて大きくて、きっと色鮮やかなんだよ。その世界に行けるハルを私は足止めしてる」
息を止める喉の音がした。
「同じだよ。同じ世界にいるのに、どうしてそんなこと言うの」
ハルの声はかすかにふるえていて、涙にぬれている。鼻をすするみっともない音に、情けなく力ない声が少し愛おしい。
それほどに想っていてくれていることに、嬉しくて泣きそうになる。
たくさんの思い出が走馬灯のように頭に横切る。けれど、私は静かに呼吸をし直して、言葉にしていく。
この時間のなに一つも、取りこぼさないようにかみしめて。
長い沈黙が少しずつ私に覚悟させて、ついに口にするしかなかった。
「……違うよ」
「違わない」
間髪入れず、ハルは否定するけれど。私は諭すように優しく声をかけた。
「……違うの。違うんだよ。私の世界はこの病室だけ、私にわかるのは白色だけ。もうどこにも行けない。私とハルは違うんだよ」
ぼんやりと白い光が目に映る。それを遮るように黒い影が私を包んだ。手の感触、体温、優しく包む腕の力。
「なんで、そんなこというの? 俺だって失くしたくないものがあるのに、なんでそんなこと言うんだよ……」
私は少しだけ笑って言った。
「ハルは優しいから。私が死んじゃったら悲しんじゃうから」
記憶の中。あの海の記憶。耳に当てた貝殻から聞こえた波の音が、未だ私に夢を見せる。青い夢とハルの夢を。幾度も幾度も、恋焦がれるほどに夢を見させるのだ。
もし願いが叶うなら、私はあの青い世界にハルと一緒に戻りたかった。
私は十六歳の夏にその宣告を受けた。
体の機能が徐々に低下していき、機能しなくなる難病。いずれは死に至ると言われたその病気が、一番はじめに私から奪ったのは視力だった。
最初はなんだか視界がぼやける程度、気になって母さんにつれて行かれた病院での、あまりに辛い宣告だった。
内容はぼやかして私の耳に伝えられたけど、子供ながらに死ぬんだろうなって思った。
曖昧な死のイメージ。
死んだ祖母の記憶がよみがえる。
ハツラツとした笑顔で、物腰も柔らかく元気で年老いてもなお美しい彼女。人に好かれた元気いっぱいの彼女は見る影もない。
その肌は血の気が失せ、まるで精巧に作られた蝋人形だ。ほほはやせこけ、骨ばった体は栄養失調のせいか身長も縮んでいた。
現実に頭が追い付かず、突然あんぐりと大口をあけて飲み込まれた気がした。それはこれから永遠にその人に二度を会えない残酷な事実。
病に蝕まれ、血色の良かった肌は青白さを通り越して、土気色をして目の下に濃いクマができて、美人で有名だった彼女とは似ても似つかない。何もかも病気に奪われていった。亡骸は抜け殻なのかもしれない。生きる力が抜けた彼女ではないなにか。
これが人の最後かと悲しくなった。
何もかも奪われた抜け殻。私もそうなるのかと回らない頭で理解した。
最初はなんだか信じきれず、嘘のような気がしていたのに、霞んでいく視界が、時折動かなくなる足が、現実味を持って私の嘘という妄想を打ち砕いていった。
つまづいて、歩くこともままならない自分の惨めさに泣いた。まともに動いていない体が情けなくて、みっともなくて、それでも病院はそんな人ばかりで。
自分を悲観する前にやってくるのは、目の前で一人一人消えていく患者たちの結末。悲観してうつむいても病気は進行していく。延命しなければ死ぬだけの現実を叩きつけられて、私は恐怖で毎日泣いた。
泣いて泣いて、そして、気づいた。
泣いても今以上のことを誰かがしてくれるわけじゃない。今以上のことなんて、医者だろうか家族だろうができない。他人ができる精いっぱいなんて限られている。この病気に立ち向かうのは、結局のところ自分だけ。
一人取り残されたような感覚、真っ暗な穴に落とされて、泣いて喚いて助けを求めたって、誰にも気づいてもらえない恐怖。母に当たり、父に当たり、看護婦さんに当たって、それでも恐怖は押さえつけられず、押し殺した声で何度も泣いた。
けれど、現実は変わらず自分を苦しめ続ける。
病院から逃げ出したのは、ここにいればきっと私は本当に死んでしまう気がしたから。眠るように死ねたならばいいだろう。安らかに消えてしまえたなら、私はこんなに怯えなかっただろう。
でも、現実はそうじゃなかった。
たくさんの人が苦しむのを見た。毎夜、うめき声を聞いた。隣のベッドのおばあちゃんが苦しみだし、血を吐いたのをみた。ああ、私もこんなふうに死んじゃうんだと思ったら、恐怖以前に悲劇でしかなかった。
