マリアージュ。それは相性のいい素材が出会い、極上を生み出す奇跡のこと。お酒とおつまみには互いを引き立てる効果がある。
たとえば赤ワインと牛肉。濃い赤身のうまみをさらに引き上げる。それに白身魚と白ワイン。淡白な魚のうまみと白ワインの上品な味わいが融合する。口の中で完成するのは料理と酒が織り成すハーモニー。だから、せっかく用意した極上の品々をケンカさせてはいけない。それは食材と酒、さらには自分にも申し訳が立たないというもの。一日頑張った私へのご褒美は最高に仕上げなくちゃ明日を乗り越えていけやしない。
さて、今日はビールの気分だからおつまみは──今日はお昼に先方とミーティングがてら鰻重ランチだった。お腹にはまだしっかり鰻重が詰まってる。それなら炭水化物は控えめにいこう。私は太りやすい体質じゃないけど一日分の摂取カロリーをオーバーしたくないマイルールがある。
だって明日から出張。なんとしてもコンディションを保っておかねば。
小松菜を五センチ幅に切り、スーパーで買った切りごぼうをサラダ油でサッと炒める。味付けは大さじ一の味噌とみりん、料理酒を絡める。何度か味を見て砂糖を小さじ一。全体的に馴染んだら、平皿に盛り付けてブラックペッパーを少量振る。
次は作り置きのトマトとオクラのおひたしをタッパーから小鉢に少々移す。あともう一品ほしいから……ちょっと古くなった海苔をガスコンロの火でサラッと炙り、パリパリにする。皿に置いて、その横にパックのひきわり納豆をまぜたものも用意。納豆には付属のタレとワサビを入れておく。
ひとまずこれだけでいいでしょ。カロリーを抑えた晩酌セットの完成だ。
明日から出張だし、面倒だからダイニングテーブルから目を背けてキッチンのカウンター用イスに居直る。缶ビールのプルタブを起こすと、カシュッといい音が立った。まずは一口。ゴクッと口に含まずにそのまま喉へ流し込む。
「っはー」
麦芽の苦味を堪能し、手を合わせていただきます。まずは小松菜とごぼうの味噌炒め。サラッと炒めただけだから、シャキシャキの歯ごたえが楽しい。味はまったり濃い味噌だから、小松菜のしつこい苦味を包み込む。この濃厚なコクが舌にも胃腸にも優しい。ごぼうの臭みも消してくれ、当然ビールにも合う。
その調子でトマトへ箸を伸ばす。ストレートの麺つゆだけで漬け込んだトマトは湯むきのひと手間を加えたことで青臭さが抜け、豊かなカツオだしがしみしみでとろけていく。これもビールによく合う。オクラもしっかり味しみていて美味しい。
次は海苔。なんたって海苔は私の大好物だから欠かせない。これにワサビでといた納豆を巻いて食べる。ひきわり納豆は中粒納豆より淡白に感じられ、サラリとしている。ワサビもいい塩梅にキリッと味を締めてくれ、ツーンとした刺激が鼻を抜けていく。これもいいつまみだ。
酒には濃い味付けがつきものだけれど、なかなかどうして人生の折り返しまできた私の身体には堪えるものだから、工夫し素材と調味料のマリアージュで最大限に味を引き出しているわけだ。
あぁ、ビールがすすむ。三五〇mlのビールでおかずはあっという間になくなった。
「ごちそうさまでした」
お腹が満たされ、気分がいい。これで明日の仕事もしっかり乗り切れる。
満足な気分のまま片付けを済ませ、就寝までの時間はリビングで一息つく。ウォーターサーバーの水をグラス一杯用意し、お気に入りの低反発クッションに体を預け、テレビのチャンネルを回した。バラエティ番組に合わせると、お笑い芸人がコントを見せ合う番組に行き当たる。好きな芸人はとくいないけど、部屋がにぎやかになるのはいいことだ。
***
京都。午前中のうちに到着してしまった。
今日は我が社、ミホノツユ商店株式会社京都支社と合同で行うデパートのイベント。出汁をテーマにいろんな会社が集結し、自社のエースを売り出す。昨日から会場入りしている部下でこの春に主任へ昇進した野澤彩菜と新卒の友枝愛実くんと合流し、彼らの仕事ぶりを見にきた。
五十代手前になり、私も課長に昇進して早うん年。部下の成長を見守るのも仕事のうちだ。主役は若手に移し、私は彼女たちのサポートへ回るのが今日の仕事。そして仕事が終わったら自分へのご褒美に晩酌する。出張先での晩酌が私の生きがいだ。
京都駅は平日の午前中だというのに大きな賑わいを見せており、たくさんの人でごった返している。吹き抜けになった大きな天井のデザインを見ると京都に来たなと実感する。いやぁ、いつ見ても壮観な駅だよね。
京都のいいところは都市部からでも見えるのどかな山。そして厳格に守られたモダンな景観。古都としてのプライドをビシバシ感じる。
さて、まだ時間まで猶予がある。ホテルに行こうにもチェックイン時間もまだまだ先。それならばこの時間を有意義に使うべきだろう。
「お土産買っちゃおう!」
すでに下調べはついている。京都駅の百貨店であらゆるお土産が揃うので、私は迷わず小型キャリーを引き連れてデパートへ入った。効率よく目当てのお土産を入手する。ほとんど私のものだけど、ちゃんと会社用も忘れない。部下二人に気負わせないよう上層部だけのお土産を購入。部署全員分のものは二人に買ってきてもらおう。塩屋本部長分の八ツ橋と、第一営業課課長で同期の辛島くんに漬物と晩酌セット。辛島くんにはお世話になってるからね。本部長はまぁどうでもいい。
そうしてデパートの主に食品売り場を縦横無尽に駆け巡ること一時間。まだまだ時間があるので、これまた駅の中にあるカフェで時間を潰すことにした。のれんと明るい木材が優しい和風の外観のここは主に抹茶ドリンクを出しているお店だ。抹茶ラテを頼むと、数分後にクリアなカップに新緑色とミルキーな白の美しいマーブル模様を描いた抹茶ラテが運ばれた。
ストローに口をつけて飲む。抹茶の苦味がミルクのまろやかさに重なり、はんなりと上品な味わいになっていく。ここにシロップを入れるとほどよく優しい甘みがプラスされ、一気に飲みやすくなる。
「生き返るぅ」
見渡せば、午前中ということもあってか私みたいな中年女性や年配の方、若い子まで様々。主に女性客が占めており、店員さんも若い女の子ばかりだ。
しばらくここで過ごさせてもらおう。私はお土産を一つずつチェックし、にやける頬を引き締める。あ、待てよ。もう一つ買うのを忘れてた。
「やだ、嘘でしょー。チェックリスト何度も見直したのにー」
アラフィフのおひとり様は独り言が多くて嫌になるけど、今はそんなことに構ってられない。
「あれがないと晩酌が!」
買いに戻るか。うーんでももう時間がないし……そのときだった。スマホが鳴る。
「はい、あ、彩菜ちゃん? 大丈夫?」
新主任の彩菜ちゃん。そそっかしいけど責任感が人一倍あり、従順でとても気が利く良い子。まだ三十代になったばかりで若々しく華やかな顔立ちで可愛い子だ。
『ノリ子さん……私、ダメです』
開口一番、何を言い出すのやら。
「どうしたの?」
『京都支社の中川課長に嫌われました』
「え? 何? 全然話が見えないよ?」
普段、泣き言を言わず健気に頑張っている印象の彩菜ちゃんだが、一人で責任ある立場になるとこうも打たれ弱くなるのか。とにかく何があったのか分からないから、現場に急行しなくては。買い忘れは後にしよう。待っててね、今日の主役。
「いい? 私が行くまで準備は整えて。ブースはできたの? あぁ、そう、友枝くんが頑張ってるのね。あなたも頑張ってるわ。自信持って。えーっと、私は今からホテルに行って荷物を置いてくる。そのあとすぐ向かうから。ね、大丈夫だから」
なんとか宥めすかし、通話を切る。こうしちゃおれない。ラテを一気に飲み干し、タクシーを呼んですぐさま予約してるホテルへ向かい、荷物を預かってもらった。それからすぐまた同じタクシーに乗り込み、今日の戦場となるデパートへ向かった。
バックヤードに入り、ミホノツユ商店株式会社の控室までスムーズに向かうと、中は険悪なムードを醸し出していた。
「あ、酒本課長!」
友枝くんが腰を浮かせて反応する。ピシッと紺色のスーツを着た彼は二十三歳と若く、飾らない純朴な顔立ちが特徴的で冷静な目をしていた。一方、彩菜ちゃんは目に見えて落ち込むように椅子に座っていた。京都支社チームはいない。
「お疲れ様、友枝くん、彩菜ちゃん。何があったの?」
「あ、はい。野澤主任は結構頑張ってました」
友枝くんが結論から話してくれる。まったく話が見えない。彼は簡潔に話すあまり説明がいまいち伝わりにくいのだ。
「えっと、つまりですね、京都の中川課長は僕が見てもかなり気難しい部類に入ると思うんです。だから野澤主任は空気を明るくしようと、いろんな話をしていました。もちろん今日の段取りの確認もしてましたがなにぶん雑談が多くて」
「中川課長を怒らせたってこと?」
「そうなるかと」
友枝くんの状況説明が本当かどうかまだ判然としないけど、私もなんとなく身に覚えがあったので苦い顔をしてしまう。
「彩菜ちゃん、中川課長に何を言ったの?」
打ちのめされる彩菜ちゃんの前に立って訊くと、彼女は渇いた笑いをこぼしながらつぶやいた。
