シャワーをしたあと、部屋の明かりの下で僕を見つめ、先輩は悔しそうに顔を歪めた。
「あいつ、祥の綺麗な顔に傷つけやがって……」
「こんなのすぐ治るよ」
「暴力反対!」
「……ふふ」
僕の頬には、小さな引っ掻き傷ができていた。姫花先輩の爪の跡だと思うけど、叩かれた直後ほどの痛みはない。あの時は心まで痛かったから。
先輩は僕の頬にちゅっとキスをする。自分に絶対的な味方がいると感じるだけで、なんて幸せなんだろうと思う。
「僕も、幸せ」
「あー、可愛いー。食べちゃいたい……」
「待って。わざと我がまま言ってたの、謝ってなかった」
「ぅぶ」
ハッと思い出し、僕の唇にかぶりつこうとしている先輩の顔を手のひらで止めた。思ったよりも勢いがついてしまい、べちっと音がする。
僕は振ってもらうためにしていた行動の数々を謝罪した。だけど先輩は驚いただけで、「全然いいのに。むしろ楽しかったよ」と笑った。こういう度量の広い人だからこそ、僕は先輩のことが好きになったのだろう。
「もういい?」
「……ん?」
「抱いていい?」
「……うん」
先輩の唇が額に触れて、まぶた、鼻先、頬へとキスのスタンプを押す。唇が合わさったままベッドに押し倒されたとき、僕の心臓は大きく跳ねて飛び出しそうだった。
もっとも、全身は幸福感で満たされて、なにも怖くない。先輩は僕の気持ちが追いつくまで、待ってくれていたのだと知ったからだ。
「天瑞……好き」
「俺も」
***
さら、さら。前髪に誰かが触れている。眉毛を撫でたかと思うと、睫毛にまで触れてくる。
むずむずして、自分が眠っていたことに気づき、僕は瞼を押し上げた。鼻先が触れそうなほど近くから先輩が僕を見ている。
「っ!! 天瑞……」
「おはよ。睫毛長いね」
身じろぐと、腰に鈍痛が走る。抱きしめる手に腰を撫でられ、爽やかすぎる笑顔の威力を受け止めた僕は、昨晩のことを思い出した。
別れようと決意して会いに行ったはずだけど、結局こうなっている。
先輩は僕に好かれていると幸せらしい。僕も先輩の腕の中は居心地が良くて、誰にも渡したくないと思った。
(姫花先輩に、謝らないとな)
「姫花には、もう祥に近づくなってLIMEしておいたから」
「えっ」
心の中を読んだかのような言葉に、目を丸くする。先輩は腫れてもいない僕の頬を大事そうに撫でた。
僕自身、殴られたこと自体は気にしていないけど、瀬名先輩が迷いなく僕を選んでくれたことで安心している自分もいる。
姫花先輩の言葉はなにも考えていなかった僕にとって衝撃だったのだ。もちろん瀬名先輩の言葉の方を信じたいけれど……
僕のせいで先輩が不幸にならないよう、これからはしっかり考えていきたいと思う。
目の前の唇に自分から口づけると、先輩が琥珀色の目を丸くした。
「僕が、天瑞を幸せにしてみせる」
「っ……だからどうしてそう男前なのかなぁ!」
泣き笑いみたいな表情で先輩が怒って、ベッドの上を二人でごろごろ転げまわる。朝の爽やかな光の中、僕たちはくすくす笑い合った。
◇
「祥っ」
「ん」
先輩に名前を呼ばれた僕は、軸足をぐっと踏み込む。深く押し込まれた打球に対し、ボールの下を削るようにラケットを振り抜いた。
鋭いバックスピンがかかったボールは、相手コートのネット際で低く滑る。
「浅い……!」
相手の後衛が慌てて前陣へ走り込み、下から強引に持ち上げて返してきた。浮き上がった力のないチャンスボール。
――そこには、すでにポーチへ動いていた先輩が待ち構えていた。
鋭い打球音がコートに響き、叩きつけられたボールが相手ペアの隙間を射抜く。審判役のコールが響き渡り、僕たちの勝利が決まった。
「よっしゃぁ!」
先輩が差し出してきた手にハイタッチを返す。対戦相手の海野が近寄ってきて、口を尖らせて文句を言った。
「天瑞白尾コンビはまじ反則っすよ~~~」
「別にわざと組んだわけじゃないしな? でも祥がペアだとやりやすいわまじで」
「そりゃお二人は息もピッタリでしょうね!?」
僕はテニス部出身で、先輩は違うけどとにかく運動神経が良い。ペアになったのは入学当初の新歓期以来だと思えば、かなり久しぶりだった。
先輩との交際が安定的に続いていることもあって、サークルの中ではもはや熟年夫婦のような扱いである。あれだけ冗談みたいな雰囲気だったのに、不思議なものだ。
海野もよく突っかかりはするが、同学年で浮きがちな僕によく声をかけてくれる。高校時代からクラスでも浮いていた僕にとって、テニスサークルのゆるい雰囲気は意外にも合っていたのかもしれない。
「瀬名先輩とずっと組んでいたい……」
「素直かっ。白尾っち、初めて天瑞と組んだときもそう言ってたよね。天瑞、あのとき相当浮かれてたな~~」
「山村先輩、それは……」
ぼそりと呟いた僕の言葉を拾ったのは、海野とペアを組んでいた三年生の山村先輩だった。僕はあまり当時のことを覚えていなかったのだけど、瀬名先輩は焦ったように山村先輩の口を塞ぎにかかる。耳が赤くなっているのは、気のせい?
