白尾くんは瀬名先輩に嫌われて、振られることにした

 瀬名先輩は、連絡がまめだ。僕は気づけば返信するという感じで、早かったり遅かったりする。これでも、先輩と付き合いはじめてからはスマホを開くとLIMEの通知を確認するようになった方なんだけど。

『バイト終わった。まだ起きてるなら電話していー?』

 夜、先輩からのメッセージを見た僕は既読無視を決め込むことにした。会わないときでもできそうな嫌われ作戦である。
 先輩はバイト先のダイニングバーにマウンテンバイクで通っていて、帰り道に通話することがよくある。

 僕は寝るのが早いのでいつもウトウトしながら受け答えするのだけれど、先輩の声は低くて甘くて、睡眠導入剤のように落ち着くのだ。先輩の方も何がおもしろいのか、「寝てもいーよ」と言いながら毎回電話してくる。

 先輩はいまごろ夜道を駆け抜けているだろうか。スマホを気にしつつもベッドに横になる。話し相手がいなくなって寂しいとか、思ったりする? それとも他の誰かに電話してる?

 なんだか無視する方が先輩のことが気になってしまう。スマホを遠くにやって、無理やり目を閉じる。

 ――ピン、ポン。

 眠りに落ちかけた頃に、古めかしいインターホンが鳴った。んん、と不機嫌な声を上げて目覚め、のろのろと身体を起こす。
 もう深夜に近い時間帯だ。こんな時間に誰かが訪ねてくるような心当たりはない。

(鍵は閉めたよな? 押し間違いかな……?)

 僕はパジャマのまま目を擦りながら玄関へ行って、ドアスコープを覗くことなく鍵を開けた。

「はぁい、誰……」
「祥。よかった……つーか相手くらい確認してからドア開けろよ」

 そこにいたのは瀬名先輩だった。なんで来たんだろう? とぼんやり考えているあいだに、先輩は家の中に入ってきてドアを閉めた。
 
「……んん? 瀬名せんぱい?」
「天瑞って呼べって言ったろ」
「……てんすい」

 言われたとおり名前で呼ぶと、先輩は「ん」と満足げに答えて、両腕で僕を抱きしめる。先輩からは夜の匂いがして、余計に眠たくなってしまう。
 しかしその直後、先輩の言葉で僕の罪悪感がバシンッと呼び起こされた。

「LIME、既読になってんのに返信来ないからさ、なんかあったのかと思って……。でも余計な心配だったな。寝てるとこ邪魔してごめんな?」
「……あ。ごめん……」

 既読無視作戦は、嫌われるどころか心配させてしまったらしい。僕が謝っても先輩は気にしてない様子で、僕の頭にぐりぐりと頬を擦りつけた。

「あー、いい匂い。可愛い。帰りたくなくなるな……」
「泊まって行っても、いいよ?」
「いや……明日一限取ってるし、帰るわ。泊まるのはまた、今度な」

 大学の近辺で一人暮らしをしている僕と先輩の家はそれほど離れていない。別に泊まってもらってもいいのだが、先輩が僕の家に長居したことはなかった。
 逆に僕が先輩の家に行くことはよくあるんだけど、長居しても泊まってはいない。また今度ってことは、いつか泊まるつもりではあるんだろうな。

 両頬に大きな手が触れて、顔を上向きにされる。目を伏せた先輩の顔が近づいてきて、僕も自然と目を閉じた瞬間……唇が重なった。
 少し冷たくて柔らかな感触が離れていくと、思わず止めていた呼吸を再開する。

 そんな僕を先輩は愛おしそうに見つめて、親指で目の下を撫でる。こういうのはすごく恥ずかしいし、慣れない。顔が火照って赤くなっているのを自覚する。

「おやすみ」
「……ぉやすみなさい」

 別れ際のキスも恒例だった。
 先輩がキスより先に進もうとしないのは、なにか理由があるのだろうか。嫌われて別れるつもりであることも忘れて、僕はもやもやと考えながら先輩を見送った。



 ——パン! ポーンッと打球音が鳴る。

「白尾ぉ!」
「……うん」

 ダブルスのラリー中、ぼんやりと突っ立っていた僕はペアの海野から名前を呼ばれて走った。少し浮き上がったボールが視界に入ったと同時に構え、打点に気をつけながら打ち下ろす。
 ダブルスラインの上にスマッシュが当たり、線審役の同級生が「イン!」と宣言する。

「おお〜〜っ」
「白尾っち、相変わらずえぐい強さ……」

 見ていた先輩たちのどよめきが聞こえるなか、僕の目は相手チームの瀬名先輩を見ていた。点を入れられて悔しそうなのに、どこか嬉しそうだ。

 サークル活動になってから、部活のときのような殺伐とした試合は一切なくなった。毎回無作為にチーム分けをして、コートのレンタル時間いっぱい試合をする。
 勝とうが負けようがみんな楽しそうで、不思議な感じだ。もう少し真剣にやりたいと思うことはあれど、意外と自分も楽しんでいる。

「お疲れ。祥のスマッシュ痺れたわ〜〜っ」
「待ってください天瑞先輩。ペアだったおれも労ってくださいよ!」

 試合を終え、瀬名先輩が近づいてくる。先輩もかなり強いのに、よく僕のプレイを褒めてくれるのが結構嬉しい。
 海野が冗談めかして先輩に突っかかる。試合中でもぼーっとして見えるようで、僕は何度も海野に名前を叫ばせてしまった。ダブルスは苦手だ。