「京都駅と京都タワーと五山とか、金閣寺とか銀閣寺とか、京都の名所を聞いてみたんです。私、修学旅行でしか京都に行ったことなかったので、その思い出をいろいろと」
そりゃあなたの思い出を話しても、あなたより三十も年齢が上の課長には何も響かないでしょうよ。そう思う。とくに中川課長は寡黙な人だし、名所の話を振られてもウンザリしちゃうだろうし、彼のツボはそこじゃないのだ。
「僕的に中川課長は昔気質のハラスメントおじさんですよ。フキハラってやつです。不機嫌ハラスメント」
友枝くんは直属の上司が凹んでるからか中川課長を敵認定してるし。それに若い子からハラスメントって言葉が出てくると私たち上司の世代は心がずしんと重くなるのでやめてほしいんだよね。それも何かのハラスメントじゃないの。と言いたい。
「まぁねぇ……」
それしか言えない。でも、彼のおっしゃることも分かる。中川課長とはそれほど多く仕事をしたわけではないから普段の彼がどんな人かは東京本社のいち社員である私たちには分からない。長年会社に貢献してきた人ではあるし、昔気質なところはあるだろう。人はなかなかアップデートできないものだ。今は定年後雇用も検討されているという話だし、少しは若手に寄り添う姿勢もあるのかなと思ってたんだけどどうやらそうじゃないみたいだ。
彩菜ちゃんは息を吸い、頬を叩いた。お、気合いを入れてる。
「すみません、ノリ子さん。私、情けないですね。主任になったばかりなのに」
「何言ってんの。私が来たからにはもう大丈夫よ。あなたは京都支社の人たちと一緒に今日のイベントを盛り上げてきなさい」
中川課長のことは私がなんとかするから。
「いやぁ、でも京都支社の人たちもよそよそしいですよ? 野澤主任、大丈夫ですか?」
友枝くんが水を差す。まったく、この子も口は達者だけど誤解を招く発言が多いのよね。
「友枝くん、君、京都出身だよね?」
「え? はい」
「君は京都支社の人たちと仲良くしましょう。君ならできるはず。それが今日のミッションです。いい?」
「了解しました」
友枝くんは快活に返事した。聞き分けはいいのよね。
「あと、主任とも仲良くすること。君はたまに不機嫌なところが顔に出るから。わかった?」
そう言うと、彩菜ちゃんが「ノリ子さん!」と小声で嗜めてくる。いや、ここでビシッと言っておかないと、あとあとあなたが困るのよ。そりゃ新卒で純朴で良い子だけどね、どうにも上司を舐めた口調が良くないのよ。彩菜ちゃんだって、それがやりにくかったはず。
そしてこの二人の関係が京都支社にどう映るか、この子達は思い知ったはず。だからこそここは二人でしっかり乗り越えてほしい。
「さぁ、頑張ってらっしゃい!」
二人の背中を押し、つんのめる部下たちの背中を見て豪快に「あはは!」と笑い飛ばした。
二人はぎこちないながらもバックヤードから出て会場へ向かった。それを見送り、私はバックヤードの裏手へ回る。すると喫煙所で電子タバコを吸う小柄な男性を見つけた。色黒で髪の毛には白髪が混じっているけど背筋が伸びていて品がある。
「中川課長」
煙に臆することなく入っていくと、中川課長は慌ててタバコを仕舞った。
「お疲れさん、本社の」
「はい、酒本希子です。本社第二営業課課長をしております」
「うん、第二の人ね。君の顔はうるさくてよく覚えてるよ」
「あはは! 中川課長もあいかわらずで何よりです!」
別に嫌味じゃない。彼は言い回しが独特なだけだ。これに慣れてしまえばどうってことないけど、若い子と渡り合うには難しいだろうなとも思う。この世の中、優しい言葉に慣らされて脆くなっているから。
「なんだかうちの子たちがご迷惑をおかけしたようで。申し訳ございません」
「いいや、元気な子たちでいいですね」
「そうですか。ありがとうございます」
中川課長は話が終わったとばかりに電子タバコを取り出す。私はまだ動かない。彼は「まだ何か?」と言いたげに眉間に皺を寄せた。なので、私は彼のツボを刺激することにする。善は急げだ。
私はこそっと耳打ちするように言う。
「課長、そう言えば昨日、見ましたよ。ご子息の漫才。とても面白かったです」
そう。ちょうど昨日、テレビで見ていたバラエティ番組に彼の息子さんが出演していたのだ。
私のパスに中川課長は一瞬時が止まった。そして電子タバコを忙しなくいじり、やっと「そうですか」と答えた。眉間の皺が一層深くなるけど、それはどうも嬉しさを隠しきれない様子だった。その様子をジッと見ていると彼は観念したようにため息をついた。
「君さぁ、息子の話を出せばいいとでも思ってるでしょ」
「あ、バレました? でも、最近の息子さん大活躍じゃないですか。バラエティ番組のレギュラー、もう何本目です?」
「五本目」
即答じゃん。
「地元のと東京ので五本。だからまったく帰ってこないんですよ。一人で食えてるならいいですけどねぇ」
「十分食べていけてるでしょ。自慢の息子さんですね」
「ありがとう。君んとこの子も今回は大変だったね。よくやってるよ」
それから中川課長は「もうすぐ行きますから」と言って私を喫煙所から追い出した。その背中が小刻みに揺れていたので私のツボ押しは成功した。この手口であともう一回くらいはいけそうだ。さぁ、課長の機嫌はとったぞ。あとは彩菜ちゃんたちが頑張る番。
会場は人で賑わい、あらゆる同業他社が鎬を削っている。コの字に設置されたたくさんのブースでは試食用の料理が軒を連ねている。うちのブースはエースのみりんと出汁醤油で一口うどんを提供しているはずだ。
コの字型の真ん中といういいポジションに堂々と看板を出した我が社のブースへ行くと、裏で彩菜ちゃんが京都支社の子たちとうどんの準備に精を出していた。表では友枝くんが声かけしている。
「ミホノツユ! みりんと言ったらミホノツユ! 弊社はここ、京都から発展し皆様のご家庭に寄り添って参りました! ミホノツユのみりんと出汁醤油が味わえるうどん、いかがですかー!」
「簡潔な説明がここで活きてくるとは」
私は素直に感心した。うちの若手も自慢の子ですよ、中川課長。早く見せてやりたいとこだわ。
「あ、ノリ子さん!」
彩菜ちゃんが元気を取り戻した笑顔を見せてくる。
「友枝くん、とても頼りになりますよ!」
「そうみたいね」
彩菜ちゃんの嬉しそうな様子に私も声が弾む。部下がきちんとしていれば上司の格も上がるってもんよ。
うどんは大盛況で、あとからやってきた中川課長の眉間も平らになっていた。彩菜ちゃんの緊張もほぐれ、順調に仕事を遂行していく。ここまでの企画セッティングを請け負っていたのは彩菜ちゃんだ。中川課長だってそのことは伝わってる。あの子がそれを読み取れているかは分からないけどね。
***
「かんぱーい! お疲れ様でした!」
全員分のドリンクが運ばれるやいなや、彩菜ちゃんが待ちきれないとばかりに乾杯の音頭をとる。私はウーロン茶のグラスを上げ、彩菜ちゃんはビールのジョッキを、友枝くんはレモンサワーのグラスを慌てて掲げた。
彩菜ちゃんは挨拶もそこそこにジョッキを傾け、ゴクゴクと一気に半分まで飲み干す。私ももう喉がカラカラだったからぐいぐい飲んだ。そんな女性陣に気後れしている友枝くんは、サワーを一口飲んで一息つく。
「あーっ! いやぁ、仕事のあとのビールしか生きがいがない!」
彩菜ちゃんがジョッキをドンと置き、大袈裟に嘆く。そう思いきや私のほうへしなだれかかった。
「ねぇ、ノリ子さん〜……私もうダメかもです〜」
「何言ってんの! まだまだあなたの人生は始まったばかりじゃない」
思わず笑い飛ばしてしまうと彩菜ちゃんは「だってぇ」と情けない声をあげる。
「中川課長、やっぱりずっと怖かったですもん。京都の社員とはなんとか仲良くなれそうですけど」
「同期や支社の人たちともこれからは密に打ち合わせしたり仕事したりするんだから、頑張っていかなきゃね」
「え〜ん。私に務まるかなぁ」
「またそんなこと言う」
そんな私たちの漫才を見た友枝くんは呆気に取られていた。
「あ、友枝くん。ごめんね、この子、飲むといつもこうなのよ」
すかさずフォローを入れると、友枝くんは「なるほど」と何やら合点がいったらしく手をポンと打った。
「だから主任たち、僕を飲みに誘ってくれないんですね」
おや。何か妙な行き違いの気配を感じる。友枝くんはサワーをがぶっと飲み、それまでお行儀良くしていた仮面を脱ぐ。頬を紅潮させ、前のめりになって言った。
「僕、ずっと言えなかったことがあったんです」
「え!? なになに? 私、なんかヤバいミスした!?」
我にかえった彩菜ちゃんが訊くと友枝くんはわずかに間をあけて口を開いた。
「野澤主任、酒本課長。僕はずっと待ってました」
「うん……」
「僕は入社したら会社のみんなと飲みに行けるかなとか仕事終わりに飲みに誘われるかなとか、そういうのを期待してたんです」
「はぁ」
彩菜ちゃんの気が抜ける。私は引き続き彼の演説を傾聴した。
「でも、入社してしばらく経ってもそういうのなくて、毎日定時に上がらせてもらって。でも主任たちは帰らないし、そのあとみんなで飲みに行ったりしてるのかなってだんだん気が重くなって」
