白尾くんは瀬名先輩に嫌われて、振られることにした

 一旦考える期間にしようと決めて、僕は嫌われ作戦をやめてしまった。何事もなく週に一回サークルへ行き、週に三回ほど先輩と会う。
 サークルの後に家でごろごろしたり、講義のあとに迎えにきてもらって一緒にご飯を食べにいったり。ただただ心地いい関係に戻って、姫花先輩に言われたこともすっかり忘れていた。

 だから学部棟で姫花先輩に待ち伏せされていたとき、「どうしたんですか?」ととぼけた顔で尋ねてしまった。

「どうしてまだ別れてないの? 約束したでしょ!?」

 声が震えて、激怒していることが伝わってくる。先輩の目は血走っていて、昨日徹夜した人みたいだった。化粧をしていても顔色が悪そうに見える。

 思わず心配になったけど、言われた内容が遅れて頭に入ってきた。僕は先輩との話をようやく思い出した。
 まだ交際を解消できていないことを申し訳なく思ったものの、一応努力はしたのだ。だから正直に答えてみる。
 
「……別れる理由が、思いつかないんです」
「は?」
「瀬名先輩に悪いところは見つからないし、振ってもらおうとしたけど上手くいかなくて」

 言いながら、自分でも呆れる。本気で振ってもらおうとしたら、その後の関係のことなんて考えずに断ち切ってしまえばいい。面の皮が厚いふりをして、サークルにも通いつづければいい。

 それが嫌なのは僕の甘えだった。上手くいかないことに、いつしかほっとしていた。

 なにより、先輩は僕のことを好きなんだな、と日々伝わってくる。その温かい感情を心地よく感じてしまっていることまでは、言えないけれど。

 姫花先輩に言われたあのときは、別れてもいいと納得した。損得で考えれば、僕が身を引くのが一番早いはずだった。
 でも今は、その気持ちが揺らいでいる。損得で考えたくない自分がいる。

(……どうして、別れなきゃいけないんだっけ)

 ——パシンッ、と頭に響く打擲(ちょうちゃく)音がして、頬に熱を感じる。

 一拍遅れて、じん、とした痛みが広がった。何が起きたのか理解するまで、数秒の時間がかかる。
 肩で息をしている姫花先輩の手が、僕の頬に当たったようだった。ぽかん、としながら少し下にある顔を見返す。

「白尾、なんか勘違いしてるでしょ。男同士で付き合ってて、未来なんてあると思う? 天瑞の就職も将来も、あんたが台無しにしかねないって分からないの? 天瑞のために別れろって言ってんの」
「…………」

 姫花先輩の言葉が、鋭利な刃物となって僕の胸に刺さっていく。じんじんしている頬よりも、胸が痛い。

 ——僕は何も考えていなかった。僕の存在が瀬名先輩に悪影響を及ぼしているだなんて、考えたこともなかったのだ。

 その後も姫花先輩はなにか言っていたけど、僕があまりにも呆然として相槌も打たなかったからか、気づけば姿を消していた。

 姫花先輩は僕よりも頭一つ分背が低くて、手も小さい。そんな人が僕に全力でぶつかってきたことは、かなりの衝撃だった。
 彼女が必死に伝えてきたことは、瀬名先輩のための、事実なのだろう。

 誰にも会いたくなくて、でも家に帰りたくなくて、学部棟の図書室へと足を運ぶ。総合棟の図書館と比べて広くもないここは、試験期間以外人気がない。
 ぼんやりと椅子に座って窓の外を見ながら、瀬名先輩のことを考えた。

 先輩のことは嫌いじゃない。いい人だし、僕に対してとても優しい。でも周囲からあれこれ言われるくらいなら、別れてもいいと思っていた。
 もっとあっさり、別れられると思っていたのだ。姫花先輩にも、「おもしろがって付き合ってくれてる」と言われたくらいだし。