「おお、ウミも強かったな。心配しなくても、こいつは試合に集中してるって」
「出たぁー! 先輩の白尾びいき!」
「ふはっ、ごめんな惚気(のろけ)て」
「……ごめん」

 瀬名先輩と海野の会話に挟まれ、僕はおろおろしていた。海野に迷惑をかけたことを謝ったつもりが、ワンテンポ遅れたせいで先輩が惚気たことを謝った感じになってしまった。

「姫花先ぱ〜い! この二人いちゃいちゃしてるんですけど〜っ」

 海野が近くにいた姫花先輩のもとへ駆け寄った。僕も姫花先輩と一瞬目が合ってしまい、気まずくてすぐに逸らす。

(すぐに別れるの、ほんと難しい……)

 サークルは続けたいから、円満に別れたいのだ。つまりあからさまに突き放すわけにもいかず、僕はさり気なく瀬名先輩から離れる。

 ベンチで水を飲んでいると、一年生の女の子たちが先輩たちの方を見てこそこそ話しているのが聞こえてきた。同級生だけど、ほとんど話したことがない子たちだ。

「あ~っ、山村先輩メロすぎる……彼女いるのかなぁ」
「間違いなくいるっしょ。雛奈(ひな)は瀬名先輩がいいなぁ」
「最大手じゃん。競争率やっばいよ」
「今なら押せば行ける気がしない? だって白尾だよ?」

 だって白尾。自分の名前に込められた意味が一つや二つじゃないことは、僕にも理解できた。別に気にならないはずだったのに、なぜか胸の奥がちくんと痛む。

(押せば行けると思うよ。押してみてよ)

 心のなかで彼女に呟いてみる。先輩は揺るぎなく立っているから、僕だけの力では弱い。姫花先輩も、雛奈ちゃんも、一緒に押せば先輩だって揺らぐんじゃないだろうか。
 
 サークルを終えて、先に着替え終えて更衣室を出ると、ちょうどよく瀬名先輩が追いかけてきた。一つ思いついたことを訊いてみる。

「天瑞って、すごいモテるよね」
「え、そーかな」

 気の抜けた返事が返ってきて、まさか気づいてなかったのかと心配になる。

「そうだよ。かっこいいし、背が高くてスタイルいいし、テニス上手くて、優しいし……」
「うんうん、それで?」

 あれ? なんで僕は先輩をべた褒めしてるんだっけ? 嘘はひとつも言ってないけれども。
 目を楽しげに細めて僕の顔を見ている先輩は、今日も整った顔立ちだ。髪の毛束感も絶妙でおしゃれだし、汗をかいた後だというのに爽やかないい匂いがする。

 だから……モテて当然っていう話。僕はわらわらと集まっている女子たちに目を向けた。

「可愛い子、多いよね。みんな天瑞狙ってるって」
「へー。ちなみに祥はどの子が可愛いと思う?」

 先輩の声の温度が三度くらい下がった。ぴた、と汗が止まる。

「えっ、僕は別に……」

 戸惑って曖昧に濁すと、視線の先を遮るように先輩が移動してくる。琥珀色の目に、まっすぐ見つめられた。

「知ってる? 俺が狙ってるのは祥なんだって。他の子なんて見ないで」
「狙ってるって……もう、」

 もう、付き合ってるじゃん。他の子なんて興味ないし。
 そう言おうとして、羞恥で声が出なかった。なんなんだこの痒くなる会話は。きっかけをもたらしたのは自分だと気づき、訳が分からなくなる。

 暖簾に腕押しって、こういうことか。他の子に靡かないかと出してみた手を、絡めとられた感じだ。
 何も言えなくなり唸っていると、先輩が話題を切り替えた。

「なぁ。今日の帰りさ、俺んちで映画見ていかん? 気になるって言ってたやつ、ネトホリに入ってきてたぜ」
「今日は……やめておく」
「え、なんで?」
「……疲れてるから」

 先輩は映画が好きで、いろんなサブスクに登録している。一度先輩の家に誘われて以降なんだかんだ僕もハマって、毎週のように映画を見に行っているのだ。
 いつも座った先輩に背中を預けるバックハグの体勢で、飲み物を飲ませてもらったりお菓子を食べさせてもらったりするのにも慣れてしまった。

 避けなければという一心で、疲れてるなんて下手な嘘をついた僕の顔を先輩が覗き込んでくる。
 両頬に手を添え、キスするときみたいに顔を持ち上げられた。色素の薄い目に見つめられると、じわじわ頬が火照ってしまう。

「大丈夫? 体調悪い? 顔赤いし……熱でもあるのかな」
「だ、大丈夫だから」
「高熱出ても気づかずに講義出てたのは誰?」
「う……」

 なんかふらふらするな……と思いながら大学に来て、瀬名先輩に強制送還された日のことを思い出す。わりと最近の話なので、身体が弱いと思われてしまっているのかもしれない。
 あれはめんどくさくてご飯を何食も抜いてしまったのが原因だし、高校のときは夏の部活で水分補給を忘れてぶっ倒れたりしたこともある。

 全部自分がぼーっとしているせいだ。生活能力が欠如しているから一人暮らしは無理じゃないかと、母に何度も言われたことが脳裏をよぎる。
 結局、どれだけ大丈夫だと言っても先輩は聞いてくれず、サークル後のご飯会まで断って僕を家まで送ってくれた。

「熱はなくてよかったけど……今週末出かけるのもやめておく?」
「……行く」

 避けようとすればするほど、先輩からの関心を集めてしまっている気がする。僕は新たな一手を試すため、予定していたデートは断らず行くことにした。