つまり彼は私たちと一緒に飲みに行きたかった、というわけだ。それなのに誘われないのでみんなから仲間はずれにされているように感じたと。
友枝くんは頭を掻き、だんだん俯いた。一方、重大事件を扱うがごとく彩菜ちゃんが私に耳打ちしてくる。
「ノリ子さん、これってパワハラなんでしょうか?」
「んなわけないでしょ。いや、どうなんだろ……」
「ほら、その親しげなのも!」
唐突に友枝くんが気色ばむ。
「僕だって元気に挨拶してるし話してるのに、あんまり距離感じたくないのに……」
友枝くんは顔を真っ赤にさせていた。いや、待ってよ。レモンサワー二口でそんなに酔うタイプ? まだおつまみも出てないのに。
私は彩菜ちゃんと顔を見合わせた。彩菜ちゃんも酒が入ればすぐに陽気だけど今回ばかりはそういうわけにいかない。
「と、友枝くん? 私たちはね、別にあなたを仲間はずれにしてないし、大事なチームの一員だと思ってますよ? だからそんなふうに感じさせたならごめんなさい」
「いえ……でも、主任って僕のときと課長ときの雰囲気、全然違くないですか?」
「えー、それは……」
彩菜ちゃんが言葉を濁す。ハラスメント認定されるのが怖くて当たり障りなく接してるだなんて言えないもん。だから今回もきっとぎこちなく仕事してたんだろうな。そのせいで友枝くんがずけずけマシーンになってしまった。そんなところだろう。
彩菜ちゃんは私を見ながら「えー」とか「あー」とか呻き、必死に言い訳を考えた。どれ、私が助け舟でも……
「塩屋本部長のせいです!」
口を開きかけた途端、彩菜ちゃんは白状した。おのれ、私の口を封じたな。
そのちょうど頼んだ料理が運ばれてくる。
「枝豆、冷やしトマト、フライドポテトですー」
「あ、ありがとうございますー」
私は気まずい空気の中で明るい声を出し、店員から料理を受け取った。彩菜ちゃんが反応し、すみませんと小さく言うとビールを飲んだ。友枝くんもサワーを飲む。
「まったくもう、せっかくの京都なのに普通のもの頼むんだから。このお店、たいたんとかだし醤油漬けとかあるのに」
つい口を出すも部下二人は気まずい空気のまま止まっている。サワーに目を落とす友枝くんはジョッキを置いて息を吸った。
「本部長のせいってどういうことですか?」
「え? あぁ、本部長がね、パワハラ気にしてんのよ」
私は素早く答えた。彩菜ちゃんが「ノリ子さんッ!」と咎めるし脳内では想像の塩屋本部長が「ノリ子ぉッ!」と怒鳴ってるが知ったことじゃない。あのギョロ目がいくら目くじら立てようとももう隠し立て無用だろう。ここはハッキリけじめをつけるべきだ。
「もうこの際、全部話しちゃったほうがいいわ。彩菜ちゃんも私も新卒にはなかなか親しげにいけないわけ」
「はぁ……」
あ、出た。エダマメくんの不貞腐れが。私は気にせず冷やしトマトを箸でつまんだ。
「本部長が私たちに言うの。新卒に不適切な発言はしてないかー、辞められるならまだしも問題は起こすなよーってね」
「なんですかそれ。僕、信用されてないってことですか?」
「ううん、そうじゃない。今日の働きを見ても今日の友枝くんはとっても頼りになることが分かったし、やる気もあるし根性もある。だからこそ君を手放したくないの。私も彩菜ちゃんも」
友枝くんは唇を尖らせて不機嫌たっぷりにうなだれる。
「うーん……だったらもっと接してほしいっていうか……パワハラ怖がられるってことは僕、腫れ物ってことじゃないですか」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
「まぁまぁまぁ! ノリ子さん、それ以上はダメです! ていうかなんで烏龍茶なんですか! お酒が足りてないですよ!」
彩菜ちゃんが私の烏龍茶をむんずと掴んで割り込んでくる。私はこれから一人晩酌が待ってるから飲まないのよ。とは言えない。
「野澤主任! 僕はもっとチームのみなさんとわいわいしたいです! なんですか、彩菜さんって呼んだら親しくしてもらえるんですか?」
「それは困ります! 友枝くん、もうなんで分かんないかなぁ!」
彩菜ちゃんは今にでも地団駄を踏みそうなくらいもどかしい表情を浮かべた。まぁこの問題はまだまだ続くでしょうね。友枝くんの鈍さも彩菜ちゃんの空回りもまだまだ成長の余地があるわけで。
それになんだかんだ二人とも、すっかり打ち解けてるじゃないの。私はさっぱりした烏龍茶とトマトを口に含み、メニューを見つめた。どれどれ。チーズの盛り合わせに燻製鴨ロース、自家製お漬物。あ〜、これをワインでいけたなら。ビールもいいな。さすがは京都の創作居酒屋。野菜のたいたんもある。ひとまずこれを食べたら私は退散しよう。
いまだ一杯目で好き勝手に思いをぶちまける部下たちは午前中の強張りが嘘みたいにその距離を近づけている。
「もういいです! お腹すいた!」
「そうやって勝手に話を終わらせないでください! もうノリ子さん〜どうしたらいいんですかぁ」
「おう、飲め飲め。ちゃんとホテルに帰れるくらいなら酔ってよし! ここは私の奢りだからね。ほら、チーズをお食べなさい」
ぐだぐだ言ってる彩菜ちゃんの口にチェダーチーズをつっこんだら少しは大人しくなる。友枝くんも枝豆をつかんでもぐもぐ食べ始めた。ふふっ。
「課長、なんですか」
おっと、顔に出てたか。私は肩をすくめて笑った。
「なんでもなーい」
新卒の友枝愛実くん。なんとなく字面がエダマメなので社内で極秘に『エダマメくん』と呼ばれていることを彼はまだ知らない。そう呼ばれてるのはもちろん揶揄ではなく愛称として親しみを込めて。
それから二人は酒を飲み、今日の仕事について話し合い、だんだんグダグダになっていった。その脇で私は腕時計を見ながら烏龍茶とだし茶漬けを食べる。もっぱらお酒は胃に何か入れておかないと悪酔いする体質だ。もうすぐ二十一時。電車やバスはまだ通ってる時間帯だから帰りの足を気にしなくてもいい。いいんだけど、そろそろお酒が飲みたい。
幸いスーパーマーケットは開いてる。空き時間にスーパーとホテルを下調べしておいて正解だった。ほんと、スーパーが0時まで開いてるなんて良心的だ。
「お客様、申し訳ございません。そろそろお席のお時間になります」
店員が申し訳無さそうにやってくる。ナイス、店員さん!
「えっ! もうそんな時間!?」
「うわー、二時間あっという間ですね」
彩菜ちゃんが驚き、友枝くんがのんきに笑う。二人の明るい頬を見ながら私はいそいそと財布からお金を出した。店員が秘書のごとく伝票を差し出してきたので私がもらう。全部で約一万八千円也。まあこのくらいは許容範囲だ。それに二人が打ち解けてくれたなら安いものよね。
「先に行くからね」
ジャケットを羽織り、すばやく立ち上がる。彩菜ちゃんと友枝くんはまだ残っているお酒を流し込みながらジャケットやバッグを引き寄せる。その間、お会計を済ませておいた。彩菜ちゃんなら酔った友枝くんをホテルまで送ってくれるはずだろう。私はその期待をかけ、先に店を出た。彩菜ちゃんにはメッセージを送っておく。お先に失礼します、と。
さぁここからは私の時間。京都は魅力的なバーや飲み屋さんが多い。京都駅から足を伸ばした先の先斗町に行きつけのお店があるんだけれど、今日はもう時間も遅いし明日の新幹線のことを考えると冒険はできない。また今度行くことにし、ホテルまでの道のりにあるスーパーへ。
さっきの居酒屋で見たメニューをできるだけ再現したいと思う。今日のメインは君だよ、と頭の中で話しかけながら手に取るのは京漬物。あとは今日デパートであらかじめ買っておいたお土産の中から少々拝借する。
そうだ、これももしかしたら必要かも。そう思い、私は調味料コーナーに陳列されているスパイスを一つ一つ吟味した。これは私の持論だが、調味料やお酒、酒のアテなどはお土産売り場ももちろん良いが地元のスーパーで購入するほうがその土地の本物を味わうことができると思う。私のようなズボラにはなおさらだ。
「あっ」
調味料コーナーを通りかかると我が社のエースであるみりんと醤油が並んでいた。ありがたや、ありがたや。今後ともどうぞご贔屓に。
買い物を終え、ホテルへ向かう。エントランスに観葉植物が置かれていて、内装も明るく清潔感のあるおしゃれなビジネスホテル。それ以外はなんの変哲もない……と思ったら大浴場とサウナの看板を見つけた。なんとまぁ贅沢な。ここを手配してくれた彩菜ちゃん、最高にいい仕事をしてくれてるよ。こうなったら先にサウナを楽しもうかな。
受付カウンターで鍵を受け取り、エレベーターで部屋まで上がる。気分も上がっていく。お酒とお漬物を冷やしておきたかったのよね。そうやって晩酌プランを立てるのも楽しい。
綺麗な廊下は柔らかな明かりに照らされており、重厚な絨毯が敷き詰められている。五〇〇七号室。ドアを開けるとクローゼット、ユニットバス、ベッドにテーブル、化粧台。うん、悪くない部屋だ。あぁ、そうそう。化粧台の下に小型冷蔵庫があった。そこに買ったものを入れる。お土産とお酒と今日のメイン、お漬物。冷蔵庫のスイッチを入れて準備オーケー。そしたら、お風呂に行っちゃおっと!