「今週末の飲み会、白尾っちも来るんでしょ? 天瑞の目を盗んで、俺のとこに来なよ。面白い話聞かせてあげる」
「……っ! ほんとですか」
瀬名先輩から逃げた山村先輩が、僕に話しかけてくる。先輩の武勇伝を聞けるのかなと思って、僕は目を輝かせた。
「祥っ、駄目だからね!」
「ん、大丈夫。お酒も慣れてきたし」
「……そういう意味じゃな〜い!」
瀬名先輩は山村先輩から引き離すように僕の腕を引っ張る。
僕は先輩とコートの外を歩きながら、今週末に聞けるであろう話に期待を寄せた。
——僕が浪人せずに、別の大学に入学していたらどうなっていただろう。よくそんなことを考えるのだ。
先輩には出会えず、全く違う大学生活を送っていた? それとも、どこかで先輩と出会っていただろうか。
あったかもしれない未来など知る由もない。だから今、先輩の隣にいられる幸せを大切にしよう。
きっと僕は、ぼんやりしていたからこそ、先輩に見つけてもらえた。
「あいつ、祥の綺麗な顔に傷つけやがって……」
「こんなのすぐ治るよ」
「暴力反対!」
「……ふふ」
僕の頬には、小さな引っ掻き傷ができていた。姫花先輩の爪の跡だと思うけど、叩かれた直後ほどの痛みはない。あの時は心まで痛かったから。
先輩は僕の頬にちゅっとキスをする。自分に絶対的な味方がいると感じるだけで、なんて幸せなんだろうと思う。
「僕も、幸せ」
「あー、可愛いー。食べちゃいたい……」
「待って。わざと我がまま言ってたの、謝ってなかった」
「ぅぶ」
ハッと思い出し、僕の唇にかぶりつこうとしている先輩の顔を手のひらで止めた。思ったよりも勢いがついてしまい、べちっと音がする。
僕は振ってもらうためにしていた行動の数々を謝罪した。だけど先輩は驚いただけで、「全然いいのに。むしろ楽しかったよ」と笑った。こういう度量の広い人だからこそ、僕は先輩のことが好きになったのだろう。
「もういい?」
「……ん?」
「抱いていい?」
「……うん」
先輩の唇が額に触れて、まぶた、鼻先、頬へとキスのスタンプを押す。唇が合わさったままベッドに押し倒されたとき、僕の心臓は大きく跳ねて飛び出しそうだった。
もっとも、全身は幸福感で満たされて、なにも怖くない。先輩は僕の気持ちが追いつくまで、待ってくれていたのだと知ったからだ。
「天瑞……好き」
「俺も」
***
さら、さら。前髪に誰かが触れている。眉毛を撫でたかと思うと、睫毛にまで触れてくる。
むずむずして、自分が眠っていたことに気づき、僕は瞼を押し上げた。鼻先が触れそうなほど近くから先輩が僕を見ている。
「っ!! 天瑞……」
「おはよ。睫毛長いね」
身じろぐと、腰に鈍痛が走る。抱きしめる手に腰を撫でられ、爽やかすぎる笑顔の威力を受け止めた僕は、昨晩のことを思い出した。
別れようと決意して会いに行ったはずだけど、結局こうなっている。
先輩は僕に好かれていると幸せらしい。僕も先輩の腕の中は居心地が良くて、誰にも渡したくないと思った。
(姫花先輩に、謝らないとな)
「姫花には、もう祥に近づくなってLIMEしておいたから」
「えっ」
心の中を読んだかのような言葉に、目を丸くする。先輩は腫れてもいない僕の頬を大事そうに撫でた。
僕自身、殴られたこと自体は気にしていないけど、瀬名先輩が迷いなく僕を選んでくれたことで安心している自分もいる。
姫花先輩の言葉はなにも考えていなかった僕にとって衝撃だったのだ。もちろん瀬名先輩の言葉の方を信じたいけれど……