 もしかすると、僕のやり方が下手だったのかもしれない。しかし先輩と接すれば接するほど、「先輩に嫌われたくない」という思いが上回るようになってしまった。

 瀬名先輩に大事に大事にされると、僕はこのままでいいんだと思える。どれだけぼーっとして迷惑をかけたって、先輩は一度も怒らなかった。
 嬉しそうに僕の世話を焼いて、甘やかす。いまなら自分でも分かる。僕は無意識に、先輩に甘えていたのだろう。

 胸が苦しかった。
 先輩と別れたくない。だって先輩も僕のことを好きなんだから。

 ……でも、僕の存在は先輩の枷になってしまう。未来のない関係だから、必ず別れないといけない。きっとそれは、早ければ早いほどいいのだ。

 図書室を出た頃には、空はすっかりと藍色に染まっていた。夕方の名残を引きずった雲が、遠くの建物の向こうに沈んでいく。
 僕はスマホで先輩のバイト先のSNSを確認して、閉店時刻を調べた。



 いつもなら眠気でぽやぽやしている頃だけど、今日は眠くならなかった。念のため眠気覚ましのシャワーを直前にして、外に出る。
 先輩のバイト先まで歩いても三十分くらいだ。今日先輩がシフトに入っていることは、今朝聞いたから知っている。

 夜道はひんやりとして、歩道の街灯がぽつぽつと続いていた。歩くのは好きだから、苦ではない。
 しばらく歩いて飲食店の立ち並ぶ通りに入ると、換気扇から食べ物の匂いが漏れ出てくる。一度酔っぱらったサラリーマンにぶつかられたけど、僕は気にせず自分のペースでゆっくりと歩いた。

 今日も先輩は、連絡をくれるだろうか。いつもなら僕はベッドに入って、先輩の声を子守唄に眠る。あの時間が好きだった。

「これ、天瑞の……」

 店の前につくと、脇の辺りにマウンテンバイクが置かれている。先輩のものか確信が持てずにまわりをウロウロしていると、店のドアが開いた。

「えっ、祥!?」
「……天瑞」

 驚いた声を上げる先輩の顔は、宵闇の中でも嬉しそうに輝いていた。僕の方は上手く声が出なかった。
 しかし小さな声にも先輩は反応して、ぱっと大きな笑みを浮かべる。その笑顔を陰らせたくない。でも……言わなければならなかった。

「なんでここに? え、待って、顔……」
「別れよう」

 先輩の言葉に被せるように言った。先輩が固まって、急に世界から音が消えたみたいだった。
 やけに喉が乾いて、指先が冷たい。自分の願いとは逆のことを言っただけなのに、心がズキズキと痛んだ。

「……は、なんで」
「嫌にならないの? ぼーっとしてて、我がままで、天瑞に迷惑ばっかりかけてる僕が」
「いや、全然」

 僕は嫌になってる。わざとだったりわざとじゃなかったりするけど、これ以上先輩に迷惑をかけたくない。
 目の奥がツンとして、熱かった。こんなに苦しい気持ちで喋っているのに、全然理解していなさそうな先輩にもむかついた。

「……っとにかく、別れるから!」

 自分が泣きそうになっていることに気づき、慌てて踵を返す。これでいい。これでもう、先輩に迷惑をかけなくて済む。
 くしゃっと顔を歪めて、早歩きで歩道を歩く。先輩の視界から消えようと思って道を曲がったたところで、石畳の継ぎ目に足先が引っかかった。

「……あ、」

 前のめりに重心が崩れる。黒いアスファルトに顔が近づいて――

「もーっ。運動神経いいくせになんで転ぶかな」

 ぐっと腰を掴まれて、立て直される。肩に額が押しつけられて、ティーシャツ越しに熱い息を感じた。
 自動販売機の青白い光が、僕たちをぼんやりと照らしている。先輩の羽織っているシャツの端が、夜風に揺れた。