ジャケットとストッキングを脱いで簡単に化粧を落として荷物を持って部屋を出た。こうして時間をかけてゆっくりと晩酌までの時間を楽しむのが私のスタイル。温まった体に冷えたお酒を流し込む背徳感と言ったら。やみつきになってしまえば、もう何も知らなかった自分には戻れないのだ。
大浴場へ行き、手早く体を洗って入浴したらサウナへ。熱気でムンムンの小部屋は誰もおらず貸切状態だった。木製の壁とベンチは熱がこもっている。しばらく蒸されていると汗が全身から噴き出してきた。サウナは好きでも嫌いでもないが、あれば入るという程度。適度に呼吸し、デトックスしていく。今日の疲れを汗とともに全部噴出させる。じわじわゆっくり蒸される。蒸し器で蒸される肉まんのような気分。肉まんのような気分って何。まぁいいや。頭がだいぶとろんとしてきた証拠だ。
十分間のサウナタイムを終え、扉を開けて出た。実はそう長居できるタイプではない。でもサウナを楽しみたい。水風呂はちょっと怖いから辞めておき、シャワーで汗を流す。
はぁー……このあとのお酒が待ち遠しい。喉はカラカラ砂漠状態。潤いがほしい。フルマラソンをゴールしたような爽快感と喉の枯渇感が晩酌への期待を高めていく。フルマラソン、走ったことないけどね。
ようやく汗も引き、弛んだ体をタオルで拭いて大浴場をあとにした。ここからは気が急くばかりで頭をろくに乾かさず着替えたら部屋まで直行。早足でロビーを歩き、エレベーターで部屋まで上がる。鍵を開け、ロックしベッドへダイブ!
「あー、いいお湯だった。サウナも。ビジホでサウナまで入れちゃうのはお得よねぇ」
今後も京都出張の際はぜひこのホテルを予約したい。なんとかしてみんなに根回ししておかなくちゃ。そう決めて、私はしばらくベッドにうつ伏せになる。目を閉じ、今日の疲れを癒そう……。
「って、ダメダメ! 最後のお楽しみはこれからよ!」
サウナでしっかり癒やされてしまったところだわ。危ない危ない。私としたことが。今日はバーにも寄らず、居酒屋でもノー飲酒を貫いてきたじゃない。
名残惜しいけどベッドから離れて椅子に座り、冷蔵庫を開けた。お待ちかねのお酒とおつまみ。そしてマイ酒器。私は小型キャリーケースを開けて箱入りのマイ酒器を出す。今日は京焼のぐい呑を持ってきた。内側に金箔が焼き付けられた、手に馴染む優しい風合いの京焼ぐい呑だ。
そのぐい呑を彩るのはもちろん京都地酒。京都と言えばやっぱり日本酒。伏見の日本酒も某有名俳優さんのご実家が営む酒蔵も有名。ということで純米大吟醸の大瓶を並べる。そして本日の役者たち。
「まずは燻製チーズ! これは外せませんね。チーズはずっと目をつけてたのよ」
居酒屋のメニューから拝借したのだけど、ただ食べたくなっただけ。スーパーで購入した。
「お次は缶詰! こういうのはすぐ食べられるからいいのよねぇ」
ホタテの燻製をオイル漬けしたものだ。シンプルだけどこれがあると一層華やかになるってもの。
「そしてお待ちかねの主役! 京漬物! 待ってました!」
買ったのはベタに千枚漬け、九条ネギと山芋、柴漬け。やっぱりそのままで食べるのもいいけれど私はあえて七味を使う。もちろん七味も京都のものだ。京都は七味も老舗があり、日本三大七味の中に入るのだとか。
さぁ役者は揃った。テーブルに並べた色とりどりの晩酌セットを見渡し、私の気分は高揚する。では、始めましょう。
日本酒をあけ、ぐい呑にそそぐ。徳利はかさばるから持ってきてない。洗うのも大変だしね。慎重にそそいで、おつまみたちに傾けた。
「かんぱーい!」
お疲れ様でしたと、待ってましたを込めて──いざ。
一口含むと、まず爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。キリッとした辛口の味わいの中に優雅な果実を思わせる風味が感じられた。あぁ、いい。いいわぁ、これ。いくらでも飲める。
それじゃあまずは主役から。本来なら冬の食べ物である千枚漬けは聖護院かぶを薄くスライスしたお漬物。今は通年でも食べられる。割り箸で一枚、あ二枚取れちゃったかも、とにかく薄いので何枚か一緒に持ち上げると昆布の香りがふんわり放たれた。口に含む。柔らかく繊細でとろけそう。味は上品なのにしっかりしていて、まろやかに昆布の旨味とほんのりとしたみりんの甘みが広がっていく。
なんて、なんて繊細な仕事なのだろう。職人さんが丁寧に一枚一枚削り、しっかり味を漬け込んで発酵させ、完成させたこの千枚漬けは一つの作品とも言える。お酒もすすむ。本当にこれは京都へ行けば必ず食べたくなるもの。
次は九条ネギと長芋。実はこれははじめまして。昨日、何気なく調べていたら見つけたので仕事の前に購入したものだ。家でも一時期、ぬか漬けと浅漬ブームがあり、いろんな野菜を試してみたが長芋の漬物はやったことがない。皮を剥くとぬめりがあるし、なかなか食指が動かなかったのだ。だからこそ今回は試してみたかった。日本酒にも合うみたいだしね。
さて、いかがなものか。箸で慎重に取り、口に運ぶ。サクサクとした歯ごたえが楽しく、噛めば噛むほど醤油と長芋本来の味が深くなっていく。おぉ、おぉ、なるほど! 九条ネギと一緒に食べると甘みがプラスされ味の色が変わる。焼いても美味しそう。そしてお酒。ぐいっと飲めば、完璧なマリアージュだ。うーん、これだけでも美味しいけど七味も加えてみるとより締まるかも。ということで、長芋に七味をちらちら振りかけて食べる。うん、想像通り。ピリッと舌を刺激してくる。ここにお酒を一口。
「あーっ! たまんない!」
七味のピリッと、お酒のキリッが味わえ、テンションも上がっていく。私が人前でお酒を飲まなくなったのは若い子に合わせた今の時代ももちろんだけど、ただただかっこつけたいがためにみっともなく酔いたくないだけなんだよね。同期に聞かれたらバカにされて笑い飛ばされそうだけど。
だって、お酒は気を緩ませてだらしなく飲むのが楽しい。こうして自分の好きなものを好きなように飲んで食べるのは一人の時が一番なのだ。
わいわい一緒に飲みたい。そんな友枝くんの言葉をふと思い出す。それもいいけどね……酒の席での不適切が一番怖いから。なんだか私も臆病になってしまったみたいだ。仕方ない。
気を取り直して、次はホタテの燻製いってみようか。一口サイズのホタテがぎゅうぎゅうに敷き詰められた缶詰。一個を取り、オイルが垂れないようにしっかり切って素早く口に含む。まろっとしたオイルの奥からしっかり塩漬けされた燻製ホタテの旨味が顔を出す。じゅわっと広がるその濃い味がお酒を欲していく。あぁダメだ本当にお酒が進んじゃう。うーん、いいか! 今日のためにずっと節制して頑張ったんだもの。ホタテも美味しいし、チーズも濃厚で最高。ここにさっぱりと口直しのお漬物。お酒。お漬物。お酒。箸が止まらない。もう噛みしめることもなくただただ無心に食すのみ。
そして、最後の一口に差し掛かる。名残惜しい。でも食べてしまいたい。全部食べちゃうなんて確実に血圧上昇してる。血糖値も爆上がり。それでも食べたい。食べる。呑む。お酒はさすがに全部飲まないけど三分の一はなくなった。
「……ふぅ」
なんという至福の馳走。京漬物と日本酒のマリアージュ、堪能いたしました。
***
翌日、一足先にお昼出発の新幹線に乗り込む私は帰り支度をして、彩菜ちゃんと友枝くんと朝食を共にし、再び二人に仕事を任せた。このあとは京都支社と結果報告会をし親睦会がある。そこは今回の主役たちに花を持たせたい。
「それじゃ、頼んだよ。野澤主任、友枝くん」
「昨日はありがとうございました、課長」
友枝くんが礼儀正しくお辞儀する。彩菜ちゃんもお辞儀し、照れくさそうな笑みを浮かべた。
「頑張ります」
「京都支社の方々にもよろしく伝えてね。中川課長にも。案外お笑いに詳しいかもしれない」
「えっ?」
彩菜ちゃんは戸惑いの表情を浮かべる。その脇で友枝くんがこっくり頷く。
「はい、任せてください」
お、少しは逞しくなったじゃないの。彩菜ちゃんも頬を引き締める。うん、いい顔になった。
「ところで二人はあのあとちゃんとホテルに帰ったのね。二日酔いにならなくて良かったわ」
良かれと思って置き去りにしたけどちょっと心配ではあった。断じて晩酌がしたかっただけではない。頭の隅では心配してたの。
そんな言い訳を脳内でしていると彩菜ちゃんが口を開いた。
「ええ、とくに何も問題ありませんでした」
「ん? どうした? 目線が下がってるけど」
不思議に思って聞いても彩菜ちゃんは笑顔で誤魔化した。一方、友枝くんはなんだか誇らしげ。
「あのあと、主任が僕を頼りにしてるらしいことを帰りのタクシーで運転手さんに話してたんですよ」
「ちょ、友枝くん!」
「あらまあ、なんだ。そんなことね」
昨日、友枝くんのほうが酔ってたと思うんだけど彩菜ちゃんのほうがへべれけだったみたいね。彩菜ちゃんは「やだ、恥ずかしい」と顔を覆い、友枝くんは笑いを隠しきれてない。
壁はとうに消えた。二人のマリアージュもうまくいきそうで何よりだ。