想像した未来とは、全然違うものが私に襲ってきていて、多くを望んだわけではないのに、大それたことなんて一つも願ってないのに。どうして私がこんなふうになっちゃったんだろうって。
誰のせいにもできない、誰も恨めない、それが歯がゆく首をいつも絞められているようで。
ただ、逃げ出したかった。
逃げ出して、私の病気を知らない人の世界に行けば、私は病気じゃなくなる気さえした。夜眠るとき、歯鳴りを抑えられない。怖くて寂しくて、誰かにそばにいてほしかった。大丈夫だよって手を握っていてほしい。
けれど、そんなこと言えない。心配させて苦しめたくない。母が病室から帰るとき、いつも隠れて泣いているのを知っている。普段は気丈に振舞っていても、私を大切に思うあまり心はボロボロなのだ。
だからこそ言えない。怖くても言えない。
作り笑顔は上手に作れているだろうか。そんなことばかり気にしていたら、毎日息が詰まりそうで……。
気がついたら病院のスリッパを履いたまま、海にきていた。
浜辺に向かうコンクリートの階段の手すりにしがみついて、ゆっくりと下る。握った鉄の手すりからつんとするような錆びた匂いがして、それさえもうじき感じられなくなるならと、ゆっくり嗅いでみた。
格別いい匂いでもないのに、涙が出た。全部なくすんだと痛感したからだろうか。でも、今は何も理解したくなかった。
階段を降りたところで足が耐えきれなくなり、座り込む。砂は冷たく体温を奪う。色濃くくすんだ空は唸り声をあげ、水分を多分に含んだ雪を降らせる。
その当時は春にしては凍えるほど寒く、雪が白い花吹雪みたいに空に舞う。夏なんてもう二度と来なんじゃないかと思うほどに、裏切られた寒さだった。
寄せては引く波でさえ拒絶するような冷たさをはらんで、しぶきを吹きかけてくる。
鼻の奥が冷たさでツンと痛い。奥歯がカタカタと鳴る。裸足になって歩いてみても、ひんやりと私から熱を奪うばかりだった。
けれど、これてよかった。何一つ、自分を歓迎していない寂しく冷たい景色の中にいるのに、私はそれでよかったのだ。
このまま、海に沈んでしまおう……。まだ分かる感覚が、この針が指すような冷たさの海に震えても、今はそれすら愛しく大切な感覚で、そうやって死んでしまって水の底でいつか太陽が暖かく照らしてくれるのを待とうか。
感覚を失えば、自分が生きているのか、死んでいるのかもわからなくなる。
私は一人世界に取り残されて、真っ暗な世界に閉じ込められるんだ。死んでいることにも気づかないで。
そこに人がいるのに気づかれないのは、きっとこの世界で一人生き残るよりも孤独だ。
冷たい海水が不思議と暖かく感じた。
ガクガクと震える足は水中だと不思議と軽い。小さな泡になった人魚の末路が、昔は酷く悲しく感じたのに、今は自分と重なって幸せな最後だったって思える。
波が泡を立てながら押し寄せた瞬間、足が何かに取られて体が沈み水面が見えた。突然のことで何が起こったのかわからない。
驚いて思わず海水を飲み、せき込んだ。しょっぱい、海の味がする。反射的に起き上がろうとしたけど、腕が何かに掴まれて身動きが取れない。わけが分からなくて、必死に体を起こそうとする。
けど、ダメだ。動けない。漏れた息が銀の水面に向かい、水中からたやすく出ていく。ダメだ、息が苦しい。もう、頭にはそれしかなかった。
自分に絡みつく何かを必死に振り払って起き上がると、無我夢中で浜辺に向かった。
白くかすむ息が蒸気のように立ち込め、せき込む音とともに涙が出た。
身を裂くような冷たい空気が、肺に押し込める酸素が、全部が苦しくて涙が出る。
凍えるなんて言葉じゃ追いつかない。鋭いナイフであちこち傷つけられたように肌が痛む。吐き出した息が白く凍る。
自分を抱いて、何度も深く息をした。涙が溢れて止まらなかった。
「死ぬ気なんてなかったんじゃん……」
後ろから聞こえた声にぞっとする。その声は冷たく、蔑んで軽蔑する鋭さが隠れている。
そっと振り向くと、びしょ濡れの少年が私を見下ろしていた。私は言葉を失ったように、その少年を見入った。
例えば世界を逆さまにして、下にボタボタ落ちていった汚い悪意に濡れたような、暗い冷たいその表情は、嫌悪すら抱いてしまうほどに全てから見捨てられた――。
酷く寂しい目をした少年だった。
そっと自分の腕を見ると手形に痣ができている。この少年が私を掴んでいたのだろうか?