僕のせいで先輩が不幸にならないよう、これからはしっかり考えていきたいと思う。
目の前の唇に自分から口づけると、先輩が琥珀色の目を丸くした。
「僕が、天瑞を幸せにしてみせる」
「っ……だからどうしてそう男前なのかなぁ!」
泣き笑いみたいな表情で先輩が怒って、ベッドの上を二人でごろごろ転げまわる。朝の爽やかな光の中、僕たちはくすくす笑い合った。
◇
「祥っ」
「ん」
先輩に名前を呼ばれた僕は、軸足をぐっと踏み込む。深く押し込まれた打球に対し、ボールの下を削るようにラケットを振り抜いた。
鋭いバックスピンがかかったボールは、相手コートのネット際で低く滑る。
「浅い……!」
相手の後衛が慌てて前陣へ走り込み、下から強引に持ち上げて返してきた。浮き上がった力のないチャンスボール。
――そこには、すでにポーチへ動いていた先輩が待ち構えていた。
鋭い打球音がコートに響き、叩きつけられたボールが相手ペアの隙間を射抜く。審判役のコールが響き渡り、僕たちの勝利が決まった。
「よっしゃぁ!」
先輩が差し出してきた手にハイタッチを返す。対戦相手の海野が近寄ってきて、口を尖らせて文句を言った。
「天瑞白尾コンビはまじ反則っすよ~~~」
「別にわざと組んだわけじゃないしな? でも祥がペアだとやりやすいわまじで」
「そりゃお二人は息もピッタリでしょうね!?」
僕はテニス部出身で、先輩は違うけどとにかく運動神経が良い。ペアになったのは入学当初の新歓期以来だと思えば、かなり久しぶりだった。
先輩との交際が安定的に続いていることもあって、サークルの中ではもはや熟年夫婦のような扱いである。あれだけ冗談みたいな雰囲気だったのに、不思議なものだ。
海野もよく突っかかりはするが、同学年で浮きがちな僕によく声をかけてくれる。高校時代からクラスでも浮いていた僕にとって、テニスサークルのゆるい雰囲気は意外にも合っていたのかもしれない。
「瀬名先輩とずっと組んでいたい……」
「素直かっ。白尾っち、初めて天瑞と組んだときもそう言ってたよね。天瑞、あのとき相当浮かれてたな~~」
「山村先輩、それは……」
ぼそりと呟いた僕の言葉を拾ったのは、海野とペアを組んでいた三年生の山村先輩だった。僕はあまり当時のことを覚えていなかったのだけど、瀬名先輩は焦ったように山村先輩の口を塞ぎにかかる。耳が赤くなっているのは、気のせい?
「今週末の飲み会、白尾っちも来るんでしょ? 天瑞の目を盗んで、俺のとこに来なよ。面白い話聞かせてあげる」
「……っ! ほんとですか」
瀬名先輩から逃げた山村先輩が、僕に話しかけてくる。先輩の武勇伝を聞けるのかなと思って、僕は目を輝かせた。
「祥っ、駄目だからね!」
「ん、大丈夫。お酒も慣れてきたし」
「……そういう意味じゃな〜い!」
瀬名先輩は山村先輩から引き離すように僕の腕を引っ張る。
僕は先輩とコートの外を歩きながら、今週末に聞けるであろう話に期待を寄せた。
——僕が浪人せずに、別の大学に入学していたらどうなっていただろう。よくそんなことを考えるのだ。
先輩には出会えず、全く違う大学生活を送っていた? それとも、どこかで先輩と出会っていただろうか。
あったかもしれない未来など知る由もない。だから今、先輩の隣にいられる幸せを大切にしよう。
きっと僕は、ぼんやりしていたからこそ、先輩に見つけてもらえた。