たとえば赤ワインと牛肉。濃い赤身のうまみをさらに引き上げる。それに白身魚と白ワイン。淡白な魚のうまみと白ワインの上品な味わいが融合する。口の中で完成するのは料理と酒が織り成すハーモニー。だから、せっかく用意した極上の品々をケンカさせてはいけない。それは食材と酒、さらには自分にも申し訳が立たないというもの。一日頑張った私へのご褒美は最高に仕上げなくちゃ明日を乗り越えていけやしない。
さて、今日はビールの気分だからおつまみは──今日はお昼に先方とミーティングがてら鰻重ランチだった。お腹にはまだしっかり鰻重が詰まってる。それなら炭水化物は控えめにいこう。私は太りやすい体質じゃないけど一日分の摂取カロリーをオーバーしたくないマイルールがある。
だって明日から出張。なんとしてもコンディションを保っておかねば。
小松菜を五センチ幅に切り、スーパーで買った切りごぼうをサラダ油でサッと炒める。味付けは大さじ一の味噌とみりん、料理酒を絡める。何度か味を見て砂糖を小さじ一。全体的に馴染んだら、平皿に盛り付けてブラックペッパーを少量振る。
次は作り置きのトマトとオクラのおひたしをタッパーから小鉢に少々移す。あともう一品ほしいから……ちょっと古くなった海苔をガスコンロの火でサラッと炙り、パリパリにする。皿に置いて、その横にパックのひきわり納豆をまぜたものも用意。納豆には付属のタレとワサビを入れておく。
ひとまずこれだけでいいでしょ。カロリーを抑えた晩酌セットの完成だ。
明日から出張だし、面倒だからダイニングテーブルから目を背けてキッチンのカウンター用イスに居直る。缶ビールのプルタブを起こすと、カシュッといい音が立った。まずは一口。ゴクッと口に含まずにそのまま喉へ流し込む。
「っはー」
麦芽の苦味を堪能し、手を合わせていただきます。まずは小松菜とごぼうの味噌炒め。サラッと炒めただけだから、シャキシャキの歯ごたえが楽しい。味はまったり濃い味噌だから、小松菜のしつこい苦味を包み込む。この濃厚なコクが舌にも胃腸にも優しい。ごぼうの臭みも消してくれ、当然ビールにも合う。
その調子でトマトへ箸を伸ばす。ストレートの麺つゆだけで漬け込んだトマトは湯むきのひと手間を加えたことで青臭さが抜け、豊かなカツオだしがしみしみでとろけていく。これもビールによく合う。オクラもしっかり味しみていて美味しい。
次は海苔。なんたって海苔は私の大好物だから欠かせない。これにワサビでといた納豆を巻いて食べる。ひきわり納豆は中粒納豆より淡白に感じられ、サラリとしている。ワサビもいい塩梅にキリッと味を締めてくれ、ツーンとした刺激が鼻を抜けていく。これもいいつまみだ。
酒には濃い味付けがつきものだけれど、なかなかどうして人生の折り返しまできた私の身体には堪えるものだから、工夫し素材と調味料のマリアージュで最大限に味を引き出しているわけだ。
あぁ、ビールがすすむ。三五〇mlのビールでおかずはあっという間になくなった。
「ごちそうさまでした」
お腹が満たされ、気分がいい。これで明日の仕事もしっかり乗り切れる。
満足な気分のまま片付けを済ませ、就寝までの時間はリビングで一息つく。ウォーターサーバーの水をグラス一杯用意し、お気に入りの低反発クッションに体を預け、テレビのチャンネルを回した。バラエティ番組に合わせると、お笑い芸人がコントを見せ合う番組に行き当たる。好きな芸人はとくいないけど、部屋がにぎやかになるのはいいことだ。
***
京都。午前中のうちに到着してしまった。
今日は我が社、ミホノツユ商店株式会社京都支社と合同で行うデパートのイベント。出汁をテーマにいろんな会社が集結し、自社のエースを売り出す。昨日から会場入りしている部下でこの春に主任へ昇進した野澤彩菜と新卒の友枝愛実くんと合流し、彼らの仕事ぶりを見にきた。
五十代手前になり、私も課長に昇進して早うん年。部下の成長を見守るのも仕事のうちだ。主役は若手に移し、私は彼女たちのサポートへ回るのが今日の仕事。そして仕事が終わったら自分へのご褒美に晩酌する。出張先での晩酌が私の生きがいだ。
京都駅は平日の午前中だというのに大きな賑わいを見せており、たくさんの人でごった返している。吹き抜けになった大きな天井のデザインを見ると京都に来たなと実感する。いやぁ、いつ見ても壮観な駅だよね。
京都のいいところは都市部からでも見えるのどかな山。そして厳格に守られたモダンな景観。古都としてのプライドをビシバシ感じる。
さて、まだ時間まで猶予がある。ホテルに行こうにもチェックイン時間もまだまだ先。それならばこの時間を有意義に使うべきだろう。
「お土産買っちゃおう!」
すでに下調べはついている。京都駅の百貨店であらゆるお土産が揃うので、私は迷わず小型キャリーを引き連れてデパートへ入った。効率よく目当てのお土産を入手する。ほとんど私のものだけど、ちゃんと会社用も忘れない。部下二人に気負わせないよう上層部だけのお土産を購入。部署全員分のものは二人に買ってきてもらおう。塩屋本部長分の八ツ橋と、第一営業課課長で同期の辛島くんに漬物と晩酌セット。辛島くんにはお世話になってるからね。本部長はまぁどうでもいい。
そうしてデパートの主に食品売り場を縦横無尽に駆け巡ること一時間。まだまだ時間があるので、これまた駅の中にあるカフェで時間を潰すことにした。のれんと明るい木材が優しい和風の外観のここは主に抹茶ドリンクを出しているお店だ。抹茶ラテを頼むと、数分後にクリアなカップに新緑色とミルキーな白の美しいマーブル模様を描いた抹茶ラテが運ばれた。
ストローに口をつけて飲む。抹茶の苦味がミルクのまろやかさに重なり、はんなりと上品な味わいになっていく。ここにシロップを入れるとほどよく優しい甘みがプラスされ、一気に飲みやすくなる。
「生き返るぅ」
見渡せば、午前中ということもあってか私みたいな中年女性や年配の方、若い子まで様々。主に女性客が占めており、店員さんも若い女の子ばかりだ。
しばらくここで過ごさせてもらおう。私はお土産を一つずつチェックし、にやける頬を引き締める。あ、待てよ。もう一つ買うのを忘れてた。
「やだ、嘘でしょー。チェックリスト何度も見直したのにー」
アラフィフのおひとり様は独り言が多くて嫌になるけど、今はそんなことに構ってられない。
「あれがないと晩酌が!」
買いに戻るか。うーんでももう時間がないし……そのときだった。スマホが鳴る。
「はい、あ、彩菜ちゃん? 大丈夫?」
新主任の彩菜ちゃん。そそっかしいけど責任感が人一倍あり、従順でとても気が利く良い子。まだ三十代になったばかりで若々しく華やかな顔立ちで可愛い子だ。
『ノリ子さん……私、ダメです』
開口一番、何を言い出すのやら。
「どうしたの?」
『京都支社の中川課長に嫌われました』
「え? 何? 全然話が見えないよ?」
普段、泣き言を言わず健気に頑張っている印象の彩菜ちゃんだが、一人で責任ある立場になるとこうも打たれ弱くなるのか。とにかく何があったのか分からないから、現場に急行しなくては。買い忘れは後にしよう。待っててね、今日の主役。
「いい? 私が行くまで準備は整えて。ブースはできたの? あぁ、そう、友枝くんが頑張ってるのね。あなたも頑張ってるわ。自信持って。えーっと、私は今からホテルに行って荷物を置いてくる。そのあとすぐ向かうから。ね、大丈夫だから」
なんとか宥めすかし、通話を切る。こうしちゃおれない。ラテを一気に飲み干し、タクシーを呼んですぐさま予約してるホテルへ向かい、荷物を預かってもらった。それからすぐまた同じタクシーに乗り込み、今日の戦場となるデパートへ向かった。
バックヤードに入り、ミホノツユ商店株式会社の控室までスムーズに向かうと、中は険悪なムードを醸し出していた。
「あ、酒本課長!」
友枝くんが腰を浮かせて反応する。ピシッと紺色のスーツを着た彼は二十三歳と若く、飾らない純朴な顔立ちが特徴的で冷静な目をしていた。一方、彩菜ちゃんは目に見えて落ち込むように椅子に座っていた。京都支社チームはいない。
「お疲れ様、友枝くん、彩菜ちゃん。何があったの?」
「あ、はい。野澤主任は結構頑張ってました」
友枝くんが結論から話してくれる。まったく話が見えない。彼は簡潔に話すあまり説明がいまいち伝わりにくいのだ。
「えっと、つまりですね、京都の中川課長は僕が見てもかなり気難しい部類に入ると思うんです。だから野澤主任は空気を明るくしようと、いろんな話をしていました。もちろん今日の段取りの確認もしてましたがなにぶん雑談が多くて」
「中川課長を怒らせたってこと?」
「そうなるかと」
友枝くんの状況説明が本当かどうかまだ判然としないけど、私もなんとなく身に覚えがあったので苦い顔をしてしまう。
「彩菜ちゃん、中川課長に何を言ったの?」
打ちのめされる彩菜ちゃんの前に立って訊くと、彼女は渇いた笑いをこぼしながらつぶやいた。
「京都駅と京都タワーと五山とか、金閣寺とか銀閣寺とか、京都の名所を聞いてみたんです。私、修学旅行でしか京都に行ったことなかったので、その思い出をいろいろと」