痛みを感じるほどの冷たさに身震い一つせず、少年はただうつろな目で私を見ている。
「なんで死のうと思ったの?」
ふいに何の躊躇いもなく少年は声に出した。
途端に心の中が温度を失う。責められたわけでもない抑揚のない声のはずなのに、抉るような痛みが……。何より自分を責めて痛い。
死を意識した時、目の前に映ったのは一人になった世界だった。みんなが幸せそうに笑っているのに、それを見ていることしかできない。私は私が死んだことにも気づかない。
そんな世界で必死に声を上げる自分の、惨めな姿だった。
そんな惨めで寂しくて、声も出ない世界に、閉じ込められるのが怖かった。ただ怖かった。そんな世界で自分一人が居続けることが、何よりも怖かった。
「……っ」
言葉が出ない。絡んだ痰が言葉を詰まらせるみたいに、涙が出た。
心が言葉をつまらせる。震えが声を出させなくする。海水で熱を奪われた肌に流れた涙は焼け付くように熱い。痛い。
「寒いの?」
そう聞いた少年を見上げると、寒いのがおかしいみたいに不思議そうな顔をしている。そう、彼は身震い一つしていない。どうしてこんなにも冷たい水の中にいるのに、震えもせずに立っているのだろう?
低いところで唸る雲が雪を降らせる。白く淡く、手の平に乗せただけで溶けてしまいそうなほど、水気を含んだ雪が髪に、服に張り付いて、すっと溶ける。
少年はそれをぼんやりと眺めてから、お風呂に浸かるみたいに膝を折って海の中に入った。
「……痛みを感じなければ生きていけないって言われたんだよ」
少年は水気をどっしりと含んだシャツを脱ぎ捨てると、心臓が止まるほどの冷たさをはらんだ海に素肌で浮かんだ。
「俺は痛みを感じない。無痛症っていう病気なんだ。……だから人の痛みがわからない、気持ちすらあまり見えていない。……だから、君が死ねばいいと思った。そう、望むのなら。それが君の幸せなら、君が死ねばいいと思った。でも、君は生きたがる。死を望む心の奥で、張り裂けそうなほどに叫んでる。死にたくないって」
少年は唸り声を上げる空をただ見つめた。どこまでも濁りの増す、泥中の底を描いたような虚ろな目で。
「君が死ねば、もしくは生きれば、何かが変わるかもしれないと思った。俺は、望むことすらできなかったから。死ぬなんて、生きるなんて。どちらも望むことなんかできなかったんだ。死ぬこともできず、人の気持ちを組み取ることのできない自分が、寂しいと、悲しいと、自分勝手に思ったところで誰が見てくれる? それでも死ぬことは絶つことだとも分かっていた。もしかしたらを、本当はあるかもしれない希望を絶つことだってわかっているから。何も望むこともできないまま……。何も変わらない」
浮かんだ彼からこぼれたのは、もしかしたら涙だったのかもしれない。目を腫らすこともない、嗚咽を吐くこともない、その行為は薄っぺらで重みもない。けれど、これほど悲しい泣き方を見たのは、初めてだった。この海は彼の涙だと思える程に、彼は海だった。彼から感じる痛みは、それこそ海底に沈むような息苦しさ。空気なんて存在しない世界にきて、あとは窒息死するだけの最後を受け入れるしかない、そんな――諦めにも似た苦しみ。
深く息をする少年が、凍った吐息の白い霧を放ち、ゆっくりと海に浮かんだまま目をつぶり呆然と呟いた。
「ねぇ。……俺は、生きてるの?」
その言葉を聞いた瞬間、自分のみた世界と重なった。
誰も私がいることに気づかず、死んだことにも気づかないで叫び続ける惨めな自分と。
彼の涙で出来た海に私の心が混ざった。それは春を拒絶する雪の降るこの場所には、似つかわしくない熱い大雨だった。
声なんか出ない。けれど、こんなに涙が出るのは初めてだった。大粒の大雨が私の頬を伝い、そして海と混ざる。彼は立ち上がると、そっとその冷たい手で私の涙を拭う。ゆっくりと顔をこわばらせて私の顔を一つ一つの指で確かめながら触れる。
「……なんで、泣くの?」
震える声が泣いているみたいだった。
「なんで、……泣くの?」
二回目の問いはうなだれて下を向いたまま、私の海水で濡れたべたつく髪を撫ぜながらだった。肩を落とした力ない体は、病気の私よりも頼りなく無防備で、縋っていた。