「別れないよ。祥のこと我がままとか迷惑だと思ったことないし……誰かになんか言われた?」
「…………」
「言われたんだな? でも、他人になんて言われようと、関係なくない? 俺の気持ち、ちゃんと祥に伝わってない?」

 伝わってない、とは言えなかった。先輩はいつも、もったいないくらいの愛情を僕に注いでくれている。
 でも、姫花先輩に気づかされてしまった。

「関係、ある……。僕たちの関係って、未来ないんでしょ? 就職にも影響するって聞いた」
「姫花か……。あいつ、余計なことを」
「……僕は、先輩に迷惑かけたくない。人生棒に振ってほしくない。好きだから」
「ちょっ! たんま!」

 声が震えてしまった。視界が滲んできて、ぎゅっと目をつぶる。
 けれど突然先輩は大きな声を出して、僕の正面に回り込んできた。人目につかない方へ引っ張られて、顔を覗き込まれる。
 拒否しようとしたら、頬を両手で挟まれてしまった。真剣な表情で見つめられる。

 離れたところにぽつんとある街灯が、遠慮がちに僕らを照らしている。僕を捉えて離さない琥珀色の目だけが、やけにはっきりと見えた。
 心臓が痛いくらいに脈打っていて、それが怖さのせいなのか別のなにかのせいなのか自分でも分からない。

 先輩もやっと大事なことに気づいただろう。僕の存在が先輩にとって邪魔になると。
 逃げ場を探すみたいに視線を彷徨わせても、両頬を包む熱がそれを許してくれない。

「俺のこと? 好き?」

 尋ねられた内容は、予想の斜め上をいっていた。それ、いま、重要?
 そう思いながらも、誤魔化す意味はないと思った。少しぶっきらぼうに答える。

「……そうだけど」
「〜〜〜やっっっと…………! 最高かよ……まじ可愛い。絶対離さない。未来しかないじゃん」
「は?」

 がばっと勢いよく抱きつかれて、気の抜けた声が漏れる。身長差で、僕は先輩の影にすっぽりと隠れている。
 ムスクの匂いに包まれながら、先輩の言ったことを理解しようとしたけれど、脳の処理が追いつかなかった。

「見てて。俺が、なにもかも大丈夫だって証明するよ。迷惑どころか、俺いま、すっげー幸せ」
「……幸せ?」
「うん。だって好きな人とようやく両想いになれたわけだし」

 満面の笑みで言われて初めて、付き合っていたのに一度も先輩に好きだと伝えていなかったことに気づいた。実際、酔っぱらったまま押し切られて付き合ったわけなので、気持ちは全然追いついていなくて。
 ほとんど付き合ってから先輩のことを知ったようなものだ。そこからだんだん、先輩の愛が僕に浸透していった。

 別れようと思って初めて、能動的に先輩へと働きかけた。ところが先輩はさらに優しくなるし、嬉しそうだし、かなり手強かった。
 そんな先輩に……僕は、絆されてしまったのだ。いや、恋に落ちてしまったというのが正しいかもしれない。

 もう、僕では先輩を幸せにできないのだと落ち込んでいたけど――こんなにも幸福感を溢れさせている人を前にしては、勘違いを認めるしかない。
「姫花先輩と付き合ったほうが幸せになれますよ」だなんて言えない。言いたくない。

「……そっか。天瑞が大丈夫って言うなら、大丈夫なのかも……」
「そうそう。他人の言葉じゃなくて、俺を信じてよ」
「……うん」

 目を見て話す先輩の虹彩が、きらきらと煌めく。首を反らして見上げながら、吸い込まれそうだな……と思って見ていると、顔がゆっくりと近づいてきた。

 唇に感じた吐息の熱さに、ぎゅっと目をつぶる。唇を吸われた。
 ここが外だということも忘れて、ぐっと体温が上がる。

「帰ろっか。――今日、俺んち泊まってよ」
「……うん」