そりゃあなたの思い出を話しても、あなたより三十も年齢が上の課長には何も響かないでしょうよ。そう思う。とくに中川課長は寡黙な人だし、名所の話を振られてもウンザリしちゃうだろうし、彼のツボはそこじゃないのだ。
「僕的に中川課長は昔気質のハラスメントおじさんですよ。フキハラってやつです。不機嫌ハラスメント」
友枝くんは直属の上司が凹んでるからか中川課長を敵認定してるし。それに若い子からハラスメントって言葉が出てくると私たち上司の世代は心がずしんと重くなるのでやめてほしいんだよね。それも何かのハラスメントじゃないの。と言いたい。
「まぁねぇ……」
それしか言えない。でも、彼のおっしゃることも分かる。中川課長とはそれほど多く仕事をしたわけではないから普段の彼がどんな人かは東京本社のいち社員である私たちには分からない。長年会社に貢献してきた人ではあるし、昔気質なところはあるだろう。人はなかなかアップデートできないものだ。今は定年後雇用も検討されているという話だし、少しは若手に寄り添う姿勢もあるのかなと思ってたんだけどどうやらそうじゃないみたいだ。
彩菜ちゃんは息を吸い、頬を叩いた。お、気合いを入れてる。
「すみません、ノリ子さん。私、情けないですね。主任になったばかりなのに」
「何言ってんの。私が来たからにはもう大丈夫よ。あなたは京都支社の人たちと一緒に今日のイベントを盛り上げてきなさい」
中川課長のことは私がなんとかするから。
「いやぁ、でも京都支社の人たちもよそよそしいですよ? 野澤主任、大丈夫ですか?」
友枝くんが水を差す。まったく、この子も口は達者だけど誤解を招く発言が多いのよね。
「友枝くん、君、京都出身だよね?」
「え? はい」
「君は京都支社の人たちと仲良くしましょう。君ならできるはず。それが今日のミッションです。いい?」
「了解しました」
友枝くんは快活に返事した。聞き分けはいいのよね。
「あと、主任とも仲良くすること。君はたまに不機嫌なところが顔に出るから。わかった?」
そう言うと、彩菜ちゃんが「ノリ子さん!」と小声で嗜めてくる。いや、ここでビシッと言っておかないと、あとあとあなたが困るのよ。そりゃ新卒で純朴で良い子だけどね、どうにも上司を舐めた口調が良くないのよ。彩菜ちゃんだって、それがやりにくかったはず。
そしてこの二人の関係が京都支社にどう映るか、この子達は思い知ったはず。だからこそここは二人でしっかり乗り越えてほしい。
「さぁ、頑張ってらっしゃい!」
二人の背中を押し、つんのめる部下たちの背中を見て豪快に「あはは!」と笑い飛ばした。
二人はぎこちないながらもバックヤードから出て会場へ向かった。それを見送り、私はバックヤードの裏手へ回る。すると喫煙所で電子タバコを吸う小柄な男性を見つけた。色黒で髪の毛には白髪が混じっているけど背筋が伸びていて品がある。
「中川課長」
煙に臆することなく入っていくと、中川課長は慌ててタバコを仕舞った。
「お疲れさん、本社の」
「はい、酒本希子です。本社第二営業課課長をしております」
「うん、第二の人ね。君の顔はうるさくてよく覚えてるよ」
「あはは! 中川課長もあいかわらずで何よりです!」
別に嫌味じゃない。彼は言い回しが独特なだけだ。これに慣れてしまえばどうってことないけど、若い子と渡り合うには難しいだろうなとも思う。この世の中、優しい言葉に慣らされて脆くなっているから。
「なんだかうちの子たちがご迷惑をおかけしたようで。申し訳ございません」
「いいや、元気な子たちでいいですね」
「そうですか。ありがとうございます」
中川課長は話が終わったとばかりに電子タバコを取り出す。私はまだ動かない。彼は「まだ何か?」と言いたげに眉間に皺を寄せた。なので、私は彼のツボを刺激することにする。善は急げだ。
私はこそっと耳打ちするように言う。
「課長、そう言えば昨日、見ましたよ。ご子息の漫才。とても面白かったです」
そう。ちょうど昨日、テレビで見ていたバラエティ番組に彼の息子さんが出演していたのだ。
私のパスに中川課長は一瞬時が止まった。そして電子タバコを忙しなくいじり、やっと「そうですか」と答えた。眉間の皺が一層深くなるけど、それはどうも嬉しさを隠しきれない様子だった。その様子をジッと見ていると彼は観念したようにため息をついた。
「君さぁ、息子の話を出せばいいとでも思ってるでしょ」
「あ、バレました? でも、最近の息子さん大活躍じゃないですか。バラエティ番組のレギュラー、もう何本目です?」
「五本目」
即答じゃん。
「地元のと東京ので五本。だからまったく帰ってこないんですよ。一人で食えてるならいいですけどねぇ」
「十分食べていけてるでしょ。自慢の息子さんですね」
「ありがとう。君んとこの子も今回は大変だったね。よくやってるよ」
それから中川課長は「もうすぐ行きますから」と言って私を喫煙所から追い出した。その背中が小刻みに揺れていたので私のツボ押しは成功した。この手口であともう一回くらいはいけそうだ。さぁ、課長の機嫌はとったぞ。あとは彩菜ちゃんたちが頑張る番。
会場は人で賑わい、あらゆる同業他社が鎬を削っている。コの字に設置されたたくさんのブースでは試食用の料理が軒を連ねている。うちのブースはエースのみりんと出汁醤油で一口うどんを提供しているはずだ。
コの字型の真ん中といういいポジションに堂々と看板を出した我が社のブースへ行くと、裏で彩菜ちゃんが京都支社の子たちとうどんの準備に精を出していた。表では友枝くんが声かけしている。
「ミホノツユ! みりんと言ったらミホノツユ! 弊社はここ、京都から発展し皆様のご家庭に寄り添って参りました! ミホノツユのみりんと出汁醤油が味わえるうどん、いかがですかー!」
「簡潔な説明がここで活きてくるとは」
私は素直に感心した。うちの若手も自慢の子ですよ、中川課長。早く見せてやりたいとこだわ。
「あ、ノリ子さん!」
彩菜ちゃんが元気を取り戻した笑顔を見せてくる。
「友枝くん、とても頼りになりますよ!」
「そうみたいね」
彩菜ちゃんの嬉しそうな様子に私も声が弾む。部下がきちんとしていれば上司の格も上がるってもんよ。
うどんは大盛況で、あとからやってきた中川課長の眉間も平らになっていた。彩菜ちゃんの緊張もほぐれ、順調に仕事を遂行していく。ここまでの企画セッティングを請け負っていたのは彩菜ちゃんだ。中川課長だってそのことは伝わってる。あの子がそれを読み取れているかは分からないけどね。
***
「かんぱーい! お疲れ様でした!」
全員分のドリンクが運ばれるやいなや、彩菜ちゃんが待ちきれないとばかりに乾杯の音頭をとる。私はウーロン茶のグラスを上げ、彩菜ちゃんはビールのジョッキを、友枝くんはレモンサワーのグラスを慌てて掲げた。
彩菜ちゃんは挨拶もそこそこにジョッキを傾け、ゴクゴクと一気に半分まで飲み干す。私ももう喉がカラカラだったからぐいぐい飲んだ。そんな女性陣に気後れしている友枝くんは、サワーを一口飲んで一息つく。
「あーっ! いやぁ、仕事のあとのビールしか生きがいがない!」
彩菜ちゃんがジョッキをドンと置き、大袈裟に嘆く。そう思いきや私のほうへしなだれかかった。
「ねぇ、ノリ子さん〜……私もうダメかもです〜」
「何言ってんの! まだまだあなたの人生は始まったばかりじゃない」
思わず笑い飛ばしてしまうと彩菜ちゃんは「だってぇ」と情けない声をあげる。
「中川課長、やっぱりずっと怖かったですもん。京都の社員とはなんとか仲良くなれそうですけど」
「同期や支社の人たちともこれからは密に打ち合わせしたり仕事したりするんだから、頑張っていかなきゃね」
「え〜ん。私に務まるかなぁ」
「またそんなこと言う」
そんな私たちの漫才を見た友枝くんは呆気に取られていた。
「あ、友枝くん。ごめんね、この子、飲むといつもこうなのよ」
すかさずフォローを入れると、友枝くんは「なるほど」と何やら合点がいったらしく手をポンと打った。
「だから主任たち、僕を飲みに誘ってくれないんですね」
おや。何か妙な行き違いの気配を感じる。友枝くんはサワーをがぶっと飲み、それまでお行儀良くしていた仮面を脱ぐ。頬を紅潮させ、前のめりになって言った。
「僕、ずっと言えなかったことがあったんです」
「え!? なになに? 私、なんかヤバいミスした!?」
我にかえった彩菜ちゃんが訊くと友枝くんはわずかに間をあけて口を開いた。
「野澤主任、酒本課長。僕はずっと待ってました」
「うん……」
「僕は入社したら会社のみんなと飲みに行けるかなとか仕事終わりに飲みに誘われるかなとか、そういうのを期待してたんです」
「はぁ」
彩菜ちゃんの気が抜ける。私は引き続き彼の演説を傾聴した。
「でも、入社してしばらく経ってもそういうのなくて、毎日定時に上がらせてもらって。でも主任たちは帰らないし、そのあとみんなで飲みに行ったりしてるのかなってだんだん気が重くなって」