痛みに耐えるように、息をした。
涙を拭いながらみた彼は、唇をかみしめ酷く辛そうな顔で私を見つめているだけだった。
何もいう必要はない。言葉では追いつかないから、涙が出る。それだけわかれば良かった。
少年と海から上がると、大きなタオルを上に被せられコートをかけられた。
「病院から逃げ出したんだろ?」
「……なんで?」
足を折ってタオルとコートに包まれながら、寒さでカタカタなる口から言葉にならない声を出すと、少年が転がっている病院のスリッパを指さした。
「死んじゃう病気とか?」
白く濁った雲の向こうの地平線を、呆然と見つめながら少年は聞く。私の方は一切見ないで。
「海を見に来たの。全部なくしてしまう前に。海を……見ておきたかったの」
「この寒いのに?」
「そう」
私はにんで見せた。
「全部飲み込んでくれそうでしょ? 広すぎて大きすぎて……。笑っちゃうくらい自分が小さくて、……全部許してくれそうでしょ」
最後の言葉だけ少しつまった。
「病気になっていろんなものを恨んだの。なんにも悪くないのにお母さんに当たっちゃったし、そんな自分に自己嫌悪した。誰のせいにもしたくなかったのに、誰かのせいにしなくちゃ怖くて保てなかった。もう、怖くて、辛くて。悲しませたくなくて笑ってみたけど、耐えられなくなって壊れちゃった。……平気じゃなかったんだよ。全然、死んじゃうの。平気じゃなかった」
膝を折って抱え込むように自分を抱きしめた。……寒いだけじゃない震えが、みっともなく体を震わせる。
どうして人は死に向かって生きてるのに、いつか死んじゃうのに、なんでこんなにも怖いんだろう? どうしてこんなに苦しい?
白い息を吐きながら空を見上げる。雲が破れ差した光がを照らした。暗い世界に光が指すと、それはこんなにも暖かいのに、まだこんなにも風は冷たい。
「……ねぇ、痛いってどんな感じなの?」
呆然と少年は呟いた。
「俺は痛みを感じない。といっても感覚はあるんだ。痛みと感覚って別なんだって。だから触れられるのはいい。でも人に触れるのはどうしたらいい? どのぐらいの力を入れてどのくらいの優しさで触れればいい? どうしたら傷つき、どうしたら壊れる? 小さな事だけど、どうしたらいいかわからない。痛みを知らなければ生きてはいけないって言われた意味も、今ならちゃんとわかる。人として欠落してるんだよ、痛みは写鏡だって……。自分を通じて人の痛みを図るための鏡だって、俺には何もわからない、何もわからないはずなのに、どうしてだろ? 死ぬのが怖いのはわかるんだ。生きているのに誰とも関われないでいる寂しさも、全部……痛いって思うのは、なんでだろ? どうして痛みを感じないはずなのに……こんなに痛いのかな?」
呟いた声は酷く澄んでいる。心を映した鏡のような海がキラキラと光る。そうして、息を忘れさせる程の美しさを見せびらかしながら、打ち寄せてはまた逃げようとする。
「あなたは……ちゃんと生きてる」
放った声は冷たさと羨望混じりだった。
「ちゃんと痛いって感じているじゃない。体の痛みは感じられなくても、ちゃんと心が痛いって感じられている。それじゃ不満なの? 私はね、もうすぐ感覚全て失うの」
そう言った瞬間、だった少年の顔色が少し変わった。
「目も耳も鼻も、この手でさえ飾りになってしまう。私は自分が死んだこともきっとわからなくなってしまう。だって目が見えるからそこにいるんだってわかる。肌で触るからここに私じゃない誰かがいるってわかる。じゃあ、それを失ったら私はどうやって自分以外がここにいるってわかるの? どうやって自分が生きてるって思えばいいの? 全部失くす、その前に死んじゃったら全部を覚えたまま死んでいける。それなのに、なんでこんなに怖いの? 本当はわかってる。あなたの言ったとおり、死ぬことは絶つことなんだよ。この先にある希望を閉ざしてしまうことなんだよ。だから怖かった……。怖いの」
少年はしばらく黙ってから、そっと私の腕を人差し指で刺すようにつついた。
「……痛い?」
そう聞く少年はおかしいほど、情けなく不安そうで……やはり自分のようだった。私は少し笑いながら悲しくなって言った。
「痛いよ」