つまり彼は私たちと一緒に飲みに行きたかった、というわけだ。それなのに誘われないのでみんなから仲間はずれにされているように感じたと。
友枝くんは頭を掻き、だんだん俯いた。一方、重大事件を扱うがごとく彩菜ちゃんが私に耳打ちしてくる。
「ノリ子さん、これってパワハラなんでしょうか?」
「んなわけないでしょ。いや、どうなんだろ……」
「ほら、その親しげなのも!」
唐突に友枝くんが気色ばむ。
「僕だって元気に挨拶してるし話してるのに、あんまり距離感じたくないのに……」
友枝くんは顔を真っ赤にさせていた。いや、待ってよ。レモンサワー二口でそんなに酔うタイプ? まだおつまみも出てないのに。
私は彩菜ちゃんと顔を見合わせた。彩菜ちゃんも酒が入ればすぐに陽気だけど今回ばかりはそういうわけにいかない。
「と、友枝くん? 私たちはね、別にあなたを仲間はずれにしてないし、大事なチームの一員だと思ってますよ? だからそんなふうに感じさせたならごめんなさい」
「いえ……でも、主任って僕のときと課長ときの雰囲気、全然違くないですか?」
「えー、それは……」
彩菜ちゃんが言葉を濁す。ハラスメント認定されるのが怖くて当たり障りなく接してるだなんて言えないもん。だから今回もきっとぎこちなく仕事してたんだろうな。そのせいで友枝くんがずけずけマシーンになってしまった。そんなところだろう。
彩菜ちゃんは私を見ながら「えー」とか「あー」とか呻き、必死に言い訳を考えた。どれ、私が助け舟でも……
「塩屋本部長のせいです!」
口を開きかけた途端、彩菜ちゃんは白状した。おのれ、私の口を封じたな。
そのちょうど頼んだ料理が運ばれてくる。
「枝豆、冷やしトマト、フライドポテトですー」
「あ、ありがとうございますー」
私は気まずい空気の中で明るい声を出し、店員から料理を受け取った。彩菜ちゃんが反応し、すみませんと小さく言うとビールを飲んだ。友枝くんもサワーを飲む。
「まったくもう、せっかくの京都なのに普通のもの頼むんだから。このお店、たいたんとかだし醤油漬けとかあるのに」
つい口を出すも部下二人は気まずい空気のまま止まっている。サワーに目を落とす友枝くんはジョッキを置いて息を吸った。
「本部長のせいってどういうことですか?」
「え? あぁ、本部長がね、パワハラ気にしてんのよ」
私は素早く答えた。彩菜ちゃんが「ノリ子さんッ!」と咎めるし脳内では想像の塩屋本部長が「ノリ子ぉッ!」と怒鳴ってるが知ったことじゃない。あのギョロ目がいくら目くじら立てようとももう隠し立て無用だろう。ここはハッキリけじめをつけるべきだ。
「もうこの際、全部話しちゃったほうがいいわ。彩菜ちゃんも私も新卒にはなかなか親しげにいけないわけ」
「はぁ……」
あ、出た。エダマメくんの不貞腐れが。私は気にせず冷やしトマトを箸でつまんだ。
「本部長が私たちに言うの。新卒に不適切な発言はしてないかー、辞められるならまだしも問題は起こすなよーってね」
「なんですかそれ。僕、信用されてないってことですか?」
「ううん、そうじゃない。今日の働きを見ても今日の友枝くんはとっても頼りになることが分かったし、やる気もあるし根性もある。だからこそ君を手放したくないの。私も彩菜ちゃんも」
友枝くんは唇を尖らせて不機嫌たっぷりにうなだれる。
「うーん……だったらもっと接してほしいっていうか……パワハラ怖がられるってことは僕、腫れ物ってことじゃないですか」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
「まぁまぁまぁ! ノリ子さん、それ以上はダメです! ていうかなんで烏龍茶なんですか! お酒が足りてないですよ!」
彩菜ちゃんが私の烏龍茶をむんずと掴んで割り込んでくる。私はこれから一人晩酌が待ってるから飲まないのよ。とは言えない。
「野澤主任! 僕はもっとチームのみなさんとわいわいしたいです! なんですか、彩菜さんって呼んだら親しくしてもらえるんですか?」
「それは困ります! 友枝くん、もうなんで分かんないかなぁ!」
彩菜ちゃんは今にでも地団駄を踏みそうなくらいもどかしい表情を浮かべた。まぁこの問題はまだまだ続くでしょうね。友枝くんの鈍さも彩菜ちゃんの空回りもまだまだ成長の余地があるわけで。
それになんだかんだ二人とも、すっかり打ち解けてるじゃないの。私はさっぱりした烏龍茶とトマトを口に含み、メニューを見つめた。どれどれ。チーズの盛り合わせに燻製鴨ロース、自家製お漬物。あ〜、これをワインでいけたなら。ビールもいいな。さすがは京都の創作居酒屋。野菜のたいたんもある。ひとまずこれを食べたら私は退散しよう。
いまだ一杯目で好き勝手に思いをぶちまける部下たちは午前中の強張りが嘘みたいにその距離を近づけている。
「もういいです! お腹すいた!」
「そうやって勝手に話を終わらせないでください! もうノリ子さん〜どうしたらいいんですかぁ」
「おう、飲め飲め。ちゃんとホテルに帰れるくらいなら酔ってよし! ここは私の奢りだからね。ほら、チーズをお食べなさい」
ぐだぐだ言ってる彩菜ちゃんの口にチェダーチーズをつっこんだら少しは大人しくなる。友枝くんも枝豆をつかんでもぐもぐ食べ始めた。ふふっ。
「課長、なんですか」
おっと、顔に出てたか。私は肩をすくめて笑った。
「なんでもなーい」
新卒の友枝愛実くん。なんとなく字面がエダマメなので社内で極秘に『エダマメくん』と呼ばれていることを彼はまだ知らない。そう呼ばれてるのはもちろん揶揄ではなく愛称として親しみを込めて。
それから二人は酒を飲み、今日の仕事について話し合い、だんだんグダグダになっていった。その脇で私は腕時計を見ながら烏龍茶とだし茶漬けを食べる。もっぱらお酒は胃に何か入れておかないと悪酔いする体質だ。もうすぐ二十一時。電車やバスはまだ通ってる時間帯だから帰りの足を気にしなくてもいい。いいんだけど、そろそろお酒が飲みたい。
幸いスーパーマーケットは開いてる。空き時間にスーパーとホテルを下調べしておいて正解だった。ほんと、スーパーが0時まで開いてるなんて良心的だ。
「お客様、申し訳ございません。そろそろお席のお時間になります」
店員が申し訳無さそうにやってくる。ナイス、店員さん!
「えっ! もうそんな時間!?」
「うわー、二時間あっという間ですね」
彩菜ちゃんが驚き、友枝くんがのんきに笑う。二人の明るい頬を見ながら私はいそいそと財布からお金を出した。店員が秘書のごとく伝票を差し出してきたので私がもらう。全部で約一万八千円也。まあこのくらいは許容範囲だ。それに二人が打ち解けてくれたなら安いものよね。
「先に行くからね」
ジャケットを羽織り、すばやく立ち上がる。彩菜ちゃんと友枝くんはまだ残っているお酒を流し込みながらジャケットやバッグを引き寄せる。その間、お会計を済ませておいた。彩菜ちゃんなら酔った友枝くんをホテルまで送ってくれるはずだろう。私はその期待をかけ、先に店を出た。彩菜ちゃんにはメッセージを送っておく。お先に失礼します、と。
さぁここからは私の時間。京都は魅力的なバーや飲み屋さんが多い。京都駅から足を伸ばした先の先斗町に行きつけのお店があるんだけれど、今日はもう時間も遅いし明日の新幹線のことを考えると冒険はできない。また今度行くことにし、ホテルまでの道のりにあるスーパーへ。
さっきの居酒屋で見たメニューをできるだけ再現したいと思う。今日のメインは君だよ、と頭の中で話しかけながら手に取るのは京漬物。あとは今日デパートであらかじめ買っておいたお土産の中から少々拝借する。
そうだ、これももしかしたら必要かも。そう思い、私は調味料コーナーに陳列されているスパイスを一つ一つ吟味した。これは私の持論だが、調味料やお酒、酒のアテなどはお土産売り場ももちろん良いが地元のスーパーで購入するほうがその土地の本物を味わうことができると思う。私のようなズボラにはなおさらだ。
「あっ」
調味料コーナーを通りかかると我が社のエースであるみりんと醤油が並んでいた。ありがたや、ありがたや。今後ともどうぞご贔屓に。
買い物を終え、ホテルへ向かう。エントランスに観葉植物が置かれていて、内装も明るく清潔感のあるおしゃれなビジネスホテル。それ以外はなんの変哲もない……と思ったら大浴場とサウナの看板を見つけた。なんとまぁ贅沢な。ここを手配してくれた彩菜ちゃん、最高にいい仕事をしてくれてるよ。こうなったら先にサウナを楽しもうかな。
受付カウンターで鍵を受け取り、エレベーターで部屋まで上がる。気分も上がっていく。お酒とお漬物を冷やしておきたかったのよね。そうやって晩酌プランを立てるのも楽しい。
綺麗な廊下は柔らかな明かりに照らされており、重厚な絨毯が敷き詰められている。五〇〇七号室。ドアを開けるとクローゼット、ユニットバス、ベッドにテーブル、化粧台。うん、悪くない部屋だ。あぁ、そうそう。化粧台の下に小型冷蔵庫があった。そこに買ったものを入れる。お土産とお酒と今日のメイン、お漬物。冷蔵庫のスイッチを入れて準備オーケー。そしたら、お風呂に行っちゃおっと!
ジャケットとストッキングを脱いで簡単に化粧を落として荷物を持って部屋を出た。こうして時間をかけてゆっくりと晩酌までの時間を楽しむのが私のスタイル。温まった体に冷えたお酒を流し込む背徳感と言ったら。やみつきになってしまえば、もう何も知らなかった自分には戻れないのだ。
大浴場へ行き、手早く体を洗って入浴したらサウナへ。熱気でムンムンの小部屋は誰もおらず貸切状態だった。木製の壁とベンチは熱がこもっている。しばらく蒸されていると汗が全身から噴き出してきた。サウナは好きでも嫌いでもないが、あれば入るという程度。適度に呼吸し、デトックスしていく。今日の疲れを汗とともに全部噴出させる。じわじわゆっくり蒸される。蒸し器で蒸される肉まんのような気分。肉まんのような気分って何。まぁいいや。頭がだいぶとろんとしてきた証拠だ。
十分間のサウナタイムを終え、扉を開けて出た。実はそう長居できるタイプではない。でもサウナを楽しみたい。水風呂はちょっと怖いから辞めておき、シャワーで汗を流す。
はぁー……このあとのお酒が待ち遠しい。喉はカラカラ砂漠状態。潤いがほしい。フルマラソンをゴールしたような爽快感と喉の枯渇感が晩酌への期待を高めていく。フルマラソン、走ったことないけどね。
ようやく汗も引き、弛んだ体をタオルで拭いて大浴場をあとにした。ここからは気が急くばかりで頭をろくに乾かさず着替えたら部屋まで直行。早足でロビーを歩き、エレベーターで部屋まで上がる。鍵を開け、ロックしベッドへダイブ!
「あー、いいお湯だった。サウナも。ビジホでサウナまで入れちゃうのはお得よねぇ」
今後も京都出張の際はぜひこのホテルを予約したい。なんとかしてみんなに根回ししておかなくちゃ。そう決めて、私はしばらくベッドにうつ伏せになる。目を閉じ、今日の疲れを癒そう……。
「って、ダメダメ! 最後のお楽しみはこれからよ!」
サウナでしっかり癒やされてしまったところだわ。危ない危ない。私としたことが。今日はバーにも寄らず、居酒屋でもノー飲酒を貫いてきたじゃない。
名残惜しいけどベッドから離れて椅子に座り、冷蔵庫を開けた。お待ちかねのお酒とおつまみ。そしてマイ酒器。私は小型キャリーケースを開けて箱入りのマイ酒器を出す。今日は京焼のぐい呑を持ってきた。内側に金箔が焼き付けられた、手に馴染む優しい風合いの京焼ぐい呑だ。
そのぐい呑を彩るのはもちろん京都地酒。京都と言えばやっぱり日本酒。伏見の日本酒も某有名俳優さんのご実家が営む酒蔵も有名。ということで純米大吟醸の大瓶を並べる。そして本日の役者たち。
「まずは燻製チーズ! これは外せませんね。チーズはずっと目をつけてたのよ」
居酒屋のメニューから拝借したのだけど、ただ食べたくなっただけ。スーパーで購入した。
「お次は缶詰! こういうのはすぐ食べられるからいいのよねぇ」
ホタテの燻製をオイル漬けしたものだ。シンプルだけどこれがあると一層華やかになるってもの。
「そしてお待ちかねの主役! 京漬物! 待ってました!」
買ったのはベタに千枚漬け、九条ネギと山芋、柴漬け。やっぱりそのままで食べるのもいいけれど私はあえて七味を使う。もちろん七味も京都のものだ。京都は七味も老舗があり、日本三大七味の中に入るのだとか。
さぁ役者は揃った。テーブルに並べた色とりどりの晩酌セットを見渡し、私の気分は高揚する。では、始めましょう。
日本酒をあけ、ぐい呑にそそぐ。徳利はかさばるから持ってきてない。洗うのも大変だしね。慎重にそそいで、おつまみたちに傾けた。
「かんぱーい!」
お疲れ様でしたと、待ってましたを込めて──いざ。
一口含むと、まず爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。キリッとした辛口の味わいの中に優雅な果実を思わせる風味が感じられた。あぁ、いい。いいわぁ、これ。いくらでも飲める。
それじゃあまずは主役から。本来なら冬の食べ物である千枚漬けは聖護院かぶを薄くスライスしたお漬物。今は通年でも食べられる。割り箸で一枚、あ二枚取れちゃったかも、とにかく薄いので何枚か一緒に持ち上げると昆布の香りがふんわり放たれた。口に含む。柔らかく繊細でとろけそう。味は上品なのにしっかりしていて、まろやかに昆布の旨味とほんのりとしたみりんの甘みが広がっていく。
なんて、なんて繊細な仕事なのだろう。職人さんが丁寧に一枚一枚削り、しっかり味を漬け込んで発酵させ、完成させたこの千枚漬けは一つの作品とも言える。お酒もすすむ。本当にこれは京都へ行けば必ず食べたくなるもの。
次は九条ネギと長芋。実はこれははじめまして。昨日、何気なく調べていたら見つけたので仕事の前に購入したものだ。家でも一時期、ぬか漬けと浅漬ブームがあり、いろんな野菜を試してみたが長芋の漬物はやったことがない。皮を剥くとぬめりがあるし、なかなか食指が動かなかったのだ。だからこそ今回は試してみたかった。日本酒にも合うみたいだしね。
さて、いかがなものか。箸で慎重に取り、口に運ぶ。サクサクとした歯ごたえが楽しく、噛めば噛むほど醤油と長芋本来の味が深くなっていく。おぉ、おぉ、なるほど! 九条ネギと一緒に食べると甘みがプラスされ味の色が変わる。焼いても美味しそう。そしてお酒。ぐいっと飲めば、完璧なマリアージュだ。うーん、これだけでも美味しいけど七味も加えてみるとより締まるかも。ということで、長芋に七味をちらちら振りかけて食べる。うん、想像通り。ピリッと舌を刺激してくる。ここにお酒を一口。
「あーっ! たまんない!」
七味のピリッと、お酒のキリッが味わえ、テンションも上がっていく。私が人前でお酒を飲まなくなったのは若い子に合わせた今の時代ももちろんだけど、ただただかっこつけたいがためにみっともなく酔いたくないだけなんだよね。同期に聞かれたらバカにされて笑い飛ばされそうだけど。
だって、お酒は気を緩ませてだらしなく飲むのが楽しい。こうして自分の好きなものを好きなように飲んで食べるのは一人の時が一番なのだ。
わいわい一緒に飲みたい。そんな友枝くんの言葉をふと思い出す。それもいいけどね……酒の席での不適切が一番怖いから。なんだか私も臆病になってしまったみたいだ。仕方ない。
気を取り直して、次はホタテの燻製いってみようか。一口サイズのホタテがぎゅうぎゅうに敷き詰められた缶詰。一個を取り、オイルが垂れないようにしっかり切って素早く口に含む。まろっとしたオイルの奥からしっかり塩漬けされた燻製ホタテの旨味が顔を出す。じゅわっと広がるその濃い味がお酒を欲していく。あぁダメだ本当にお酒が進んじゃう。うーん、いいか! 今日のためにずっと節制して頑張ったんだもの。ホタテも美味しいし、チーズも濃厚で最高。ここにさっぱりと口直しのお漬物。お酒。お漬物。お酒。箸が止まらない。もう噛みしめることもなくただただ無心に食すのみ。
そして、最後の一口に差し掛かる。名残惜しい。でも食べてしまいたい。全部食べちゃうなんて確実に血圧上昇してる。血糖値も爆上がり。それでも食べたい。食べる。呑む。お酒はさすがに全部飲まないけど三分の一はなくなった。
「……ふぅ」
なんという至福の馳走。京漬物と日本酒のマリアージュ、堪能いたしました。
***
翌日、一足先にお昼出発の新幹線に乗り込む私は帰り支度をして、彩菜ちゃんと友枝くんと朝食を共にし、再び二人に仕事を任せた。このあとは京都支社と結果報告会をし親睦会がある。そこは今回の主役たちに花を持たせたい。
「それじゃ、頼んだよ。野澤主任、友枝くん」
「昨日はありがとうございました、課長」
友枝くんが礼儀正しくお辞儀する。彩菜ちゃんもお辞儀し、照れくさそうな笑みを浮かべた。
「頑張ります」
「京都支社の方々にもよろしく伝えてね。中川課長にも。案外お笑いに詳しいかもしれない」
「えっ?」
彩菜ちゃんは戸惑いの表情を浮かべる。その脇で友枝くんがこっくり頷く。
「はい、任せてください」
お、少しは逞しくなったじゃないの。彩菜ちゃんも頬を引き締める。うん、いい顔になった。
「ところで二人はあのあとちゃんとホテルに帰ったのね。二日酔いにならなくて良かったわ」
良かれと思って置き去りにしたけどちょっと心配ではあった。断じて晩酌がしたかっただけではない。頭の隅では心配してたの。
そんな言い訳を脳内でしていると彩菜ちゃんが口を開いた。
「ええ、とくに何も問題ありませんでした」
「ん? どうした? 目線が下がってるけど」
不思議に思って聞いても彩菜ちゃんは笑顔で誤魔化した。一方、友枝くんはなんだか誇らしげ。
「あのあと、主任が僕を頼りにしてるらしいことを帰りのタクシーで運転手さんに話してたんですよ」
「ちょ、友枝くん!」
「あらまあ、なんだ。そんなことね」
昨日、友枝くんのほうが酔ってたと思うんだけど彩菜ちゃんのほうがへべれけだったみたいね。彩菜ちゃんは「やだ、恥ずかしい」と顔を覆い、友枝くんは笑いを隠しきれてない。
壁はとうに消えた。二人のマリアージュもうまくいきそうで何よりだ。



